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「ぎゃあぁぁぁぁぁぁぁ!」
クジョーの断末魔が廃墟を轟かせ、その場に居る四人の鼓膜をつんざき鳴らす。
見ると、カイの腹部からはうじゅうじゅと蠢く数多の“触手”が姿を覗かせていた。
“触手”はクジョーの“グローブ”に絡みつき、次々にその先端を突き刺し始めた。
その度に、自分の肉体の中で動く別の生命体のおぞましい感触が、生々しい激痛の連続と恐怖感をクジョーに植えつけていく。
「あぁぁぁぁっ! 離せぇっ! 離しやがれぁぁぁ!」
「足掻くな、すぐに終わらせてやる」
“触手”は“グローブ”を覆い尽くした後、ばつん、と、弾力のある物体を切断する時の特有な破裂音を鳴らし、クジョーの片腕を噛み千切った。
「オ、オレの腕がぁぁ、腕がぁぁぁぁ!」
よろめき、のたうち、クジョーは銀色が溢れる肩口を頑なに押さえて叫ぶ。
正気を保っていられなくなった彼を見下ろすカイ、その腹部には、発光しながら“グローブ”を取り込む“触手”の姿があった。
やがて“グローブ”はその形を変えながら腹部の損傷を埋め、チョッキ型の“外骨格”を新たな宿主に与えた。
カイは新生した肉体を撫でさすり、数回それを指で弾いた後、満足げに微小する。
「ふん、これぐらいの硬度を持った“DNA”が欲しかったんだ。
セントラルには化け物揃いと聞くからな」
「何でオレが“生きてんのに喰える”んだよチキショウめぇぇぇ!
その“触手”は何なんだよぉぉぉ!!」
「……答える必要はない」
振動するように両腕を開き、光と共に“武器”を形成するカイ。
肩口から指先までありとあらゆる間接から、自らの外側へ向けた刃を持った腕、それは正に“刃の腕”だった。
「進化部位が……四箇所…?
んなアホな、ニンゲンじゃねぇ…っ…!」
カイが小さく、ほんの僅かに身をかがめる。
それを見たクジョーの顔は青ざめ始め、「殺される」という本能的恐怖が彼を突き動かし、その両足に脱兎の力をみなぎらせた。
「し、死にたくないぃぃぃ!」
「…お前は根本的に勘違いをしている」
跳ね上がり、流れる血をそのままにして駆け出したクジョー。
遠ざかる彼の背中を鬱陶しそうに息を吐くカイ。
その時、クジョーの両脚が不意に光を放つ。
「あ! あいつ“進化”する!?」
ユラが見た通り、“進化”の前触れである。
カイはそれを見て一層深く、深く、ため息をつくのだった。
クジョーの「死にたくない」という切望は、この場から離脱する為に必要な“俊足”を、新たなる進化を肉体に訴えかけ、“ベータ”化している肉体はその本能の呼び声を聞き入れた。
光が消え、彼が新しく手に入れたのは、人馬の如き“四脚”、疾走するにはこれ以上ない肉体である。
「ひゃはっ、ひゃはは! 逃げられる!
この体ならどこまでも行けるぜおぉぉい!
あぁばよガキ共ぉ! 幸運の女神はションベン臭いガキなんぞ好かねぇぇとさぁっ!」
ちょうど廃墟から脱出しきった所でクジョーの体が崩れ落ち、“ムシ”が彩る夕焼けを背景にして輝く銀色を撒き散らした。
彼の傍らには、おかしなことにカイが立ち尽くしているではないか。
さきほどまでユラとミーナの居る廃墟内に居たはずの、彼が、一陣の風よりも早く離脱したクジョーの隣に、だ。
「まず一つ目の勘違い」
「ひゃは、は…あ……?」
「この“外骨格”を併せて、僕の進化部位は“七箇所”だ」
ずしゃり。
アスファルトの剥がれた地肌に、疾走中の勢いのまま突っ伏すクジョー、その音にカイの足音が被さる。
クジョーの喉元からは滝のようにおびただしい銀色の液体が流れ、地面がその血で乾きを潤していくに連れて唐突に薄れゆく意識の中、彼の瞳は“逆間接”となっているカイの両脚を捉えた。
突然だが、チーターを筆頭にした豹亜科には獲物を狩る為に爆発的な加速を得るものが多い。
彼らは距離制限付きでギアを上げ、持続力では敵わない俊敏な獲物を確実に仕留めるのだ。
土壇場でクジョーの肉体に宿った“四脚”も、“逆間接”の瞬発力に敵う事あたわず、さながら獲物と捕食者の関係を模したようにして、一瞬の逃亡劇に幕を下ろした。
「そして二つ目の勘違い」
「あ、れ…喉、から、血? オレ……何で倒れて…ん…だ……」
「“ニンゲン”など、今や誰一人として存在しない」
顔の大半を覆う“バイザー”、上体を包む“外骨格”と、腹部に隠された“触手”、更に双対の“刃の腕”と、下肢を形作る“逆間接”。
既にニンゲンとかけ離れた姿の彼が言うには、この上なく現実的な言葉だった。
生粋の“ベータ”として進化を果たした者――そう言われても何ら違和感のないフォルムが、あまりに冷徹で、あまりに深刻で、まるで異形の身になった者達の代弁者として語るようにして、虚無的に呟いた。
「“新世界に適応する者”か、“旧世代にしがみつく者”か。
この世界にはその二種類のイキモノしか居ないのだからな」
「オレの、血なのか……?
