花弁が運ぶ
その日、いつもどおりに翠の朝食の世話をして自らも仕事へ向かったフィオルナルと、入れ替わるように部屋へやってきたアシュレイを見て、翠はふと首をかしげた。
「あら……」
「どうかなさいました?」
思わず声に出した翠に反応して、アシュレイが主の様子を伺う。
「アシュレイ、肩のところに花びらが乗ってるわ……。どこかへ出ていたの?」
立ち上がってアシュレイに歩み寄った翠が、す、と彼女の肩に乗っていた桃色の花弁を手にした。
「キレイね……」
なんという花だろう。植物に詳しいわけではないので、何という花かも分からない。それとも、この世界だけで咲く花なのだろうか。
翠が指で掴んだ花弁は親指の爪ほどの大きさで、それが幾重にも重なって咲く花はきっと美しかろう、と思ったところで、どこか焦った様子のアシュレイに気がついた。
「あぁ、責めているのではないから、誤解しないで。朝の時間はアナタの自由な時間だもの。好きに過ごしていいのよ。花弁がキレイだったから、花を見たいと思っただけなの」
「そうでしたか。……この花は水場の影の小道から裏門へ抜けるところの、奥まったところに咲いているものだと思います。宮内の他ではあまり見かけないので、ご存じないのも当然かと。……お望みとあれば、昼過ぎにでもお部屋にお飾りできるようにしておきます。時間があれば、名前の方も調べてみますわ」
翠の言葉に、ほっと息をついたアシュレイが笑顔で答え、翠も微笑んで1つ頷いた。
「侍女ってそんな裏道も通るものなの? それとも散歩かしら? 側室の付き添いでないと入れない場所も多いから、散歩するしにしても場所がないのかもしれないわね」
独り言のように漏らした翠に、淹れたての紅茶を差し出しながら、アシュレイがゆっくりと首をふる。
「確かに、散歩で行くことのできる場所は限られていますが、リーリアや他の側妃の方たちに付いて庭園に入ることができるのですもの。飽きることはありませんわ」
そうなの、とうなづいて紅茶をすすった翠に、アシュレイが1つ頷く。何か花の香りがする華やかなお茶で、1口でそれを気にいった翠が続けてもう1口を飲む。
あまり食べ物の好き嫌いがないのか、食事中は気を張っているつもりであるのに、アシュレイには翠の好きなものはもちろん、嫌いなものすらよく分からない。それでも、翠が紅茶だけは唯一、大のお気に入りと分かっているので、今日もまた自分の淹れたお茶に満足そうな様子を見て、アシュレイはほっと胸をなでおろした。
「リーリアの侍女になってから、先日の祭典のような場で人と会う機会も増えました。今日の朝も、そのときに知り合った侍女の方とお話させてもらっていたんです」
その言葉に、翠はわずかに驚きながら、それでも嬉しそうなアシュレイを見て微笑む。
「そう。……私の侍女なんて押し付けられてしまって、アナタにも苦労をかけていると思うけれど、それでも、そういう人ができてよかったわ」
翠の言葉に、とんでもない、と首を振るアシュレイを穏やかに見つめながら、翠はもう1口、と紅茶に手を伸ばしたのであった。
昼過ぎ、宣言通り、花を摘んできたアシュレイが、それを翠の部屋に飾ると、摘みたての花の甘い香りが部屋に香った。
昼の休憩の間では、花の名前までは調べられなかった、と謝るアシュレイに代わって、夕方、仕事を終えて翠の様子を伺いに来たフィオルナルから、『アーリヤ』という名を教えられた。聞き慣れないので、元の世界にもあったのか、この世界の花なのかは、結局分からないままである。
花の名までよく知っているものだ、と内心で関心した翠の横で、やはり城内で咲いている箇所が限られているのか、フィオルナルもその花の香りにほぅ、と息をついていた。
「甘い……」
夜も更けた頃、今日も今日とてやってきたギルバートが、部屋に入った直後に眉を寄せた。年が明けてしばらくは政務に追われていたのか部屋に現れなかったので、翠が王の姿を見るのは、祭典の後初めてになる。にも拘わらず、第一声が不満ときた。
「侍女のアシュレイが摘んで来てくれました。アーリヤというそうですわ。ご存知でした?」
「知っているように思うか?」
「いいえ」
からかう様に向けた質問にあっさりと返された翠が、嘘偽りなく正直な返答を返すと、ギルバートは呆れたように鼻で笑った。
「お前がこういったものに関心があるとは思わなかったな」
