3 四丁目
3 四丁目
いつ、おかあさんが帰ってきたのか、まったくわからない。
朝になって、居間に下りてみると、上着やかばんが、ソファの上にほうり投げてある。部屋をのぞくと、パジャマにも着がえず、ふとんからはみ出した、ものすごい寝ぞうで、眠りこんでいるんだから。
まったくもう! とは思うけど、よほどつかれていたのだろう。起こすのもかわいそうだし、ふとんだけかぶせて、しのび足で部屋を出た。
「おかあさんへ。トンちゃんと、四丁目まで行ってきます。木下ゆり子さんの家をたずねます。お昼はいりません。夕方には帰ります。ケイ‥‥と。これでいいかな」
メモ用紙にそう書いて、ネコのイラストもつけて、居間のテーブルに置いた。それからパンを焼いて、かんたんに朝食をすませ、玄関で寝ころがっているハイヒールをそろえた。うらやましそうな顔をしている九べえに手をふると、元気よく外に飛び出した。
今日もよく晴れて、風もちょうどいいくらい。
ケイが選んだのは、うす手のパーカーにデニムのハーフパンツ。縞もようのハイソックスは、ちょっとアリスを意識してみた。まさか、ひらひらのエプロンドレスを着るわけにもいかないから。
お化けイチョウの木の下で、トウコは待っていた。
なんだか今日のトウコは、いつになく女の子らしい。学校ではいつもジーンズなのに、まるでこれから音楽会にでも出かけるみたい。あんまりケイがめずらしがるから、とうとう、はずかしそうにうつむいてしまう。
「おかあさんが着て行きなさいって、うるさいの。もう、じゃまになってしょうがないのに」
しきりにスカートを引っぱっているけど、どきどきするくらい似合っている。ケイはちょっぴり後かいした。わたしも、アリスのかっこうで来るべきだったかしら?
「ところでトンちゃん。行きかたはわかる?」
「まかせといて」
ポンと胸をたたいて、トウコはリュックをおろした。緑色で、あっちこっちポケットがついていて、山登りにも使えそうだけど、服とはあまり合ってない。取り出したのは、手作りの地図だ。いろんな目じるしが、マンガっぽく描いてあって、ふつうの地図を見るよりも、ずっとわかりやすい。
「いいね。なんだか宝の地図みたいだね」
ほんとうは、自転車で行くのが一番だろう。もしここが、あしたば町でなければ、迷わずそうしていた。けれども、二丁目から四丁目までの道のりは、まったく上り坂だらけ。道があるならまだいいほうで、トウコの地図によれば、階段まで道に入っている。
こんなふうだから、あしたば小学校の生徒には、自転車に乗れない子も多い。たぶんケイの自転車も、すっかりほこりをかぶっているだろう。
「二本足自転車があればなあ」
家並みの間の細い坂を、ふうふう上りながら、ケイがつぶやいた。
「なにそれ?」
「わたしが考えた、あしたば町専用自転車。タイヤのかわりに二本足がついていてね、ペダルをこぐとペタペタあるくの。これさえあれば、坂道でも階段でも、楽に上れるわけ」
「だったら、じぶんであるいたほうが速いんじゃない?」
うーん。と、ケイは考えこんでしまい、トウコは、くすくす。
坂を上りきったところから四丁目。それでも丘のてっぺんまでは、まだまだ遠い。ゆずりは公園と書かれた広場に入って、トウコは地図を広げた。
「この公園がちょっと変わっていてね、どんどん坂道を上りながら、てっぺんまで続いているみたい。ここを通るのが、一番の近道なんだって」
四丁目に住んでいる子に、あらかじめきいておいたそうだ。地図をのぞくと、トウコの言うとおり、広場の奥から、細くて長いしっぽのような道が、丘の上まで、びよーんと伸びている。
草のつるがからみついた、ジャングルジムやぶらんこ。奥まで進むと急な斜面にぶつかり、坂道なのか階段なのかよくわからない細道が、えっちらおっちら続いている。じっと見上げていると、あごが外れそうだ。
案のじょう、上りはじめると、たちまち息がはずんだ。両がわの斜面には、クズの葉がしがみつき、風が吹くたび、かわいた音をたてて、白くひるがえった。
(ふう、ふう、ふう。もうあるけないよ)
そう思うころには、おどり場みたいな、ちょっとした休けい場所が必ずあらわれた。ベンチでひと休みしながら、水筒の水を二人でのむと、いつのまにかつかれも忘れて、また上る元気がわいてくる。
やがて階段はゆっくりとカーブしながら、家並みの間を通り抜けた。ほとんど真上から、屋根や庭をのぞきこむかっこう。休みの日だというのに、みょうにひっそりとして、どこの家からかわからないけど、たどたどしいピアノ音が聞こえてくるばかり。
(まるでネコが鳴らしているみたい)
それも、けん盤ではなく、音の出るチェス盤の上を。まばらに並んだ駒を、一つもたおさないよう、つま先でおどりながら。
階段がおわったかと思えば、急にかさなりあう屋根の下に出た。あれえ? と、首をかしげているケイに気づいて、
