46話。前略、今川の館より④の巻
前話の続きです。
「それはまた、なんと言うか……」
疲れきった雪斎の顔を見れば、相当面倒な交渉だったことは容易に想像できたが、まさか雪斎が最初に回避も防御も出来ぬような状況に追い込まれるとはな。
しかしそれにしては目に力が有るのよな。何やら思うところでも有るのだろうが……
相手は間違いなく現在の今川家を取り巻く情勢を理解している。その上で不戦の約定を交わすなら鉱山開発の技術を提供すると言うのは、我々に対して華を持たせたと判断すべきだろう。
この提案を拒否するには、三河でそやつと戦う覚悟が必要だろう。そうなれば三河で我らが争っている間に、武田と北条により駿河を蹂躙されることになるやもしれぬ。
武田や北条が動く前に潰すことができれば話も違うだろうが、それも難しかろう。
いくらなんでも二千に満たぬ兵で三河勢を完膚無きまで叩き潰した者を鎧袖一触で破れるはずもないからな。
信広の時とて、ヤツを捕らえることを目的としたとは言え、二万の兵で攻めてようやく落としたのだぞ? 更に今後三河勢が使えぬ以上、雪斎が懸念するように、負担は駿河と遠江に集中する。
そうなれば晴信が動くし、我らも三河を見捨てねばならんだろう。ならば初めから三河に関わらなければ良い。
「つまり向こうは我らが三河を見捨てたと言われんようにする為の口実として朝廷より三河守の継承を認められた事実を全面に出しつつ、我らが失った分を補填する為に鉱山開発の技術提供を申し入れて来た、ということか」
確かに荒れ果てた三河や、こちらの言うことを聞かない上にまともに所領の管理もできぬ国人どもに拘って全てを無くすよりは、技術提供を受けて内政に当てる時間を稼ぐと同時に収益を上げた方が良いわな。
むしろ三河から上がる収益など高が知れていると考えれば、切り捨てる口実を貰ったとも言える。
それについてなんぞ抜かしてくる家臣どもには「上手くいけば織田が均した三河を今川が奪うことも出来るやもしれぬ」とでも言えば納得もしよう。
まぁそれについては当然向こうも考えが有るのだろうが、それも先の話よ。今は双方が時間を欲しているのは事実。更に我々が三河の連中に対して不満を抱いておることも理解しておるわけだ。
ふむ、敵ながら見事な調整能力よな。
「仰る通りですな。一応はこちらにも配慮はしております。この停戦を受けぬならば、我らは即座に兵を出して三河での戦をせねばなりませぬ。しかし……」
言葉を濁すが、気持ちはわかる。
「背後に不安が有るし、どうしても賭けになるわな」
その賭けに勝ったところで得られるのはなんだ? 三河の土地か? いや我らに味方した国人どもが「あそこは先祖伝来の土地だから返してくれ!」と騒ぐだけだろう? そして与えられねば更に騒ぐわけだ。
連中は恩賞を吊り上げる為のハッタリではなく、分家の土地は自分の土地。他人の土地であっても三河の土地は三河の国人のモノだから自分の土地。これが当たり前だと本気で考えておるからな。
うむ、正直に言っていらん。関わりたくない。
更に織田には簡単には勝てんから、持久戦になる可能性もある。その場合の負担は誰にかかる? それらの負担を抱えても三河が手に入る訳でもないときた。それほどの価値が三河にあるのかと問われたら……無い。
それに三河は元々が緩衝地帯的な意味合いを含む土地よ。その上、少し前までは安祥城まで先代の弾正忠が治めておったのだ。西三河を信長が、中央から東を岡崎勢……というか我らが治めるならば、現状の追認でしかないし、無駄な戦が無くなるとも言える。
「左様で。拙僧としても三河に賭けを行う程の価値があるとは思えませぬし、何より今後の今川家の在り方についても考える必要があると思い、こうして話を持ち帰った次第です」
「ほぅ。今後の今川家の在り方とな?」
中々大きく出たな。これは単純に我らが三河で威を示すか否かで終わる話ではないようだ。
「はっ。まずはお聞きくだされ」
そう言って目を閉じる雪斎。その口から吉弘三河守とやらと交わした会話が紡がれる。
~~~~~
「そも今川家は今後どのように動くおつもりか?」
停戦と不戦の約定、そしてその条件と武田と北条の動きについてを考えていたら三河守がそのような質問をしてきおった。
本来なら「貴様には関係ない!」で済む話なのだが、目の前にいる男は明らかに自分より広い視野を持っている。それがわかるからこそ、彼の意見を聞いてみたいと思ってしまった。
「さて、どのようにと問われましてもな。三河守殿が語る『今後』がいつを指すのかによって答えは変わることになりましょう」
はぐらかすように答えたが、実際に彼がどこまで見据えているのかにもよるのだ。数年後のことなのか、それとも10年後のことなのか。
