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野田ばあちゃん

作者: 山本lemon栧子

   野田ばあちゃん

              山本 lemon 栧子




 牛乳をがーあっと飲み干して、武史が野球の朝練(早朝練習)へ飛び出して行こうとしていると、父さんが起きてきた。

「おはよう。行ってくるよ」

「おい、武史、行く前にたばこ買ってきてくれ」

 父さんはぼさぼさの頭をかきながら、あくびをした。

今、急いでいるに。夏休みの朝練は七時から始まるから、時間がないのだ。武史はいやだなと思った。でもぐずぐずしていると、時間は音をたてて崩れるように過ぎていく。

「分かった。お母さん、お金ある?」

町内のはしっこの角にある、野田ばあちゃんの店まで、全速力でかけて行った。夏の太陽がキラキラと輝き、真夏日になりそうな朝だ。

「マイルドセブン二つください」

 野田ばあちゃんはたばこの陳列ケースの向こう側に、丸くなって座っていた。しわしわの茶色い顔が頷いて、マイルドセブンをひとつ差し出した。

「二つ」「えぇ……いくつ」

 野田ばあちゃんは耳が遠いらしい。千円札を出し、指を二本立てるとやっと分かってくれた。

「ぼうや、大きなったのう。野球に行くが」

「はい、行ってきます」

武史は走りながら、振り向いて言った。野田ばあちゃんは武史をみるといつも「大きなったのう」という。

男の子なら誰にでも「ぼうや」と呼び、女の子は全部「ねえちゃん」と呼ぶのである。野田ばあちゃんは武史が生まれる前から、母さんがこの町へお嫁に来る前から、ずっとたばこ屋兼雑貨屋をしている。

 武史の部屋くらいの狭い店内には、天井まで段ボール箱が積み上げてあった。店のあちこちに荷物が乱雑に置いてあり、お世辞にもきれいとはいえなかった。でも、住宅街に一軒しかない店なので、武史もガムやスナック菓子を買うこともあった。

 野田ばあちゃんは男みたいな体格で、昔はさぞ大女だっただろうと思うが、今は腰が曲がっている。とても高いところに手が届きそうにない。ひとり暮らしだから、どうやって上の荷物を下すのだろう、と考えながら、たばこを家の玄関に置いた。

「お父さん、ここに置くよ」

 武史はバットをかついでグランドへ走って行った。


武史が朝練から帰って来ると、母さんは出かけていた。

午後一時までスーパーでパートのレジをしている。夏休みの間、母さんが返るまで、武史は一人だった。去年は淋しい気がしたが、六年生になってからは平気だった。

母さんに「勉強しなさい。かたづけなさい」と顔をみるたびに言われるより、一人の方がよっぽどいいと思う。

武史は算数と国語のドリルを四ページずつやることにして、机に向かった。すると電話が鳴った。

「もしもし、武ちゃん、ぼく誠……。昼からいっしょに遊ぼうぜ。ぼくん()で」

「オッケー。何時にする?」「一時」「そんなら、あとで」

 電話をきるとうれしくて武史はそわそわした。遊ぶ約束をしたから、早く今日の分の宿題をかたづけてしまわなければいけないのに、わくわくすると手に付かなくなる。武史は漫画を閉じたり開いたりした。窓から外を見ると、野田ばあちゃんが壊れそうな乳母車を押しながらよたよたと歩いていた。長い茶色のスカートが地面に着きそうで、踏んだら転ぶことだろう。危なっかしいな、と武史は野田ばあちゃんから目が離せなくなった。

