47話。躑躅ヶ崎の館から~①の巻
今川の決断に関してはまだ秘密です。
今回は皆が気になる武田視点。
織田による三河への逆侵攻と、太原雪斎の撤退。
その報が甲斐の躑躅ヶ﨑館に届いたのは、千寿と雪斎が会談を行ってから5日後のことであった。これが早いのか遅いのかは議論が分かれるところだろうが、報告を受けた側は特に不満は無いようだ。
…不満があるのはその内容である。
「太原雪斎が撤退したのかよ?一戦もせずに?」
自領を奪われながらも交戦せずに退く。そのことが上座に座る女性にはどうしても理解出来ない。彼女は20代前半の若さが溢れる女性だ(世間的には年増である)、通常の人間が彼女を見て感じるのは美しさではなく獰猛さだろう。自然と滲み出る威が、彼女を「女」ではなく「武将」として周囲に認識させている。
その所為で夫も色々大変だったらしいが、それはそれ。本題は三河のことだ。
彼女が地図を見ながら首を捻るのは、今川が誇る黒衣の宰相、太原雪斎の行動が読めないからである。相手が予想以上の大兵力だったり後方に問題が有るならともかく、今の駿河や遠江には隙はない。そもそも三河に侵攻した尾張の軍勢はおよそ2000前後と報告を受けている。
その程度の軍勢ならば、たとえ今川からの援軍が到着する前に安祥城が奪われたとしても、太原雪斎が岡崎に入り、自分たちが連れた兵と三河勢を合わせれば十分に勝てるはず。なのに何故撤退しなくてはならない?
「そのようです。率いていた軍勢も三河から後退。遠江は掛川に数千を残して解散しております」
片目が潰れ醜悪な顔をした壮年、というか老境に差し掛かりそうな年齢の男も、解せないという思いを隠そうともせずに地図を凝視する。
彼の名は山本晴幸。晴信が頼りとする軍師だ。
この評定の間において、甲斐の虎こと武田晴信とその軍師山本晴幸は、三河において何があったのか、そしてこれからどう動くべきなのかを考察する。
「まず何があったかを調べる必要があるんだが……その前に三河にいる本願寺の連中から助けてくれって要望が来てたけど、お前はどう思うよ?」
本願寺の連中と他人事のようにいうが、実際は己の婿である三条の君の妹、つまりは義理の妹からの要請である。彼女は本願寺宗主である証如の息子の顕如に嫁いでいる。その縁で甲斐に要望を届けて来たのだろうが、流石に物を知らなすぎる。
「無理ですな」
確かに信濃は三河と隣接している。だが、だからと言ってすぐに攻められるかと言えばそうではない。まず今の武田は信濃を完全に領国化できていないし、なにより下手に兵を集めれば越後の長尾を刺激することになる。
刺激した上で三河に南下などしようものなら、景虎はこれ幸いと北信濃に侵攻してくるだろう。
そうなれば三河に向かった軍勢を戻さねばならないし、戻したら三河に残るのは中途半端に扇動されて一揆を起こした一向宗。そのような阿呆は今川も織田も喜んで駆逐することだろう。その結果三河における武田の足掛かりは完全に消失することになる。わざわざ自らの利を潰して相手にくれてやる必要など無いのだ。
「そうか。なら諦めよう」
「……よろしいので? 旦那様がご不快に思うのではないですか?」
理由があるとはいえ、己の婿や義理の妹からの要請もあっさりと斬り捨てて話を進めようとする主君に、鬼謀の軍師を自認する晴幸も苦笑いを禁じ得ない。
「あんなの勝手にさせときゃ良いんだよ。後継ぎを産む為と三河や越中の連中を扇動する為に繋ぎを取っただけだっての。後継ぎは産んだんだから、あとは適当な女を与えて飼い殺しで良いさ。大体アレの姉が嫁いだ先の細川がよぉ「銭寄越せ」だの「公方の言うこと聞いて長尾に川中島を渡して駿河を攻めろ」だの、とにかくうるせぇんだ。そんな簡単に今川を攻められるなら苦労なんかしてねぇってんだ」
晴信が吐き捨てるように言うが、実際問題現段階では駿河や三河への南征など不可能だ。その為には最低でも信濃を盤石にする必要が有るが、北信濃の問題が越後の安全保障に直結している以上、長尾は絶対に引かないだろうし、武田も穀倉地帯である川中島周辺を手放す気など無い。
