御使いの食事
この世界に来てから2カ月と少しが経とうとしていた。トゥジェディとは2週に1度程度の頻度でお茶をするようになっていたし、王も相変わらず唐突に顔を出す。
が、それだけであった。それ以上、交友関係が広がることもなく、減ることもない。そうこうするうち、翠はこの世界で初めての年の瀬を迎えていた。
曜日の代わりを表す色が、唯一無い、年末年始を示す5日の内の最初の1日。とはいえ、忙しそうな様子を見せるのは女官や侍従たちばかりで、仕事を持った男たちはむしろ忙しさの峠を越えた頃なのだろう。フィオルナルも、翠の部屋に居られる時間が僅かに長くなっているように感じる。そして、翠に至っては、何の変哲もない日の始まりであった。
「シスイ、お食事です」
「ありがとう」
アシュレイが侍女として翠に付いてからも、朝食の世話はフィオルナルが行っていた。公務が始まるまでの時間、自由に動けるフィオルナルが、それ以外の時間にアーガルとして翠の傍に居られないのを気に病んでいたため、翠がそうするように気を回したからだ。
テーブルについた翠の前に、すっ、と食事の入った皿が差し出される。
「……?」
朝食として出されたものに、翠は首を傾げた。なにか分からないことがあった場合の、いつものポーズである。
「シスイの故郷には、カカットの習慣がないのですね」
翠が何に首を傾げたのか察したフィオルナルが言葉を紡ぐが、当然、翠には聞いたこともない単語が出てくる。素直にうなづいた翠に、フィンが説明を始めた。
カカット・ディアタ(御使いの食事)、通称カカットとは、つまるところの『異世界版、七草粥』であった。とはいえ、食べるのは新年を迎えた後ではなく、前。
色のない日の内、最初の2日に特別な食事をとり、1年の穢れを落として新年を迎える。新年初日は、神殿主催の祭典が盛大に執り行われるので、そこにキレイな体で出席する。そんなわけで、神が使わしたもの……御使いの食事と呼ばれるらしい。
ちなみにその食事の内容は、あらゆる動物性たんぱく質を排した汁物である。
目の前の野菜スープを見つめてふむ、と頷く。
生き物の命を刈り取らず、同時に穢れを『洗い』流す。
試しに1口飲んでみたが、なるほど、王宮の料理人が作っただけあって、とても美味しかった。とはいえ、たんぱく質のない食事の満足感はそれなりであるし、味が多少変わるとはいえ、あと5食同じものを食べるのは、さすがに飽きるだろうと思われた。
そんな翠の心中を察して、フィオルナルが申し訳なさそうな顔をする。
「慣れないシスイにはご不便をおかけしますが、御容赦くださいませ」
礼拝のように翠だけで片がつく問題であれば、フィオルナルも大目に見るのだろうが、まともな食事をしたいと言えば、それは王宮の料理人を巻き込むことになる。
「まぁ、ここで我を通そうとは思わないから、安心してちょうだい」
「その分、祭典の食事は随分と豪華なものになりますから」
とはいえ、丸2日、スープだけの生活をしていれば胃も縮みそうだ。翠は曖昧な笑顔で返しながら胸中でため息をついた。
「どうだ、この国のくだらん慣習は」
夜。何かを抱えてやってきたギルが開口一番、そう口にした。
「カカットのことでしょうか?」
「年末に肉を食った程度で神罰が下るなら、俺もお前も散々な人生になるだろう?」
「あら、神罰でなくとも、私の人生は既に散々なものですけれど」
その元凶に笑顔を向ければ、ギルバートは切って捨てるように鼻で笑う。それよりも翠は、ギルバートが神罰が下るといった中に、彼自身が含まれていたのが気になった。
そこで漸くギルバートが抱えていた包みに視線をやると、そこから出てきたのは、酒瓶と干し肉であった。
「同じ汁物なら、これもいいとは思わんか? スイ、グラスを」
「私も紅茶をいただこうと思っていたところだったの」
嗜好品は贅沢だからという理由で、紅茶を淹れてもらえなかった翠は、昼間に溜息をついてアシュレイを恐縮させてしまった。水か薬草茶のようなものしか飲んではいけないらしい。彼女が悪いわけではないのに申し訳なかったと思っている。
