鳥となれる森
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と、内容についての記録の一編。
あなたもともに、この場に居合わせて、耳を傾けているかのように読んでいただければ、幸いである。
おお、つぶらやくん、今日はここにいたのか。
なんだいなんだい、アナログにも、紙の地図をたくさん広げちゃって。卓上旅行でも始めるのかい?
――地図の新旧による、地形や建物の変化を調べている?
ほほう、それはまた大掛かりな仕事だな。
今でこそ、人工衛星とかのおかげで、ほぼ正確な海岸線を捉えたりできているが、昔は測量するばかりだったからね。地図っていうのは、未踏の地へ勇気を持って踏み入った者がもたらす、貴重な財産だったと聞く。
だが、できたばかりの宝にはまだ、抜けきらない毒も混じっている。先駆者の見落としや測量のミス、自然のいたずら、中には底知れぬ悪意まで……。
その一端が綴られた、昔の話。聞いてみないかい?
今よりも、山々は高く険しく、森たちは深く黒々とした時期。
ある未踏、未開の地域でも、朝廷が中央から派遣した、若い山師たちによる測量が行われたという。経験を積ませるためだった。
うっそうと茂った木々の間に分け入り、調査を進めていく面々。この木たちも、開発のために、ゆくゆくは伐採される運命にあるだろうが、やみくもに切り倒すのは、たわけの所業。
土地がそうであるように、そこに生える木の数も、また有限。管理しなくてはならない資源なのだ。本数とともに立地を確認し、木材として運ぶ際の、道づくりに役立てなければいけない。
全体の面積すら把握できていない森林。山師たちは、一本一本の木に綱を巻きつけながら、足の長い草が生えた、森を進んでいく。しかし、作業は思ったよりもはかどらない。
木の数え間違いや、確認不十分による斜面からの滑落などの事故もあったが、何よりも作業中の山師が、こつぜんと姿を消してしまうことがあるのだとか。それは用を足そうとして一人離れたり、長時間の測量で各人の集中力が衰え出したりすると、起こる。
行方不明になる者は、その直前、たいてい助けを求める悲鳴をあげるんだ。離れていた連中が、声がした場所へ駆けつけてみると、何本も生えている木のうちの一本。その幹にかさなるようにして、当人の足先だけが消えていく。
てっきり木の裏側へ廻ったかと思いきや、他の者たちが木の影をのぞいてみても、そこには地面を踏みしめた跡が残るばかりで、当人の姿はない。まるで、その場で立ち尽くしたまま、いなくなってしまったかのようだった。
事態をいぶかしむ若き山師たちが朝廷に連絡したところ、年配の、熟達した山師たちが新しく現地にやってきた。
馬に乗って訪れた彼らのほとんどが、歩行に杖の助けを借りていたという。もはや、凹凸に富んだ山野を、歩き回ることは難しいと考えられた。純然たる相談役だろう
集まった山師たちに、彼らは告げる。もしかするとここは、「鳥となれる森」かもしれない、と。
「山も森も、もとはといえば鳥と獣の家だ。それをわしらは自分の都合で分け入り、手を加えておる。じゃが、めったに表へ出さないだけで、山や森が何も思わないわけではない。
鳥を招く。自分たちの身体を荒らさず、空を舞う者たちを受け入れる。いなくなった連中は、それにお呼ばれされたのであろう。」
意味が分からない、と首を傾げる若人たち。それを尻目に、老人たちは森の入り口に立つと、めいめいが手にした杖で、コツコツと何度か地面をついた。
その後、追いかけるように地面がほんのわずかだけ揺れる。じっとしていなければ、感じ取れないほどの弱さで。
「予想以上に、感じるに敏、だな」と老人のひとりがつぶやくと、めいめいがふところから大きめの木簡と、筆のように長いくぎを取り出し、他の面々にも告げた。
「森の意思を、ここへ呼んだ。ほどなく我らは鳥になる。空では、足が必要ない。身体を傾ければ、そちらへ向かうことができる。
いなくなったという連中も、空のいずこかに浮かんでいよう。探すのは、顔を知っているおぬしらに任せる。記録を取らんとするものは、わしらと同じ道具を支度せい。
紙や筆はやめておけ。空は風が強いでな。紙ははためき、筆は墨が飛び散るぞ。戻る時には指笛なり、大声を出すなりして、合図とせよ」
そうこうしているうちに、あおぐような風が、足元から吹き始めた。勢いはどんどん強くなり、頭の先から上へ上へと引っ張られていく。
慌てて記録道具を用意したが、ほどなく、彼らの視界はおのずと高くなり始める。
幹から枝葉、枝葉からてっぺん、てっぺんからその先へと上がった時、彼らの目の前は一瞬、白く濁り尽くされたという。
はっと気がついた時、彼らが目にしたのは、中空に浮かぶ太陽と、それを受けて大きな影を伸ばす、かなたの銀嶺。その頂にかかる雲すら、今や自分たちよりも低きにある。
かつて他の山々の頂から見た、いずれの景色よりも、自分たちが高いところにあるのを、彼らは見て取ったんだ。そして身体を常に、刃先でなぞっているかと思うほど、冷たく鋭い風が吹き抜けていくのを感じる。
