腕へのぬくもり
夕食が済むと、ギルバートは再び執務室へ戻った。
翠もそれに続いて食後のお茶を準備している。
「先に休むか?」
「珍しい。気を利かせていただけるなんて」
「お前は俺をなんだと思っている」
「最後までお世話しますよ。私はアナタの世話係ですから。今は」
翠を睨みつけたギルバートに、翠は苦笑してお茶を差し出す。
ギルバートと、フィオルナルと、ユーリウスが並んで黙々と仕事を続ける。
「フィン、インクを補充しておくわ」
「宰相、こちらの本は戻しておきますね」
「シギル、代決済みの書類はこちらに置けばよかったですね」
翠は昼間に引き続き、ちょろちょろと動き回る。仕事をしている人間にとっては、鬱陶しいかもしれない、と思っていたのに、結局、誰も翠を咎めない。
「リーリア、私のこともユーリで構いませんよ。陛下が名前呼びなのに、私が役職名だというのも些か居心地が悪いのです」
「では、ラユーリでよろしいですか」
「えぇ、構いません。それにしても、リーリアはご出身がご出身だというのに、仕事の流れをよくご存知ですね。文字が読めないとお聞きしていますので、商店などで手伝っていたわけでもないのでしょう?」
まぁ、そうだ。翠は何の気負いもなく頷く。事情をしった上で隠そうとするだろう人間が3人もいるのだ。秘密の保持など、そちらに任せておけばよい。
「大陸へ渡る前は、そういった手伝いをしていたとおっしゃっていましたね」
「大陸に来てから、王都へ渡って、陛下の目に留まったのはすぐだというし、ラグもないんでしょ」
「文字は違うが、大陸の外も数字は同じものを使うというな。算術はできんのか」
「……さぁ、どうでしょうね。なにしろ、無学ですから」
翠はもはや、まともに応える気はなかった。ユーリウス以外のトップ1,2が揃って口裏を合わせたのだ。もはや、その情報が自分に開示されることはないと分かったのだろう。ついでに、自分以外の権力者が事情を知っていることも伝わった。
聞いても無駄、そして、聞かなくとも問題がないことを正しく判断したユーリウスは大人しく引き下がった。ここで無闇につっこんでくる男は、当然宰相などにはなれない。
嫌々、翠をフォローすることになったルーカリアナは、相変わらず眉を寄せていた。1日ずっとこんな調子である。そのうち、そのキレイな顔に皺が形状記憶されるのではないかとも思うが、火遊びが得意な男のことだ。むしろ、そうなってしまえばいいと思えた。
ひととおりの雑務を終えてしまって、翠は自分専用のようになってしまったカウチでお茶をすする。何か仕事はないか、と3人の様子を見守っていると、時折、ギルバートが僅かに右の手を揺らしているのに気付いた。
おそらく、右手が使えないのに慣れず、咄嗟に右手を使おうとして、気付いて戻す、ということを繰り返しているのだろう。
表情すら変わらないが、おそらく隠しているだけで、翠にはギルバートがその度に歯がゆい思いをしているのが分かった。
「シギル、お茶が冷めたでしょう」
言いわけをしながら、翠はギルバートの右側に近づく。
「まだ冷めては……」
そして、ギルバートの言葉を遮って、その腹のあたりに落ちつけてある、右の手の平をぎゅ、と握った。
「スイ?」
「すみません、手が冷えてしまったようで、暖をいただきますわ」
嘘だ。ギルバートにも、いつもの直感など関係なしに伝わっただろう。だって、翠の手の方が温かいのだから。
しばらく無言でそのまま握り、す、と腕を人撫でして、翠はそのまま物も言わずにカップを手にとってその場を離れた。
ガタン、
と椅子を引く音がして、翠はカップをそのままに振りかえった。
「……シギル?」
見れば、ギルバートが机の上の書類を抱えて立ち上がったところだった。
「どうかしました?」
まさか、書類を抱えたまま寝に行くわけではないだろう。
怪訝な顔で翠が尋ねるのを無視して、ギルバートはそのまま翠の座っていたカウチにやってきて何も言わずに腰を下ろした。
お茶を注ぎ終わった翠が、カップを片手にカウチへ戻る。
「こちらに座れ」
ギルバートが指したのは彼の右側であった。
普段は位階の低い者が座る側だが、今に至っては、右腕が動かないギルバートにとって完全な死角である。
「読むだけなら、ここでできるのでな。……あちらの椅子は腰に悪い」
「もうそんなお歳でしたか」
「早く座れ」
翠を促したギルバートが書類に集中し始める。翠はしょうがない、と1つ息をついて、覚悟を決めてその右隣に座った。
と、僅かにギルバートの体が傾いで、翠の負担にならない程度にその体に寄りそう形になる。翠の腕に、彼の体の温かさがじわりと滲む。
目の前の男は、よほど今回の怪我が堪えているのだろう。何かに癒されたいのかもしれない。……アニマルヒーリングか。
むしろ、そちらの方が腰に悪いだろう、という重心のずれた座り方で、しかし、ギルバートはそのまま書類に目を通していた。
翠にとっても、別に望んだ展開ではないのである。だから、そんな嫌そうな顔をしないでもらいたいものだ。
ギルバートの席移動に慌ててついてきたルーカリアナからの圧力に、翠は今度は内心で大きな溜息をつくのだった。