後宮で生きる女
翠が喚び出されてひと月が過ぎた。それだけ経つと、翠にも習慣というものができてくる。
例えば、白の日の礼拝の時間には必ずやってくるようになったギルバートと時間を過ごすこと。例えば、不定期に、衛士として扉の前に張り付くルーカリアナが、休みか別件か、どこかへ行っている緑の日に、無口な衛士を連れて散歩に出ること。
そして今日、赤の日の朝に、翠が庭園を散歩することも、習慣と化していた。
週1日の散歩では飽いてしまった翠が、フィオルナルが休みとなるこの時に、彼を巻き込んで、ルカと出かけることにしたための習慣である。フィオルナルが居れば、ルーカリアナもあまり突っ込んだ話をしてこないことを学んだので、ルーカリアナとの散歩には、もはやフィオルナルが欠かせない。
フィオルナルとルーカリアナを一緒にさせる内に驚いたのが、ルーカリアナがフィオルナルにすら敬語を使わなかったことである。フィオルナルは、王に次いで位の高い、王宮魔法師長である。それに、敬語を使わないということは……。
翠はその時、内心で頭を抱えることになった。一体、あの男はなんというものを、翠の傍に送り込んでくれたのか。
ルーカリアナの存在は、それは外敵にとって強い牽制になるかもしれないが、それほど強固な守りが必要なのか、といらぬ勘ぐりも受けることにもなるだろう。
まだひと月であるので、懐妊を誤解されるには些か気が早すぎるが、それでも、身に覚えのないことで、周囲の敵意を煽っていくのは気が進まない。
とはいえ、ルーカリアナを衛士から外せというのも無駄だろう。
結局今日も、フィオルナルを連れて、ルーカリアナとお散歩することになるのだ。
翠が庭園を歩いていると、遠くの四阿の影から人影が現れ、その人影が翠たちに気がついたように近づいてくるのが見えた。
フィオルナルが若干の警戒を見せるが、相手の身なりから察するに、妃であろう。そもそもが、ほぼ妃専用となっている後宮隣接の庭園での邂逅なのだ。やたらめったら警戒しては相手が可哀そうであるし、実際、ルーカリアナはすっかり気を抜いたままである。
「あらアナタ……見慣れない顔。でも、格好が上品だし、この庭園を供を付けて歩いているということは、側妃なのね。ジペットかしら、それとも噂のリーリア?」
「エリツアールドとラッ・バレットが付いている、ということはリーリアでしょう」
おっとりと微笑んで首をかしげた女性に、翠が応える前に、相手の後ろの男が答えた。
側妃同士の邂逅となれば、位階最下位の翠にとって、当然、相手は目上となる。その翠のアーガルとして扱うのであれば、フィオルナルについては、その本来の身分は置いておいて、敬称なしでもいいとして。
やはりルーカリアナには敬称があるのか。翠は内心で溜息をついた。いくら徽章をつけていないとはいえ、分かり易過ぎる。当然、ルーカリアナも本気で隠す気はないのだろう。
それでも表向きは、ルーカリアナは告げていないし、翠も聞いていない。翠は内心でもう1度だけ溜息をついて、知らぬふりを継続する。
ゆったりとした佇まいを見せた側妃と思われる女性は、温かみのある胡桃色の髪をハーフアップでサイドに編み上げ、新緑のような若草色の瞳を好奇心で揺らしていた。華美を好まず、機能性と着脱の容易さを中心に服を選び、アシュレイをガッカリさせている翠とは違い、ウエストの締め付けがキツそうな薄青のドレスを身にまとっている。
朝早くから御苦労なことだと、翠は内心で唸りをあげるが、しかしそのドレスを着こなしてすら、ゆったりとしたイメージを保ったままであり、これが妃の風格か、とも思う。
これが序列1位のカポネだろうか。目上の者から声をかけられれば、目下の者から名乗るのが礼儀だと聞いてはいたが、後宮の事情にとんと疎い翠には、相手が誰かも分からない。内心で唸っていた翠に、理由を悟ったのか、フィオルナルが耳打ちをしてくれた。
「お初お目にかかります、トゥジェディ(第二夕姫さま)。リーリアと申します」
相手は一応目上にあたるが、挨拶は、僅かにスカートを持ち上げるだけの簡易の礼にする。必要以上に謙る必要はないと、前もってフィオルナルに言われていたことを、忠実に行っているだけだ。尤も、こういった知識を必要としたのは、このひと月で初めてのことだが。
「お2人とも、今年の祭典で見かけて以来かしら? 改めて、トゥジェディですわ」
トゥジェディはフィオルナル、そしてルーカリアナと、順に視線を向け、最後に翠に向き直ると、キラキラした瞳のまま自分も簡易の礼をとった。
「せっかくだから、アーガルも紹介しましょうか。……こちらは私のアーガルのアールとロイ。ふふ。確かリーリアが宮に入ったのはひと月も前よね? それなのに今日が初めましてなんて。おかしな感じね」
