捨てる女
「アレは、どこへいきましたかしら?」
「はっ。お優しいことだ。さすがに、救った命は気になるか」
王の毒殺未遂から3日。夕食後に広間を辞そうとした翠に、ギルバートが付いてきた。
ギルバートと翠に毒が盛られたことは緘口令がしかれ、表向きにはいつもどおりの生活である。
変わったことといえば、翠が毎食、ギルバートの食事に呼ばれるようになったこと、その場にジナオラがいないこと、ルーカリアナとは、あの夜以降、会っていないことくらいだろうか。
食事を一緒にとっていたとしても、そこには給仕や護衛の人間がつくので、2人きりの時ほど気安い会話はできない。否、私室の壁の防音機能は筒抜け型なので、2人きりの時だって、その会話が聞こえる位置に衛士はいるのだろうが、王と側妃の会話など、聞かぬ方がいいに違いないし、当然、聞いていないふりをするだおう。
そうして、部屋へやってきて、酒の入ったグラスを片手に寛いでいるギルバートに尋ねたのだ。アレ、が何を指すかは、お互い口にせずとも分かるだろう。
「まだ寝込んでいると聞くが? すぐに吐き出したとはいえ、それほどの毒だということだな。もっとも、口に入れる前から分かっていた者の前で言うことでもないが」
翠は自らの料理に入っていた毒を、見た瞬間に見抜いて見せた。と、あれば、当然、翠が毒の存在を知った上で、ギリギリまでそのことを告げなかったことも、ギルバートには分かっているはずだ。
その理由を聞かないのは、優しさか、はたまた……。
そんなギルバートの意図を無視するように、翠は思考を巡らせる。飲みこんですらいないのに寝込むとは。否、ジナオラがそれほど虚弱とも思えないので、別の理由があるのかもしれない。もっとも、ジナオラが本当に寝込んでいたとしても、ギルバートの言うとおり、そうなる前に止められた翠には、かわいそうに、などと思う権利もないが、翠にだって、そのつもりもない。
寝込んでいる、別の理由……か。それは、そうだろう。今や、毒見は不要なのだから。
「給仕の女性にでも手を出してらっしゃったかしら」
「過去にはそんなこともあったな」
「……」
ギルバートの敵は多い。だが、今回の下手人は政敵や権力争いの相手ではないだろう。
政敵や権力狙いが理由でコトを起こしそうな人間が片っ端からすでに生きていない、ということが理由ではない。……事実ではあるが。
嘘か真か知らないが、ジナオラが口に入れただけで寝込むような毒薬を仕込む恨みの深さの割に、確実に仕留めようと言う計画性がない。気持ちに頭がついていっていないのだ。
それは、痴話げんかの末に、カッとなって相手のわき腹を刺し貫くような。そんな、感情と怨念に左右された女の影を感じた。同性の勘、というのもバカバカしいが。
だから尋ねたのだ。給仕の女に恨みでも買っているのか、と。言外に、下手人が女であることを示しているのだ。
「そうだな、女だろうな」
「ひどい人」
どうやら、本能で生きる男も同感らしい。
「思っていないことを口にするな。酒が不味くなる」
ギルバートが不機嫌そうな顔で酒を呷いだ。
「アナタは分かっているくせに。それでいて、私に無視をしろとおっしゃるのね」
「俺は勘で動く人間だが、周りの人間はそうもいかんということだ。奴らはどうにも、理屈を欲しがる」
「それに合わせて差し上げると? お優しいことですわね」
「……俺ばかり責めるなよ。お前も同罪だということを覚えておけ。決めたのだろう?」
つい、言葉に棘が籠った翠の腕を、ギルバートが掴んだ。僅かに力を込められたその部分にじわりと痛みが広がる。そう、その通りだ。翠はジナオラの命を選んだ……そして、その結果には、望ましくないだろう未来もついてきた。
翠は執着しているわけではない。ただ、自分の影響かもしれないところで、不運を受ける人間がいるのが、どうしても釈然としなかった。その結末を選んだのが、自分だとしても。
「ひどい人、は俺だけか?」
「……いいえ、私も。……平等に、酷くて、残酷なのよ」
翠の顔から表情が抜け落ちる。その瞳が漂うのは、遥か昔。
気付けばギルバートが翠の腕から手を離し、今度はその頬を撫でていた。
翠はやっと自覚していた。自らがどこかの世界にいる限り、この世界で、ジナオラを、ギルバートを、周りの人間を、救っても、見捨てても。結局、そこには大なり小なり、翠の影響が表れる。それを完全に排することなど、最初から不可能であったのだ。
その事実を突き付けるように、翠は再び選択を迫られて、そして選んだ。そんな翠を、ギルバートは同罪だという。……それは全く、そのとおりであった。
「私、アナタに飼われている愛玩動物ですから、我儘を許していただけるかしら」
