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出会い アンドラーシ

 その日、アンドラーシは馬を駆けさせていた。いつものように彼の体格に見合った仔馬ではなく、体格は大きく気性も荒い牡馬だった。もちろん幼い彼では(あぶみ)に足が届かず、手綱だけで御している状態だ。まだ細い腕で巨体を操り、脚に力を込めて振り落とされないように均衡を取る。危うくて骨の折れる――だが、だからこそ心躍る律動を、全身で味わう。


 喜びの余りに、喉から歓声がほとばしる。


「見たか! やってやったぞ!」


 父に内緒ということで馬を用意してくれた使用人は、舌を噛むことがないように決して口を開くなとしつこく彼に言って聞かせていた。しかし叫ばずにはいられなかった。

 危険を――ついでに父に知られれば叱られるのを――承知で、アンドラーシがこの冒険に臨んだのには、譲れない理由があったのだ。


 切っ掛けは、彼よりやや年長の少年たちだった。親同士の領地が近いということでそれなりに交流もあり、共に狩りを――まだ参加することは許されないので――見物したり、剣や馬術を競ったりすることもある。

 同じ年頃、同じ体格の相手ならばアンドラーシが遅れを取ることはないのだが、子供にとって数年の年の差は絶対だった。いつか必ず勝ってやると誓うのは、彼もジュラなど同年代の友人と同様だった。ただ彼の場合、他の者とは少々異なる事情があった。


 ――そのような女顔ではな。ろくなものにはならないだろうよ。


 剣を弾き飛ばされて倒れた彼を、嘲り笑った声が耳に蘇る。それは同時に激しい怒りも呼び覚ました。時に姉や妹にそっくりだと言われる容貌を、彼自身非常に気にしているのだ。

 侮られることがないように腕を磨こう、とは思うものの、鏡を見れば映るのは白い顔。手足を見下ろせば姉妹のそれに似て細くすらりとしていかにも弱々しい。果たして彼を嗤った連中のように背が伸び逞しい肉体を手に入れることができるのか、不安になることもしばしばあったのだ。


 だが、怒りも屈辱も、不安でさえも、馬を駆けさせる疾走感は全て吹き飛ばしてくれる。心のままに声高く笑えば、その笑い声さえ風に乗って。


 鐙に足も届かない子供を成体の馬に乗せる者はいない。アンドラーシを揶揄った少年たちも、まだ仔馬で我慢しているはず。彼は、歳上の者たちの一歩先を行ってやったのだ。


 ――次に会ったら自慢してやる……!


 もう二度と女のようだ、などとは言わせないのだ。アンドラーシが奴らから勝ちを拾うにはまだ数年掛かるかもしれないが、少なくとも今日の記憶は心の支えにすることができるだろう。


 高揚の熱に浮かされるかのように、馬が悲鳴を上げるまでアンドラーシは疾走感を満喫した。




 さすがに疲れきって屋敷に戻ると、慌てた様子の使用人に迎えられたので、アンドラーシは首を傾げた。助けを借りて飛び降りるように下馬したところへ詰め寄られて、何事か起きたのかと身構える。


「若様、良いところへ……旦那様がお呼びです」

「父上が?」


 真っ先に浮かんだのは、馬を勝手に借りたのが早くも発覚したのだろうか、ということだった。女顔とはいえ、彼は一応父の唯一の息子だった。家の評判を損なうような軽率な行いも、後継の身を危険に晒す行いも、日頃から固く禁じられていたのだ。

 だから早く砂埃に塗れた姿を整えて、不審に思われないようにしなければ、と思っていたのだが――


「お客様がいらっしゃっておりまして、若様を紹介するのだと――お急ぎください」

「このままで?」


 髪も乱れ、息も弾ませながら問うと、相手は軽く顔を顰めた。父を待たせることと、今のアンドラーシの姿を客に見せることを頭の中で天秤に掛けたに違いない。


「……致し方ないでしょう。剣の稽古をしていたことにでもして。余計なことは口になさらないようにしてください」

「……分かった」


 黙っていれば顔は良いのだから、という言外の言葉が聞こえたような気がしたのは、多分勘ぐり過ぎなのだろう。先ほどまでの高揚に水を刺されて急速に機嫌を傾けながら、アンドラーシはこくりと頷いた。