それに、これまで今川から仲介された休戦協定だろうが、将軍家が仲介した休戦協定だろうがあっさりと踏みにじった武田晴信には絶望的なまでに信用が無い。
故に今から大人しく川中島を含む北信濃を長尾に譲ったところで、すんなり休戦とはいかないだろう。
日頃の行いが悪すぎたのだ。
しかしこれには武田なりの言い分もある。まず、慢性的に食料不足に悩まされてきた武田にとって、穀倉地帯である川中島四郡は喉から手が出る程欲しい地域だった。
そんな極上の餌を目の前にして涎を垂らしていたところに、いきなり長尾家の当主であった景虎が出奔し、越後が混乱の渦に叩き込まれたのだ。
そんな好機を逃がすなんてとんでもない。
弱肉強食。餓えた虎の目の前に餌を置いたヤツが悪い。信義という点で見れば問題しかないが、実際に飢えた人間なら分かるだろう。喉が死ぬほど乾いたら泥水でも飲むし、腹が死ぬほど減っていたら木の皮だって食うのだ。
そこに京でアホやってる将軍の威光だの、処女を拗らせた毘沙門天の化身が語る信義だのを持って来る方がどうかしている。
隙を見せたら食われるのが戦国乱世ではないか。
甲斐の国人も信濃の国人も義の為ではなく食う為に従っているのだ。ならばその代表である晴信が率先して動かねば、家が立ち行かない。実際綺麗ごとしか言わない景虎に対する越後の国人の不満は高い。特に揚北衆や上田長尾家に連なる連中は、戦に勝っても領土を増やそうとしない景虎に公然と何度も苦言(この場合は文句)を呈している。
長尾本家は青苧や塩、越後上布等の交易品を独占し、直江津からの収益も有るので問題は無いのだろうが、国人はそうも言っていられない。定期的に戦に駆り出され関東に出張るのだが、これだってただでは無いのだ。
当然各種費用が掛かるが景虎からは多少の援助しか出ず、残りは乱捕りで凌いでいるのが現状だ。かといって戦に出なければ良いかと言われればそうでもなく、現状ではその乱捕りをしなければ領内の運営が立ち行かない状況である。
そしてこの状況を改善する手段を景虎は提示していない。
一体景虎は国人をどう扱いたいのか? その財を使い戦国大名として完全に国人の手綱を握りたいならそうすれば良い。守護大名として利益の調整役に回りたいならそうすれば良い。
きちんとした方針を示してくれれば、越後の国人も従うだろう。
だが現状は戦以外は国人の好きにやらせており、ある意味での放任状態である。これでは国人から文句が上がるのも当然だし、配下も「勘弁してくれ」と泣きを入れるのも当然だろう。その連中の声を「煩わしい」と切って捨てる長尾景虎が異常なのだ。
いや、今は彼女の異常性についてではなく、今川に関してだ。
「そうですな。今川義元に太原雪斎。更に岡部や朝比奈など大軍を指揮することにも慣れた将が居る駿河は盤石と言っても良いでしょう。そこに攻め込むなど愚策も愚策。北信濃で長尾と戦う以上の賭けとなりますぞ」
「だな。駿河も三河も向こうの地元だし、将の質に関してはともかく、統率って分野で見たならアタシらじゃアイツらにゃ勝てねぇ。準備不足で挑めば砥石崩れ以上の損害が出るし、そもそも駿河に攻め込める兵がいねぇ」
晴信が苦々し気に呟くが、全て事実なので晴幸もフォローを入れることができない。そもそも晴信は父親を追放して家督を継承したが、向こうは兄弟で争い兄を破って家督を継承している。この『相手を破る』と言うのは殊の外大きい意味を持つのだ。
家督争いが有れば当然国力が落ちるし、隙も生まれる。その所為で今川も駿河の一郡を北条に奪われている。だが、家督争いには家督争いで利点がある。それは相手を打ち破ればその所領を奪えるし、己に従った配下に対して恩賞を出せるということだ。
自身が敵を打ち破ったという武功を示すことに加え、勝者に味方した国人が恩賞を受け取るということは、程度の差はあれど国人側が己に恩賞を与える者を主君と認めることになる。
その結果、主として影響力を増した義元は仮名目録を発布して、完全に幕府の守護制度からの脱却を行い、今川家の統率力を強めているのが現状だ。(今川家が足利の代わりを務められる連枝衆だからこそ出来ることではあるが)
