第1話
用語解説
ボクシング:厳密な起源は不明。紀元前数千年前からあったとかなんとか。
グローブを付け一対一で打ち合う競技。有効部位は上半身前面と側面のみ。
クリンチ:体を密着させる行為。競技中様々な用途で用いられる。
技術の一つではあるが、これが多い試合は一般的に『塩試合』などと揶揄され、ブーイングを浴びる事も。
拍子木:試合中、残り時間を伝える合図に用いられる木製の道具。
提携病院:日本の国内団体が選手の体調管理の為、指定した病院。
国内に於いては、それ以外の病院で受けた診察で、プロライセンスを取得する事は出来ない。
十二月十六日、高校二年十七歳の冬。
それほど広くはない一室で、俺は安物のパイプ椅子に座っている。
だが気分が落ち着かず直ぐに立ち上がると、小さく息を吐き出しながら左拳を突き出した。
軽く前に突き出した手には、しっかりと巻かれたバンテージ。
手の甲部分に書かれたバツマークは係員がチェックした証である。
解いて何か仕込んだりしないようにとの配慮だ。
トランクスは白を基調としたデザイン、リングシューズは黒いロングタイプ。
どちらも俺を支えてくれる人たちからの、有難い贈り物だ。
今日はプロボクサーとして初めての試合、決まったのは一週間少し前の事で、出場選手の一人が怪我で辞退し声が掛かったという流れ。
減量等の問題もあり会長からは断った方が良いと言われたが、俺は二つ返事で受けた。
実際は思っていた以上にギリギリの調整になってしまい、正直万全とは言えない。
そんな中一室を見回すと、同じく試合を控える選手と陣営、そして隅には医療用の寝台が見える。
『統一郎、よ~く見とけよ。俺の世界レベルのパンチをっ!』
不意に聞こえる幻聴、それは懐かしい声。
五年近く前に亡くなった父の声だ。
まあ世界レベルなどと言ってはいたが、結局日本タイトルのリングにも辿り着けなかったのだが。
そんな父でもメインイベンターとしてリングに上がった経験はあり、先の言葉は主役にのみ許された個人用控室での一幕。
「……ぉぃ…ぉぃ!」
感傷に浸っていると、どこかから聞きなれた声が耳に入る。
「いや~、始めて来たが雰囲気凄えな。入りにくいのなんの。あいつの時もそうだったか?」
声の主は叔父である遠宮圭一郎。
唯一の身内であり、父亡きあと俺を育て全てにおいて支えてくれた恩人だ。
「叔父さん、来るとは聞いてたけど本当に来てくれたんだ。」
「何とか都合ついてな。良いカメラも買ったし、これでばっちり撮ってやるから、良い試合頼むぜ。」
叔父の仕事は内科医、ボクシングコミッションの提携病院に勤めており、ライセンス関係における俺の診察もしてくれている。
それから一言二言交わし、叔父は観客席へ戻っていった。
「統一郎君、そろそろ。」
そう語り掛けるのは成瀬実会長、年は四十を過ぎた頃。
眼鏡をかけたインテリっぽい雰囲気を纏う男性だ。
「大丈夫だ坊主。お前は強え。気持ちで負けんな。」
一方こちらは、一見して堅気には見えないスキンヘッドの強面。
名を牛山和夫といい、ジムの近くにあるスポーツ用品店の店主兼同門だ。
同門と言っても年齢は六十近く、会長からトレーナー業の指導を受けている。
セコンドはこの二人で全て、普通は三人つくのだが、その人員すらもうちのジムにはいないのだ。
試合時刻も迫り、慣れないワセリンの感触が顔面を覆うと、思わず顔をしかめてしまう。
そして右のグローブを会長が、左のグローブを牛山さんが準備し、後は試合を待つだけとなった。
俺は今日の興行における一番バッター、試合開始時刻は十七時四十五分、もうすぐだ…もうすぐ係員が呼びに来るだろう。
「遠宮選手。お願いします。」
ほら、案の定。
▽
格闘技の殿堂と呼ばれる多目的ホール、俺の様な地方選手には多少の憧れもある。
少し狭く感じる通路、階段を上ると観客席の後ろを通り歩む独特の緊張感。
一歩一歩リングに近づくにつれ、何度も唾を飲み込んでしまう。
心なしか喉が渇いている気もした。
バクバクと心臓が動きを速め、事ここに至りて開き直れない自分の矮小さには呆れすら感じる。
リングまでの短い花道を通ると、会長が先にリングへ上がりロープを上下に広げた。
俺は一度大きく深呼吸をしてから、松脂をシューズに馴染ませリングへ駆けあがる。
一瞬、眼前が真っ白に染まった気がした。
▽
「只今よりぃ~スーパーフェザー級四回戦を始めます。」
リングアナが中央で両者の選手紹介、だが俺の耳には何も届いていなかった。
「赤コーナ~百二十九パウンド二分の一ぃ~ダイヤモンドジム所属~本日プロデビュー戦…まつだぁ~たかぁ~ふみぃ~!」
「青コーナ~百三十パウンドぉ~森平ボクシングジム所属~こらちも本日プロデビュー戦…とおみやぁ~とぉ~いちろぉ~!」
喉が渇く。
誰か俺の鼓動を静めてくれないだろうか。
レフェリーに手招きされ、既に荒い呼吸を繰り返しながら前に進む。
松田選手は俺(百七十一センチ)より五、六センチ程身長が低い。
だがその体はレスリングの選手を思わせるような、筋骨隆々のたくましさ。
レフェリーが語る何点かの注意事項を聞き流し、両者が陣営に戻るといよいよ開始が迫る。
(今は駄目だ…自分が何をしてるのか分かんない、どうにかしないと、どうにか…)
情けない事に俺の頭はパニックを起こしてしまっていた。
本当に………情けない。
▽
カァーンッ!
