パンドラの箱
【プロローグ】
桜が初めて彼を見たのは高校一年の初夏であった。
唐突に襲った6月の雨。
美術部の活動を終えて玄関を出た山野 桜はどしゃ降りの雨に途方に暮れていた。
(もう…天気予報もあてにならないわね……。少し待ってみるかな。)
桜は誰も居ない学校の玄関でしばらく雨宿りをする事にした。
雨は次第に激しさを増し、静かな学校に激しい雨音だけが響く。
6月とは言え、そろそろ日も暮れる時間帯である。少し怖くなった桜が雨に濡れるのを覚悟で校門の方へ駆け出そうとしたその時、後ろからそっと傘を差し出された。驚いた桜が慌てて後ろを振り向くと1人の男子高生が照れ臭そうに笑っている。
「え…と、その…」
桜が言葉に詰まり困っていると彼は桜に傘を手渡し何も言わず雨の中を走り去って行く。
それが桜の恋の始まりである―――
西暦2038年3月10日
その年の東京は例年よりも肌寒い日が続いていたが、3階建て校舎の窓から見下ろす校庭には、春の訪れを待ちわびる桜の木々が小さな芽吹きを咲かせていた。
もうすぐ春が来る
山野 桜が都立日本帝都学園に入学してから、もうすぐ1年が過ぎようとしていた。校庭から聞こえて来るのはカキィーンと言う小気味よい金属音。昨夏の甲子園で優勝を果たしたメンバーが送別試合を行っていた。
都立日本帝都学園には、日本中から優秀な生徒が集まっていた。学業の優秀な生徒は当然として、スポーツ、芸術、文化、科学、あらゆる分野に秀でた生徒が帝都学園に入学している。それでも昨夏の甲子園で野球部が優勝したのは快挙であるのは間違い無い。優勝の原動力となったのは3年A組の生徒、名前は石田卓。野球部のエースにしてクリーンナップを任されている。おまけに容姿も抜群の好青年なのだから全校生徒に留まらず日本中の女性からファンレターが届いている事だろう。
(石田先輩…………。)
山野 桜は、そんな生徒に恋をしていた。
「おはよう桜!」
「!?」
もう下校の時間だと言うのに、業界特有の挨拶で話し掛けられた桜は思わず声のする方へと振り向いた。
「可憐………。今から補習?」
そこに立っていたのは桜の親友である夢野可憐だ。桜と同じく1年A組に所属している可憐は競争激しい日本のアイドル界においてトップアイドルに登り詰めた超絶美少女。
先週発売された4枚目のシングルCDはダブルミリオンを達成しデビュー以来全ての曲がミリオンセラーを記録している。ネット全盛のこの時代に時代遅れのCD販売数でミリオンを記録するアイドルは可憐だけだろう。
「まぁね。さっきまで雑誌の撮影だったから、また1人で補習なんて嫌んなっちゃうわ。」
可憐は小さな唇を尖らせて血色の良い頰を少し膨らませた。
夢野可憐。
日本中から各分野での優秀な生徒が集められた都立日本帝都学園の中でも、可憐ほど世間の注目を集めている生徒は居ない。その仕草1つ1つに華がある。少し黄色く染めた髪に白い肌、小顔に映える大きな瞳。壊れそうな小さな身体は同性である桜でも思わず抱きしめたくなる。
(あぁ、可憐なら恋の悩みなんて無いんだろうな…………。)
トップアイドルとして日本中の男性を虜にする可憐。それに比べ山野 桜の何と平凡な事か。
「なに?また見てたの?」
可憐は呆れた様子で窓の外に視線を移す。
「もうすぐ、先輩も卒業ね………。どうするの?桜………。」
桜の恋の病を知っているのは可憐だけだ。可憐は親友として桜の恋を応援していた。アイドルである可憐には恋愛はご法度。だからこそ桜の恋は是非とも成就して貰いたい。
もうすぐ桜の季節
春が来るのだから
【パンドラの箱①】
西暦2038年3月13日
急激な人口減少により世界の経済大国の地位を脅かされていた日本は国家主導による日本再生計画プロジェクトが推進されていた。
例えば新人類計画『ラボ』。巨額な資金と最先端技術を惜しみなく投入された研究所では人類の能力を越えた新人類の研究が行われていると言う。
例えば『霊獣』。古来から日本に存在すると言われる神の化身。霊獣を軍事的に利用する為の研究が続けられている。
例えば『パンドラの箱』。どんな願いも叶えると言う箱の存在が数年前からネット上で話題となっていた。日本国政府はそんな荒唐無稽の箱を本気で探して居るらしい。
誰も信じないような噂話が持ち上がるほど日本国の現状は危機的状況なのだ。
東京ドーム
わっ!