ずっと前方には、おそらくかの老人たちと思しき影が、しきりに手を動かしている。木簡にくぎで記録を刻んでいるのだろう。
そして、はっきりと見えるのは彼らの上半身だけ。腰より下は霞に隠されてしまったかのように、判然としない。
事前に聞いていた通り、身体を傾ければ、そちらの方へ流れていく。泳ぎが達者な者などは、腕を存分に使い、空気を掻くようにして、縦横に飛び回り始めた。
それでも、老人たちのいう森の意思なのか。真下にある生い茂る木立がない場所まで進もうとすると、強烈な向かい風が吹き寄せ、その場で立ち往生してしまったとか。
動きに慣れ出すと、彼らはめいめいで仕事に取り掛かる。特に記録を担当する者にとって、この景色は衝撃的だったらしい。
見えるんだ。空からなら。崖や浜との境界と、その曲がり具合。川の長さと太さ。そして確か、まだ自分たちがたどり着けていないであろう、奥まったところにある野原やくぼ地。
地図として望まれる完成図が、まるまる眼下に広がっているんだ。記録の手を止める理由はなかった。
一方の行方不明者の捜索も、人海戦術によって首尾よく進んでいく。
やはり自分たちと同じように上半身のみで、空中に漂っていた彼らは、あるいは気を失ったまま、あるいは件の逆風のためであろう、森と山肌の境界あたりを泳いでいたところを、確保された。
合図のための指笛が吹かれ、一同が集まり始めるが、ひとりだけ動きが鈍いものがいる。
その山師は高所が苦手で、丘を上ることさえも抵抗を覚えるほどだったらしい。木登りや、崖っぷちに立つことなど、とうていできなかったのを、皆は把握している。
「そりゃあ、段階をいろいろ飛ばして、空に連れてこられたら、まともに動けないのも無理ないな」と近くにいた者たちが寄り添い、肩を貸す。
彼は青ざめた顔で、震えながらできる限りの声を出していたようだが、あいにく砂粒交じりの強い風が、顔面を殴打するかのごとき勢いで吹き付け、黙らざるを得なくなる。
同僚も風の痛みに耐えつつ「落ち着け」といわんばかりに、背中を叩きながら、皆の集まった場所へと向かっていく。
来た時とは反対の景色。
白く濁る目の前から、木のてっぺん。木のてっぺんから緑の枝葉。緑の枝葉からその幹へ……。
戻った、と感じた時。若人たちはいっせいに膝を折った。自分の両脚にかかる、予想以上の重さが、こたえたんだ。
「しばらくは、久方ぶりに戻った重さと感覚に振り回されよう。だが、いずれ慣れる。案ずるな」
そう声をかける老人たちは、全員が、しゃんと立っている。
「わしらは戻る。ご報告を届けなくてはいかんのでな。そなたらには先ほど見たものと、実際に歩いた感覚との、すり合わせを依頼する。傾斜の具合など、空からと地面からでは、受ける印象が、文字通り、雲泥の差ゆえにな」
老人たちは杖を拾い、それぞれがつないでいた馬へと向かう。
その足取りは、ここに訪れた時に見せた、弱っている様子はみじんも感じられない、軽々としたものだったという。
彼らは馬にまたがって、次々とこの場を離れていく。まだ満足に動けない山師たちだったが、目ざといものは気がつく。
老人たちが腰から下に履いているものが、来た時と異なること。それも自分たちが履いていたものと、同じものになっていたことに……。
「俺たち、謀られたかもしれんぞ」
そう弱弱しく口に出したのは、先ほどの砂利交じりの風を、もろに正面から受けた、高所恐怖症の彼だった。
その性質のために、浮き上がってからまともに動くことのできなかった彼は、今にも落ちるんじゃないかと、足元ばかりに気が向いていたらしい。
彼も高さで役に立てない分、目の良さには自信があった。自分たちが立っていたところは、この高さからではすでに、握りこぶしほどの大きさでしかなかったし、時々、通りかかる雲に邪魔をされて、様子が見づらい。それでも彼は、自分たちの下半身が転がっている様を視認できたようなんだ。
だが、おかしい。ここを訪れ、自分たちを空へ招いた老人たち。その一部が大地にとどまっていて、自分たちの下半身を持ち上げては、位置をさかんに入れ替えていたのだという。
その動きが収まると、彼らはぐぐっと浮き上がり、どんどんこちらへ近づいてきて、自分は怪しまれないように、空中を夢中でかく振りをして、やり過ごしたのだとか。そして、かの老人たちは、何食わぬ顔で他の者たちと合流していったらしい。
どうにか立つことができるようになった山師たちが、改めて自分の下半身を見ると、それは老人たちの履いていたものと、同じものを履いていたのを悟った。脱いでみると、自分たちの足は、枯れ木のようにやせ細り、走ることはおろか、自分の体さえ満足に支えることも難しくなっていた。
彼らはまんまと騙された悔しさに歯噛みをし、測量の命を果たしたのちに老人たちを糾弾したが、逆に頭がおかしくなったと思われ、その多くが囚われて獄死を遂げたという。