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「猫は子規を詠まない」

作者:

「猫は子規を詠まない」


庵の、庭に面したすりガラスの戸を開けると、夾竹桃の葉がカサリと割れて、楓がぴょんっと飛び込んできた。紗枝の足にしっぽを絡ませて、金色の目で見上げてくる。作務衣のポケットからにぼしをひとつやると、お前の手づからは食べとうない、そこへ置けとばかりに鼻を鳴らす。縁側に置いてやると、しゃみしゃみと、大儀そうに食べた後、その場でくつろごうとするので、よっと腹を抱えて持ち上げ、庭へおろす。しばし、うらめしそうにこちらを見ていたが、やがて諦めたか、ナズナを踏み踏み、庭を縦断し、最後に椿の枝を潜って、塀のわずかな隙間から外へ出て行った。

それを見届けてから、紗枝もつっかけを履いて庭へ降りると、草木に水をやる。ついでに夜のあいだに忍び込んだ猫に糞などされていないか見て回る。一通り済ませて、縁側へ戻ると、朝早い太陽の光に、葉の上の雫がキラリと七色に光っている。



 開庵時間前に、からりと入り口の引き戸が開けられる音がして、受付の文机から窺うと、夜の仕事を終えた理恵がピンヒールを玄関の石畳に脱ぎ捨てて上がろうとしているところだった。

「おはよう、理恵ちゃん。おつかれさま」

声をかけると、理恵は上がりかまちに腰掛けて、手に提げていた袋を差し出す。

「はい、これ、お客さんにもらったやつだからさ、あとで食べてよ」

「いつも悪いね」

「いいよ。どうせわたし、もらっても食べないから」

この庵が、鶯谷駅前のラブホテル街の中にあるという、特殊な環境のせいか、理恵は庵が開く前の朝早く、こうして無駄話をしに立ち寄る。

「羊羹かな?」

紗枝は受付の机を回り込んで、袋を受け取る。

「御徒町のさ、うさぎやのどら焼きだって。冷蔵庫入れときなよ」

言いながら、理恵は畳みにあお向けになる。

「いやいや、朝から暑いね。最後の客のあと、ラブホでシャワー浴びてきたけど、ダメだわ」

ワンピースの裾から風を入れようとぱたぱたやっている。

「ごめんね、ここ、クーラなくて」

「いいって。ここはさ、そんなんあったら却って興ざめだよ」

紗枝は、切子細工のグラスに入れた麦茶を理恵に渡してやる。

「サンキュ。かわいいね、これ」

「この前、浄明院さんの門前市で、安くなってたの。底にね、少し傷があるからって」

麦茶をくいっとウォッカのように飲み干すと理恵はうつぶせになって、さっき紗枝が水を撒いた庭へと視線をやる。その視線を追いながら紗枝は言う。

「そう言えばさっき、久しぶりに楓がきたよ。にぼしあげといた」

それには答えず、理恵が呟く。

「しかしねぇ・・これが子規が見た最後の風景かぁ」

「何よ、急に」

突然の理恵の言葉に笑いながら、紗枝は受付の机に戻ると、ノートPCを立ち上げた。

「いや、母親の状態がさ、最近あんま良くなくて。瓶にさす、藤のはなぶさ短けれ…ってね。もう、寝たきりなんだわ」

以前から、理恵の母親が痴呆症だという話は聞いていたが、そこまでとは知らなかった。

「そうなんだ…」

紗枝は庵のサイトを立ち上げると、更新作業に取り掛かった。

今年はこの庵の最初の主、正岡子規の没後150年の節目に当たる。その為、さまざまな催しを行っているのだ。その告知のために、サイトと、facebookの更新を毎日行っている。これも、現庵主、紗枝の大事な仕事だ。

「ごめんごめん。辛気臭くなったね。それよか、さっきの話だけど、不思議なもんだね、あの猫。わたしにも隆にも全然懐かなかったのに、あんたに懐くとはね」

「別に懐いてないよ。ご飯せびりに来てるって感じ」

「いやまぁさ、それにしてもだよ。隆に懐かないのは分かるのよ、あんなDV男。でも結構、わたしはかわいがってたつもりなんだけどね。やっぱ汚れな人間を猫も見抜くのかね」

しばらくPC作業を続けたあと、紗枝は声を掛けた。

「理恵ちゃん、それで、このあいだの怪我は大丈夫なの?」

庭を眺めたまま理恵が答える。

「大丈夫。あんなんで、いちいちびびってたら、この仕事やってらんないよ。わたしは母親のこともあるし、どの道、金を稼がなきゃなんないんだから。人の心配よりね、紗枝、あんたは自分の心配しな。こんな庵でいくら待ったって、あいつが黄泉から還るわけじゃないんだよ」

