82話。前略、今川の館より⑥の巻
比較的真面目な戦略会議中。
駿府今川館。
越後からの使者として訪れた関白近衛前久との会談を終えた今川治部大輔こと義元は、恨み言を言うため……ではなく、会談の内容を協議するために臨済寺に避難していた雪斎を呼び出していた。
「これはこれは御屋形様、お疲れ様でございます」
「……うむ。(何が御屋形様だ、このくそ坊主がっ!)」
にこやかな笑みを浮かべながら普段呼ぶことが無い敬称で呼んでくる雪斎に対して全力で拳を叩き込みたくなるが、言葉の上では気遣われている以上手を出すのは違うと判断する。
そして義元は衝動を堪える為に深呼吸を行い、自らの感情を抑えることに成功。
「それで良うございます」
そんな義元の様子を見て朗らかに笑う雪斎。それを見て義元は、彼の行動がわざと自分を怒らせようとしたのだと納得……したくは無いが納得することにした。
まぁ当の雪斎は義元が殴りかかって来た場合は返り討ちにして説教をするつもりだったので、これを忠臣の行動と言って良いかは微妙なところではあるが、少なくとも越後の主従よりはコミュニケーションが取れているのは事実である。
それはともかくとして。
「して、関白殿下は長尾との共闘を要請してきましたかな?」
「そうだな。ついでに外道……いや、斯波武衛との和議を斡旋したいとのことだ」
何故関白の要請の内容がわかった?等は聞かない。事実上武田が滅んだ今、長尾が今川に対して使者を出すなら、その目的は「北条との戦に協力しろ」と言うモノ以外にはないからだ。
何せ今川家は義元が家督を継いでからすぐに北条に攻められた(第1次河東の乱)し、反対に北条家も氏康が家督を継いでからすぐに敵対をしている(第2次河東の乱)。さらには前回の河東の戦も有るので、誰がどう見ても今川と北条は敵対していると見做すだろう。
また関東管領や古河公方が共闘した川越城での戦の際も今川は北条と敵対している(これが第2次河東の乱と繋がっている)ので、長尾以外の連中も今川が北条と戦うことに違和感を抱くことは無いだろう。
敵の敵は味方と言うならば、今川は長尾の味方になり得るし、逆に北条と手を組まれた場合は前回の川越夜戦のようなことが起こりかねないので、こちらに後方を攻めて欲しいのだろうと言うことは分かる。
「ふむ。武衛殿ですか」
一応世間的には今川と織田は三河で凌ぎを削る仲であるので、もしも自分たちが北条の後方を突く戦いをするというなら、北条は織田に今川にとっての後方である三河を狙わせると言うのは当然の話だ。
それをどうやって防ぐかが外交の妙なのだが、長尾が説得に選んだのは織田ではなくその上司である武衛であった。確かに織田弾正忠は武衛の配下である守護代の配下なので、弾正忠を止めるには武衛を説得するのは正しい……理屈の上では。
「そうだ。まぁ外道……いや、三河守にしてみれば東三河10万石を諦める口実になるし、千歯こきやら何やらを使って領地改革を行う時間を稼げるので悪くはないかもしれん。しかしこちらの事情はまた別だ」
一時期の雪斎の澱んだ目を知る義元としては、三河守も東三河を望んで居ないと言うのはわかっている。だがアレは (三河守がどう思おうが)鉱山開発やら機織り機やら糸車やら脹満の改善策やらに対する返礼だ。
これを無にした場合、こちらの借りが返却されないと言うことになる。よって何かしらの代替案が必要
になるのだが、その辺をどうしたモノかと言う悩みもある。
借りを借りたままと言うのは健全な関係とは言い難いし、宗主としても吝嗇と見られて良い事などない。彼らから齎されたモノは東三河10万石を遥かに超えるモノなのだ。ただでさえ足りないと考えているのに、ここで名目上とは言え借りを返せないと言うのは面白くない。
「確かにそうですな。わざわざアヤツを楽にさせてやる必要など有りませぬし、かと言って関白殿下からの停戦調停を蹴ると言うのも……いや、もしやそれが狙いか?」
「ほう。織田の外道はまた何か企んでいたか?」
もはや借りを返すだとかではなくなっているし、三河守殿と言う呼称すら使わなくなった雪斎だが……それに関してはまぁ良い。それより黒く澱んだ目で何に気付いたかが気になる。
「はっ。普通に考えれば長尾が我らに北条の後ろを突かせようとするのも、北条がそれを防ぐために織田を動かそうとするのも当然の話。ならば長尾が織田に我らとの停戦を持ちかけるのも当然です」
「まぁそうだな」
順序建てて言うが、結局は今まで話していたことの再確認でしかない。だが義元もこう言う確認を怠ると碌なことが無いとわかっているし、ここで話の腰を折れば間違いなく説教が待っているので黙って頷くことにする。
「では我々と停戦を結んだのが武衛殿ならどうなりますか?」
「どうなるって……あぁ。なるほど」
あの外道は武衛を上洛しない為の言い訳や、我々との戦の口実に使っているだけであって、別に主君として敬っているわけではない。
それにそもそも武衛と外道の間には守護代の大和守と言う障害があり、さらに彼らの間に居る坂井大膳をはじめとした連中が、どんな形であれ武衛と外道の接触を認めるはずがない。
「『我々が武衛と交わした条約など知らん』と突っぱねる事ができると言うことか」
「御意。さらに言えば三河守が三河を統治するのは当然のことでございます。これは尾張守護に過ぎない武衛殿が口を出せる問題でもございませぬな」
言われてみればその通り。奴が名乗る三河守は僭称ではなく禁裏から正式に認められたモノ。いかに関白であってもソレを否定することは出来ぬ。
