おとぎ話とパンツと脳内会議
都市伝説みたいな話なんだけれどね、神楽坂には小さな神さまがいるんだって。
その子はね、話しかけたその人がどんな心の持ち主か見極めるために、いろんなものをおねだりするの。
とは言っても、欲しがるのは決して高価なものなんかじゃない。それに、その人にとって本当に大切な、決して手放せないような大きな想いのこもったものでもない。
だけど、そのおねだりに応えてあげる人はほとんどいない。
なぜなら、その子がおねだりするのは、たとえささやかであろうともその人が今最も必要としているものなのだから。
例えば、お腹の空いている人がいたならば、その人が持っているおにぎりを。
もし雨が降っていたならば、その人が今まさに差しているその傘を。
だから、こんなの断られてしまうのは当然よね。
でもね、本当にごく稀にだけれど、自分のことを差し置いてでも、その子にそれを渡してあげる人がいるの。
そしたらね、その子はその美しい心に応えて、どんな願いでも叶えてくれるんだって。
神楽坂にて。
さやかはその急な坂道を歩いていた。
「ねー、ねー。おねえちゃん!」
突然後ろから掛けられた幼い声に驚いて振り返ると、そこでは男の子がにこにこしながらこちらを見上げていた。その子はさやかと目が合うと、さらににっこりと笑って、再び口を開いた。
「ぱんつちょーだい!」
「…は?」
その時、さやかの中にて。
「あー…。これは、とりあえず警察に通報かな?」
ブリッジの巨大モニターに映るその子の姿を前にして、「リーダーさやか」は呟いた。いつもは他のみんなの意見をまとめるのが仕事なのだが、下校中で心を空っぽにして歩いていたのでみんな出払っているのだ。ブリッジの中には自分以外に誰もいない。ただ空っぽの操作卓がたくさん並んでいるだけだ。こういう時はいつもリーダーのワンマン運転と決まっている。だが、一人で判断するというのは手間も時間も掛からないし、リーダー自身は案外嫌いでなかったりもする。
「ちょっと待ってよ! いくらなんでもこんな子供相手にそんなの大人げないって!」
訂正。なぜかブリッジには「ひかえめさやか」も残っていたらしい。特に今まで何もせず、ただ後ろでぼーっとしていただけのようだが、耳ざとくこちらの呟きを聞きつけると、大声で邪魔するようなことを言いながらやって来た。
「いや、だって、子供とはいえただの変態じゃん。同情の余地なしだよ」
リーダーはそれでも動じずに自分の考えを告げたのだが、ひかえめも譲らない。
「それでも年上としての余裕くらい見せてあげても良いじゃないの。どう見ても、まだ十歳にもいかないくらいの年なんだし、ただのイタズラでしかないんだから」
モニターの中からその子は、くりくりとしたかわいらしい目で引き続きこちらを見上げている。
「いやいや、こういうのは早いうちに痛い目に合わせてあげるのも年上としての役目だから。というか、こんな小さな内から女子高生のパンツを欲しがるなんて、むしろ筋金入りの変態だよ。ほとんど生まれつきのクズ野郎だよ。人類のためにもさっさと駆除しておいた方が絶対良いって。」
リーダーはひかえめの意見には大して取り合わず、早く鞄の中からスマホを取り出そうと、がちゃがちゃと手元のレバーを動かした。ひかえめの意見は基本いつも扱いが雑なのだ。こういった傾向の総体を、人は性格と呼ぶ。
「ちょっと待ってって! レバー動かすのやめてよ!」
「そうよ! ちょっと待って!」
リーダーは手にしがみついて邪魔してくるひかえめを振り払おうとしていたのだが、なぜかひかえめの味方をするようなことを叫びながら、今度は「ひらめきさやか」がブリッジの中に飛び込んで来た。
「なによ、あんたまで…。」
リーダーもさすがにレバーから手を放し、ひらめきの方へと振り返った。ひらめきはなぜかその手に、きらきらと光り輝く記憶のかけらを持っている。
「いいからこれ聞いてみてよ! そうすれば私の言いたいことが分かるから!」
ひらめきはそう口にすると、記憶のかけらを床に叩きつけた。辺り一面に光の粒が舞い、そのかけらの中にしまわれていた言葉がブリッジの中に響き渡った。