眩いばかりの七色のスポットライトの先には1人の少女が佇んでいる。
夢野可憐
目の前に広がるのは7万人を越える大観衆。
「4枚目シングル『聖者の行進』。夢野 可憐、歌います。」
その透き通る歌声は、東京ドームへ押しかけた大観衆に何とも言えない至福の時を与えた。可憐の歌声は天使のごとく。とあるテレビ局のキャスターがそう言っていたのを思い出す。
「彼女は天才だよ。」
ステージを観ていた業界関係者の1人がそんな事を口走る。
「月詠。君もなかなかだが、可憐君には遠く及ばない。君は女優を目指した方が良いかもしれないね。」
世の中には、凡人には越えられない壁と言うものが存在する。月詠は、可憐の歌声に耳を傾けた。
「ふふ…………。」
月詠は笑う。
「どうしたのかね?月詠君。」
不気味な笑みを浮かべた月詠が、業界関係者の男の顔を除きこんだ。
ゾクッ!
背筋が凍り付くような冷たい視線。
「部長様、ご存知でしょうか?」
月詠はそっと語り掛ける。
「世の中には叶えられない『夢』など無いのでございます。」
それは、日本社会を覆う漠然とした不安が産み出した幻想なのかもしれない。多くの若者が現実世界に生きる希望を失った時、少年少女はネット上で広がる1つの噂に執着して行く。
『パンドラの箱』
その箱を手にした者は、どんな願いも叶えられると言う。
それは希望であった。
凡人には叶えられない夢や願いを叶える箱の噂は、一部のネットユーザーの間に瞬く間に広がって行く。
「可憐ちゃん、お疲れ様!」
「今日も良かったよ。最高のステージだ!」
2時間を越えるコンサートを終えた可憐が、控室へ戻ろうとした時、楽屋裏の通路を1人の少女が歩いて来るのが見えた。
カツン
コツン
ファンではない。業界関係者しか使えないこの通路を歩いていると言う事は、スタッフか東京ドームの職員か。
(それにしては若いわね。私と同い年くらいかな………。)
可憐は少し首を傾げた。
今日は可憐の東京ドーム初のコンサートであり共演者は居ない。しかし彼女はおそらく同業者。アイドルに違いない。全身を黒と白の衣装で統一したゴスロリチックな衣装は、彼女がアイドルだと容易に連想させた。
そして2人の少女がすれ違う。
「…………!」
ゾクッ
少女の目を見た可憐の背筋が凍りついた。白い綺麗な素顔に浮かぶ瞳は、何かに取り憑かれたような得体の知れない雰囲気を醸し出していたからだ。
カツン
コツン
無言のまま通り過ぎて行く月詠。
可憐の東京ドーム初コンサートは大成功のうちに幕を閉じた。
デビューから僅か1年でトップアイドルにまで上り詰めた可憐。打ち上げを終えた可憐は、帰宅途中のタクシーの中でふぅと深呼吸をした。
(ちょっと疲れたな………。)
16歳になったばかりの可憐は普通の女子高生だ。どんなに人気があっても人並みに恋もすれば悩みもある。人気絶頂の可憐にとって、目下の悩みはストーカーの存在である。
ブルルン
バタン
「おかえり可憐ちゃん。」
「わわっ!?」
タクシーを降りた可憐の前に現れたのは、不気味な笑みを浮かべる小太りの男子高生だ。
「ぐふふ。今日も素敵だったよ。可憐ちゃん。」
「はぁ………。どうも。」
日本帝都学園2年E組
篠島 源次郎
それが彼の名だ。
コンサートが終わってからすぐに可憐の自宅へ駆け付け、可憐の帰宅を待っていたらしい。厄介な事に源次郎は、可憐と同じ学校に通う生徒。自宅まで知られてしまっては逃げるに逃げられない。
ゴソ
源次郎はもぞもぞと背中に隠し持っていた花束を差し出した。
「ぐふふ。これ僕からのプレゼント。」
真っ赤な『薔薇』の花束の花言葉は『愛してる』であっただろうか。可憐は引き攣った顔を気付かれないように、出来るだけの笑顔でお礼を述べる。
「源次郎君、ありがとう。ごめんね、今日は疲れてるから……。」
急いで玄関へ入ろうとする可憐の右腕を源次郎は強引に引き寄せる。
「きゃっ!」
「ぐふふ。可憐ちゃん、照れなくても良いんだよ。僕はいつでも可憐ちゃんの味方だから。」
源次郎はそう言って、夢野 可憐ファンクラブ会員番号No1のプレートを差し出した。もちろん、公式なファンクラブでは無いのだが、その人数は既に10万人を越えている。可憐にとっても所属事務所にとっても無下には出来ない存在なのだ。
「可憐ちゃん………。」
源次郎は深刻な顔でニキビだらけの顔を近付けて来た。
ビクッ!
