毒見の少年
ギルバートとの食事を終えた後、翠は気分を変えたくなって、夜風にあたりたいと我儘を言った。ルーカリアナに代わって部屋まで付き添ってくれた衛士と共に後宮を出て、せっかくなのでいつもより少しばかり足を伸ばす。城仕えの者なら誰でも立ち入れる庭園へ出ると、翠の想像どおり人の気配はなく、しん、静まっていた。
木陰に見つけた段差に、衛士から借り受けたハンカチを敷いて腰をかける。少しはしたないが、そこは見逃してもらおう。次いで、1人になりたいとお願いして、衛士には警護に差し障りのない距離まで下がってもらった。
それは決して、翠の他意があったものではない、のだが。
「また、お会いしましたね」
こうなってしまえば、翠が密会を画策したようではないか。背後からかけられた声に振り返りたくなる自分を押し留めて、翠は内心で溜息をついた。
「声に聞き覚えがありませんわ。どなたでしょう」
少年らしい、声変わり途中の高いとも低いともいえない声に、想像はついていた。
「失礼しました。先ほど、陛下の毒見役を務めさせていただきました、ジナオラと申します」
振り返らず口だけを小さく動かす翠に対し、背後の少年も決して翠の前に回り込んで礼をとろうとしない。毒見役という立場からすれば、それがどれほど不敬か分かっているだろうに。それでも、翠はそれを咎めないし、少年……ジナオラも、咎められないと分かっているのだろう。
つまり、何かあるのだ。ここで会ったのがただの偶然か、それとも彼自身が自ら乗り込んできたのかは分からないが、今、彼が姿を隠したままで話を続けたい理由があることは、正しく、翠にも分かっていた。
「そう、ジナオラというの。お役目御苦労さま」
「いえ、リーリアに労っていただくようなことでは」
当り障りのない会話をひと言ずつ交わして、翠はさっさと真意を探ることにした。
「ところで、毒見役の挨拶は背後からするものなのかしら」
自分に振り向かせるな。疾しいところがないのならお前が前に回れ、と、いうことだ。
「それをしてはアナタがお困りになるのではないですか、リーリア」
「あら、大丈夫よ。私はすぐに衛士を呼ぶから」
急に現れた人影に驚いて悲鳴をあげれば、衛士は翠を想定外の何かが襲ったのだと思ってくれるだろう。そこに居る衛士はルーカリアナではないのだから。
「いいえ、アナタはお困りになるはずです。翻訳の腕輪をつけて、この大陸の共通語をお話になる、アナタなら」
「……!」
ジナオラに指摘されて翠は気がついた。
フィオルナルから与えられた翻訳の腕輪は、装着者が話した言葉を、相手の耳に届く間、つまり、空気を振動させている間に翻訳するというものであり、決して装着者の言語機能を司る脳に影響を与えるものではない。
ちなみに、どの言語に翻訳するかは、装着者の声が届く範囲にいる人間の中で、最も多くの人間に共通する言語に翻訳される。共通語が存在するこの大陸では、その用途は専ら、神殿の人間が魔法につかう神語を学ぶ際の補助具であった。だからこそ、翠を召喚する際に、フィオルナルが準備することが容易だったのだろう。
つまり、どういうことかというと、翠が腕輪の翻訳機能に頼るとすると、翠が喋った日本語が相手に伝わる間に、大陸共通語に翻訳されるということだ。……翠の口は、日本語を話すように動くということだ。
盲点だった。翠は自分が分かるからと、当然に大陸共通語を話していた。翠と会話をする相手にとっては、聞こえる言葉のとおり相手の口が動くのは当然のことである。腹話術でもあるまいし。だから、その違和感に気付かなかった。
フィオルナルも、ルーカリアナも、勘の鋭いギルバートでさえ。