『神楽坂にはその人が今最も必要とするものを欲しがる神さまがいる。その子の願いを叶えてあげれば、代価としてどんな願いでも叶えてくれる。』
ひらめきは、みんなが今すぐにでも自分の意見に賛同してくれるに違いないという、爆発してしまいそうなほどの喜びの予感をその顔に浮かべていた。
リーダーはモニターの方へと振り返った。その子は期待を込めた目で、引き続きこちらのことを見上げている。
「な、なにモニターの方見てるの、リーダー! まさか今の話信じるわけないよね!」
またひかえめが、「信じられない」と言わんばかりの大声を上げた。
「なによ、ひかえめ。さっきは味方してあげたんだから、今度はこっちの味方してくれたっていいじゃないの」
「私は大事にしたくないだけなの! パンツを渡したいわけじゃないの!」
不満そうなひらめきに、ひかえめがまたぷんぷん怒りながら言い返している。いつも自分の意見が通らないせいで、ひかえめという名前のわりにちょっと怒りっぽいところがあるのだ。
だが、今回はリーダーもひかえめの意見に賛成だ。
「いや、さすがにこの子供が神さまってことはないって、ひらめき…。こいつはただのエロガキだよ」
「え、ええー!」
ひらめきが驚愕の声を上げた。
「いやいやいや! 絶対この子が例の神さまだって!」
「いや、だからって、『パンツ寄こせ』なんて神さまが言うと思う? スマホとかならまだ分かるけどさ」
「そう! そこだよ! 私も勘違いしていたんだけれど、私が取られて一番困るものってスマホじゃなかったんだよ! パンツだったんだ! パンツ! 私にとって一番必須なのはパンツだったんだよ!」
「え、ええー…。」
力説するひらめきにリーダーも少し押され始めた。確かにひらめきの言わんとしていることは分からないでもない。スマホとパンツ、今すぐ失くしても構わないのはどちらかと問われると、なかなか即決することは難しい。
「でも、どんな願いを叶えてくれるにしたって、パンツを渡すのは嫌だよ、私…。」
ひかえめがぼそっと口にした。まったくもってその通りだ。
「…まあ、ひらめきの言いたいことも分からないでもないけれど、やっぱりパンツは渡せないから――」
「ちょっと待ってくれ!」
リーダーが一旦話をまとめようとしていたところに、今度は「よくばりさやか」が現れた。
「落ち着いてよく考えるんだ! 交換条件としては破格だぞ! パンツ一枚で何でも手に入るんだから! パンツ一枚くらい渡してやれば良いじゃないか!」
鼻息荒く、目をぎらぎらさせながら、よくばりもみんなの輪に加わった。
「何でも手に入るんだぞ! 何でも! 国家予算くらい要求すれば良いじゃないか! いや! むしろ権力とか! 税金を徴収できるようにしてもらうとか! パンツなんて安いものじゃないか! どうせ千円もいかないような格安のセール品しか買ってないんだから! 金! 金! 金!」
「そ、そーだ! そーだ!」
自分の味方だと分かったのか、ひらめきもよくばりと一緒になって声を上げ始めた。
「でも、それって本当にパンツを『売る』って感じじゃん!」
今度はひかえめがたまらず声を張り上げた。
「私、そこまでの汚れキャラじゃないもん! ね、リーダー! リーダーももう一回言ってやってよ! パンツは渡さないんだって!」
「…そうか。なんでも手に入るのか…。そうだな、確かにリターンのことなんてまるで考えていなかったな…。」
しかし、リーダーの耳にはひかえめの声はまるで入らなかった。
「え? リーダー…?」
ひかえめが絶望の面持ちをしている中、リーダーは外部放送用のマイクに顔を近づけた。そして厳かにマイクのスイッチを入れると、例の少年と、ブリッジのみんなに向かって宣言した。
『いいよ。パンツ、渡してあげる』
「よっしゃー!」
「やったー!」
マイクのスイッチが切られると同時に、よくばりとひらめきの歓声がブリッジに響いた。
モニター越しに例の少年も、ぱーっと輝くような満面の笑顔を浮かべていた。
「な、なんで!」
ただ一人納得出来ないひかえめが悲鳴のような声で叫んだ。
