始まりの宴 【前篇】
祭典の朝。
……翠は震えていた。
ヴァルモンドでは、日本と同じく、新年が冬に訪れる。
朝一番、いつもより随分早くにフィオルナルに起こされた翠は、簡素な礼服をアシュレイに手伝われながら身にまとい、厳かな雰囲気の中、王城の敷地内にある神殿へ出向き、見よう見まねで膝をついて祈りをささげた、……フリをした。
ちなみに、王城の敷地内にある神殿は当然、本殿ではなく、しかし、王宮に住まう者が祈りを捧げにくるので、その場で式を執り行うのは今代の師父であった。膝をつく前に垣間見たその顔は60あたりだろうか。細身のひょろりとした体に師父の服を纏い、気難しげに眉を寄せて祈りの言葉を唱えている。
自分に祈りを捧げるとは。否、その場面に自分から出向くことになるとは、なんとも滑稽な話である。何より、さすが国の上層部が集まる祈りの場である。聞く気もなかった翠の耳に漏れ聞こえた祈りの声【本音】は、つい、礼拝の欠席を決めた自分の判断を英断だと確信してしまう程度に、欲にまみれたものだった。
中には、翠が居なくなればいいと祈る人間もいたが、神頼みなどしている内は安全だろうと無視をする。神に祈る人間が全てこういう人間であれば、シェリラムもいくらか気楽に世界を見守れたのかもしれない。なんて。いっそ笑いたくなるほどで、気付けば長い祈りの時間が終わっていた。
礼拝が終われば、あとは祭りとはいえ、翠にとっては、そちらも気が重い。国の上役たちが祈りをささげる部屋まで一緒に付いてきていたフィオルナルと、それ以外の者が祈りをささげる聖堂で祈り終えたアシュレイと共に、重い足どりで私室へと戻る。
相変わらずの翠の希望である、比較的締め付けの緩いドレスに着替えさせられ、漸く椅子へ腰を下ろせた翠の後ろで、まだまだ忙しいアシュレイが髪を結いあげている。
翠が着替える間にフィオルナルが用意してくれた紅茶が、翠の手元で湯気を立てていた。夜にこっそり飲んでいたとはいえ、何の気負いもなく茶を楽しめるのはやはり嬉しい。
お茶を1口。ほっと息をついた翠を心配するように、フィオルナルが顔を覗き込んできた。
「だいぶお疲れのご様子ですが、大丈夫ですか? あと半日のことですから、なんとか頑張ってくださいませ」
「イベントごとがあれば忙しないのは分かっていたから大丈夫よ。疲れているというのは、そのとおりだけど」
「祭典の場では、他の側妃方に何か言われるかもしれませんが、私も傍に居りますので、ご安心ください」
「アーガルと魔法師長の地位を混同している、なんて陰口を叩かれない程度には自重してちょうだいね。こちらも、それほど柔ではないのだから」
翠の言葉に気遣いの色でも見てとったのだろう、フィオルナルがいくらか和らいだ表情で、はい、と頷いた。
トゥジェディ以外とは、初めてちゃんと顔を合わすことになる。どんな人物たちだろう、と1人思案にふけろうとして、やめた。行けば分かるのだから。
「……アシュレイ、ありがとう。さぁ、行きましょうか」
髪のセットが終わったようで、少し前に下がっていた侍女に笑顔で礼を言って、翠は立ち上がった。
そして……。
寒空のした、すました顔で誰にも分からぬよう、椅子で震える今に至る。
何故、屋外なのだ。冬だというのだから、ぜひ屋内でやってもらいたい。
そんな翠の心の叫びは、全てを慣習で片づけてしまっている連中には通じないに違いない。
そんな寒さを誤魔化すように、周囲に目をやることで気を紛らわせる。
細長いロの字型に並べられたテーブルと椅子。王が所謂『お誕生日席』に座るようで、いまだ空席のそこを挟むように側妃の席が容易されている。
祭典というだけあって、公務ではないことを強調するように、王の周りにはプライベートでその傍にある者たちの席があった。
もちろん近衛は王の側に控えるのだろうが、国の重役たち、その代表である宰相の席は、もう少し下座に用意されているそうだ。とはいえ、翠には宰相の顔は分からないので、それを確認する術はない。
フィオルナルも、いつもならば王宮魔法師長として宰相と近い位置に座ることになるのだが、今年は翠のアーガルとして翠の背後に控えてくれていた。続々と集まる人間たちの名前を耳元で囁いてくれているが、それほど大量の名を聞かされても、覚えられるわけがない。
否、やろうと思えば、翠なら覚えられるのだが、そんな気にもならないので、フィオルナルには申し訳ないながら、その囁きは右から左であった。
この国では、右と左にいる者では、左の人間の方が位が高い。
要するに、王の心臓に近く、また、王にとっても利き手側ではない左側に、より信頼の厚いものを置く、ということであった。
と、いうわけで、側室たちの席も、王の左手側にカポネとトゥジェノ、右手側にトゥジェディと翠、というようになっている。ちなみに、ジペットの席はなく、それを誰かが気に留めることもない。
そんな取りとめのないことを考えているうちに、いつにもまして身繕いに抜かりのないトゥジェディが、彼女のアーガルを伴って姿を現した。