翻って今の武田家だが、彼女は完全にだまし討ちのような形で先代の信虎を追放しているので、家督争いは起こっていない。その為国力の低下や国内の混乱は最低限で済んだが、家臣の権威に変動はなく武田家はあくまで国人達の代表でしかない。
昔と変わらず国人の寄り合い所帯なのだ。現代風に言えば武田家は守護大名からの脱却ができておらず、家臣の意見を無視して動くことができないという欠点がある。
この状況で今川に戦を仕掛ければどうなるか? まず信濃の国人衆は全員が反対するだろう。長尾を放置しての遠征など有り得ないからだ。そして甲斐の国人の半分は反対する。駿河には自分たちが追い出した信虎が居るし、武田を信用できないと判断している北条も敵に回ることになるから、戦っても勝てないと判断されるからだ。
事実『現在の武田が今川・北条・長尾に囲まれて勝てるか?』と問われれば、さしもの晴信も「無茶言うな」と真顔で答えるだろう。
戦うどころか兵糧攻めされただけで終わってしまうだろう。戦わずして勝つのが上策。ならば戦わずして負けると分かっているなら臆病と誹られても動かない。武田晴信とは動かないことを選択できる武将であった。
「そうですな。現状では勝てませぬ。もし織田や北条と組んで今川を囲むにしても、北条は北条で上杉を敵にしていますし、我々は南征など出来ませぬ。結果的に織田が単独で戦うことになりますが、それなら今までと同じこと。であるならば切り取った三河の統治を優先して今川と停戦するのが最善手となりましょうな」
ココで最初の問題に戻って来る。
「……それを知りながら太原雪斎が退いたのは何故だと思う?」
彼らが三河で戦ってくれれば一向宗を扇動して泥沼の状態に嵌めることも出来ただろう。それをあっさりと回避されたのが不愉快と言うのもあるが、それ以上に雪斎が三河を切り捨てるような判断をしたことが理解出来ないのだ。
「さて、三河での戦より駿河と遠江を盤石にすることを優先したとも思えますが」
晴幸は一向宗の厄介さも知ってるし、三河の国人の頑迷さも知っている。連中は普段から抑圧されてる上に宗教も絡んでいるから、あの土地は非常に面倒な土地なのだ。その統治に手間暇をかけるくらいなら『織田に一向宗や国人を掃除させてから自分たちが乗り込む』なんて手を打つ可能性も皆無ではない。
その事を伝えれば晴信も「なるほど」と理解を示す。
中途半端に味方する国人ほど邪魔な存在は居ないし、一向宗に染まった民ほど面倒な民も居ない。そして織田はそれらに攻められたという口実があるので、反撃として三河の本證寺を始めとした一向宗の寺院を破却して行くことになるだろう。
臨済宗の僧である太原雪斎がそれを止める理由も無い。むしろ陰ながら支援する可能性すら有る。
織田が厄介者を纏めて掃除するなら、確かに一時的に三河の領有を諦める可能性は大きいように思う。何せ織田は尾張すら治めて居ない国人にすぎないのだ。今川が本気を出したら鎧袖一触で潰されることは間違いない。
「なるほど。つまりは時間が欲しい織田と織田に掃除をさせたい今川の間で一時的な停戦が成立したのか。まぁ普通なら今川が甲斐へ侵攻するか、駿河の河東(駿東郡と富士郡の一部)を取り戻す為の戦準備をするために三河を捨てたとも考えられるが……有ると思うか?」
「河東はともかく、甲斐はありませんな」
「やっぱりか。これを手前味噌っていうかどうかはわからんが、ここは三河並に面倒な土地だからなぁ」
「然り」
即答する晴幸に自虐で答える晴信。お互いが苦笑いだが、実際に甲斐ほど面倒な土地は無いだろう。こんなところを手に入れる為に動くくらいなら、三河か駿河を完全に制圧する為に力を蓄えていると見るのが常識的な判断と言えるだろう。
「後はそれに対して織田がどれほどの速さで動くのかってところか。しかしまぁ近隣諸国に名高き「うつけの小娘」と思いきやコレか。尾張での戦と言い、三河での動きと言い、どこがうつけだよ。中々に強かじゃねぇか」
犬歯が見えそうな位に口元を歪める晴信。別に戦が好きとか、強い敵が好きなのではない。優秀な人材が好きなのだ。
「ならば使者を出しますか? 三河と信濃に繋がりがあれば、塩を始めとした物品も手に入りやすくなりますぞ」