 客間に入った息子を一瞥するなり、父はあからさまに眉を顰めた。やはり馬で駆けさせたまま、着替えもしないで来たのはまずかったのかもしれない。とはいえ客の手前だからか、声に出して叱責されることはなかった。

 軽く咳払いをして、決して快く思ってはいないことを示してから――父は口を開いた。


「お待たせいたしました。こちらが愚息でございます」

「わざわざお呼びだてして、申し訳のないことでした――」

「とんでもないことでございます」


 客だという年配の男と父のやり取りを黙って聞き流しながら、アンドラーシは室内にもうひとりの人影がいることに気付いた。彼と同じ年頃の少年――ただし背丈は幾らか相手の方が高いのが気に入らない。

 大人たちが礼儀に適った言葉を交わす間、彼とその少年は不穏な視線で探り合った。どういう性格で、どれくらいの実力があるのか。要は、自分が優位に立てる相手かどうか。森の中で出会ってしまった獣同士が目を逸らさないのにも似て、彼らふたりは睨み合う。少年の青灰の瞳は鋭くて、気圧されないように肚に力を込めなければならなかった。

 と、不意に少年が視線を外した。しかしそれはアンドラーシが勝ったという訳ではなく、少年の保護者――年齢からして父親ではないだろう――と思しき客に話しかけるためだった。


「お祖父様」


 子供特有の澄んだ声。アンドラーシと同じようでいて、しかしより大人びているような気がして、彼は密かにむっとした。しかも少年が続けた言葉は、更に聞き捨てならなかった。


「なぜ女が男の格好をしているのですか。女の子の遊び相手など、俺は嫌です」

「ファルカス……!」


 客はさすがに少年を咎める声を上げた。が、アンドラーシの我慢もここまでだった。ふつ、と。頭の奥で何かが切れる音が聞こえたと思った瞬間。跳ねるように少年との距離を詰め、拳を振り上げ――その頬を、渾身の力で殴っていた。


「これでも女と思うか!? 俺は男だ!」


 じんじんと、拳が熱く痛むのを感じながら、高らかに言ってやる。


「アンドラーシ! 何ということを――」


 父が珍しく悲鳴のような声を上げたのも、恐らく後でひどく叱られることも承知の上で。それでも、誇りを守ったのだと思えば彼の心は昂ぶっていた。相手が無様に倒れなかったのは癪だが、逆上して掛かって来たら逆襲してやる、と油断なく身構える。


「――ならば遠慮はいらないな」


 身構えていた、はずだった。なのに唸るような声がやけに近くで聞こえたと思った次の瞬間、アンドラーシの視界は回転した。肩に感じた衝撃に、初めて足を払われて転ばされたのだと気付く。続けて頬にも衝撃が走り、殴り返されたと知って――やっと、アンドラーシは我に返った。


 ――何だこいつ!


 先に手出しをしたのは自分だというのも忘れて、理不尽を働かれたことに怒りが燃え上がる。彼を押さえつけようと伸ばされた腕を掻い潜り、もう一発――どこに当たったかはよく分からなかったが――浴びせてやる。


「舐めるな!」

「何を!?」


 そこからは、取っ組み合いの殴り合いだった。上になり下になり。手だけではなく蹴りも交えて、彼らふたりはもつれ合った。


「何ということをしてくれるのだ……!」

「ふたりとも、止めなさい!」


 大人たちの手をもってしても、彼らを完全に引き離すにはかなりの時間を要したのだった。




 少年と――更に父にも殴られた痕を手当されながら、客たちの素性を知らされてアンドラーシは呆然と呟いた。


「王子……?」

「そうだ! 不敬にもほどがある! 反逆に問われてもおかしくないことなのだぞ!?」


 父の怒鳴り声に顔を顰めるアンドラーシの視線の先では、王子の身分を持つとかいう少年が姉によって頬に湿布をされていた。狼を意味するファルカスという名は、確かに少年の鋭い雰囲気に似合っているとは思う。


 ――でも、王子だって……?