ギルバートに頬を好きに撫でさせたまま、翠は唐突に口を開いた。その顔には表情が戻り、双眸はギルバートを見つめている。
「なにを突然。……もっとも、女とは強欲なものだと知ってはいるが」
「我儘とは言いましたけれど、お願いではありませんのよ。なにかお品をいただいたからと、愛嬌を差しあげる気は、今のところありませんから」
「ほぅ。では、お前の願いを聞けば、愛嬌が返ってくるのか」
「今のところ、何かを願うつもりはありませんから、分かりませんわ。……今から言うのは、我儘です。アナタに叶えてもらえないなどと思ってもいない、傲慢な言葉。……見返りなどは求めないでくださいな」
その言葉に、ギルバートは翠の頬から手を離し、まっすぐに翠を見つめ返す。その、真意を推し量るように。それと同時に、面白そうな光が彼の目を過った。
「興は乗るな。それほど忌々しい強請り方をされたのは初めてだ。聞くだけ聞こうか」
「ただ部屋に閉じこもるのには飽きましたの。散歩もしていますけれど、外はいろいろと煩わしくて。……ですから、暇つぶしの道具を与えていただきたいの。……ねぇ、アナタはもういらないんでしょう? 私に犬を飼わせてくださらない?」
しれっと言い切った翠に王が僅かに唸った。
「なるほど。繋がるのか。それは、お前が捨てるものの代わりか?」
「例えそれが事実であっても、アナタにその表現はされたくないわ」
「……ふん、同罪、だったな」
ギルバートが鼻をならしながらも、考える素振りを見せる。
そう、それは、ギルバートへの交換条件。翠が、彼と同じ罪に落ちるための。
「私、育ちがよいもので。一度手を出した動物は最後まで面倒をみなさい、と教えられていますの」
一応の愛玩動物である翠からの意趣返しだった。それに、深い意味などないはずの軽口。
「はっ。お前と俺では『いい育ち』の指す意味が違うのだろうな。俺は邪魔になったら排除しろ、と教えられたぞ。口ではなく、実践でな。……育ちがいいからだ」
言葉尻をとらえたギルバートの自嘲に翠はしまったと内心で苦虫を噛んだ。弱みを見せたくないばかりに、慣れない傲慢さで押し通そうとした。その結果がこのザマだ。
地雷を踏んだ。
逆鱗ではない。証拠に、ギルバートは怒っていない。それどころか、面白そうである。だから地雷なのだ。ギルバートの執着を避けたい、翠にとっての。
ギルバートがニヤニヤと笑みを浮かべて、その手を再び翠へと伸ばす。
それを、後ろに下がることで避けながら、今度こそ、翠は彼の逆鱗に触れた。
「失言でしたわ。……ここはアナタに譲ります。だから、我儘はよしましょう。これは、おねが……」
お願い、と口にしようとして、がたり、と立ちあがったギルバートの視線に口を閉じた。
彼は、翠に射殺すような視線を向けながらも、しかし、その体は騎士のように膝をつき、翠の手をとる。そんなギルバートの姿に、翠は内心で呻いた。
生に執着があるわけでもなく、当然、死への恐怖もないが、望んで死にたいわけではない。
だからこそ、翠は内心で呻きながらも、望んだ反応がギルバートから返ってくるのに安堵した。あとは、この場を生き延びるだけである。
「これはこれは、異国で大切に育てられた娘に哀れなことをした。この鳥かごに閉じ込められ、さぞ、寂しかったことだろう。身の安全のために、外へ出すことは許せぬが、せめて、その心を癒す贈り物を約束しよう」
まるで劇でも演じるかのように言葉を垂れ流す王にすぐにでも、取られた手を取り返したいのを我慢する。最初にしくじったのは自分だ。
「私のようなものに、ありがたき幸せですわ、……ギル」
間違えてはいけない。王と呼んではいけない。他の敬意や敬称も、見せてはいけない。笑顔を向けてはいけない。いつもどおり、ギルバートの前で小賢しく興を誘う女でいなければいけない。でなければ……切り捨てられる。
立ち上がった王にとられたままの腕を強く引かれた。引き寄せられた次の瞬間には、体を締め付ける勢いで、ギルバートの腕に閉じ込められる。ギシリ、と体がきしむ。
「俺を舐めるなよ。その場しのぎで愛嬌を俺に見せるなど、頭の軽い女になるな。いつから人になったつもりだ。……お前は、俺の興をさましたいのか」
耳元へ、囁かれる。囁く、という言葉とは程遠い、怨嗟の音。
言い終ると、ギリッと耳を噛まれた。それが恋人どおしの甘噛であるはずがない。
体が解放され、崩れ落ちるようにその場に座り込んだ翠を振り返りもせず、ギルバートは部屋をさっていった。
パタタッと、耳の傷口から血が落ちた。
耳が代わりに泣いた所為で、涙は出ない。だが、泣きたい気分だった。
やはり、慣れないことはするもんじゃない。命を救うなど。そして……命を見捨てるなどと。