強さの証明
ある日の夕刻、翠は半ば嫌々王宮の廊下を歩いていた。目の前には、翠を先導するように先を行くルーカリアナがいる。その機嫌は良さそうでもあり、悪そうでもあった。
嫌々なのを隠しもしていない翠をいい気味だとでも思っているが、これから向かう先に翠を連れて行くのは彼自身は望んでいないのだろう。
おしゃべりな彼にしては珍しく、黙々と先を行くルーカリアナの姿に、つい、自分だけ今すぐに背を向けて引き返したい衝動にかられたが、そんな悪あがきをしても、僅かな時間稼ぎにもならないだろう。ただの案内人であるルーカリアナ相手に説得などという無駄なこともできないので、翠には仕方なく後に続くことしかできない。
事の発端は半刻ほど前に遡る。
翠はアシュレイに応援されながら、フィオルナルに渡されている書き取りの練習を続けていた。翠には不要なことだが、そうでもしないと、宮中で過ごす毎日は暇でしょうがないので、半ば惰性のように続けているのだ。飲みこみが早いと褒めてくれるフィオルナルには申し訳ないと思っている。
書き取りの練習が進むにつれ、フィオルナルが国の歴史や一般にも知れている時事などを説明してくれるようになった。翠としては単調な書き取りより余程興味があったのだが、フィオルナルは何かと公務も忙しい。
結局、日々の暇を潰すのにはアシュレイとのお喋りと、書き取りの練習が1番だった。
そんなとき、ルーカリアナがドアをノックし、声をかけてきたのだ。
昼食の時には、別の衛士がいた気がするので、いつの間にか交代したのか、と思いながら、アシュレイにドアを開けさせる。すると、そこには昼間と同じ衛士もいた。
どうやらルーカリアナは、何かの用事で翠を訪ねて来ただけらしい。彼は自分を見つめる翠に視線を合わせて、にっこりと、いつもの軽薄な笑みを向けた。
「陛下がお呼びだよ。夕食を共に、だってさ」
そこから先は大変だった。
アシュレイが、漸く腕の見せどころだと喜んで、あっという間に準備を整えられてしまう。
化粧を施され、髪を複雑に結いあげられ、普段のドレスよりも華やかなドレスに着替えさせられる。翠すら知らない飾りをどこからか取り出してきて、肌や髪を飾られた。
翠としては締め付け型のドレスを拒否するのだけで精一杯であった。
そんなこんなで、翠の準備が整うのを、ずっとドアの外で待っていたらしいルーカリアナが、部屋から出て来た翠を見て、社交辞令とばかりに甘い言葉を吐き出す。それをおざなりに受け取った翠に喉を鳴らして笑ったあと、先導を始めたのであった。
「よく来たな。……珍しく整っているじゃないか」
豪奢な部屋にシャンデリア、壁や天井には美しい意匠。そして、どれほど人を集めて食事をとるつもりかと疑問を呈したくなる、長くて大きなテーブル。
その奥にギルバートはどっしりと構えていた。部屋の中には大勢の人がいて、給仕のメイドや執事のような男。それから、近衛と思われる兵士たち。翠の案内が終わったルーカリアナが当然のように王の背後に控えたが、それを見ないことにする。
ふと、その場に似つかわしくない、形だけキレイに取り繕われたような少年が所在なさげに壁際で立っているのが目についたが、翠はその少年からも目を逸らした。
室内に人は多いが、王にとってはそれほど気を張らなくてもよい相手なのだろう。2人で話すときのように、ニヤリと笑みを浮かべて、翠に向けて軽口をたたく。
「あら、褥でこんな髪をしていては邪魔で仕方がないじゃありませんか」
実際にギルバートと褥を共にしたことは勿論ないが、言外に、翠を訪ねる時間が遅すぎるのだと苦言を呈しただけである。
「そうだな。それでは頭も撫でられん」
「……撫でられたことがありました?」
「誰も撫でたとは言っていない」
頭を潰せそうな手の大きさと力、それから、頭を潰しても動じなさそうな図太さを、合わせて持ち合わせている御仁である。今までも、これからも、頭を撫でられたいとは翠には思えない。
「とにかく、食事を始めるか」
「えぇ。そうですわね。せっかく呼んでいただいたのですもの」
もちろん、意訳としては、『なぜ呼んだ?』となる。
