其れは願いか、命令か
「お前の言葉が聞きたかったのだ」
「……」
翠が無言でギルバートを見上げる。彼は、それ以上は何も語らず、しばらく翠を抱きしめていた。
「わざわざこのためにお呼びに? いつでもお部屋に来て下さればお迎えしましたよ」
わざわざ執務室などに呼びださずとも、部屋を尋ねたギルバートを、翠はいつもどおりに迎えただろうし、茶なり酒なり注いだだろう。
「いつかのように、お前がわざと俺を怒らせでもすれば、その場の勢いで殺しそうだったのでな」
人が居る方がよかった、と言われてはまったく安心できやしないが、そういう理由で翠をわざわざ人が居る場に呼び出したということは、まだ彼は翠を本気で殺そうとは思っていないということだ。
とはいえ、そんな心配をせずとも、さすがに翠もギルバートが剣を抜こうと思うほど逆鱗にあっさり触れるつもりはない。そのところの危機回避ができるだろうと確信が持てる程度には、彼の気持ちを性格に掴むことができているのだ。翠だって、彼に対しては、とても鋭く勘が働くようになっているのだから。それがいいか、悪いかは別として。
「……命令もあったのだ」
「……」
命令、ときた。珍しい。これまでも、ギルバートは何度も翠から拒否権を奪ってきた。アシュレイの件しかり、トゥジェノ殺害の犯人探ししかり。しかし、それはあくまで無言の圧力だった。
だから、珍しいと思う。あらかじめ、翠に断れないことを告げるなど。
「俺が治るまでの世話は全て、お前に任せる」
「は……?」
ギルバートの言葉に翠は素直に目を見開いた。対して、翠以外の人間は誰も驚かない。外堀は埋めた後か、と眉を寄せる。ルーカリアナが不機嫌な理由を分かった気がした。
「部屋も隣に用意した。俺が治るまでそこで過ごし、俺の言うままに俺を世話しろ」
「……隣って、それは、イヴァリィの部屋なのでは?」
「ただの空き部屋だ」
絶対に違うだろう、とは、顔色を悪くしている侍女や侍従の様子から分かってしまうが、誰も否を唱えられないのなら仕方ない。
彼は、ただ、翠が頷くことだけを望んでいる。他の人間に囲まれた場所では、彼は弱気を見せられないが、それでも。翠を、こうして頼ってきた。
執着とは違う。心も寄せていない。それをしてはいけない。
だから、これは、王の不興を買って殺されることを避けるためだ。
だから、きっと、ギルバートも命令だといったのだ。翠に、選ばせないために。
そう思い至って。逃げ道など、ないことに気がついて。
逡巡は一瞬。翠は溜息とともに頷いた。
「……治られた暁には、なにか強請りますからね」
「聞くだけなら聞いてやろう」
素直に頷いた翠を抱く腕が、少し強くなったように感じた。
「よろしいのですか、シスイ」
取り急ぎの引っ越しをするため、翠はリーリアとしての私室へ戻っていた。
翠が王の執務室へ呼ばれた時に、その場にいたフィオルナルが、難しい顔をしたまま後ろをついてきて、部屋に入るなり、シスイの顔色を伺う。
ちなみに、彼もいっしょに戻ってきたルーカリアナは、相変わらず、面白くなさげな顔をして部屋の中で突っ立っている。
部屋の奥ではジナオラがあれやこれやと引っ越しの準備をしていた。
同じアーガルと言う立場であっても、このあたり、身分格差でもあるのだろうか。内心で首をかしげていると、目の前のフィオルナルから悲壮感が漂い出した。
「別に、それほど嫌々というわけではないわよ」
「ラブラブだったもんね。ずっと抱きしめられてて。本当に関係してないの?」
ルーカリアナが溜息をついて翠を揶揄する。
「アナタ、そういった意味でも王が好きなの? あてこすりは止めてよね」
「……」
翠の言葉にルーカリアナの機嫌が、また格段に下がったが、翠は素知らぬ顔をする。
「身のまわりの世話を、リーリアとはいえ、側妃にさせるなど。……陛下は御身を女官のように思われているというのですか」
「だったら、わざわざイヴァリィの部屋なんかやらないでしょ」
悲壮感ただようフィオルナルの言葉に、部屋の奥からジナオラが返す。
「それも、万が一、他の側妃にバレれば、これまで以上に……!」
「文句付けてきそうな側妃はもう居ないけどね」
今度、フィオルナルの言葉を遮ったのはルーカリアナだった。そのとおりである。
「では、文句はなくとも、陛下は子が無い身、アナタとの間に御子を望む声があがるやも……」
「リーリアなんだから、少なからず、そういう要望はあるでしょう。今さら今さら。だいたい『では』、ってさ。それ、魔法師長は何の理由を探してるの?」
ジナオラの言葉にフィオルナルははっ、と息を飲んで押し黙った。
「そうね、私の立場は不安定ね。みんなも見ているあの様子じゃ、ただたんに冷遇しようとして、面倒を押しつけたわけではないでしょう。ただ冷遇したいだけなら、他の方法がたくさんあるんだから」
翠の言葉にルーカリアナの目がまたも鋭くなるが、無視して言葉を続ける。
「かといって、本当に私をイヴァリィにする気なんてないわよ。あの人、効率的に物事を進めたくて、他の目なんか気にせずに隣の部屋を渡したんでしょ。部屋自体が繋がってるとはいえ、私には制約もあるんだから」
制約。今の翠にはかかっていないそれを、ギルバートはどれほど信じているのだろう。
あの超直感の持ち主が本当に、安全だ、と安心しきっているとはとても思えない。
「とにかく、命令だと言われたのだから、拒否権はないわよ。ジナオラ、準備できた?」
「あらかたね。服は、どうするの?」
「フィオルナル、侍女服……は、枚数制限があったわね。女官服を複数用意してちょうだい。動きやすい方がいいから」
「シスイ……」
フィオルナルは深い深い息をついて、それから是、と返事を返した。
愛ではなく、執着。あるいは、縋り。
寂しい夜に、枕でも抱いて眠りたくなる、そんなイメージです。