オレが…まさか、死…ぬ……?」
クジョーの中にあった幾つかの価値観。
「見た物のみが判断材料」「子供は弱い」「己が特別な存在である」
既成概念の檻とも言うべきそれらが彼の敗因になった以上、カイの言葉は痛烈な重みを持っていた。
だが最早その言葉がクジョーの耳に入ることはない。
役目を果たさない呼吸器官が、ヒューヒューと風の音を鳴らす。
血管の断面からも既に血は出ていない。
昏睡に近い朦朧とした意識の中で、クジョーは思うのだった。
こんな所で死んじまうのかオレ。
だから外回りなんて任務はイヤだったんだ。
外には“ヒカリ”だけじゃない、こいつらみたいなフリーのゴロツキ軍団が縄張り拡大の為にいっつもうろついてやがる。
危険な割りに見返りの少ない仕事なクセして、実際の中身は、ただ“ベータ”が敵の存在を“アルファ”に伝達してから対応するまでの時間稼ぎ。
“プライム”が仕切った方が戦力が上がるとか言っても、本音じゃあわよくば倒せ程度の考えしかありゃしねぇ。
しかもメインの“ベータ”自体の代えが利くもんだから、オレみたいな有望な人材を平気でリーダーに仕立て上げる。
何が悲しくて下位種の“ベータ”なんかの面倒を見なきゃならねぇんだ?
オレは何でまたこんなクソみたいな任務を引き受けちまったんだ?
一体いつからこんなつまらねぇ人生になっちまったんだ?
世界がぶっ壊れて生まれ変わった時、オレも生まれ変われると思ったのに――
あぁでも、このガキ連中がデクノボー共をぶっ殺す様はなかなか良かったな。
あのお陰で少し気が晴れたぜ。
あれを見れただけでも役得ってな所か?
どうせこのまま生きてたって、デクノボー共を見殺しにした事が“アルファ”伝いに“ヤミ”に伝わってたんだ。
イデ様に裏切り者扱いされるぐらいならここらで死んじまった方がイイかも知れねぇや。
そう考えたら何か気が楽になるな。
こっちの道が正しいだろうな、とか思えるなんて何年ぶりだ?
笑えるぜ。
ガキの頃からずっと満足いかねぇ事ばっかりだったのに、こんな死に際に満足するとはなぁ。
この満足感が欲しくて生きて来た気がするぜ。
あ、そういやオレ幾つになったっけ?
二十四の時ぐらいにあのニュースが流れて、いつの間にか地球がヤバイ事になってたんだよな。
あれから何年経った?
あれから何年生きた?
あれから満足するまでどれだけかかった?
あれから生きて来て、満足できるのが今しかねぇのか?
ちょっと待てよ、たったの一回?
オレ、今までの人生でたったの一回しか満足できてねぇのかよ!
冗談じゃねぇ、そんなバカな話があるか!
こんなんで満足できるかよチクショウ!
これっぽっちの満足の為に生きてきたんじゃねぇ!
オレはもっと何かでけぇ事をやる為に“プライム”に生まれ変わったんだ!
そうに決まってる!
オレは他の奴らよりもすげぇモン持ってるんだ!
それなのにこんな所で死ぬ? 冗談じゃねぇ!
冗談じゃねぇぞ!
オレはこんな所でくたばるタマじゃねぇんだよ!
そうだ、まだ“世界平和”さえこの目で拝んでねぇ!
イヤだ、死にたくない、死にたくない!
死にたくないんだよぉぉぉぉ!
パクパクと動いていたクジョーの口が、今、静かに閉ざされた。
しかし、元より死の淵での彼の叫びは発声に至ってはいない。
彼の最後の言葉を知る者は、初めから誰居ないのだ。
彼の目が光を反射しなくなった事を認めると、カイは“変身”を解き、コキコキと首を鳴らして振り返った。
側には今しがた追いついて来たユラとミーナの姿がある。
「カイ。 ……お疲れ」
「“触手”を起こさせる為だからって、わざわざ攻撃受けて……」
「何も問題は無いさ。
今まで見てきた限りで、最も硬質な“DNA”が手に入ったんだ」
ミーナが“触手”の使用を咎めようとした矢先、カイは先を制す。
冷淡な彼にしては珍しいが、あまり触れたくない話題なのだった。
「本当に、心配してるんだよ?