そんな昼間の出来事を知ったフィオルナルが、夜、翠の部屋を辞す前に、こっそりと湯を与えてくれたのだ。食事は無理だが、茶くらいは、という配慮だろう。
湯が冷めないうちに、と茶を淹れようとしたところで、ギルバートの来訪があったのだ。
翠が慣れたように茶を淹れるのを、ギルバートは面白そうに見つめながら、自分も翠から渡されたグラスに酒を注いでいた。茶器や茶葉は翠が欲しいといったものだが、最初、茶器は1人分しかなかった。それが、ギルバートが通う様になって、彼の分の茶器が増え、グラスが増え、今では、ギルバートが翠の部屋で不便することは少なくなった。
少しずつ物が増えていく翠の私室にフィオルナルなどは複雑そうにしていたが。
「お前も飲むか?」
「私、お茶があるのですけれど」
「なに、酒の方が共犯らしいだろう?」
ギルバートは薄く笑って、1口飲んだグラスを翠に差し出す。
翠はそれを受け取って小さく息を吐いた。
「何を嫌がる? 今さらだろう」
ギルバートは、翠がこれまで肉を食べて過ごしてきた20余年間の年末のことを指しているのだろう。確かに今さらだ。翠は今年、自分の身に降りかかった神罰以上の災厄を思い返してグラスを受け取った。
翠の真意に気付いてか、否か。共犯者の出現に、ギルバートは面白そうに笑っていた。
「あぁ、それから。祭典はどうする?」
そこそこのアルコール濃度だった酒をあっさり飲み下した翠に若干驚いた顔を浮かべたギルバートが、ふと、尋ねて来た。
「どうする、とは?」
祭典の話は、翠もフィオルナルに聞いている。どうやら普段の礼拝をサボっている翠も、今度ばかりは出席した方がよさそうだ、という印象を受けていた。
出席にあたっての準備はフィオルナルとアシュレイに任せているので、心配はないだろうと考えながら、ギルバートの言葉に首をかしげる。
「嫌なら出席しなくてもいい」
「え?」
「実際に出ていない妃もいるのだ。お前が出なかったところで、叩かれる陰口など、今さらのことだろう」
なるほど、思い起こせばその通りだ。トゥジェディはジペットの顔を知らなかった。トゥジェディがまさか祭典をサボるとは思えないので、祭典を欠席しているのはジペットなのだろう。
とはいえ、翠は本心では頷きたいギルバートの申し出に、首を横にふった。
「出たくない気持ちがあるのはそのとおりですわ。私が既に十分な陰口を叩かれているのもそのとおりでしょう。ですが、フィンに肩身の狭い思いをさせられないので」
フィオルナルは神殿側名家の出身。神殿が主催する祭典に、その主が出て行かなければ、影で叱責されるかもしれない。その可能性は高いと思っていた。そして、フィオルナルであれば、その様子を翠に隠し通すだろうことも、想像に難くなかった。
だから、翠は祭典に出席する。憎んでもいない相手を、それほど窮地に追いやりたいとは思わなかったのだ。
そんな翠の様子に、ギルバートは面白くなさそうに、そうか、と呟く。フィオルナルのために出席すると言ったことが気に入らないのだろう。
「まぁ、お前が他の妃を前にした時の顔を見てみたい気もしないでもない。気に入らんのがいれば言ってみろ。今さらになって追い出してやるのも面白そうだ」
「他の側妃さま方にもお聞きになっては? 満場一致で私でしょうから」
「今は、そうだろうな。だが、本質的には、自分たち以外の全員が気に入らんだろう」
ギルバートが嘲笑と共に吐き出した声に、確かに、と翠も内心で頷いた。
「では、アナタがお嫌いなトゥジェディも?」
「アレの名は口に出すな、スイ」
トゥジェディをアレと呼ぶ一方で、翠を名前で呼ぶ。呼びかけられる時は、お前と呼ばれることの方が多いが、それでも、ギルバートが翠をリーリアと呼んだことは、記憶の限り、1度もなかった。
なぜ、名で呼ぶのだろう。それは、聞いてはいけないような気がした。
溜息をカップで隠して紅茶を啜る。早く年が明けて、祭典など終わってしまえばいい、そう思いながら。