思わず顔を背ける可憐。
「可憐ちゃん!君を護る事が出来るのは僕しかいない!」
源次郎の右腕が強引に可憐の背中に回され、動きを封じられた可憐は思わず叫び声を上げる。
「助けて!」
時計の針は深夜ゼロ時を回っていた。可憐の声の届く距離に人影は見えない。自宅にいるはずの両親も既に眠りについているだろう。可憐の細い腕では源次郎の身体を払い除けるだけの力は無い。
♪
♫
と、その時、聴こえて来たのは『天使の歌声』。他でもない、夢野 可憐のデビュー曲であった。
「むう。こんな時間に誰からですかな。」
篠島 源次郎は可憐から腕を放すと胸ポケットからパステルカラーのスマートフォンを取り出した。
「もしもし、僕だけども………。」
(電話………。着信音か…………。)
事態を理解した可憐は、急いで源次郎の元を離れ玄関へと走り出す。
「源次郎君!おやすみなさい!私、明日も仕事で早いから!」
「あ!ちょっと可憐ちゃん!」
バタン!
ガチャリ
(ふぅ…………。)
可憐は息を潜め、源次郎が居なくなるのを待つしかない。さすがの源次郎も深夜に自宅の中まで入って来るとは思えないが、それでも可憐の足元はガクガクと震えていた。ほんの数分がとても長い時間に思えた。ドクンドクンと張り裂けそうになる心臓に左手を押し当て、可憐はゆっくりと目を瞑る。
人気絶頂の国民的アイドル夢野可憐。
誰もが羨む可憐の日常が、少しづつ壊れて行く音が聴こえて来た。
【パンドラの箱②】
西暦2038年3月14日
東京都立日本帝都学園1年A組
4時限目の授業が終わり山野 桜はぼんやりと窓の外を見つめていた。
「どうしたの、桜?」
クラスメイトの1人が桜に声を掛ける。
「うん。別に…………。」
桜の返事は素っ気ない。
「ちょっと、靖子、こっち来なよ………。」
「え?どうしたの?」
「桜には関わらない方が良いわ。最近様子がおかしいのよ。」
「あ、ちょっ………。」
靖子と呼ばれる生徒は、友達に引きずられ仲良しグループの輪に戻って行く。
実際、最近の桜は1人になる事が多い。桜の頭の中は大好きな石田先輩の事でいっぱいだった。桜の恋の悩みを知っているのは親友である可憐しかいないのだが、その可憐は、アイドルの仕事が忙しいらしく学校に来る日はめっきりと減っていた。他に話す相手が居ない桜は自然と1人になる事が多くなる。
(可憐は今日は欠席かな…………。)
明日は卒業式、石田先輩に告白出来る最後のチャンス。その前に可憐に話して起きたかったが、こればかりは仕方がない。
「ふむ………。」
その様子を見ていた一人の生徒が呟いた。
「どうしたの?秀斗。」
進藤 霞が少し驚いた表情を見せた。
山野 桜とは別に、他の生徒達とは明らかに違う雰囲気を醸し出す生徒がいた。彼の名は武井 秀斗。霞が驚いたのには理由がある。秀斗は他の生徒には興味が無い。秀斗にとって、周りの生徒達は道端に転がる石と同じであった。
例えば夢野 可憐。日本中の男性の憧れである可憐でさえ秀斗の興味の対象にはならない。秀斗が自らクラスの話題を口にする事は殆ど無い。クラスメイトに話し掛ける事も稀であろう。道端の石ころに話し掛ける人間がどれほど居るであろうか。
だからこそ霞は秀斗の側を離れなかった。幼馴染である霞は秀斗にとっての唯一の例外だったからだ。誰にも興味を示さない秀斗は、霞にだけは話し掛けた。秀斗の話はとても難しく、話の半分も理解出来ないのだが、それでも霞は嬉しく思う。その秀斗が、よりによって何の変哲も無い女生徒の一人である山野 桜に反応したのだ。
「あれは………。何かヤバいな。普通では無い。」
秀斗は視線をそのままに霞に返答する。
(ヤバい……?普通では無い?)