「べ、別に金に釣られたわけじゃないし! この子の正体を確認するためには、それ以外に方法がないから! 好奇心からの結果! あくまで知的興味からの決断であって、邪な想いがあった訳じゃない!」
しかし、リーダーはすぐさま詭弁で誤魔化した。反対意見をうまく封じ、次の行動に迷いを生じないようにするのもリーダーの大事な役割だ。
「よーし! さっそくパンツ脱ぐぞー! ひらめきはそっちのレバー頼む!」
「うん! 任せて!」
よくばりとひらめきがそれぞれ分担して、壁から生えている両腕の操作レバーに飛び付いた。ついにモニターの映像が動き出した。両脇から自分の手をスカートの中に突っ込んでいる様子が映し出されている。
「ああっ! もう! 完全に痴女じゃん!」
ひかえめが悲鳴を上げている間にも、両手の親指をパンツの脇に引っ掛けた信号がブリッジに送られて来た。
しかし、モニター内のその手がそれ以上動くことは無かった。まるでフリーズしてしまったかのように、すべてがぴたりと止まったのだ。
「もー! ひかえめ! 余計なこと言うなよ! レバーが滅茶苦茶重くなったじゃないか!」
よくばりは怒りながらも、いったい何が起きているのか教えてくれた。
「いったいなんの騒ぎ? なんか今、私、呼ばれたような気がしたんだけれど」
その時突然、そう口にしながら現れた更なるさやかの姿に、一同は凍り付いた。
感情を直接に司る分、この中の誰よりも強く、そしてとんでもない癇癪もちの、「はじらいさやか」だ。
「ああっ! はじらいちゃん! 今大変なんだよ! よくばりちゃん達がとんでもないことをやろうとして――」
ひかえめは味方を増やそうと声を上げたのだが、最後まで言い切ることは出来なかった。すぐさまリーダーが彼女の口を塞いだのだ。
「なんでもないよ、はじらい! ただちょっとバタバタしているというだけで…!」
リーダーは暴れるひかえめを封じ込めながら慌てて言葉を続けた。よくばり達の抱えている両腕のレバーが突然重たくなったのは、間違いなくはじらいの力だ。しかもその様子を見るに、彼女自身は何の自覚もないままにこれを行使しているらしい。ただでさえすぐに爆発する癇癪だというのに、その上本当に恐ろしいほど力の差があるのだ。
たとえば以前、誰もいない教室で替え歌を熱唱している場面を何度も友人に見られていたことが判明したとき、はじらいは突然真っ赤な顔でブリッジに乗り込んで来て、そこにいたみんなのことを一瞬で叩きのめして行ったことがある。その時だってみんなで仲良く合唱していた最中だったというのに、一切の容赦がなかった。言い訳さえもさせてくれなかった。
もし今回だって、パンツを子供に渡そうとしているなんてばれたら、ブリッジの中は絶対に滅茶苦茶にされてしまうだろう。暴風雨のようにはじらいが暴れ続け、ブリッジの制御が出来るものは誰も残らないに違いない。いわゆるパニック状態だ。そうなればもちろん、この小さな神さまとの交渉も白紙に戻ってしまうことになる。すぐそこにあるはずの巨万の富も消えてしまう。
「ふーん? いったい何があったの?」
何とか誤魔化そうとしたリーダーの言葉には適当に返しながら、はじらいはモニターの方へと目を向けた。
間一髪、ひらめきがモニターの映像を動かした。今はパンツを脱ごうとスカートの中に突っ込んだ両腕ではなく、少年の姿が映っている。
「べ、別に大したことじゃないんだけれどさ、下校中に突然この男の子が話しかけて来たから、ちょっとびっくりしちゃったんだ」
ひらめきはおどおどしながらも、核心は隠しながら、はじらいに向かってそれらしい状況説明をしてくれた。
「ふーん?」
また、まるで興味の無さそうな相槌を打ちながらも、はじらいはまじまじとモニターを見つめ始めた。
さっきまでモニターの方を真っ直ぐに見つめていた例の少年の視線は、今は少し下の方を向いたまま、釘付けにされたように固まっている。少し赤い、でもわくわくとした、熱い期待の込められた顔だ。
(こいつ…! この忙しい時に鼻の下を伸ばして…! はじらいに気付かれちゃうでしょうが…!)