「リーリアは異国から売られてきた奴隷の出身。この国の言葉も文字も分からない。……そう聞き及んでおりましたが、先ほどお会いした時にそうではないと知りました。何のための嘘なのか。陛下を守る1人として、放ってはおけず、こうして参った次第です」
ジナオラの言葉に翠は静かに頷く。ジナオラが口にした翠の経歴は、フィオルナルが捏造し、ギルバートが頷いた偽りのものである。
「何のための嘘ですか。何が目的で偽っておられるのでしょう。私を不審者として扱う前に、お答えいただけますか?」
背後の声が翠を追い詰めてくる。この段になって、ジナオラに背後をとられていることが酷く恐ろしくなった。
「その前に、1つ聞いてもよいかしら?」
「……構いません」
質問に質問を返されて不本意そうではあるが、そこは、翠の身分が勝った。翠を今まさに追い詰めているのはジナオラであるが、彼も未だ翠の正体を掴みかねているのだ。現段階で、翠の意図が分からぬまま、不敬を重ねることを避けたのだろう。
「そういうアナタは……どこの国の影かしら?」
翠がきった切り札に、背後から僅かな殺気が漏れ、しかし、押し殺されたように、間もなく消えた。さすがに、遠くの衛士とはいえ、殺気くらいは気取られると思ったのだろう。
とはいえ、これで分かった。半ば確信していたとはいえ、翠の読みは当っていた。
「案外、感情的な影なのね」
僅かに相手が動揺した好機を逃すことなく、言葉を続ける。
「……なんだ、やっぱりバレちゃった」
ジナオラ自身、行動が不自然過ぎた。彼も、バレないとは思っていなかったのだろう。
なぜ、ただの毒見役が、公称とはいえ翠の経歴を聞き及ぶ立場にいるのか。
なぜ、王を守るためと言いながら、わざわざことの真相を翠に尋ねる真似をしたのか。
なぜ、ただの少年が、距離があるとはいえ、城の衛士のアンテナに引っかからない程、気配を消せているのか。
こうして並べ立ててしまえば、分かりやす過ぎるほどのヒントである。
「キミも影でしょ? 情報交換しようと思ったんだよ。どうやって潜り込んだか知らないけど、女はいいよね。色が使えて」
「……アナタは使っていないような言い方ね」
「今代の王は男色の気はないみたい。残念だよ」
翠も色を使った覚えはないのだが、正直に答えてやる必要もない。
「でも、不思議だな。どうして他国だと思ったの? あらかたの政敵が死んでいるとはいえ、この国に敵がいないわけじゃない。それとも、キミ自身が他国の影だから?」
「……アナタの魔力に信仰が薄いんだもの」
翠の言葉をジナオラは理解しかねたようだった。
おそらく、翠以外に、その微妙な感覚を捉えることはできないだろう。
「この国の人間はシェリラムへの信仰を礎に、魔法という空想を具現化している。だからこそ、神殿出身者には優秀な魔法師が多いと言われている。尤も、口で信仰しているというのと、心から信仰しているのとは、傍目からの区別がつきにくいから、信仰の度合が魔法の力を左右するなんて、本当のところ、どこまで信じられているかは分からないけれど」
背後から言葉が返ってこないので、翠はそのまま話を続ける。
「だからこそ、この国では神殿の権力が強いのね。……でもそれは、私が知る限りではこの国だけ。……信仰なんてなくても、魔法の力は強くなる。自分自身を、自らがイメージする空想が具現化することを絶対的に信じ、それを行う強い意思。それが、信仰を伴わない魔法の行使。……そして、神などいないと豪語する、この国の王の魔法よ」
フィオルナルの魔法とギルバートの魔法に違いを感じた翠の、翠なりの結論だった。もっとも、信仰を礎とした魔法に関しては、翠が誰よりもよく知っているのだから、翠はギルバートの魔法を分析しただけである。
フィオルナルの魔法はギルバートの魔法と比べものにならないくらい優しい。それでも、彼が魔法を行使する度、まるで自分の耳元で何かを囁かれるような感覚を覚えるため、翠は彼の魔法が好きにはなれなかった。