トゥジェディはころころと笑い声を上げながら、自分の背後の2人の男を指す。邪気なく見れば、まるで少女のような可憐な微笑みであるが、それが、この後宮に長く居座っているトゥジェディから発されたものであることを加味すれば、途端に胡散臭く見えてくる。
「初めまして、リーリア。アルガール・スフィオールと申します」
「ローウィードです」
タメ口を叩かれても仕方のない立場であるリーリアにも、簡易のものであるが、丁寧に礼をとってくれる。どういった出自かは知る由もないが、少なくとも、トゥジェディの目がよく行き届いていることは伝わった。
はじめにトゥジェディに耳打ちしたのがアルガールと言う男。金髪碧眼で、スラリとした出で立ち。温和な笑みを絶やさず、スマートさを漂わせている。対して、ローウィードと名乗った方は、グレー寄りのアッシュの髪に濃紺の瞳。寡黙そうな様子を隠しもしないが、剣を佩いているので、護衛担当だと思われる。
「改めまして、フィオルナルです。あえて家名は申しません。今はリーリアのアーガルですので」
「ルーカリアナ・バレット。今は、ただのリーリア付きの衛士だから、そう扱ってくれて構わないよ」
続いて、フィオルナルとルーカリアナも簡易の礼をとったのを確認したトゥジェディが、再び口を開いた。
「私が宮に入った頃と違って、今は形式だけの婚儀の礼もないでしょう? 入れ替わりが激しいからって、廃れさせるものでもないでしょうに。そのくらいのイベントがないと、側妃だって飽きちゃうと思わない?」
あまりに出入りが激しいので、随分前の妃から、婚儀の礼も歓迎の式もその習慣が廃れてしまった、という話は前にフィオルナルから聞いていた。至極つまらなさそうに声をあげるトゥジェディ程ではないにしろ、新入りとしての挨拶周りやお茶会すら必要ない、というのは、そういうことに疎い翠からしても、少し心地悪さを感じていた。
とはいえ、トゥジェディが先に発した言葉には、もっと他に驚くべきポイントがあった気もするが。
……翠よりだいぶ前に側妃に収まったハズのジペットの顔も知らないというのは、どういうことなのだろうか。
「とはいえ。最近はもう、妃なんて全然入ってこないし。珍しく仲間入りしたリーリアのために、お茶会くらい開いてもいいと思うの。参加してくれる?」
「はい?」
ニコニコと、さも名案とばかりに告げられて、翠はつい聞き返してしまった。思考が止まった翠の代わりにフィオルナルがトゥジェディの相手をする。
「お言葉ですが、トゥジェディ。そのお茶会、一体誰が参加なさるので?」
「んー? そうねぇ、ジペットは人前に出てくるハズがないでしょうし、トゥジェノはリーリアと席を同じくするなんてゴメンよ! なんて言いだしそうね。カポネなら……来てくれないかしら?」
「彼女はよくても、そのアーガルの前にリーリアをお出しするわけにはいきません」
首をかしげたトゥジェディをフィオルナルが1言で切り捨てた。本来のリーリアのアーガルとしてはでしゃばりすぎの気もするが、アーガルとして扱えといいながらも、一応は王宮魔法師長の肩書をもつフィオルナルであるので、誰にも咎められないだろう。もちろん、翠も咎める気はない。妃たちについて、自分より知っているフィオルナルが否というのであれば、それが正しいのだろうと思っている。
「あら、そう? ちょっと生意気だけど、所詮は虎の威を借る狐でしょう? まぁ、それを御せないカポネは問題でしょうけど」
トゥジェディは呟いて、クツクツと笑い声をあげる。笑顔は無邪気だが、言っていることは不穏極まりない。顔が引きつりそうになるのを笑顔の下に隠して、これこそが『後宮で生き残ったトゥジェディ』なのだろう、と内心で息をついた。
今の話から考えると、ジペットは妃歴の長いトゥジェディですら顔をしらない極度の引きこもり。トゥジェノは些か苛烈で身分に煩そう。カポネは本人はともかく周りの人間に問題あり、かつ、それを統制する力まではない、ときた。
薄々気付いてはいたが、あまりに放任すぎる後宮の様子に、一瞬それはどうなのか、と思わないでもなかったが、周りの面子を考えれば、リーリアにとっては今の状態が1番平和なのかもしれない。下手に交流でもあった方が、面倒だったに違いないのだから。
結局、その場の成り行きで、週末に1度、トゥジェディと2人でお茶をすることになってしまったが、その程度の被害で収まったことは重畳だろう。たまの散歩すら面倒になりそうだ、と内心でぼやきながら終えた散歩の後で、アシュレイの淹れた茶を飲みながら、翠は漸くほっと息をついた。