リーダーは思ったが、当然それを口にすることは出来ない。はじらいはまだモニターを検分している。冷汗が背筋を伝う、嫌な時間が流れた。
はじらいがゆっくりとリーダーの方へと振り返った。その目には呆れたような色と、蔑むような色が含まれている。もしや、すべてバレてしまったのではないだろうか、癇癪が爆発する寸前なのではないのだろうか。嫌な予感ばかりがリーダーの中を駆け巡っている最中、はじらいは口を開いた。
「あんたたち、そういう趣味だったの?」
「…え?」
はじらいの声は低い。機嫌が悪い証拠だ。しかしいったい何を言われているのか、リーダーには分からなかった。だが、どうやらパンツに手を掛けていることはバレていないらしい。
「だって、よくばりも、ひらめきまでもいるじゃないの。ひかえめちゃんを捕まえている所を見るに、ろくでもないことをしようとしていたってことは分かるんだから。でも、小さい子相手に変なことして捕まるとか、絶対止めてよね。そんな話、みんなに知られるとか絶対嫌だから」
「う、うん。分かった…。」
はじらいがどういう勘違いをしてくれたのか、リーダーも分かって来た。どちらかと言えばこちらがイタズラされている側なのだが、今はこの不名誉な誤解を、不幸中の幸いとして受け入れるしかない。
「じゃあ私は帰るから。繰り返しになるけど、変なことしないでよ」
彼女はその言葉だけを残して、ブリッジから出て行った。
「……、行ったか…? …行ったな…?」
はじらいが出て行った扉を見つめたまま、リーダーは呟いた。扉は静かだ。再び開く気配はない。
リーダーは捕まえていたひかえめを放り出すと、モニターを指さして叫んだ。
「今だ! よくばり、ひらめき! レバーを引くんだ! はじらいがまた戻って来る前に全部終わらせよう!」
「おう!」
「任せて!」
左右のレバーはがっこんという大きな音を立て、一気に限界まで引き下げられた。
モニターの映像が一気に動いた。手はずりっと下がり、パンツはついに足首のところまで来た。
「あ、やばっ! 先に靴脱いでおけば良かったのか!」
よくばりはそう言うと、慌てて足の操作卓の方へと飛び移った。
モニターの映像も、ブリッジも、全部がぐらぐらと揺れ始めた。
「ああっ! まずい、まずい! パンツが邪魔でこけちゃうって! とりあえず一回パンツ上げてよ! こけたら全部見えちゃうんだよ!」
ひかえめがまた悲鳴を上げた。
「大丈夫だって! ちゃんと気を付けるから!」
よくばりはいつだって自信満々だ。
「私も手伝うよ!」
ひらめきもすぐ同じ操作卓へと向かった。
そしてついに、パンツは両足をくぐり抜けた。ひらめきも、よくばりも、リーダーの方へと振り返り、目で合図を送って来る。リーダーも二人の意図を汲み、頷き返した。手元のレバーを操作すると、パンツを握ったその手を少年の方へと差し出した。そして、外部放送のマイクに再び口を近づけた。
『はい、あげる』
『うん、ありがとう!』
その少年の感謝の言葉が響いた時、ブリッジは歓声に包まれた。ついにやった。成し遂げたのだ。一攫千金だ。三人の声が何度も繰り返し響いた。リーダーまでも指揮官席から飛び降り、一人だけ後ろの方で泣きそうな顔をしているひかえめのことなんて忘れて、三人は大声で笑い合い、抱き合った。
『お姉ちゃん、ありがとう! 絶対大事にするからね!』
少年はその言葉の通り両手でパンツを握りしめながら、ぺこりと頭を下げた。
さあ、いよいよだ。ついに願いを叶える時が来たのだ。
ブリッジの中でリーダーたちはモニターに釘付けになっていた。
少年はくるりと背を向け、ぱたぱたと走り出す。
「ん? あれ? 願いは?」「あっ! きっとこれから空に飛ぶんだよ! それで龍とかに変身するんだって!」「ああっ! なるほど! じゃあ今のうちに願い事の文言をちゃんと決めておかないと! 噛んだら格好悪いし!」
一瞬三人はそわそわしてしまったが、互いに言葉を掛け合うと、また真っ直ぐにモニターを見つめ始めた。
少年の背中はまだまだ遠ざかって行く。
「…。」「……。」「………。」