「秀斗………。どう言う事?」
秀斗の言葉の意味を理解出来ない霞が、再び質問をする。
「分からんか?いや、そうだな。分からないなら、その方が幸せかもしれん。」
「秀斗?」
「しかし、まさか、本当に存在したとはな………。」
「え?」
ますます言葉の意味が理解出来ない。しかし霞は一つだけ気が付いた事がある。秀斗が見ているのは山野 桜……ではない。
別の何か…………。
武井 秀斗は天才だった。幼少の頃から凡人では思い付かない発想を持ち合わせ、あらゆる難題を解決して行った。小学3年生の時に受けた知能検査ではIQ300を越えたとの記録が残っている。5年前に日本を代表する企業が集められ国家主導の東京都開発プロジェクトが立案された時に、唯一企業ではなく民間人個人で招待されたのは秀斗だけであった。この時の秀斗は小学6年生だ。
そして秀斗には、驚くべき能力があった。
その高度に発達した脳内神経は通常の人間では見る事が出来ない超常現象を感知する事が出来るのだ。秀斗はこの能力を誰にも話した事が無い。幼馴染の霞ですら例外ではない。そんな事を話しても誰にも信じて貰えないだろうし話す必要は無いと判断したからだ。
「秀……斗?存在したって…………。」
「霞………。お前、『都市伝説』は信じるか?」
「都市伝説?実際には存在しないオカルト的なやつ?」
「まぁ、殆どの都市伝説は偽りだろう。しかし最近ネットで気になる『都市伝説』を発見した。」
「気になる?秀斗が?」
霞にはそれが意外であった。超が付く天才児の秀斗が都市伝説など信じるとは思えない。非科学的なものを信じるほど秀斗は馬鹿ではないし、何かにすがるほど弱い人間にも見えない。秀斗は霞にとって、誰よりも尊敬に値する完璧な人間なのだ。
武井 秀斗が気にする『都市伝説』とはいったい何なのか。霞は秀斗の次の言葉を待った。そして、暫しの沈黙の後に、秀斗はポツリと呟く。
その都市伝説の名は
…………『パンドラの箱』
チク
タク
チク
タク
放課後の1年A組の教室は妙に静まり返っていた。聴こえて来るのは、アナログ時計の秒針の音だ。
(結局、可憐は来なかったな………。)
桜がチラリと時計を見ると、教室の正面に飾られた古い時計が淋しげに泣いていた。ハラリと零れ落ちた水滴が机いっぱいに広がり、次の瞬間には蜃気楼のように消えて行く。
ふと桜は思う。
開校して10年に満たない都立日本帝都学園の教室に飾られた時計が、なぜにこうも古めかしいのか。古い洋時計の幻影が頭の中をぐるぐると回り始めた。
景色が消えて行く。
窓も床も何もかもがぼんやりと霞み、霞は真っ白な空間に取り残された感覚を味わう。
涙のせいなのか。
そんな事を考えていると、何も無い空間に妙に存在感のある物体が現れた。その物体の色は目まぐるしく変化し、鮮やかな色彩が霞の瞳を覆って行く。
その奇妙な感覚は言葉では表現出来ない。摩訶不思議な現象であるにも関わらず、霞の心は穏やかな安らぎに支配されて行く。
その物体は『箱』であった。
その箱を手にした者は、どんな願いも叶えられると言う。
カタカタ
カタカタ
ブン
1万3882件
(なに、この数………。)
帰宅した進藤霞がパソコンのキーボードに入力した文字は『パンドラの箱』。単なる『都市伝説』にしては、検索にヒットする数が多過ぎる。武井秀斗が気にする『パンドラの箱』とは、いったい何なのだろうか。
霞は熱心にパソコンに映し出されたコメントを読み進めた。どんな願い事も叶えるなど、にわかには信じられない。そして、アップされたコメントの殆どが『パンドラの箱』を否定する内容だった。
(当然………よね。)
そんな箱があるのなら、誰も苦労はしない。漫画やアニメの世界では無いのだから、そんな物が存在するはずがない。
(『都市伝説』は所詮は『都市伝説』。)
カタカタ
カタカタ
(………!?)