「なるほど。つまりここで我らと戦を行い、近衛や景虎と距離を置く口実とするか」
「正確には京でしょうな。また下手に長尾に関われば、上洛要請や美濃の戦に巻き込まれます故、ここは距離を置く方向で舵を切るでしょう」
京と言うか、もっとはっきり言えば公方だろうな。何でもあの小娘、細川兵部大輔が暗殺の責を負って逐電したことで三好に逆恨みしているとか。
ここで斎藤・長尾・六角・斯波が組んで上洛せよなどと言うトチ狂った上意を出されては堪ったモノでは無い。それくらいなら三河で戦をしていた方がマシと判断するだろうと言うわけか。
「まったく……我らを風よけ扱いとはな」
それと知りながら我らは何の対処も出来ぬ。流石は外道よな。
「おそらくですが間違いないかと。まぁここは純粋に上手いと褒めるべきでしょうな。どちらにせよ地獄なら、少しでも楽な方に行きたいと言うのは当然のことにございますれば」
「ふっ。外道はともかく、三河守は人間だものな」
「どうやらそのようです。しかしあやつは今少し苦労をするべきでしょうから、容赦する必要はありませぬぞ」
苦労って……東三河の10万石が完全に地獄扱いだが、今の三河守の状況を考えればそれは決して誇張ではない。
今も確実に書類に埋もれているであろう彼を思うと、会ったことも無いのに親近感が湧いてくるから不思議である。
とりあえず三河守については良い。問題は我らがどう動くかと言う事だが……そもそも我々は関白の介入など無くとも停戦をしているのだ。今更連中が出てきたところで五月蝿いだけよな。
更に言えば、ここでそれを振り切ってまで戦をすれば、織田と今川の確執は決定的なものとなるだろう。
つまりこちらはそこまで見越して動くべきだろうし、向こうも初めからそのつもりと言うことか。……ならば私が取るべき行動は一つ。一時撤退だろう。
宗主と認めておきながら一切楽をさせてくれない信長に対し「まったく、これだから外道と呼ばれるのだ」と思わず苦笑いを浮かべる義元だが、千寿はともかく信長は現時点ではそんなことはまったく考えて居ない。
つまり完全に買い被りと勘違いがミックスされてハードルを積み上げられている形だったりする。
「では我らは外道に停戦を覆されて三河を攻められたことに仰天することになるな?その際、一気に下がるか、もしくは緩やかな後退をするか。どちらが自然な形で北条を釣れると思う?」
義元は完全に信長が武衛と今川との間に結ばれた停戦を破って三河に攻撃を仕掛けてくることを前提にして居るが、もしも攻めてこなければそのまま戦をするだけなので、コレはこれで間違った考えではない。
計画とは策が失敗することを前提に立てるモノである以上、様々な状況に合わせた行動を考えるのが主君の仕事と言える。
そんな策の一つが撤退を装った釣りだ。どのように仕掛けるかが問題だが、停戦や休戦をせずに兵を引けば向こうは訝しんでその理由を確認するだろう。そこで織田が三河に攻めたと知れば、北条が取るべき手段は自分たちも後退するか、追撃をしかけるか、と言うことになる。
理想としては追撃を誘いたいところだが……
「なるほど。それで北条が油断し、関東方面に兵を向けてくれれば良し。誘いに乗って追撃を仕掛けてくれれば最良ですな」
雪斎も同じ考えに至ったようで、その為の具体的な方策を考え始める。
「うむ。兵を引いた場合だが、本拠に戻るだけの我らと違い連中は東にも敵を抱えているからな。一度戻した兵を東に回してしまえば、再度こちらに配置するのは不可能だろうよ」
北条にしてみたら東も西も劣勢である以上、西の我らが下がったなら少しだって東に兵を送りたいはず。
何せ我らに対抗するためには1万以上の兵を動かす必要が有る、その兵が浮くなら大助かりだ。当然抑えの兵として数千は置くだろうが……それでも残った兵を東に再配置して陣を構えてしまえば、そこから兵を抜くなどと言うことはできん。
ただでさえ敵は大軍、更に指揮を執るのは戦狂いの長尾景虎だ。目の前で陣の再配置などしようものなら、間違いなく隙を突かれて大敗するだろう。ならばこちらは増援の無い抑えの兵を殲滅するだけで良い。
「ですな。もし追撃を仕掛けてきた場合は抑えの兵すら残せぬくらいに叩きましょう。さすれば残党は山中か韮山辺りに籠城しようとするでしょうが、兵も準備も足りませぬ。間違いなく伊豆は獲れますな」
「うむ。どうせなら戦に勝って奪いたいものよ」
元々兵力的に優位なのはこちらだ。釣りに掛かって前に出た連中の退路を絶って、包囲殲滅することも決して難しい話ではない。この場合生き残りが韮山や山中に篭ったとしても、初めから抑えとして残された兵と違って、そこに居るのは紛れもない敗残兵。
城兵の士気も無ければ篭城戦の準備もしていない城なんざ落とすのに手間などいらんわ。
「然り。どちらにせよ伊豆に関しては問題有りませぬ。そして残るは相模となりますが、連中は例によって小田原に篭るでしょうなぁ」
小田原と言う金城湯池に篭ってやり過ごすのが連中の常套手段。だが今回はそう簡単にはいかん。
「だろうな。だが関東諸将を束ねる必要がある長尾とは違い、我らは単独。さらに補給にも不安が無い」
つまりは北条に対して援軍のない篭城戦を強いる事が出来るわけだ。古来より篭城戦とは援軍があってのもの。それに加えて本貫の伊豆を失い、武蔵は目の前で切り取られる。そのような状況下において終りの見えない篭城戦。自らの領土を荒らされる国人や家を荒らされる兵がどこまで耐えられるかな?