三人は熱い期待を抱えて黙り込んだまま、健気にモニターを見つめていた。
「な、なんでまだみんな信じてるの! やっぱり神さまなんかじゃないんだって! あの子!」
しかし、ブリッジにひかえめの声が響くと、三人の間にもさすがに動揺が奔った。
「な、なに言っているんだよ! そんなはずないじゃないか!」
「そ、そうだよ! だってパンツあげたじゃん!」
「そ、そうだぞ! 女子高生のパンツがただで済むわけないじゃないか!」
三人はすぐに言い返したのだが、自分たちの声が震えていることには気付かざるを得なかった。
三人はまたモニターの方へと振り返った。例の少年はさらに遠ざかっていく。
「え、え、え…。ど、どうしよう、リーダー…。」
ついにひらめきが不安そうにそわそわし始めた。
「う、嘘だ…。そ、そんなー…。金がー…。宝の山がー…。権力がー…。すぐそこにあったはずなのにー…。」
よくばりはもう意気消沈して、膝をついて上の空になっている。
「え、えっと、どうしよう、どうしよう…。」
いつも一応なりともみんなをまとめているリーダーさえも、こんなことはまるで想定していなかったので完全に狼狽えてしまっていた。
その時、空っぽになってしまっていた指揮官席に雷が落ちた。耳をつんざくような空気の張り裂ける音、そして新たな一喝する声がブリッジに響き渡った。
「いいからあいつを追うんだ! パンツを取り返せ!」
ブリッジの天井をぶち破って直接指揮官席に降り立った「ぶちぎれさやか」が怒鳴り散らした。
「は、はい!」
その尋常ではない剣幕に押され、誰もがすぐさま手近にある操作卓に飛び移った。今日はずっと反対ばかりしていたひかえめでさえも、慌ててみんなの真似をして操作卓に向かった。
「走れー!」
ぶちぎれが再び怒鳴り散らした。ブリッジの中が先ほどの比ではないほど、激しく揺れ始める。
『待てお前! 今度はお前の番だろうが!』
ぶちぎれが勝手に外部用のマイクを掴み取り、少年に向かって叫んだ。
「ああっ! そんな言い方したら変な意味に――」
「うるさい!」
「ひいっ…!」
ひかえめが何かを言い掛けたが、怒りの矛先が自分の方に向けられるとすぐ小さくなった。そしてまた怒られたりしないようにと、一所懸命に操作卓をいじり始めている。
走る速度が明らかに上がった。モニターに映る少年との距離がみるみる内に縮まっていく。
少年はそんなこちらの様子と、そして何より先ほどの怒鳴り声に反応して、走りながらも少しだけ首を後ろに向けた。
『な、なんだよ! 僕のパンツは渡さないぞ!』
「ああ、やっぱり…!」
その少年の言葉を聞いて、ひかえめがぼそっと呟いた。すぐ隣の操作卓に付いていたリーダーは彼女の横顔を見た。今にも泣き出してしまいそうだ。向こうもこちらに気付いたらしく、助けを求めるように視線を送って来る。しかしリーダーは首を横に振り、小さな声で諭すように答えた。
「…傍から見れば完全にヤバい女だけど、今は仕方ないんだ。我慢するしかない。ただ、私たちは変なことを言わないように気を付けよう。もしここで、はじらいまで呼び寄せるようなことを言ったらどうなると思う? それこそ本当に、気が付いたら前科一犯になっている可能性だってあるんだから」
「うぐう…。」
ひかえめはもう唸ることしか出来ずにいる。
「あ、ああっ! こっちはまずいかも…!」
もう少年のすぐ後ろにまで追い付けたのだが、ひらめきが不穏な声を上げた。その途端、モニターの映像が一変した。一気に開けた場所に出たのだ。
階段だ。しかも、こちらからだと下り方向。
「ああっ! これは本当にまずい! よくばり! 手を伸ばして! ここで捕まえちゃわないと…!」
「よ、よーし…!」
しかし、よくばりの伸ばした手は空を切った。紙一重の差で、少年は階段の手すりに飛び移ったのだ。少年はそのまま、するする下へと滑り降りて行く。
少年は逃げながらもこちらに顔を向けた。パンツなしではこちらが階段を下りていけないことを知っているのか、どこか嬉しそうな、勝ち誇ったような笑顔がモニターいっぱいに大きく映し出された。