「あぁ、質問が曖昧でしたか。では言い直しましょう。今川家は天下をお望みか?」
「天下、ですか?」
なんと。まさか三河がどうこうの話から天下の話となるとは。完全に虚を突かれた私は返す言葉も無くなってしまう。そんな私を他所に彼は話を続けてきた。
「然り、今の公方は大樹どころか完全に朽ち果て、倒れる寸前の枯木にございます。吉良を打ち破った今川には公方に代わり幕府を継承することや、今の体制を打ち壊し、新たな秩序の構築を行うだけの名分がありますな?」
足利が潰えたならば吉良が継ぎ、吉良が潰えたならば今川が継ぐ。確かにそのような話は有るし、意識をしていないわけではない。仮名目録も今の幕府の在り方からの脱却を目指したものだ。
その為に公方からは警戒されているのもわかる。前年公方が晴信を信濃守護に任じたのも、言ってしまえば武田に対し『長尾と休戦して今川の背後を突け』と要請しているようなものだ。
それを考えれば、晴信が三条家から、つまり細川や本願寺と縁有る者から婿を取ったのも、奴等に三河を荒らすように指示を出し、我らが三河に向かったならば一向衆と挟んで潰すか、がら空きの駿河を狙うためであろうよ。
そしてそれをさせる為に本願寺との間を仲介したのが公方だ。母親の生家である近衛を動かして本願寺と縁の有る人間を婿として甲斐に入れることで、連中に東国への布教の拠点を作らせると同時に我らの西征に対する楔とした。
これは私が臨済宗の僧で有ることも考えた末での策。この策を破る為には本願寺との全面戦争が必要になる。中途半端に奴らを認めればどうなるかは加賀を見れば分かるからな。
三河も似たようなモノだ。もしも今川が天下を目指して西に進むならどうしても奴等が邪魔になる。……ん?しかし此度の戦で信長は一向門徒を大量に殺しているよな? つまり信長が我らの敵を排除してくれた?
いや、飛躍し過ぎだ。
一向衆の排除はあくまで織田の都合。
今は天下についてよ。まさかこのような場でこのような相手に天下を論ずることになるとは思いもしなかったが、確かに考えねばならぬことでもある。
「確かに名分はあります。しかしもしも我らが天下を目指すならば、織田殿を始めとした諸国の方々が敵に回りますからな。簡単では有りませぬ」
織田は元々敵だが、美濃の斎藤や近江の六角が大人しく従うとは思えぬ。その辺りをどう考えているのか。私に天下を問うならば、この者にはそれなりの展望があると見たが。
「然り。正直に申し上げますと、今の段階で今川家が天下を目指されても必ず失敗するでしょうな」
「……」
はっきりと力不足を指摘されるのは癪だが、事実だからどうしようもない。その上でどうするかを論じるのだろう?
無言で頷き、先を促す。
「特に問題なのが尾張を手に入れた後。美濃の斎藤と戦をしようとすれば必ずや斎藤は周囲を動かしまする。そうなれば尾張の国人や伊勢だけでなく長島や武田も動くでしょう。結果として尾張で戦いながら三河の一向衆を押さえ、武田から駿河を守ることになりまする。はっきり言って不可能ですな」
「それは……そうでしょうな」
今の段階ではそうなるだろうよ。また簡単に美濃との戦というが、足元の尾張や三河が信用できぬのだ。これでは蝮にも勝ちの目が有る故、簡単には降らぬだろう。
「更に言えば、美濃か伊勢のどちらかを手に入れたとしましょう。そして御家が畿内の戦に乗り出したとき、六角や畠山、更に三好はどう動くと思いますか?」
今まで散々権力争いをしてきたところに、既存の権力構造をぶち壊す今川の参戦、か。畿内の大半が敵に回るだろうな。その結果は……考えるまでもない。
「控えめに言って、地獄ですな」
更にその戦に臨む場合は駿河からの遠征となる。畿内を舞台として戦ってきた連中との戦となれば、単純な軍事力もそうだが政治も絡むし、寺社勢力も無関係ではない。
本願寺を完全に敵に回したならば、やはり足元に不安が有るし、それほどの遠征となれば晴信はどう動くか。
「ご明察。現状で畿内の戦に関わるなど正気の沙汰ではございません。今川家が畿内に関わることになれば、戦乱はあと百年は続くでしょう」
怖いことをさらりと宣うが、まさしくその通りになるだろう。
「後の可能性としては、三好は公方やその周辺の連中を今川殿に殺させるでしょう。その敵討ちという形で今川家を討てば、彼らによる天下が定まりますからな」
「むぅ……」
有り得る。元々我らには我らを敵視する公方を生かす理由がないからな。戦乱を生み出した元凶として首を取れば向こうはそれを名分にして包囲網を敷き、我らを滅ぼす、か。
では、もし我らが公方の首を取らねばどうする?