お茶会の席で聞いたことだが、彼女のアーガルは2人だけらしい。信頼の置けない者を据えるわけにもいかないのだから、それでいいのだと、どこか裏のある笑みで言われたのを思い出す。
「緊張してる?」
翠の隣に腰を下ろしたトゥジェディが親しげに話かけて来た。
「厳かな雰囲気はさっきので終わり。これからはお祭りなんだから、楽しまないと」
「あまり楽しいとは思えないのですけれど」
「あら、大丈夫よ。少々の無礼を働いたところで、誰がアナタを切れるというの」
そういう話の流れではなかったのだが。そう思いながらも、トゥジェディの言うことは間違ってはいない。王が同席する場で、彼を差し置いて手打ちなんて見世物をやって見せられる豪胆はこの国には居ないに違いない。そして、ギルバートも今さら少々の無礼を理由に翠を咎めたりはしないだろう。それは翠が好かれている、という意味ではなく。ギルバートが堅苦しい決まりごとを厳密に守るような人間ではないという意味で、だ。
「次はトゥジェノだけど、いつも中々出てこないのよね」
お茶会を重ねるうちに、すっかり砕けた喋り方になったトゥジェディが庭園の入り口を指す。
「トゥジェは位階が一緒では?」
「そうね。でも、彼女はプライドが高いし、私も無駄な諍いは避けたいわ。それくらいなら、私は位階なんてどうでもいいの。それに、彼女の長い化粧時間を部屋で待っているより、さっさとこちらに来てアナタと喋っている方が面白いもの」
いつもは凝った結い方をしている髪が、今日はあえて下ろされているのか、トゥジェディの首の動きに合わせて胡桃色が波打つように揺れる。それに視線を奪われたところで、耳に僅かなざわめきが聞こえた。
「あれ……」
「えぇ。アレがトゥジェノ。年に1度しか顔を合わせなくたって、忘れたりしないでしょう?」
真っ赤なドレスにヒラヒラの扇を携えて、派手な女性が現れた。ブロンドの髪を高く結い上げて、そこに煌びやかな飾りをこれでもか、と盛りつけている。なるほど、トゥジェディが髪をおろしている理由が分かった。
化粧もとても濃く、真っ白に塗った肌に、目元やルージュの色が映える。……とはいえ、そのあどけない顔付きに似合ったものではなかった。
彼女のあとに続いたお付きの人間も、またすごかった。どれもトゥジェノに似たり寄ったりで、下手すればリーリアである翠や、トゥジェディよりも目立つ姿がいち、に、さん人。
翠たちの席に近づくにつれて、その釣り上がった瞳がはっきりと見え、同時にふりまかれた香水がテーブルを挟んで香った。
「……私、いつもこの祭典で食が進まないのよね。お腹はすいているのに」
「スープを飲み続けた後ですものね」
内心はトゥジェディの意図に同意するが、面と向かってそうとは言えない。ごまかして返事を返した翠に、トゥジェディは面白そうに喉を鳴らして笑った。
そうこうする間に、トゥジェノが自分の席につき、その後を追いかけた3人の女性がその後ろにつく。……後ろについたのだ。3人揃って、まさに『姦しい』の感じを表現しているようではないか。ぺちゃくちゃと、後ろについた女性同士で談笑を始める。
「え、もしかして、彼女たち……」
驚きにそれ以上の言葉をなくしてトゥジェディに視線で問う。
「そう。彼女たちがトゥジェノのアーガル。3人とも文武両道ならぬ、文武不道。できるのは、お喋りと筋違いな見目の配慮だけ、ね」
おそらく、ギルバートが彼女を嫌う理由の1つである、相変わらずの辛辣さでトゥジェディが笑った。
「あら、新しい顔。……誰でしたかしら? お席だけは側妃であられるようだけれど、わたくし、後宮に上がられた方のお名前すら聞こえてこない立場になってしまったのね。今の後宮には婚儀の礼も、そのあとの宴もないのですもの。それも当然なのかしら。それと一緒に、上のものへ挨拶をする当然のことすら、なくなってしまったのは残念だわ」
ふと、鋭い視線が翠を射ぬいていた。もちろん、彼女が翠のことを知らぬはずはない。
「高貴な方に我が身からお声掛けするなどと失礼なこともできず、ご挨拶が遅れましたわ、トゥジェノ。ご機嫌うるわしゅう。リーリアですわ」
席から立たずに視線だけで挨拶をする。
「そうね、リーリアというからには、育ちもわたくしとは違うのでしょう」
なるほど、幼い。と言葉を交わして悟る。
えらぶってはいるが、言葉や態度は威張ることを覚えたばかりの子供である。腹芸も、練習中の札をかけた方がいいくらいの出来である。そんな様子に、無茶はするが、危険なことをしようにも、それも見え透いたものになるだろう、と予測する。
見た目からしても、10代半ば。どうやら、随分と若いうちに嫁いだと見える。それで、トゥジェノというそこそこ高い地位を与えられているのだ。言葉の棘に甘さがでても仕方がない。微笑ましささえ覚えてしまう。
「なるほど」
「かわいいものでしょう?」
つい、ひとりごちた翠の隣でトゥジェディが哂った。
なるほど、と、今度は声を出さずに思う。
やはり、ギルバートが彼女を好きになることは、この先もないかもしれない、と。