「むっかー! むかつく! なんとしてでも捕まえろ! 飛べえっ!」
ぶちぎれが怒鳴り散らした。
「だ、だめだって! 今はパンツ無いんだよ! 走るのだってギリギリなのに! 階段下りたりしたら本当に見えちゃうから!」
「うるっさあい! とべー!」
みんなで危険事項を伝え慌てて止めに入ったのだが、ぶちぎれはまるで耳を貸してくれない。さらにもう一度怒鳴り声をあげた。しかも、今回はそれで終わらなかった。誰も操作なんてしていないのに、みんなの目の前の操作卓が勝手に動き出したのだ。
「ああっ! やばい、やばい! ちょっと冷静になってよ!」
リーダーは叫んだが、ブリッジの中には衝撃が奔った。既に地面を踏み切ってしまっていた。
次の瞬間には、大股を開いて空中を飛んでいた。
浮遊感と共に、モニターの映像がスローになった。
向かい側から階段を上っていたサラリーマンが、何事かとこちらを向いたのが見えた。
あの少年も、目を丸くしてこちらを見上げている。
「……!」
ブリッジの中ではひかえめが完全に固まっていた。目は見開かれたまま、まばたきもしない。だというのに、口だけが今にも叫び出してしまいそうにパクパクと動いている。
リーダーは慌てて彼女の肩を叩いて自分の方を向かせた。そして目だけで合図を送った。
絶対に叫んじゃ駄目だ。はじらいまで来てしまう。もっとひどいことになる。
ひかえめは自ら口を手で塞ぎ、コクコクと頭を縦に振った。
モニター内で手がぐうっと少年に向かって伸びた。そのままむんずと、ついに少年を捕まえた。
「よっしゃあ! おらあっ! パンツ返せ!」
どしん、と地面に着地する衝撃と共に、モニター内の映像も通常の早さで流れるようになった。ぶちぎれは間髪入れず手元のレバーを操作して、そのまま少年の握りしめているパンツのに手を伸ばそうとしている。
「ちょっと待った! 一回離脱! あの子供抱えて一旦ここから逃げよう!」
「わ、分かった!」
リーダーが割り込むように叫ぶと、みんな一斉に返事をしてくれた。とりあえず少年を捕まえることが出来たという成果を挙げられたからなのか、ぶちぎれに奪われていた操縦権もみんなのところへ返って来ている。捕まえた少年を今度は脇に抱え直すと、そのままもう一度走り出した。
とにかくまた人通りの少ないところまでやって来た。今度は小さな川、その橋の上だ。
『パンツ!』
少年を放り出してすぐ、ぶちぎれがマイクを掴んで叫んだ。すると少年は意外にも素直にパンツを差し出した。赤い顔をして、さっきよりずっと大人しくなっているのはきっと気のせいだ。すべて見られてしまったなんて言うのは、ただこちらの被害妄想に過ぎない。そうでなければならない。そういうことにしなければいけない。
ぶちぎれを除く誰もが自らに言い聞かせている中、指揮官席の彼女は自らレバーを操作して、少年が差し出したそのパンツをひったくった。
そして力強く握りしめたパンツに憎らし気に一瞥をくれた後、川に向かって放り投げた。
「な、なんで!」
『な、なんで!』
中からはけち臭いよくばりの声、外からはスピーカーを通して少年の声、その二つが同時に重なってブリッジに響いた。
『一度脱いだパンツが履けるかあ!』
ぶちぎれが両方に向かって答えた。なんだか漢気のようなものを感じさせる台詞だが、要は他人のさわったパンツを履けるか、と言いたいらしい。同じ人間だからリーダーはまだ意図が汲めるものの、完全に言葉足らずだ。ぶちぎれはいつだって頭に血が昇ったままなのだ。
パンツはひらひらと宙を漂ってから水の上に舞い降りた。そのまま川の流れに乗って、ゆらゆらと下流へと流されて行く。
「ああ…。980円もしたのに…。」
名残惜しそうによくばりは漏らしている。モニターの向こうの少年は欄干にしがみつき、川に流されて行くパンツをよくばりと同じように見つめていた。
『ああ、僕のパンツが…。』
『あんたのものじゃないでしょう!』
少年の台詞に対しては間髪入れずぶちぎれが叫んだ。
『だってさっきはお姉ちゃんがくれたんじゃないか! 捨てるなら僕にくれたっていいじゃないか!』
