武の男
「今日はここまでとする。お前らも休め」
夕食が終わってから1刻ほど。漸く仕事に区切りがついたのか、ギルバートが書類を置いて立ち上がった。溜まった仕事を処理するだけで精いっぱいだったのか、特に執務室に人を呼ぶでも、来るでもなく、フィオルナルやユーリウスと意見をかわすこともなく、結局、黙々と仕事を片してしまったらしい。
不在中の諸々の報告関係は、翠が呼ばれる前に済ませていたのだろう。とはいえ、明日からは、もう少し賑やかになるかもしれないな、と、なぜか執務室で動き回る自分を、見咎められる覚悟を決めながら、翠も立ち上がる。
「この後は?」
世話係なので、ギルバートが仕事を終えても翠の仕事は続く。どちらかと言えば、彼が仕事に集中している間が、翠の休憩時間のようなものだ。
翠は手をつけず、今後も遠慮したが、茶菓子なども運ばれてきていた。残すのも勿体ないので、ジナオラに下げ渡すように告げておいたが。
「風呂だ」
「はい」
翠は1つ頷く。が、そこでフィオルナルが声をあげた。
「陛下っ、湯浴みにまで、シスイを!?」
「……どこに、なにで、驚いたの?」
翠が意味も分からず首を傾げる。
「どこに……とは、シスイ、何も思われないのですか?!」
「だって、私たち、夫婦よね?」
世話をする、しないは別にして、一緒にお風呂に入っても、問題ないわよね?、と不思議なことを言われたような顔をする翠にフィオルナルが気付いたように、ぐ、と押し黙る。
「あぁ、でもちょうどよかった。フィン、防水の魔法をかけて欲しいのよ。あるかしら。大き目の布と、この女官服の、2つに」
「……脱がぬのか?」
「お世話するのに、脱ぐ必要が?」
ばちばちと、ギルバートと翠の間に火花が散るが、結局ギルバートが溜息をついて折れた。
「と、いうことなので、心配はしなくていいわ。フィンも、ルカも」
間もなく、渋々といったようなフィオルナルが大きな布と、翠の女官服に魔法をかけてくれる。
そこから、ルーカリアナに先導されて、翠は執務室から少し離れたギルバートの私室へ案内された。
「思ったより、落ち着いているのね」
「成金貴族と一緒にするな」
きんピカしているわけでもなく、おちついた調度品で品よく纏められた部屋にほぅ、と息をつく。
おそらく、隣の部屋も似た作りなのだろう。ジナオラに荷物を運ばせたので、翠はまだ見ていない。
部屋の外にルーカリアナと交代した近衛を置いて、私室に翠と2人きりになると、ギルバートは大きな息を吐いた。
「お疲れですか?」
「疲れんと思ったか」
弱音を吐いている、ということは、部屋に潜む影もいないということだろうか。否、居ても影なら聞かぬふりか。
「朝早くにおつきになったばかりですものね。寝ずに駆け抜けたんですか」
ギルバートの着替えを探そうと、部屋の中できょろきょろとした翠に、指だけでワードローブが指し示された。
部屋着や替えの下着を用意して、ギルバートに手を引かれるままに風呂場へ向かう。
「俺が怪我を負ってからは、ほとんど寝ずに、だな。バレットの部下の副隊長は、城についたとき、ほとんど息絶えそうだった。……疲れで」
翠が丁寧にギルバートの服を脱がせていく。
「可哀そうに。陛下命のどこかの赤毛に、酷い目にあわされるでしょうね」
「バレットを置いていったのは俺の判断なのでな。降格まではしないつもりだが」
ギルバートにしては甘いことをいうものだ。
「ウチの近衛は実力主義でな。結果論では俺に怪我をさせたかもしれんが、だからといって、副隊長を下ろしても、その下が追い付いていない。……おい、下はいいぞ。左で脱げる」
「恥ずかしいんですか」
「……抱かれたくないんだろう?」
なるほど、その気になるということか。ならばからかうのは止めておこう。
翠は静かに下がって控える。その間にフィオルナルに魔法をかけさせた布を用意して、脱ぎ終わったギルバートの腕に巻きつけた。傷口を濡らさないためだ。
「お前も共に入ればいいものを」
「私は、抱かれたくないんでしょう?」
湯に浸かったギルバートの髪を洗っていく。浴槽の縁に凹みがあって、そこに頭を預けると、日本でいうシャンプー台のように髪を洗える寸法だ。
先ほどのギルバートの言葉を繰り返すと、なにが気に入らなかったのか、不機嫌そうな顔になった。
髪を流し終わって、体を洗い始める。まず、傷が濡れないように気をつけて布を外すと、そこには大きな切り傷が、否、切り傷よりも酷い、抉れたような傷があった。とはいえ、1週間もたてば、傷はふさがりつつある。
「……痛みます?」
傷には触れないように、マッサージをするように腕を揉んでいく。
「こんなもの、痛むうちにもはいらんな」
「でも、まだ痛むでしょう?」
傷に障らないように手の平まで揉むと、翠は再び布を傷口に巻いてとめた。
「スイ……」
ぱしゃり、とギルバートの右腕が動いて翠の腕を捉える。
「っ、危ないです。はまったらどうしてくれるんですか。それに、右腕、動かしちゃだめです」
「動かなさすぎるのも問題だろう?」
翠は溜息をつきつつ、浴槽の縁にしっかりと手をつきなおして、なんですか、と問うた。
「否、なんでもない」
そう言ったギルバートの手が翠の頬を滑る。
「化粧、これでも一応してるんですからね?」
「していない時と変わらんではないか」
していない時間帯に突然やってくるので仕方がない。
それ以上何もいわなくなったギルバートに苦笑して、翠は腕以外を洗い始めた。
ギルバートの体には傷がおおい。今回負ったものもそうだが、古い傷がたくさんあった。
治癒魔法を使っていれば、まず残らない、それ。今まで、見たことはなかったが、そもそも治癒魔法がない世界からやって来た翠である。ギルバートがくぐりぬけて来ただろう修羅場を思えば、傷があるのは想定済みで、むしろ傷がなかった方がびっくりである。
その傷跡だらけの体を、丁寧に洗っていく。
他の、キレイな体しか知らない女たちは怯えるのだろうか。だとしたら、可哀そうな男だ。その女が暮らす国を守ってやっているというのに。
「抱かなければ、共に入るか?」
「……そうですね。この後、1人で湯浴みするのも、忙しないなぁ、とは思います」
「相変わらず、口が減らんな」
「お気に召しているのでしょう?」
翠の言葉に返事はない。ただ、翠が体を洗っていくのを、気持ち良さそうにして、ギルバートは目を瞑ってしまった。
大変申し訳ありません。
現在、次章の執筆に行き詰っており、さらに更新間隔を開けさせていただきたいと思います。
毎週金曜日の週1更新の予定ですが、今後もご愛読いただけましたら幸いです。