………我らのせいにして殺すだけだな。そうすれば残るは傀儡の公方と執権の三好となるわけか。で、肝心の我らの殺し方としては、我らの主力を畿内に引き付けている間に三河や尾張、美濃で騒動を起こしてからの武田による侵攻。
信濃は美濃にも三河にも通じているし、甲斐はそのまま駿河だな。畿内の戦に関与する前にどれだけ美濃や尾張を纏めることが出来るかにもよるが、少なくとも10年では足りぬだろうよ。
後方を乱されてはどのような戦上手でも勝てぬし、そもそも後方を固めるには武田が邪魔だ。
「気付きましたな? どこまで行っても甲斐の武田なのです。餓えた虎を相手に背を向けるなど、愚の骨頂。天下を目指すにせよ現状を維持するにせよ、アレをどうにかしないことには今川家には先がない」
「言ってくれますなぁ」
さっきからポンポンと。事実だからと言って何を言っても良いわけではないぞ?
戒める意味を込めて軽く殺意を向けてみるが、三河守も平手もどこ吹く風。あっさりと受け流しおったわ。やはり簡単な相手ではない。
「失敬。しかしながら今回は本音を引き出す為に来ておりますからな。多少は感情的になって貰わねば困ります」
ふっ、受け流すどころか、それが狙いだったと宣うか。用意していたモノもそうだが単純に役者が違う。これほどの者が無名な筈がないと考えれば、やはり彼が九州の名家の子息なのは間違いなかろう。
「で、残るは今の段階で天下を望まぬ場合ですな」
先程からコヤツは今の段階と連呼するが……あぁ。
「武田を滅ぼして後方の不安を無くした後の話ですかな?」
武田を何とかできれば今川家が選ぶことができる選択肢は格段に増えるからな。その為には織田と停戦する必要が有ると言いたいわけだ。
「然り。その上でまだ今川家が天下を望むならば、この足利や管領によって引き起こされている戦乱も治めることができましょう。その為ならば我ら織田弾正忠家は今川家の門前に馬を繋ぐことも厭いませぬ」
「なんと!?」
信長が当家に対し戦わずして従う、だと!? 平手は…特に動じていない! つまりこれは信長も認めているということか!
「ふむ? 驚くようなことですかな? 今のままでは力が足りぬので従わない。ですが力が有るなら従う。ただそれだけの話ですぞ?」
驚く私を見て『驚くのが不思議だ』と言わんばかりに首を捻る三河守。彼が言っていることもわかる。多少規模が大きくなったとしても、結局のところ、国人や大名とはそういうものだ。だが。
「いや、確かにそうですが……」
流石に理解が及ばない。何故武田を滅ぼすことがその力になる? 後顧の憂いを絶つだけでは……そうか!
「甲斐の鉱山!」
思わず声を上げてしまう。
成る程、それならわかるっ!
「流石に話が早いですな。その通りです。我らを納得させるだけの力を得て頂くために鉱山の開発技術を提供するのです。今は甲斐に魅力を見出だしていないからこそ積極的に関わろうとはしていないのでしょうが……」
確かにそうだ。甲斐など攻めても所詮は20~30万石。だがあそこは水害が多いわ脹満なる不可思議な病が有るわと、はっきり言って魅力の欠片も無い土地よ。だからこそ放置してきたが、鉱山による収益の増加は面倒を補って余りある!