『やかましい! そんな年の内から女子高生のパンツ巻き上げるなんて、ろくな大人にならないわよ!』
この自分を棚に上げた発言、さすがぶちぎれだ。まともな理屈なんて通じない。
『なんだよ偉そうに! ノーパンの癖に!』
「ふんがあっ!」
ムキになった少年がさらに言い返して来た瞬間、ブリッジ内にはまたぶちぎれの雄たけびが響いた。
「ぶん殴れー!」
号令と共に、腕の操作レバーがまた勝手にガタガタと震え始めた。モニターの中ではもう既に腕が振り上げられている。
「いやいやいや! それはまずい! さすがにそれはまずいって!」
ぶちぎれを除く四人がそれぞれに似たようなことを叫びながら、すぐさまみんなで操作レバーに飛び付いた。レバーは今にも振り下ろされようとしている。なんとか押し留めることが出来ているものの、ギリギリで拮抗しているだけでしかない。激しい力のぶつかり合いに、レバーからはぎちぎちと、軋むような危ない音が聞こえて来る。
「何をお前らまで邪魔しやがって! ならこっちからバイパスだ!」
ぶちぎれは指揮官席から飛び降りると、友人とのコミュニケーション用ツールの集まっている操作卓に飛び移った。誰もぶちぎれの意図が呑み込めなかった。そこには小粋なジョーク、鉄板ネタなどが集まっているだけなのだ。
ぶちぎれは乱暴に操作卓裏のパネルを開けると、ケーブルを引きちぎり、別の場所へと突っ込んでつなぎ直した。すると操作卓自体がガタガタと揺れ出し、ついにパンドラの箱のように開かれた。中からは誤作動を封じるようカバーに守られた、一つのボタンがせり上がって来た。
それが何なのか、ようやくリーダーにも分かった。
過激なツッコミ用のボタンだ。ツッコミに擬態させることで、罪悪感のガードをすり抜けて無理やり少年をぶん殴るつもりなのだ。
リーダーは慌てて走り出した。ぶちぎれはもう既に防護用カバーを取り外している。
「だめー!」
リーダーは叫んだ。
しかし、ぶちぎれの振り上げた拳がスイッチを叩き潰した。
ブリッジ内が激しく揺れた。だがそれは、少年を殴ってしまった事による衝撃では無かった。
手は空を切ったのだ。体勢を崩したことによる揺れだった。
「な、なんだ! なにが起こった!」
ぶちぎれが叫んだ。しかし、誰もいったい何が起こったのかなんて把握できていなかった。ただモニターに釘付けにされていた。
すぐそこ、本当に目の前にいたはずの少年が、なぜか今は十メートル以上遠くにいる。
「えへへ、面白かったよ。また遊ぼうね。お姉ちゃん」
少年はにこにこ笑いながらそう言うと、手を小さく振って後ろにぴょんと軽く飛んだ。
そして次の瞬間には、彼の姿は消えていた。
「な、なんだ今のは!」
「い、今の声なんかヘンだったよ! スピーカーから聞こえてなかった…! まるでその辺りから直接言われたような感じで――!」
ブリッジ内は騒然となった。しかし状況を説明してくれるものは何もなかった。
ただ一つ、誰もがすぐさま思いついた仮説を除いて。
翌日。
さやかは再び神楽坂を訪れていた。
すべての謎を解き明かしてみせる。
そしてもし、本当にそうだったとしたら、昨日渡した分で必ず願いを叶えてもらう。そう強く決意をしていた。
昨日はそもそも出だしから面食らってしまったのがいけなかったのだ。
だから今日は先制攻撃を仕掛ける。まずはとにかく例の少年を見つけなければ――。
「おねえちゃん、ぱんつちょーだい!」
しかし、絶対にたった今まで誰もいなかったはずの背中側から、昨日と全く同じように声を掛けられた時、さやかはぎくりと身をすくませてしまった。
恐る恐る振り返ってみると、そこには昨日と同じ笑顔をにこにこと見せる例の少年がいる。
しかし、その少年にも昨日とは違う点が一つだけあった。
昨日さやかが川に投げ捨てたはずのパンツを頭にかぶっていたのだ。
その後、当然ブリッジの中の議論は再び紛糾した。
しかし、ここでは結論を述べるだけに止めておきたい。
さやかは昨日のパンツを取り返すことは出来なかった。
むしろ、今日もまたパンツを巻き上げられた。