「たまにはこういうことも悪くなかろう?」
良い悪いの問題ではない。翠も今さら拒絶する気はないので、ギルに促されるまま大人しく対岸の席についたが、本心からすれば食事になど呼んでほしくはない。
翠が喚び出されて、ひと月半。つい先日にはトゥジェディとお茶会モドキを行った。トゥジェディは、ギルバートが翠の部屋に通う理由が、肌を重ねることではないと、どこか、女の勘のようなもので察知しているようだった。口には出していないが、否、口に出していないことこそが、翠とギルバートがそういった関係を持っていないと察している証拠である。とはいえ、トゥジェディ以外の人間に分かる事実としては、ギルバートが未だ飽きもせず翠の部屋に通い、寵愛しているということだけであった。
翠にとってみれば、この世界にも、ギルバートを始め、翠を取り巻く誰に対しても、なんら執着するつもりはないし、深入りするつもりもない。ただ、死ぬまで平穏に過ごしたいと思っているだけである。そう思えば、ギルバートからの特別扱いが嬉しいハズもない。
……例え、彼が翠の命綱を握っているのだとしても。
「俺は俺の好きにしているだけなのでな」
翠の文句言いたげな視線に気づいたのだろう。ギルバートは鼻を鳴らして言い切った。
そんな2人の前に食事が運ばれ始め、ギルバートはそれを一瞥すると、ふ、と視線を壁際へ向けた。そこには、先ほど翠が目を逸らした、この場に不釣り合いな少年がいる。
ギルバートの視線に応えるように、少年が王の近くの席に座ると、給仕係が少年の前に王の食事を移動させた。
「……そういうことは、私が来る前に済ませておいてくださいな」
「そんなことをしては食事が冷めるではないか」
何の疑問の余地も挟むことなく、少年がどういった役目を持ってこの部屋にいたのか察しがついた。否、部屋に入って少年を見た時から薄々気づいていた。だから、翠は目を逸らしたのだ。毒見役の少年から。
ここが王宮であるとはいえ、ギルバート程の苛烈さを有していれば、獅子身中の虫が居ないとも限らない。警戒してし過ぎることはないだろう。毒見役が居ても当然である。
例え、彼の若い時代に、今より余程命を狙われる危険性のあっただろうギルバートが、全く毒の存在を察知できないとも思わないし、耐性すらあるかもしれないと思っていても、彼には彼の立場もある。自分で毒見をするのも格好がつかないに違いない。
とはいえ、ギルバートのことである。彼は、目の前で毒見が食べて見せたところで、その食事を信用するのだろうか。遅効性の毒ではないか、毒見の少年に毒の耐性があり、彼が共犯となって毒を持っていないか。そんな疑いを消すことはしない人間だとも思っていた。
だとすれば。
ギルバートがあえて毒見の少年を使う理由は、体裁だけでない、パフォーマンスの意味もあるに違いない。ギルバート自身に自覚があるかどうかは分からないが、彼はどこかで他人を犠牲にし続けないと、満足できないのかもしれない。不安になるのかもしれない。
王と呼ばれる絶対的な権力と、覇道をいく絶対的な力を手に入れて、なお、他人を犠牲にし続けることで、自らの強さを、それによって得た地位を実感できるのかもしれない。
そこまで思い至って、翠は思考を止めた。そこまでは、ただの分析であるが、それ以上思考が進めば、翠の感情が宿らないとも限らない。
「……そうですね。食事は温かい方がおいしいですわ」
だから、翠は何も知らない顔をした。毒見の少年から目を逸らしたように。無関心を装い、それが可能な、残酷なまでの心中をあえて覗かせる。
一瞬、息をつめて翠を見つめ返した王は、その後、くつくつと笑い声をあげた。何が面白いのか、しばらく肩を震わせたまま、その瞳に僅かな温もりを宿した。
「あぁ……、だからお前は可愛いのだ」
ギルバートの言葉が、その瞳が、翠を絡め取ろうと迫る。翠はそれを望んでいないのに。物理的に手を伸ばされれば、それを拒むことはいくらでも可能だ。だが、言葉を、視線を、思いを向けられるのを拒むことは難しい。目を塞ぎ、耳を塞ぎ、心を閉じても、それらは確かに、その場に残ってしまうものだから。