「理想としては甲斐を今川家が、南信濃を我らが、北信濃を長尾……というか村上ですかな? そうして治めれば良いと考えております」
三河の話が甲斐や信濃の分譲の話になっておるわ。
だが無理が有る話ではない。
「つまり、織田が長尾との間の壁になる?」
「然り」
短くもあっさりとした返答には虚言の気配は見受けられぬ。確かに織田は長尾とは全く関係がないから壁としては適任。さらに北信濃が自分達の勢力となるなら長尾にも文句は有るまい。
甲斐と駿河と遠江に東三河を合わせれば、今川の所領はおよそ90~100万石。対して織田は尾張と西三河に南信濃を合わせて60~70万石と言ったところか。両家を合わせ更に鉱山の収益を加えれば……確かに天下に届くやもしれぬ。
そうでなくとも北条を討ち、関東制覇に乗り出しても良い。荒れる西国を無視して関東公方の代わりに今川が立てば大義のない長尾は手を出せぬし、畿内の連中も今川が畿内に関わるよりも関東に出てくれた方が嬉しかろうて。
そうして織田を盾にして東国を治め、次代の氏真様が鎌倉に御所を建てればどうだ?
そして織田や長尾を率いて西征すれば、間違いなく今川は天下に届く!
織田としても美濃を取れば100万石に近くはなるが、現状は尾張すら纏めておらぬ。それを考えれば、互いの国力差は開く一方だし、そもそも織田には天下を目指す名分がない。
戦乱の世を終わらせたいのは誰もが一緒。ならば今川を担いで戦を終わらせて、その後に重臣として名と家を残すのが狙いか。
これがうつけの考えることか? とんでもない。今の段階で最も現実的に天下を見据えておるわ!
あまりにも視野が高すぎるが故に尾張の国人程度では理解出来ておらぬだけではないか!
これは簡単には敵には回せぬ。戦わずに従えることが出来るならそれが一番。もし戦うにしても、武田を滅ぼしてからでなければ危険すぎる。
これは……ここで決断するには事が大きすぎるな。
「お話は理解しました。大変興味深い話ですが、流石に拙僧では決断できかねます。一度駿河に戻り、主の意向を確認させて頂きたく」
何せ冗談ではなく今後の今川家の浮沈が懸かっておるからな。どれほど議論しても足りぬわ!
「ごもっともですな。こちらとしては一度貴方が退いたという実績を頂けますので、この時点で損は有りませぬ。どのような決断をするかはわかりませぬが、治部様に宜しくお伝え下さい」
ふん。ぬけぬけと抜かしよる。だが、そこに嫌味を感じぬのはこの者が放つ威によるものだろう。それに最低限の時間稼ぎをされたのも事実。今後はこの者との知恵比べをせねばならんと考えると、気が滅入るとともに、どこか楽しみを感じるのだから私も度しがたいものよ。
「確かに伝えましょう。他に何か有りますかな?」
何か有ったとしても、今は急いで駿河に戻らねばならんから、さっさとしてほしいところだが……。
「他ですか? あぁ、そういえば…」
何か有るらしい。浮かせかけた腰を下ろし先を促すと、三河守は私が思いもよらないことを口にした。
「もし今川家が甲斐を治めるのでしたら、甲斐において脹満と呼ばれる病(日本住血吸虫症)の元凶と治療法。いや、予防法ですな。そちらをお教えしましょう」
「それはついでで話すことではないでしょうがっ!!」
……つい声を荒らげた私は悪くないはずだ。
平手の爺様、白目を向いてるの図。
そして被害者雪斎。実際に桶狭間の段階で今川家が天下を治めようとしても、2万から3万では数が足りませんし袋叩きにされてしまいますからね。
拙作では、あれは尾張の完全制覇が目的だったんじゃないか?と言う説を採用しております。
それと、よく言われる話ですが、信長や武田は最初から天下を目指していたわけでは有りません。戦ってたら天下を取れる立場になったのです。
信長の場合は美濃を制圧してからそうなったと言われますが、それでも岐阜に義昭が来なければ上洛なんかせずに、人材の育成をしていたでしょう。その為、今川が天下を目指すに足る力を得たなら従うと言う千寿君の言葉は当時の常識から考えても間違ってはいません。
さらりと現代知識チートの開帳を示唆する千寿君。断れば武田にこの話を持ち込むよ?と言う脅し付きってお話。
今日も宣伝のようなものは無し。
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