「そんなこと、思ってないよ」

苦笑した紗枝に、すっと身を起こすと理恵は近寄った。

「これでもわたしはあんたのこと、心配してんだよ」

頬にかかった紗枝の髪の隙間から人差し指をいれると、髪で隠した傷跡に触れた。一瞬、身をすくめた紗枝の鼻先に、香水だろうか、あまやかな香りが流れた。



 閉庵時間がきて、外へ出る。

入口の引き戸の上の、外灯を消そうと、スイッチへ手を伸ばしたところへ、背後の路地から声を掛けられた。振り向くと、高校生みたいな刈り上げ頭が視界に入る。

「恭二さん」

「お久しぶりです。あのーあれ、ちょっと近くまで来たんで」

言い淀む恭二のシャツの襟あたりから、微かに線香の香りがして、気づく。

「康介さんのお墓参りですね。ご苦労様です」

そう言って頭を下げてから、ふと、他人行儀だったろうかと思う。しかし恭二はホッとしたように相好を崩すと、喋り出す。

「そうなんです、ほら、そこの谷中の…ってご存知ですよね。あのーなんか、こちらこそ、有難うございます。紗枝さんが毎月参ってくれてるって…兄貴も喜んでると思います」

そう言って、照れたように笑う。兄の康介の、はにかんだそれより、ずっと屈託がないが、それでも何故か、よく似てる。

そこから、少し改まった口調で恭二は続けた。

「でも、何ていうか、あの事故は紗枝さんには何の責任もないことだし、ほんと、有難いことだけれど、紗枝さんの負担になるようなことはあっちゃいけないって…いやそれは、おふくろも言ってるんですよ」

そう言って、まっすぐこっちを見てくる。それを少し見返して、目を伏せる。

「お気づかい、ありがとうございます。でも、ご迷惑でなかったら、もう少しだけ、続けさせてもらえませんか?」

そう言って、紗枝はもう一度頭を下げた。

「あ、いや、それは全然、むしろありがとうございますっていうか…」

慌てたように言って、やや、暮れかけた空へ視線をやっていた恭二がふと思い出したように言う。

「そう言えば紗枝さん、以前、猫の話、してくれましたよね。なんか、お尻に模様がある…」

「楓ね。楓の葉に似てるから、わたしが勝手に呼んでるだけだけど。もとはね、わたしの友達が飼ってたの」

「そうでしたか、で、その楓って猫、さっき墓参りに行った時、見ましたよ」

「そう、あの子もお参りに行ってくれたのかな」

「いやなんか、どっかの墓参客にまんじゅうもらってましたけどね」

そう言って恭二は、今日会ってから初めてはっきりと笑った。つられて紗枝も笑ってしまう。

「食い意地張ってるのよ、あの子」

「ほんとですね」

「あの、じゃあ、俺はこれで」

頭を軽く下げて、踵を返した恭二の後ろ姿をしばらく見送る。少し、右肩が下がって、歩くたびに揺れる。やっぱり、似てるなと思う。明かりを消そうと、引き戸に向き直ったら、小さく溜息が漏れた。



休庵日、展示物の入れ替えをしていると、開け放ったガラス戸から、楓が入ってきた。あ、っと思う間もなく、不要になって、畳に広げた展示物の上をとことこ歩いてくる。

新しい展示物のパネルを机に置いて、紗枝はそっと楓を抱き上げる。お尻の楓模様に手を添える。いつもは暴れるのに、今日は大人しい。

抱いたまま、畳に正座する。赤子をあやすように、軽くゆすってやると、不服そうに、にゃにゃと、短く鳴く。

にぼし、食べる?

言葉が分かったのか、そうでないのか、じっと紗枝を見つめる。そして、胸に前脚を掛けると、紗枝の首筋に、ぐっと頭を押し付けて、その反動でするっと腕を抜けると、お尻を振って、縁側の方へと歩いていってしまう。

首筋に、湿った感触が残っていた(終)

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― 新着の感想 ―
[良い点] 東京の山手線駅、上野駅の隣だったかしらと地方の人間は思い出しつつ読んでおりました。 上野に比べて小さな鶯谷駅の近くににある一つのドラマに、あれこれと想像を巡らしました。 子規は脊椎カリエス…
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