鍛冶屋
かつて、文部省唱歌に『村の鍛冶屋』という歌がありました。
ご年配の方でも知っている方は少ないと思いますが、昔は集落に一人は鍛冶屋がおりました。
野鍛冶(農鍛冶)と呼ばれる彼らの仕事は農具や工具の製作、修繕などで、村に腕の良い鍛冶屋がいることは村の誇りでもあったのです。
鍛冶屋は生活になくてはならない存在であると同時に、刀鍛冶に代表されるように武器職人としても手厚く保護されます。洋の東西を問わず鍛冶の神が存在し、その地位は高めでした。
ファンタジー世界ではドワーフ(Dwarf)という種族が鍛冶技術に長け、武具類や工具類の他、機械仕掛けの大型設備を製造したり、彫金技術で精緻な装飾品や工芸品を生産していたりします。
鍛冶屋が冒険の旅に出る理由があるとすれば、良質の鉱石或いは伝説の鉱物を求める旅、または技術交流も含めた修業の旅も想定されます。
鍛冶屋が主人公の物語も最近は増えつつあります。
頑固親父の鍛冶屋が、武器の使い方に愚痴を連ねる冒険譚も面白いかもしれません。
我が国の刀鍛冶(刀工)はそれぞれが特徴的な刀剣を鍛えることで著名です。
刀鍛冶の源流は天目一箇神という製鉄と鍛冶の神で、岩戸開きの時に金属製の道具を作ったとされます。
その天目一箇神の後裔が「倭の鍛冶」と呼ばれる鍛冶集団で、我が国最古とされています。
飛鳥時代には、製鉄産地が主要な作刀地域であり、大和伝、山城伝、備前伝の三派が存在しました。
大和伝は大和五派と呼ばれる刀工集団に分派し、その内の一つ「千手院派」の作とされる刀には、国宝「大太刀 銘貞治五年丙午千手院長吉」がありますが、この刀は室町時代初期の作です。
他にも「天国」と呼ばれる名工が存在したと伝承され、その作刀に「小烏丸」(大和国天国御太刀)と「古今伝授大和国天国御太刀」の二振が御由緒物として伝わっています。
山城伝の著名な刀工は「三條宗近」で、徳川将軍家伝来の国宝「名物三日月宗近」があります。この太刀は平安時代の作とされています。宗近には「小狐丸」と呼ばれる太刀があり、これは稲荷明神と共に鍛えたとされています。
備前派の著名な刀工は「包平」で、高平、助平と共に三平と称されました。国宝である名物大包平(銘備前国包平作)は現存する全ての日本刀中の最高傑作とされています。
この大包平と拮抗する太刀が国宝「童子切」(伯耆国大原五郎大夫安綱作の太刀)で、「日本刀の東西の両横綱」と激賞されています。
他に国宝「大典太」(筑後三池出身の刀工初代典太光世によって作られた唯一の在銘の太刀)も平安時代の作とされています。
鎌倉時代に入ると、幕府のお膝元である鎌倉に著名な刀工が集められ「相州伝」と呼ばれる勇壮で実用的な作風が興ります。この時、鎌倉に赴いたのは備前から福岡一文字の助真、備前三郎国宗、京都から粟田口藤六左近国綱、新藤五国光と言われております。
御物「鬼丸」(山城国の京粟田口派の國綱作の太刀)や重文「数珠丸」(備中国青江派の恒次作の太刀)などが鍛えられています。
鎌倉時代の刀工は山城伝に、粟田口派、綾小路派、来派がありました。備前伝には福岡一文字派、吉岡一文字派、長船派、畠田派、鵜飼派がありました。大和伝には千手院派、当麻派、手掻派、尻縣派、保昌派の他、備後、越中にも分派されています。
以後、南北朝時代に相州伝が武士たちに普及し、戦国時代は備前物が流行します。
ここまでが古刀と呼ばれる日本刀ですが、紹介した太刀の内、「名物三日月宗近」、「童子切安綱」、「大典太光世」、「鬼丸國綱」、「数珠丸恒次」の五口が「天下五剣」と呼ばれる名刀です。
こうした名刀に匹敵する刀を鍛えようとする若い刀工の冒険も面白いかもしれません。
文部省唱歌『村の鍛冶屋』は大正元年十二月に尋常小学校唱歌に掲載されたのを初出として、作詞者、作曲者ともに不明です。
◆歌詞
一、
暫時も止まずに槌打つ響
飛び散る火の花 はしる湯玉
ふゐごの風さへ息をもつがず
仕事に精出す村の鍛冶屋
二、
あるじは名高きいつこく老爺
早起き早寝の病知らず
鐵より堅しと誇れる腕に
勝りて堅きは彼が心
三、
刀はうたねど大鎌小鎌
馬鍬に作鍬 鋤よ鉈よ
平和の打ち物休まずうちて
日毎に戰ふ 懶惰の敵と
四、
稼ぐにおひつく貧乏なくて
名物鍛冶屋は日日に繁昌
あたりに類なき仕事のほまれ
槌うつ響にまして高し
※懶惰:怠けるさま。不精なさま。怠惰。
用例「あなた、懶惰ですねぇ」