第一章 目覚め
研究室の蛍光灯が、夜明け前の闇を白く照らしていた。
「また徹夜か」
柊美咲は自分に呟きながら、培養器の中で育つシロイヌナズナの苗を見つめた。三十二歳。植物生理学を専攻して十年。彼女が追い求めているのは、植物ホルモンの「言葉」だった。
オーキシン、ジベレリン、サイトカイニン、エチレン、アブシシン酸。植物たちは、これらの化学物質を使って互いに語り合う。成長を促し、花を咲かせ、実を結び、そして枯れてゆく。すべては精緻な化学反応の連鎖だ。
「先生、まだいらっしゃったんですか」
研究室のドアが開き、大学院生の高橋が顔を出した。
「ああ、高橋くん。おはよう」
「おはようございます。また、あの実験ですか」
美咲は頷いた。彼女が三年前から続けている実験。それは、植物がストレスを感じたとき、どのようにホルモンのバランスを変化させるかを観察するものだった。
「今日で千日目なんだ。千日間、毎日同じ時刻に観測を続けた」
「千日…」高橋は驚いたように目を見開いた。「それって、ほぼ三年じゃないですか」
「そう。でも、まだ答えは見えない」
美咲は疲れた笑みを浮かべた。
実は、彼女には隠していることがあった。この実験を始めたきっかけ。それは、五年前に亡くした母の最期の言葉だった。
「植物は、私たちに何か言おうとしているのよ」
末期がんで病床に伏していた母は、病室の窓辺に置かれた小さな観葉植物を見つめながら、そう言った。
「水をあげると、葉が少し上を向くの。まるで『ありがとう』って言っているみたいに。私、ずっと不思議に思っていたの。植物にも心があるのかなって」
母は元々、小学校の教師だった。理科の授業で植物を育てることが好きだった。美咲が植物学の道を選んだのも、母の影響だった。
「心があるかどうかは分からないけど」美咲は母の手を握った。「植物は確かに、私たちと『会話』しているのよ。ホルモンという言葉を使って」
「そう…それを、解明してね」
母はそう言って、静かに目を閉じた。
それから五年。美咲は母の言葉を胸に、植物の声を聴こうとし続けていた。
ここまで読んでいただきありがとうございます。短い作品ですが,お付き合いください。