甲高い音が響き、未だ心定まらぬまま試合が始まってしまう。
リング中央でグローブを合わせた瞬間、こちらの状態を把握していたか、相手は右を強振してきた。
「…っ!!」
あわやこれで倒されてもおかしくないほどの強打だったが、辛うじてガードの上。
それでも腕が痺れるほどの一発。
体型通りの強打に、頭は更にパニックを起こしてしまった。
そうなるともう打ち返す事しか考えられず、相手の強打に負けじとこちらも右を強振する。
(下がったら押し切られる…打たないと…もっと強くっ!!)
地に足が着いていないとは、まさにこの事を言うのだろう。
自分の得意な事もやるべき事も思い出せず、強打を打たれれば強打を返す。
まるでフットワークなど知らない素人の如き戦い方。
しかもどうやらそこは相手の領分。
一発のパワーが違う。
その為、同じ数のパンチを打とうとも消耗し摩耗していくのはどちらか、考えるまでもない自明の理である。
クリーンヒットこそないものの、その圧力とパワーに押され気付けばロープを背負っていた。
「…シィッ!!……シィッ!!」
そんな状況になっても、まるで相撲でもしているかの様な距離でひたすら打ち返す。
(くっそ!押し返せないな、なんでだよっ!下がれよっ!下がってくれよっ!!)
力一杯叩きつけても平然と返される事に苛立ちを覚え、更に冷静さを欠いていく。
ロープが背中に食い込む体勢になり慣れないクリンチをして仕切り直そうとするが、その瞬間を待っていたのだろう、低い体勢から深々とボディーに強烈な一撃が突き刺さった。
「~~~~~~ぅっ!!……ぅぇっ!?」
色々なものが口から飛び出しそうになるほどの衝撃。
試合前に何か口にしていたら、夥しい惨状を観客に見せてしまっていただろう。
喉を焼く様に胃酸が逆流するが歯を食いしばって飲み込み、膝をつきそうになる足に力を込め、必死になって手を出し続ける。
「……シッシッシッ…シッシッ!!」
反撃が功を奏し、その中の一発が偶然相手の側頭部を捉えた。
(当たったっ!?ここしかないっ、打ちまくれっ!!)
がむしゃらに左右を連打、相手も応じてきて、試合は乱打戦の様相を見せる。
両者共に至近距離で打ち合うが、互いのパンチに正確性がなく芯を外しており、ダウンを取るまでには至らない。
しかし、ガードが痺れる程の強打にこちらは徐々に勢いを殺されていく。
それでも強迫観念に駆られ、打たれればそれに反応して打ち返す、只それだけの選手になり果てた。
そして相手が大振りなフックを打ってきた所で腕が交錯し、縺れ合う様な形になる。
その時、残り十秒を告げる拍子木の音が鼓膜を震わせた。
(あと十秒か…クリンチすれば凌げそうだな…)
腕が絡み合い体が密着した状態であった為そう判断した俺は、相手に体を預け体重を掛けるが、預けるはずのものがそこには無く前方に一瞬たたらを踏んでしまう。
「統一郎君っ!前っ!!」 「坊主ぅっ!ガードォッ!!」
「えっ!?」
声に反応し反射的に腕を上げるが、強い衝撃で弾かれる。
次の瞬間視界が暗転し、残るのはひんやりとした背中の感覚。
そして眼前を覆うは、眩しすぎるほどの白い光だけだった。
▼
俺は遠い昔を思い出す。
あれはそう、まだ俺が小学校三年生くらいだったか。
『統一郎、ボクシングに於いて一番大事なのは何だと思う?』
『一番って言われても…色々あるでしょ。』
『その中でもだよ。精神的なものは抜きな。』
『……ジャブ?』
『おっ、良いとこつくねえ。半分正解。じゃあもう半分は何かと言えば…それは距離感だな。正確に言えば自分を一番活かせる距離を知っているかどうかだ。』
父は言った。
その為にもジャブが大事なんだと。
ジャブ、所謂リードブローは距離を作ったりタイミングを計ったり、自分のリズムを立て直す時や逆に相手のリズムを乱す時にも使う。
勿論コンビネーションの起点になるのも大体がこれ。
それを聞いてから俺は、朝と夜はジョギングをし、学校から帰っては馬鹿真面目に鏡に向かって左を突き続けた。
毎日、毎日、雨が降ろうが雪が降ろうが関係なく。
ジムに通うようになるまで、誰とも遊ばずたった一人で。
あまりにも誰とも遊ばないので、虐めにでもあっているのかと勘繰られたほどである。
俺は…そんな幼少時代を過ごした。