城仕えの少女
「リーリア、ちょっといい?」
ルーカリアナと出会った日の午後。昼食の準備と後片付けまでを行い、再び公務に戻ったフィオルナルを見送り、翠は部屋で書き取りの勉強をしていた。
国の言葉が分からない、ことになっている翠に、フィオルナルが用意しているものである。
書き取りの手を止めて、フィオルナルが用意してくれた冷めたお茶を啜ろうとしたとき、扉の外から、ノックとルカの呼び声が聞こえた。相も変わらず、防音性に信用のできないドアだと思う。
これでは、万が一、王と夜の営みがあれば、その様子が筒抜けるに違いない。
翠はそんな取り留めのないことを考えながら、立ち上がってドアに近づいた。
「なにかしら?」
自らドアを開けると、そこには翠と同じくらいの身長で、翠よりあどけない顔をした少女が立っていた。
女性の平均身長が日本よりグッと高いこの国のこと。日本では平均的な身長であった翠と同じくらいということは、目の前の少女と思しき人物は、その想像に違わず、まさに『少女』の年代であろう。
「私に用があるのはアナタかしら?」
努めて笑顔で、少女に微笑みかける。
「は、はい!」
「今日からリーリアの侍女になるんだって」
返事しか返さなかった少女の隣で、ルーカリアナが説明を口にした。少女の直接の上司である自分よりも、管轄違い、それも今日就いたばかりの衛士の方が新しい侍女に詳しいことに内心でため息をつきながら、翠はルーカリアナに向けていた視線を少女へ戻す。
ルカもそうであるが、漸く、翠の周りの人間が固定されてきたらしい。
「初めまして。知っているでしょうけれど、私は翠。アナタは?」
「へっ!? ……あ、アシュレイ・ドッティバルです!」
大きな声で返事をした侍女、アシュレイに翠は笑う。
「城仕えの女中は家名を名乗ってはいけないんでしょう? 聞かなかったことにするから、他の人の前では気をつけてね。ルカも秘密よ? 怒られてしまっては可哀そうだもの」
もっとも、公の場でなければ女中の家名など入り乱れて飛びまくっているだろう。彼女たちの多くが、花嫁修業を冠した婚活のつもりで来ているのだから。貴族の令嬢も、一般庶民も、わけ隔てなく扱うという『タテマエ』は、公ではない場所では当然のように無視される。
とはいえ、王の横暴の過去があるので、未だ年若い娘やその親の中には、城仕えを鬼門と思っている者も多いのだが。
「も、申し訳ございませんっ!」
「私は何も聞いていないのだから、謝らなくて構わないわ。これから、生活の多くをアナタに頼ることになると思うけれど、中には自分でしてしまいたいこともあるの。それは、アナタを蔑ろにするわけじゃなくて、私の習慣的なものだから、大目に見てくれると嬉しいわ。もちろん、公の場でアナタの仕事を奪うようなことをするつもりはないから。それから、私、ずっと話相手が欲しかったの。アナタにはその分、私といろんなお話をしてもらえると嬉しいわ」
勢いつけて頭をさげたアシュレイの肩を撫でて慰めながら、翠は『お願い』する。
「は、はい。リーリアのお話し相手を務めさせていただけるなんて、身に余る光栄です!」
「ありがとう。それじゃ、まずはお茶を淹れてもらいたいの。部屋に運んでもらった湯が冷めてしまったのよ。……お願いしてもいい?」
「かしこまりました」
小首を傾げて頼んだ翠に、侍女の顔をしたアシュレイが優雅に頭を下げてその場を去る。
廊下の向こうへ消えたアシュレイを見送った翠がドアを閉めて部屋へ戻ろうとしたところで、頭上から、ふ、感嘆の息がおちた。
「どうかした?」
無視することもできたが、特に聞かれて困ることもないので、相手をすることにする。
「いやぁ、誑しこむのが上手いと思ってねぇ。俺も女の子にあんな風に笑顔を向けてもらいたいもんだよ」
嘘付け。咄嗟にそう思ってしまったが、翠はその言葉を飲み込む。
誑し込む、とはあまりの言い草だが、実際にここ数日、正式な侍女が就くまで入れ替わり立ち替わりしていた女中連中を、翠は悉く誑しこんでいた。
その中に、目の前の男が引っかけている女でも居たのだろう。どうやら仔細を把握されているようだと諦めて、翠は笑顔を向ける。
「あら、私のために頑張ってくれる可愛い、年若いお嬢さんを、大切に扱おうとしているだけよ」
どうも他の妃連中は揃いもそろって気位が高いのか、自分たちに近い侍女はともかく、その他の女中の扱いはそれほどよく無いらしい。
やってきた女中に名前を尋ね、彼女らの仕事ぶりに礼を言うだけで翠に好意を抱いてくれたので、正直、翠にしてみれば、この程度で『誑しこんだ』と言われる方が心外であるのだが、翠にもそういった意図がなかったわけではないので、何も言えない。
とはいえ、ルーカリアナに告げた話も嘘ではない。突然に降って湧いた、正体不明の位階最下位のリーリアなど、その世話をしたいという女の方が珍しいだろう。侍女についてくれたアシュレイを始め、今まで翠の世話をしてきた女中は、気位の高い貴族令嬢ではなく、そういった者たちから仕事を押しつけられるような立場の女性たちだったに違いない。
そんな女性たちへの申し訳なさや感謝も、無かったわけではないのだ。
しかしながら、ルーカリアナの周到さには驚かされる。もちろん、その伝手は彼と関係のある城仕えの女なのだろうが、そもそも、ルーカリアナがリーリアの傍についたのは今日である。にも拘らず、リーリアの情報を掴み過ぎているように感じた。
普通であれば、例えば翠が女官に優しく接していたとしても、『リーリア』という卑しい出自ゆえに、女中の相手に慣れていない為のものだと受け取るべきところなのだ。
翠は、そう思われることも計算づくで、女官を誑し込んでいたハズであるのに、こうもあっさりと目の前の男に見抜かれた上、それを知っていると宣言されては、少しばかり残念に思ってしまう。
翠が既にルーカリアナへの警戒心を持っていると、ルーカリアナ自身も知っているからこそ、彼も翠にその手中を明かしているのだろう。そんなルーカリアナが最後につけたした。
「周りの連中は真逆のことを言っているけど、リーリアは、実はやんごとなきお家の出身だったりしてね」
そんな、どこまで本気か分からない言葉に、翠はどうかしらね、と笑いながら、ドアを閉めた。