「坂道がないのは、丘のてっぺんに出たからだよ」
トウコに言われてなっとくできたものの、次にケイは、反対がわへ首をかたむけた。
まだ変な感じがする。
道ばたには、ちぎれた枝が、緑の葉をつけたまま、まだたくさん落ちているし、看板や標しきなんかも、だいぶゆがんでいる。まるでここにだけ、ゆうべも台風がやってきたみたいに。
「丘の上だから、風もよほど強かったんでしょう」
と、あいかわらず、トウコはケイの考えていることが、わかるみたいなんだ。
それにしても、町の中が、しずかすぎるし、あいかわらず、だれともすれ違わない。まさか、ここに住む人たちは、天使みたいに、空を行き交っているのだろうか。
「あっ」
ちょうど見上げた屋根の裏がわに、ネコのしっぽが、さっとかくれた。その先に森があるのか、濃い緑の葉が、青空の下にこんもりと茂っている。
おどろいた顔を、二人は見合わせた。
「トンちゃんも見た?」
「見たみた。まさか、あの森の中に家があるのかしら」
「えっ。ネコのしっぽじゃなくて?」
トウコはしきりに、森と地図を見くらべている。ポスターの住所どおりなら、木下さんの家は、あの辺にあるのだと言う。
「行けばわかるよね」
緑色のリュックについて行きながら、ケイはさっきのしっぽに、どこか見覚えがある気がして、しかたがなかった。とちゅうでちょん切れたような、青いしっぽ‥‥森のにおいと陰につつまれて、二人は立ち止まっていた。
たくさんの木の葉は、風にゆれながら、二人の知らない言葉でささやきあっているようだった。
森の入り口から、幹の間をのぞきこむと、ほのぐらい陰の向こうに、変わった形の家がたっていた。
どちらからともなく手をつないで、二人は森の中へ。
奥の家までは、小道が続いているみたい。たちまち、小さな生きものたちが、まわりで動くのがわかった。木の上にもいるようだし、幹の間にもかくれている。リスにしては大きくて、ずいぶん耳がとがっている。
ネコ‥‥なのかしら?
と、ネコ博士のケイでさえ、考えこんだくらい。
明るいところから、急に陰に入ったので、目がなれないせいもあるだろう。それにしても、ネコみたいな生きものたちの体が、半分ガラスでできているように、透けてみえるのは、どういうわけだろう。
十匹くらいはいただろうか。変なネコたちは、枝や草の葉に半分体をかくしたまま、じっと二人を見つめていた。ガラス玉みたいなたくさんの目が、お月さまくらい、うっすらとかがやいた。
ぽん。
と、トウコに肩をたたかれ、ケイは、びくんとうなずいた。
なるべく気にしないことに決めて、小道にそって行く。トウコも知らないふりをしているのか、それとも本当に気づいていないのか。二人ともだまったいたので、ケイにはわからなかったし、たずねるのも、ちょっと怖かった。
けれども、家の前で立ち止まったときは、そんな疑問も吹き飛んでしまうほど。
家? なのだろうか。
どう見ても、これはネコの顔じゃないか。
緑色にコケむしたスレート屋根が、ピンととがった耳みたいに、両がわで三角形を描いているし、二階には大きな窓が二つ。これも、ぎょろりとした目玉のように並んでいる。そうして、一階の、細長く張り出したガラス張りの部屋は、まるでニヤリと大きく広げた口のよう。
おまけに、細長いブリキのえんとつが、いくつも飛び出している様子は、ネコのヒゲ以外、思いつかない。
「まるで植物園の温室だなあ‥‥」
ぽかんと口を開けているケイのとなりで、トウコがつぶやいた。
「ええっ。どう考えても、ネコの顔だよう」
「ああ、そんなふうにも見えるね。でも、ちょっと人が住んでいる気配はないなあ」
もう一度地図をひろげ、メガネをずり上げて、目の前の家と何度も見くらべている。
「たずねてみようよ。引きかえすのは、それからでもおそくないよ」
ケイのめずらしく勇ましい発言に、トウコはちょっとおどろいた様子。メガネの奥で、目をぱちぱちさせたあと、
「よし、行ってみるか」
と、うなずいた。
それにしても、ポーチがあるわけでなし。どこが玄関なのやら、さっぱりわからない。ちょうどネコの口にあたる、一階のガラスの部屋にそってあるくと、やがて一枚のガラスが、扉になっていることに気がついた。
(やっぱり、口から入るんだ‥‥)
ここが玄関なのは、まちがいなさそう。なぜなら、ネコのシルエットに切り抜いた板がぶら下がっていて、青いクレヨンで“KINOSHITA”と書いてあったから。おまけに、その背中には、ボール紙で作った天使の羽まで、くっついているんだから。
「ベルはないのかしら?」
ボタンをさがすトウコの腕を引いて、ケイが指さした。ネコのしっぽに似た、ふさふさしたひもが、ひさしからぶら下がっている。引っ張ってみたところ、何も鳴らないかわりに、ガラスの扉が音もなく開いた。