現状塩は今川や北条から仕入れている状況なので、両家となんらかの問題が発生すれば、即座に値を引き上げられる状況である。
それを打開することが出来るのは大きい。
「あぁ、塩なぁ。確か尾張の堀田だっけか? あと、なんか最近神屋とかいう博多の商人が人を買ってくよな? どこを経由してるかわからんが、信濃から三河に出られたら楽になるのかねぇ?」
晴信は最近よく見るようになった糸目の博多商人を思い出す。何でも西国で大内と尼子がお互いに数万単位の兵を出して戦っているらしく「その所為で人が足りないからここまで買いに来たんですわ。あぁ今のは甲斐と買いを掛けた博多冗談ですよって、笑ってもええですよ」などと言われ、さしもの信玄も「はぁ…」としか言えなかったのは記憶に新しい。
博多冗談はともかく確かに畿内は100年単位で荒れているし、西国も山名だ尼子だ大内だとかなりの荒れ模様だというのは勘助も語っていたが、まさか東国にまで人を買いに来るとは思ってもいなかった。
食う為に人を売る自分たちが悪いのか、人を買う連中を生み出す世の中が悪いのか、彼女としても色々考えたものだ。
「それも有りましたな。何せ彼女は他の連中より割り増しで買いますので、非常に助かると評判です。食料に関しても伝手が有るようなので、彼女が頻繁に来てくれるなら反対する国人は居ないでしょう」
とはいえ自分は食わねばならんし、家臣も食わせねばならん。己の嗜好は別として、売れるものは何でも売らねばやっていけないのだ。
そして神屋は上から「金に糸目は付けぬから出来るだけ集めてこい」と言われているらしく、即金かつやや色を付けて買っていくし、買った人間を食わせる為の食料も持っている。その余剰分を商売で使うことも有るので、金よりも食料が欲しい国人は大いに助かっているのが現状だ。
一応野盗などに襲われないように護衛を付けてはいるが、それでも狙って返り討ちに遭ったものは少なくないとか。そんな彼女とて、治安が良いところと悪いところ、どちらを選ぶかと言われたら治安が良いところを選ぶだろう。
「ま、本願寺の連中が騒ぐから大っぴらには交渉出来んが、連絡くらいは取っても良いだろう。手紙だけならタダだし、どうやら態々俺らを敵に回すほどの「うつけ」でもなさそうだしな」
三河に対しては静観。下手にちょっかいを出して今川と織田の両方を敵に回すくらいなら、放置して織田に恩を売るのが上策。信濃の領国化も進めている最中なので、面倒事は避けたいという気持ちも有る。
「ではそのように。使者はどなたを?」
「信繁に任せる。格の上でもアタシの名代としては文句ないし、三河と尾張を見てくることはアイツにとって良い成長のきっかけになるだろうからな」
「畏まりました」
弟を使者に立てることは問題無いし、実際に他国を見た経験は彼にとっても悪いことにはならないだろう。こうして武田家は織田家に対して不干渉を伝える使者を送ることとなった。
雪斎と千寿の交渉の内容を聞いた後での武田の使者の訪問と言う事態に対し、赤毛のお子様がorzして腹部を抑える事になるのはそれから数日後の事である。
前回の話でもありましたが武田家が本願寺所縁の「婿」を迎えてます。つまり…拙作の信玄は女だった!
ナ、ナンダッテー!!
そしてさらりと言ってますが謙信も女性です。
ナ、ナンダッテー!!
今回も宣伝は無し。
姫「因みに治安が良いところと悪いところだと、どっちを選ぶの?」
神「え?儲かるとこですね。まぁ治安が悪いとちょっかいをかけて来る連中が居ますし、ソレを返り討ちにした場合連中のモノが全部貰えます。更に生きてたらタダで人を入手できますよって…治安が悪い方がお得かなぁとは思ってますけど」
姫「あぁ、千寿もそんなことしてたわねぇ…」
神「まぁそれもこれも撃退出来るだけの力があってこそですよ?普通は治安の良い場所を選びます」
姫「なるほどねぇ…」
そんな会話が有ったとか無かったとか。
博多っ子に登場の機会を与えたかっただけとも言う。
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