「あとは織田に関してですが、これは北条相手に一度退いた際に取って返した際に、曳馬や掛川にそれぞれ千の兵を置く程度でよろしいでしょうな」
「ふむ。流石に何も手当をせんと怪しまれるか。あぁ、ついでに武衛に抗議でもするか」
武衛から抗議を受けた外道はどう動く?「大和守に阻まれて命令が届かなかった」とでも言うか?それとも「やかましい」と切って捨てるか?
どちらにせよ坂井らを排除する口実にはなるだろうし、偉そうな関白の顔も潰せると考えれば悪くは無い。
と言うかあの関白、公家が武家の戦に口を出していると言う自覚は有るのか?朝廷の権威があればこそ我らも歓待はするが、それを利用して戦に口を挟むなら朝廷もまた戦の波に飲まれると言う事だぞ?
少なくとも私が公方に代わったなら、今回の事例を表に出して公家どもの行動を掣肘する法を作る事になるし、おそらく織田の外道にも「頼んでもいないのに公家が戦に口を出すな」と言う思いはあるはずだ。
関白は「長尾に頼まれた」と言うかもしれんが、長尾家にとっての利と我らにとっての利は違う。客観的に見て、ここで織田が動かねば長尾の為に織田の利を捨てる事になる(織田の主観では三河は決して利ではないが、周囲への偽装は必要だろう)。それを認める必要がどこにある?
長尾の関東攻めは、言ってしまえば関東管領である上杉の都合。長尾は上杉の家宰であるが故に協力をしているだけに過ぎん。ではその関東管領による統治に絶対の正義が有るか?と言われれば、少なくとも関東の国人の半数は「無い」と答えるだろう。
なにせ今の関東の荒れ具合は、関東管領と古河公方による権力争いが主な原因だからな。そこを早雲に突かれたので一時的に協力はしているが、北条が消えればまた争いを始めるだろうさ。
さらに武衛もだ。今は完全な御輿だが、いい加減アレとて現実を知るだろう。その際に大和守と心中するか、外道に降るかを選ぶことになるのだが、肝心の外道がなぁ。
今更アレが武衛に選ばれたところで喜ぶとは思えんし、連中を懐に入れて己の道を曲げるとは思えんよ。むしろ己に擦り寄ってくる前に大和守共々討つくらいのことはしそうだ。
「それも必要でしょう。いつまでも武衛を隠れ蓑にし、我らを風よけに使うなどと言ったことは出来ませぬ。それを理解させるには良い頃合かと」
……雪斎の場合は別な私怨も混じっていそうだが、武衛との引き離しが目的であることは明白。やることが変わらんなら問題ない。
「とりあえずは戦支度だな。関白が持ってきた返事如何では、先に三河に出兵することになるやも知れぬ」
長尾が動く前に一度織田と戦をしておくのも悪くない。その方が北条も油断するだろう?
「おぉ、それは名案ですな!若造どもに政をしながら戦支度をすることの難解さを知らしめてやりましょうぞっ!」
……いや、せめて今川の実力とかにしてくれんか?
尾張が絡むと変な方向に目を腐らせる『腹黒の宰相』こと雪斎を見て、東海道一の弓取りこと今川治部大輔義元は微妙な気分になったとかならなかったとか。
着々と関東攻めの計画を練るヨッシーと、執拗に千寿に仕事をさせようとする愉悦坊主。一体何が彼をここまで急き立てるのか。
そもそもヨッシーに屋形号ってありますっけ? (情報求ム)
武衛と関白の会談の結果は如何に?!ってお話。
関白になったり近衛になったりするのは仕様です。
ポイントは作者の活力です (事実)
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