ニャア。
かわいらしい声がして、二人は同時に下を向いた。
青ネコだ。
まちがいない。三丁目の階段で見たのと同じネコ。二人のほんの足もとで、きちんと”おすわり”している。
じっとこっちを見上げる、ビー玉みたいな目。小首をかしげた顔は、いかにも何か言いたそう。だけど、ケイがしゃがみこもうとしたとたん、ネコは、くるりと向きを変えた。
トントン飛びはねるようにして、濃い木陰の中へ。
トウコが言ったとおり、中は植物園の温室みたいだった。木が床から直接はえて、その上をつる草がつたい、こずえといっしょに天井をおおっていた。
青い毛玉が転がるように、ネコはどんどん先まで走り、急に立ち止まって、こっちを向いた。そのままガラスみたいに透きとおったかと思うと、もう見えなくなっていた。かわいらしい、鳴き声だけを残して‥‥
二人とも、だいぶおくれて、そこに着いた。はしごみたいな階段がひとつ。さっきまで、木にかくれて見えなかったけれど、空中に引っかかっているように、ぶら下がっていた。
階段の先は、緑のこずえなんだ。
ひたいに手をかざしてみても、重なりあう枝の間から光がもれるばかりで、上に何があるのか、さっぱりわからない。まわりに出口も入口もないから、消えたように見えた青ネコも、本当は、この階段を上ったのかもしれない。
さっそく上り始めたケイに、トウコはまたおどろかされた。
「だいじょうぶなの?」
「うん。ネコになったつもりになれば」
ステップをふむと、ぐらぐら揺れるけれど、天井から、すぽんと抜けるわけでもなさそうだ。かなりの急勾配だから、二人が上って行く姿ときたら、ほとんど四つんばい。じっさい、化けそこないのネコみたいだったろう。
そのまま、こずえの中をつき進む。木の葉がちくちく頬にさわり、とても目を開けていられない。階段の尽きたところが、二階だった。こずえの中から、はい出すかっこうで、平らな所に出た。床は、金あみでできているようだ。つづいてトウコも、木の中から顔を出した。
「ぷはあ!」
まるでプールで潜水してきたように、息をはいた。水しぶきのかわりに、葉っぱが四方にはじけ飛んだ。
下と同じように温室みたいだけど、だだっ広いホールのようでもある。外からはネコの目に見えた、大きな窓があるため、これだけ草木におおわれていても、そこそこに明るいんだ。
頭の上で、こずえがいくつものアーチを描き、枝からは、カーテンのように、つる草がこぼれ、きれいな模様みたいな、花をたくさんつけている。そのうえ、いろいろなチョウが飛びまわっている様子は、秋と冬をとびこえて、また春か夏にもどったよう。
あたりには、子ネコ一匹見当たらない。
木のイスやテーブルが、ぽつぽつと置かれている。柱時計が、十二時ちょっと前をさしている。今の時間も、ちょうどそれくらいだけど、振り子はとっくに止まっている。
小さな円いテーブルの上に、大きな本が開いたままになっている。絵本だろうか。何気なくのぞきこんで、ケイは息をのんだ。
「やっぱり、空き家なのかなあ」
トウコがそうつぶやいたとき、びっくりしたように、ケイは顔を上げた。
「どうしたの?」
「木下ゆり子さんは、まだこの家にいるよ」
ケイは本を指さした。ページの片方いっぱいに、さし絵がのっているけれど、それはあのニヤニヤ笑いのネコ。木の上のチェシャー・キャットを、アリスが見上げている場面だった。
「きっとさっきまで、ゆり子さんはこの本を読んでいたんだよ」
さいしょ、メガネの奥で目をまるくしていたトウコは、ほうとため息をついて、ほほえんだ。
「そうだね。もうちょっと、さがしてみようか。それにしても、こんなにお腹の空かないケイちゃんを見たのは、はじめてだよ」
そのとき、またネコが鳴いた。
二人とも、びくんと肩を上下させた。
声のした方へ目をやると、草花が壁かざりのように、天井までびっしりとからみついている。そばへ寄ったとたん、ふぅわりと、何匹ものチョウが飛びたち、色とりどりの花から、とてもよい香りがこぼれた。
「このうしろ、入れるみたいよ」
そう言ってトウコがさしこんだ腕は、つる草の間をかんたんに通りぬけた。肩を入れても、やっぱり何の抵抗もない。とうとう二人は、そのまま草花のカーテンのうしろへ。
そこは花の小部屋だった。
床も壁も天井も、小さな花にすき間なく、おおわれていた。ただ、壁にはめこまれた、木の扉をのぞいては。
考えてみれば、ここへ来てから、玄関以外の、しかもガラス張りでないドアを見たのは、これがさいしょだ。二人は顔を見合わせ、ノックしてみたけれど、何も返事はない。ひんやりとするノブに手をかけて、押しても引いても、びくともしない。
すき間からのぞくこともできず、耳をすませても、ネコの鳴き声ひとつ聞こえないまま‥‥
かわりにケイのお腹が鳴ったんだ。