そこで霞は、パソコンに表示された単語に目を止めた。
(都立日本帝都学園…………。)
『パンドラの箱』の都市伝説について調べていると、思い掛けず、母校の名前が飛び込んで来たのだ。霞は少し戸惑いながらも母校の名前が表示されたブログをクリックする。
カタカタ
カタカタ
(これは…………。)
999:ハンドルネームC−4@:2038/03/03(木)
今日は穏やかなお天気です。私の体調も今日は少し良いみたい。
1085:ハンドルネームC−4@:2038/03/05(土)
もうすぐ私の願いは叶う。長かった……。
あの箱と出会って半年。
もうすぐ私の願いは叶う。
(なにこれ…………。)
これではまるで
『パンドラの箱』が、実在するみたいじゃない…………。
【パンドラの箱③】
西暦2038年3月15日
都立日本帝都大学 卒業式
その日の東京は快晴であった。日本全国から優秀な生徒が集められた学校の名は都立日本帝都学園。今日は高等部の卒業式だ。校内には卒業式の様子を撮影する為の報道関係者がズラリと並んでいた。
「ふん。邪魔だな………。」
武井 秀斗は朝から機嫌が悪い。日本の将来を担うエリート校の卒業式は例年マスコミの取材が殺到する。しかし今年の卒業式は例年以上の盛り上がりだ。なぜなら在校生代表のスピーチに選ばれたのが国民的アイドル、人気絶頂の夢野 可憐だからだ。
「1年生が在校生代表なんて、学園始まって以来の出来事らしいわよ。」
進藤 霞の言葉が秀斗の機嫌を更に損ねた。1年前の入学式でマスコミの話題をさらったのは他ならぬ秀斗だった。『学園始まって以来の天才児!』『日本一頭の良い高校生!』そんな賛美の言葉が紙面の一面を飾ったものだ。それが今や報道陣の狙いは夢野 可憐。秀斗に取材の申し込みがあったのは数件だけ。それも可憐絡みの取材であった。
「まぁ、今回は私達は主役じゃないから。今回の主役は卒業生よ。」
霞のそんな言葉も、可憐が1年生だと言う事を踏まえれば何の慰みにもならない。
(ふん……。ゴミどもが…………。)
ざわざわ
その時、取材陣の間で動きがあった。夢野 可憐が登校して来たからだ。4枚目のシングル曲『聖者の行進』は300万枚の売上を達成し、今後の注目は売上歴代1位を更新するかどうかに集まっている。
「可憐ちゃん!おはよう!」
「トリプルミリオン達成おめでとう!」
「今日の卒業式の意気込みはどう?」
「緊張してる?」
「制服姿も可愛いね!」
「ちょっと手を振って貰える?」
パシャパシャパシャ!
鳴り止まぬカメラのフラッシュ音が可憐の行く手を遮った。
「あの……、ごめんなさい。私、早く行かなきゃ……。」
あっと言う間に取材陣に囲まれた可憐は身動き一つ取れない状況だ。
「あ~あ、可憐ちゃんも大変ね。」
「ふん。行くぞ霞。俺達には関係の無い事だ。」
「ちょっ!ちょっと待ってよ秀斗!」
その場を立ち去り校舎の中へと急ぐ武井 秀斗。
(それにしても、この胸を抉るような感覚は何だ?)