 まだ根に持っているのか、不機嫌そうな表情でこちらを見ている少年は、彼と同じ子供に見えた。彼の容姿を揶揄したのも、殴られて殴り返してきたのもごく普通の、そこらの子供と変わらない。


「そもそもはこの者が無作法を申したからです。ご子息には大変に申し訳のないことで――お前も謝りなさい」


 祖父だという男に頭を押さえられて、ファルカスとかいう子供は渋々ながらといった表情で目を伏せて謝罪の言葉を述べた。恐らく心からのものではないのは目つきからも明らかだったが。

 次はアンドラーシも父に命じられて同じことをさせられた。王子に手を上げておいて許されるのは破格のことだとか言っていたが、彼にはよく分からなかったので聞き流すことにした。より重要なのは、客が――父ではなく――彼に言ったことだった。


「厳しく躾けたつもりで融通の効かない質になったようで――改めてお詫びを申し上げる。どうも老人だけでは全てを教えきることはできないようでな。先ほどのことを許してくれるならば、この者と仲良くしてやってはくれまいか?」

「え――」


 彼と少年と。不服の声はほぼ重なった。


「どうしてこんな奴と」


 更にお互いを指さして言ったこともまた重なって、客の笑いを誘うことになってしまった。


「ならば競い合うのでも。次は止めはしないから、馬でも剣でも気が済むまでやってみては?」


 これには、多少は心を動かされるものがあった。同年代が相手ならば、アンドラーシが負けることはそうはないのだ。それに、彼は先ほど偉業を成し遂げたばかり。


「――お前は馬に乗れるのか?」

「当然」

「仔馬ではないぞ? 大人の馬のことだ!」

「……乗れる。バカにするな」


 少年が一拍の間を置いたので、実際に乗ったことはないのだろう、とアンドラーシは判じた。少年の祖父は厳しそうだし本人も生真面目な性格を窺わせている。律儀に言いつけを守っているのだろうと思わせ――彼を優越感に浸らせてくれる。


「教えてやるぞ。俺は今日、雄馬を乗りこなして来たのだからな!」

「アンドラーシ! 殿下に危険なことは――否、それよりも今何と言った!?」


 父の怒声にしまったと思う。だが、それよりも少年の羨望の眼差しが心地良かった。もう女扱いされることなどなく、一目置くべき相手として認められたと感じられた。――ならば、仲間に加えてやっても良い。


「危険なくらいで結構。共に学び育つ相手が必要だと思っているので」

「ですが――」

「俺も望むところだ。だがお前などに遅れを取るものか」


 父が言い募ろうとしたのをきっぱりと遮った少年は、どこか楽しそうな顔つきになっていた。アンドラーシが殴った頬が腫れて、まだ痛々しい姿をしていたのだが。

 だが、とにかく身分に奢らず、かといって卑屈になることもなく。あくまでも強気に競おうとする態度には、好感のようなものさえ覚えた。


「何なら今からでも構わないぞ。剣と格闘ならどちらが良い?」

「どちらでも。お前の得意な方に合わせてやる」


 どこか剣呑に笑い合う子らを前に、父が呆れたように呻くのが聞こえたが、もはやどうでも良いことだった。




 その日の太陽が沈む前に、アンドラーシは新しく出会った()()と揃って傷を幾つか増やし服を破り練習用の剣を折った。

 次に会った時には他の友人たちも加わって競い合った。新入りに負けるものか、と思っていたのだが、ファルカスはしばしば他の子供らよりも良い成績を収めて見せた。悔しがるうちに知ったのは、新しい友人の複雑な立場。後ろ盾のはっきりとした王子ならば、遊び相手などわざわざ探すまでもなく寄ってくるものだと、最初から気付くべきだった。ファルカスの優秀さは、生き残るために身につけた方便でもあったのだ。


 そうして交流を深めるうちに、彼は友人の呼び方を変えた。名を呼び捨てるのから、殿下という敬称へと。別に口うるさい父の説教を聞き入れたからということではない。心から、()は敬うに相応しい存在だと認めたのだ。


 王の余命が噂され、後継者争いが取り沙汰されるようになる、数年前のことだった。

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