「そうですか? 私も一応は女のつもりがあるのですよ」
「お前が女であることは認めるが、花に興味があるとは思えんな。誤魔化すな」
翠の言葉が誤魔化しだと断じたギルバートに、そのとおりだった翠は、つい苦笑を浮かべてしまう。確かに関心はない。手持無沙汰であった時に、タイミングよくアシュレイが花弁など纏ってきたので、話題にしただけである。
部屋から出て、散歩をする時などは、庭園へ赴くことが多いが、それも、彼女が植物に魅力を感じているわけではない。ただ他に行くような場所がないというだけのことである。
「それにしても」
ギルバートが呆れのこもった溜息と共に唸った。
「バレットから聞いてはいたが、俺の知らぬ間に、よくもあの雌狐と仲睦まじくなったものだな。……忌々しい。あの女、これ見よがしにお前との話をしおって」
雌狐の示すものが誰かを悟って、相変わらず険悪のようだと、翠はもはや呆れともつかない溜息をつく。とはいえ、ギルバートは、雌狐が(・・・)翠との話をした、と言った。まさか、王と側妃が揃う場で、立ち話や茶を飲むわけではないだろう。自分のことは棚上げするが、そう思う。……つまりは、そういうことである。
「そういう王も、仲がよさそうではないですか」
「妬いたというなら、そう言っても良いのだぞ」
「そう思われますか?」
抱いただろう、と指摘して置いて、妬いたのか、という問いには言外に否と返す。
そんな翠の態度に、ギルバートは些か不機嫌そうに黙したあと、口を開いた。
「……あれは楽なのだ。ひと月に1度でも足を運んでおけば、あとは何も言わない。どれほど他の女へ通おうと、どれほど放置していようと、口では俺の寵愛を欲しいという癖に、それが苛立たしいほど態度に表れん。後腐れのないのはいいことだが、あれほど心中が分からなければ、いっそ気味が悪い」
憎々しげに応えながら、翠の注いだ酒を呷る王を見ながら、翠はなるほど、と考えた。
どうやら王はトゥジェディの元へ定期的に通っているらしい。後宮内で、王が通っただの、どうだの、という話がそうそう駆け廻らず、側妃たちのパワーバランスも序列そのまま、という感じであるので、後宮に飽きたのだと思っていた。
否、真実飽きていると考えて違いないのかもしれない。王の好色は誰の話を聞こうとも違うことはないが、我が強く、縛られることが嫌いである王のこと、適度に発散するならば娼館の女の方がどれほど楽かしれない。
たまに手近なところで女を用意しようとなると、自然と消去法で選択肢が1つに絞られる。性格の不一致はあるだろうが、王のいうことは尤もで、一番後腐れがないのはトゥジェディに他ならない。
カポネは隣国の王女とはいえ人質に他ならないし、子など出来ては困るだろう。王にとって面白味のある女とも思えない。彼女自身は深窓の令嬢だが、自らのアーガルの躾すらできない性格は、トゥジェディとは違う意味で王とは合わないに違いない。
トゥジェノについては言葉はいらない。子供すぎる。ジペットは……、王がその存在を歯牙にかけているかさえ謎であった。
とにかく、形式的には3人ともれっきとした側妃であるし、もちろん婚姻当初は王も通っていたに違いないが、それが継続しているかと言えば、違うのだろうと思えた。
それに引き換え、トゥジェディは後宮を裏で握っていそうなほどの絵に描いた側妃であるので、その枕詞を情報網として使う意味での用事もあるだろう。に、しても。月に1度通えばいいとは。トゥジェディの方も王に対する気持ちは役目以上のものではないと見える。
これまで幾度かお茶会をする中で、翠自身、トゥジェディからギルバートに向けられる思いを感じたことはなかった。否、その聡明さで上手く隠されているのかもしれないが、例えそうであっても、ギルバートにその思いを向けない理由がない。
となれば、政略といえる婚姻のこと、それもいた仕方ないのだろう。ギルバートは気味が悪いというが、彼だって感情で婚姻を結んだのではないのだ。お互い様である。
それにしても。
王の好色故に、かつては人が入りすぎて婚姻の儀式さえ形骸化してしまうほど大人気の後宮であったというのに。今になって、その要素が全くと言っていいほど機能していない。翠にとっては、歓迎できる自体でもあるが、国として、この後宮の崩壊をどのように考えているのだろうか。ギルバートからは結局伺い知ることはできなかった。