秀斗の機嫌が悪いのは可憐の人気への嫉妬なんかでは無い。その超人離れした脳内神経が特異な超常現象を感知している。
先程から、何度も何度も、強い気配が、秀斗の脳に訴え掛ける。
願いを………
……………………言えと。
(ふん。バカバカしい…………。)
日本最高……、いや世界最高の頭脳を持つ秀斗が他力本願などに頼る理は無い。他者に願いを乞うなどと言う行為は弱者の発想だ。
だが、しかし
先程までは嫌悪感しか感じなかった気配が変化した。黒から白へ、闇から光へ、そして嫌悪感は安らぎへ。
ドクン
ドクン
(いや………。)
ドクン
ドクン
(違うな…………。)
武井 秀斗は理解する。
(気持ち悪いと感じていたのは俺の心か………。)
人間とは弱い生き物だ。どんなに優れた人間でも『悩み』と言うものは存在する。この気配は、誰もが持つ『負の感情』を刺激するのだ。
後悔、嫉妬、欲望、憎悪
深層心理に眠る『負の感情』を刺激された人間は、とてつもなく不安になる。苦しくて、切なくて、泣き出しそうになる感情の渦が理性を崩壊させて行く。
そして、次の瞬間
光が射し込むのだ。
願いを…………。
願いを叶えましょう。
その声は、どこまでも優しく、実に心地よく心に響いた。
ドクン
ドクン
(願い……………。)
ドクン
ドクン
(俺の……………。願い……………。)
ドクン
ドクン
秀斗……………。
「秀斗!」
「!」
「どうしたの?秀斗。」
聞き慣れた霞の声が聞こえる。
「霞…………。」
「どうしたの?急に立ち止まって。」
不思議そうな顔で、霞は秀斗の顔を覗き込んだ。幼い頃より見慣れた顔が至近距離に迫るのを見て思わず秀斗は顔を赤らめる。
「何でもねぇよ。それより行くぞ。」
「あ、ちょっと待ってってば!」
秀斗の脳に直接響いていた声はいつの間にか消えていた。
都立日本帝都学園1階 美術室前
「ふぅ…………。」
石田卓は美術室の前で立ち止まり一息ついた。都立日本帝都学園3年A組石田 卓。彼は紛れもなくスターである。エリートが集まる帝都学園に於いて初の甲子園優勝。エースピッチャーにして4番バッター。おまけに容姿は抜群。昨秋のドラフトでは4球団が1位指名で競合し見事にプロ球団への入団が決まっている。マスコミを振り切った石田はようやく目的の美術室へ辿り着いた所だ。
「しかし助かった。」
石田 卓はそう呟いた。あの時、夢野可憐が現れなければ取材陣は石田の側を離れなかったであろう。未来のスーパールーキーよりも人気絶頂のスーパーアイドルの方が記事になる。
(可憐様々だな…………。)
卓はそんな事を考えながら音楽室の扉に手を掛けた。
ギ………。
卒業式の当日、卓が音楽室に来たのには理由がある。
山野 桜
昨晩、唐突に鳴った電話は桜からのものであった。桜とは何回か話した記憶がある。平凡な少女である桜の事を覚えていたのは、やはり可憐の友達だったからである。日に日に人気を増して行く可憐は学園内でも人気があった。その可憐の友達である桜と知り合いになる事は卓にとっても悪い話では無い。電話番号を交換したのは、そんな卓の思惑もあった。
しかし、それから2人は一度も電話を交していない。卓も学園内では女生徒からの人気は高い。夢野 可憐と付き合う事にでもなれば日本中のマスコミは黙っていないだろうが、実際、卓は可憐とは殆ど話した事は無い。
(しかしよ………。普通、卒業式の朝に呼び出しするか?式の後なら分からなくもないが………。)
卓にとっては、女生徒からの誘いは日常茶飯事だった。特定の彼女の居ない卓は、頻繁に交際を申し込まれる。それでも卓は野球一筋に学園生活を送って来た為に、今まで申し出のあった誘いは全て断っている。
「石田先輩…………。」
そこに立っていたのは山野 桜。卓が最後に彼女を見たのは去年の秋。その時の印象よりも少し可愛らしく見えた。
卒業式
「在校生代表、夢野可憐。」
「はい!」
パシャパシャパシャ!