「この国の周辺諸国や仮想敵国の中に、この国と同程度までシェリラムを信仰している国はないと聞いたわ。尤も、アナタが王と同じ、この国の民でありながら、神を信仰しない人間である可能性もあるけれど……。それよりは、他国出身と思った方が明快じゃない?」
ギルバートは王家に生まれたその時から、神殿とは相容れぬことが確定していた。なんといっても、目の上のこぶなのだから。そんな王と同じ方法で、宗教的慣習が生活レベルにまで深く馴染んだこの国の国民が、魔法を行使できるとは、翠には思えなかった。
「私、アナタには、信仰を伴わない、けれども、強い魔法の力を感じるわ」
ジナオラは優秀な魔法師である。優秀な魔法師とは、この世界においては戦略兵器である。実際に、フィオルナルの重用ぶりを見ていれば、そんなことは簡単に分かる。
だからこそ、優秀な魔法士でありながら、使い捨てられることが前提の毒見という立場に身を落としてまで、この王宮に居座っているジナオラが他国のスパイであることは、翠にとっては当然の結論だった。
「……どうする? 互いに指摘し合って、共倒れになる? それとも、僕と手をとる?」
「アナタ、そんなに私からの情報が必要?」
「そうだね。思ったより、毒見の立場が悪かったし、情報統制もなかなかに隙がない。今以上の情報を集めるにはとっかかりが欲しかったところでね。その点、キミとは立場が逆だろう? いい協力者になれると思わない?」
翠は、食事の場で見た少年の顔を思い出そうとする。彼は今、どんな表情をしているのだろう。
「残念だけど、私はアナタの同業者じゃないのよ。この言葉を信用せず、私を間者として告発するのはアナタの自由よ。尤も、それはアナタも立場を明かすことにもなるでしょうから、お勧めはしないけれど」
ジナオラがギルバートに対し、翠を間者として告発した場合、翠がバレて困るのは、言葉が通じるのを黙っていたことくらいである。翠の本当の出自を知るギルバートは、翠の嘘がどう転んだとしても、その結果がヴァルモンドに害悪を為せないことは知っている。
一方で、翠の秘密を暴くような行動をとったジナオラに、その注目は映るだろう。ただの毒見役としては、行き過ぎた配慮である。その観察眼の鋭さからしても、ギルバートの野性的な勘を交わすことはできないに違いない。
「キミにとっても利があると思ったんだけど?」
「私がただの気まぐれで言葉が通じないフリをしている可能性も考えた? ……でも、そうね、今はお互いに隠し事が1つずつバレているのよね。だったら、お互いがお互いのために、今のところは口を噤む、というのはどうかしら?」
「なにそれ、ただの時間稼ぎ?」
「それでもいいじゃない。多分、アナタとはこれからも顔を合わすでしょう。その中で、アナタに私を見極める時間が与えることが、それほど不利かしら?」
翠の言葉に、しばらく無言を返していたジナオラが、結局、溜息で返事を返した。
「分かった。とりあえず、僕がキミのことをよく分かっていないのも真実だ。分の悪い賭けだったことは認めるよ。今は互いにイーブンのままでいよう。……でも、覚えておいてね。籠の中の鳥とちがって、僕はいつでも逃げ出せる」
そう言った直後、背後のジナオラが姿を消した。気配などと、そういうものではない。ただ、なんとなく、いなくなったことが分かった。
痛いところを突かれた。翠は重い溜息をつく。
翠は間者ではない。だが、だからといって、安泰の身分でもない。
自分がいつ死ぬとも分からない薄氷の上で、ギルバートの望むままに舞い続ける、ただの道化になったような気がして、そのことで、僅かに乱れた自らの精神に対して、翠はもう1度溜息をついた。