それを踏まえて、たまには心配する身にもなって」
「…僕が気苦労をかけた、か。
だが目的の成就には必要な事だ、好機はいつでも掴まなければならないだろう。
違うか?」
「それは違わないけど……」
彼女が言ったように、また、クジョーが驚愕を覚えたように、カイの“触手”は“進化”の中でも特殊な形態であり、“生け喰い”という特異性質も相まって限定的な状況でないと発現しない。
肉体が著しく損壊した時のみ、平たく言えば“致命傷を負った時”にのみ、生命を維持する為に現れるのだ。
意図して使うには、“グローブ”を取り込んだ時のように自らを殺めさせる覚悟で挑まなければならない。
しかして、当然だが発現が間に合わない場合も十分に想定できる。
その時は“致命”の文字通り、受けたダメージはカイ本人を死に至らしめるだろう。
ミーナにはそれが耐えられないのだ。
「カイ君、君は目的の為に強くなるの? 強くなる事が目的なの?」
「最終的には前者だが、その中には後者を内包しているんだ、答えは両方と言えるな」
「そう……だよね」
カイの答えにミーナははにかんだ。ひきつった頬は不安な気持ちを隠せぬままだ。
いつか彼女は同じ問いかけをしたことがある、彼は当時こう答えた。
目的の為に。
「僕は周辺の探索と道のりの偵察に行って来る、
その間に二人はそいつで“食事”を済ませておくように」
事切れたクジョーの亡骸を示すカイ。
淡々とした指示に紛れた“食事”の響きが、ミーナの肩をびくっと震わせる。
「僕が戻り次第、進行再開だ。
四十分で戻らなければチヨダのアジトへ帰還するように」
「ねえ、カイ」
「何だ?」
それまでじっとクジョーの死に顔を見つめていたユラが、おもむろにカイを呼び止めた。
ユラの目はまだ固定されたまま動いていない。
「この“ヤミ”のおっちゃんさ、最期に何言おうとしてたんだろ?
っていうか何か言ってなかった?」
ユラの問いに、カイは面食らった顔で眉をひそめる。
「気持ちの悪い事を言うなユラ。
僕は確かに声帯と気管支を斬ったんだ、喋れる筈がないだろう」
「ああ、そういえばそう、か」
「お前の好奇心と想像力は、漫画家志望ならではのものか?
まったく……大概にしとくんだな」
不愉快そうに否定の弁を重ねようとしたカイだが、すぐに咳払いの素振りをして鼻を鳴らした。
石像の真似に似て動かないユラを一瞥し、カイは呆れた風にため息をついて、踵を返す。
やがて踏み出した足の音と同時に、彼は背中越しに言葉を継いだ。
「…仮にそいつが何かを言い遺そうとしていたとしても、
どうせ大した言葉じゃあなかっただろうさ」
じゃり、じゃり、と遠ざかる足音。
「大した言葉じゃあなかった、のかな……」
ぽつり、ユラ。
じゃり、じゃり、という足音が少しずつ風の音に消えていく頃、カイの後姿も砂塵の向こうにかすれゆく。
「凄く大切な事を叫んでるように見えたんだけどな……」
まだボーイソプラノのままのユラの声も、じきに風の中へと巻き込まれ、吹き消されていくのだった…。
空は橙色から焼け付く赤色へと移り変わり、その背後からは夜の群青色が迫りつつあった。
群青に光る星々もまた発光体を持つ種の“ムシ”によるものであり、それは失われた日常とかけ離れた距離で、奇しくも過去の平穏を模している。
ユラとミーナはどちらともなく目を合わせ、頷くと、そっとクジョーの屍に手を触れて光を呼び起こした。
「…ごめんな、おっちゃん」
「“いただきます”…」
各々の手とクジョーの接部が強く輝き始めると、息絶えた彼の肉体は各部からちりちりと糸くずのようなものを宙に上らせ、徐々に線虫の如く姿を変えていく。
線虫のようなそれはクジョーの“DNA”をもって光と共に二人の腕へと吸い込まれていき、“食事”が進行するに連れて、クジョーの肉体が少しずつ少しずつ形を失い、さながら編み人形から一本ずつ織り糸を抜き去るかのようにして彼をこの世界から葬っていった。
やがて骨すら残さず“喰われた”後、クジョーの肉体が在った場所に弔いの風が吹きぬけた。
そこにはもう何も無かった。
それはユラとミーナにとって必要なことだった。
人は他者を捕食しなければ存在を保つことができないのだから。
ありとあらゆる生物にとって、それは必要なことだった。
生きる為に必要なことだったのだ。
「“ごちそうさま”……」
風が、今こぼれ落ちたばかりの二人の涙をさらう――。