 どこへ行くのだろう。強い日差しが野田ばあちゃんの体に照り付けていた。熱気は泥の塊みたいに体に、全部吸いこまれていくみたいだった。

 髪の毛が真っ白なばあさんがやってきて、野田ばあちゃんに話しかけた。口を耳に近づけた。

「暑いがに、どこへいくの」「眼医者へいくが」

「手術した目どうけ」「見えるようになったちゃ。あんた足どうけ」

「痛いちゃ」「大事にしられ」

 野田ばあちゃんは自分より大分若そうな相手をいたわって、またよたよたと歩いて行った。


 武史と母さんが晩御飯を終え、風呂から上がってもまだ父さんは帰ってこない。母さんは洋服ダンスの片付けを始めた。畳に洋服をずらっと並べて「着るものがないわ」といった。武史は、そんなにあるじゃない、と言おうとしたが、黙ってテレビを見ていた。

 巨人が阪神に負けていて、見いていてもちっとも面白くない。

「これ野田ばあちゃんにどうかな、明日持って行ってあげよう」

深緑色の幾何学模様のワンピースを持ち上げて、母さんがいった。

「ねえ母さん、野田ばあちゃんに家族はいないの」

「娘さんがひとり、石川県におられて、旅館のおかみさんをしておられると聞いたけど」

「ふーん。野田ばあちゃんて何歳?」

「さあ、八十五歳くらいかな。しっかりしておられるわ。なんでも、昔S神社の神主さんの奥さんだったそうだよ。ご主人が亡くなってから。一人でたばこ屋をはじめたんだって」

「子供の旅館へ行けばいいのにね」「そうね」

 それっきり会話は途切れて、テレビの音が大きくなったようだ。巨人はまだ負けていた。


 夏休みはあと三日しか残っていなかった。宿題のドリルは昨日完成したし、理科の自由研究も仕上がった。武史の住む地域は湧き水が豊富なので、リトマス紙で簡単な水質検査をしたのだ。あちこちの湧き水について市が行った水質検査表を表にして比較した。残るは工作か図画のうち一つをやればおしまいだ。武史は図工が得意なので、すぐできると侮っていたら、結局最後まで残ってしまい、今朝母さんに「今日こそ絶対にやりなさいよ」と釘をさされた。

 天気がいいので、武史は誠を誘って写生に行くことにした。

「お城がいいないか」と誠がいうので、自転車に水彩道具を積んで、野田ばあちゃんの店の前を通った。

 店は入口も窓も全部開け放たれて、二人の男性が家財道具を外に出していた。二人はタオルをかぶり、マスクをして、ほこりの中を動き回っていた。野田ばあちゃんの影も形もなく、天井まであったダンボールは路上でつぶされ、ゴミの山になっていた。

 野田ばあちゃんの身になにかあったのかと心配になった。それから、古い家を壊して建て直すのかなと思った。道の向うからたばこ屋の様子を見ている人々が三人いた。

三人とも年寄りで、見覚えのある白髪のばあさんがいた。武史はちょっとためらったが、近づいて勇気を出して聞いた。

「野田ばあちゃん、どうかしたの?」

「ばあちゃんはね、昨日老人ホームから迎えに来られて、行ってしまわれた。もう帰ってこないやろうから、親戚の人が、家の整理にきておられるが」

「このごろご飯作るのもおっくうや、いうておられたもんね」杖をついた横のばあさんがいった。

「物忘れするから、火の元が危ないし、限界やったわね。ホームならお世話してもらえて、安心やし」

「九十一歳だって、わたしより六歳上だちゃ」

 白髪のばあさんは武史の顔を見て、口をすぼめて恥ずかしそうに笑った。

 自転車をこいでスピードを上げると、風が向かってきた。武史は野田ばあちゃんが幾何学模様のワンピースを着て、老人ホームの車に乗って行ったような気がした。野田ばあちゃんは町内の人たちに、さよならをいわずに行くのが、心残りではなかったろうか。

「いつまでも元気でね」といって、みんなで送ってあげればよかったのに。

 武史はふっとさびしい気がした。年老いることが淋しいのか、「ぼうや、大きなったの」といってくれるばあちゃんが、もういなくなったからなのか分からなかった。

「武ちゃーん」

 誠の呼ぶ声がした。前をいく誠の振る手が、小旗のように揺れていた。









 

 

 


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