無数のフラッシュがたかれ可憐の送辞の挨拶が始まった。コンサートのステージとは違う緊張感がある。可憐の透き通るような声は広い会場によく響いた。
夢野 可憐には不思議な魅力があった。その声は多くの人々の心を惹きつける天性のものがある。誰もが可憐の送辞の挨拶に聞き惚れた。大勢いた報道陣もいつしかシャッターを押すのを忘れてしまう。しんと静まり返る会場に可憐の声だけが鳴り響いた。だから、皆が忘れてしまった。卒業式に出席しているはずの2人の存在を。
山野 桜と石田 卓
2人は確かに登校していた。式が始まる前は2人の不在を気に止める教師もいたのだが、2人を探している時間は無かった。日本中が注目する都立日本帝都学園の卒業式。式の時間を遅らせる訳には行かない。何事も無かったように、卒業式は淡々と過ぎて行き、メインイベントである夢野 可憐の送辞の挨拶は終わりを告げようとしていた。
とその時
「大変だ!!」
ガラガラッ!
会場の入口にあるドアが叫び声と共に開かれた。
この世の中にはね、努力ではどうにも出来ないものがある。
この理不尽な世界では、力の無い者が生きるのは辛いのよ。
(可憐はいいな………。)
山野 桜は思う。
可憐は誰からも愛される日本を代表するスーパーアイドルだ。可憐には恋の悩みなど存在しないであろう。それに対して桜はどうだろう。
日本中から、あらゆる分野のエリートが集まる都立日本帝都学園。そのような中では、桜の個性は平凡であった。学力も容姿も至って平凡。唯一の取り柄は絵を書く事くらいであるが、それでも美術部の中では決して才能に恵まれている訳ではない。
入学して日を増す毎に、桜は自分の未熟さを思い知らされた。辛かった。可憐がスーパーアイドルへの道を駆け上る最中、桜は1人取り残された気持ちになった。そして6月。石田 卓と運命的な出会いを果たす。
そして更に月日が流れ桜の恋心は日増しに膨れ上がった。
好きなのだ。
好きで好きで仕方がないのだ。
先輩と一つになれるなら、他の何も要らないと思った。桜にとって石田先輩が世界の全てとなった。その一途な想いを誰が止められようか。
その願いを………。
そして、桜の目の前に『箱』が現れたのだ。
どんな願いも叶えると言う『パンドラの箱』
桜は願わずには要られない。
桜の願いは只一つ。
石田先輩と一つになる事。
ガラガラッ!
会場の入口にあるドアが叫び声と共に開かれた。夢野 可憐は大声で叫ぶ男を見た。可憐だけではない。会場にいた誰もが何が起きたのか分からなかった。
最初に会場を飛び出したのは武井 秀斗。進藤 霞も後に続いた。壇上にいた可憐が走り出したのはその後だ。
向かう先は1階にある美術室。
ふと嫌な予感が可憐の頭を過ぎる。美術室と言って思い浮かぶのは山野 桜だ。桜は卒業式には参加していない。
(まさか……。)
群がる報道陣を掻き分けて、可憐は美術室に辿り着く。
「きゃあぁぁ!!」
「!!」
聞こえて来たのは、女性の叫び声。
「霞さん!」
ざわっ!
そして室内に入った可憐は、教室中央に広がる惨状に絶句した。
(…………………桜!)
「警察だ!いや救急車を呼べ!!」
武井 秀斗の声が響いた。
石田 卓
山野 桜
2人は重なり合うように倒れていた。
床一面に広がる真っ赤な鮮血が、可憐の脳裏を刺激する。それは何とも形容し難い光景。ドロドロと流れる血は、まだ事件が起きて間もない事を物語る。おびただしい血の量は、2人の命が助からない事を容易に想像させた。
(何で…………桜…………。)
何が起きたのか、可憐の頭は混乱していた。しかし、可憐がもっとも当惑したのは………。
山野 桜が微笑んでいた事だ。
その唇が、その瞳が、死ぬ間際の刹那、桜は明らかに至福の笑みを浮かべていた。
西暦2038年3月15日
その日、都立日本帝都学園の校庭に咲いていた桜の花びらは、春の風に揺られ、はらりと溢れ落ちた。
まるで、桜の命が尽きた事を暗示している様に思えた。
とても美しく
とても哀しい桜の花びら。
可憐はいつまでも、散りゆく桜を眺めていた。