EP 3
空腹という名の魔物
「あ……うぅ……」
ルルシアは電柱に縋りつきながら、自身の腹部を押さえていた。
仮面の奥の瞳が、焦点の定まらない動きで彷徨う。
(な、何なのこれ……! お腹が空いて、頭が真っ白に……思考がまとまらない……!)
彼女がコピーしたのは、ただのスキルではない。
リーザという極貧アイドルが、数々の修羅場(無銭飲食寸前)をくぐり抜けて培った『生存への渇望』そのものだ。
それは温室育ちの伯爵令嬢の精神など、容易く食い破るほどの強度を持っていた。
そんな彼女の前に、ゴミ袋を持ったリーザが立った。
「あらら~? その恰好、そのお腹の音……」
リーザはルルシアの仮面とゴスロリ服をジロジロと見た後、深く頷いた。
「わかりますぅ。貴女、訳ありの『家出少女』ですね? お金がなくて、コスプレ衣装のまま飛び出しちゃった系!」
「ち、違うわ! 私はナンバーズの……!」
ルルシアが反論しようとした瞬間。
ギュルルルルルルルルゥゥッ!!
彼女の腹の虫が、否定の言葉を掻き消すほどの爆音で鳴り響いた。
ルルシアは顔を真っ赤にしてうずくまった。
「ふふふ、隠さなくていいですよぉ。空腹は嘘をつきません」
リーザは慈愛に満ちた(そしてどこか先輩風を吹かせた)笑顔を向けた。
「私も昔はそうでした。でも安心してください。この街には、お金がなくてもお腹を満たす『楽園』があるんです」
「ら、楽園……?」
「ええ。貴女、才能ありそうですし……特別に、この『貧乏サバイバル』の達人であるリーザパイセンが、手ほどきしてあげましょう!」
リーザが手を差し出す。
ルルシアの理性は「この不審者に関わるな」と警鐘を鳴らしていた。
だが、コピーされた本能が勝手にその手を握り返していた。
「……はい、お姉さま」
「よろしい! では第一の修行、『タローソン』へ行きますよ!」
***
コンビニエンスストア『タローソン』。
その一角にある『試食コーナー』の前で、二人の少女が息を潜めていた。
今日の試食品は、爪楊枝に刺さった『パリッとジューシー・あらびきウインナー』だ。
「いいですか、新人ちゃん」
商品棚の陰から、リーザが小声で囁く。
「試食コーナーは戦場です。ただ漫然と近づいてはいけません。店員さんの視線、他のお客さんの動き、そして『買う気があるフリ』をする演技力……全てが試されます」
「か、買う気があるフリ……?」
ルルシアは困惑した。
(私は伯爵家の娘よ……? こんな庶民の店で、しかも試食なんて……プライドが許さないわ!)
「嫌よ! 私はあんな乞食みたいな真似……!」
「お腹、空いてないんですかぁ?」
リーザが悪魔の囁きをする。
その瞬間、鉄板の上で焼けるウインナーの脂の匂いが、空調に乗ってルルシアの鼻腔を直撃した。
ドクンッ。
ルルシアの中の『野生の飢餓感』が暴走した。
プライド? 品位? そんなもので腹は膨れない。
目の前の肉を狩れ。摂取しろ。生存しろ。
「……う、ううっ……!」
ルルシアの体が、意思に反して前傾姿勢をとる。
それは、獲物を狙う獣の構えだった。
「そうです、その目です! いいですね、私が店員さんに話しかけて注意を逸らします。その隙に……やるんです!」
「……ラジャー」
リーザが飛び出した。
「あ~っ! 店員さぁん! この『高級メロンパン』のカロリー表示、間違ってませんかぁ!?」
「えっ!? お客様、少々お待ちを……」
店員がリーザの方を向いた、その一瞬の隙。
(今よ! 体が……勝手に動くッ!)
シュバッ!!
ルルシアは疾風のごとく試食コーナーへ滑り込んだ。
ナンバーズで鍛えられた身のこなしと、コピーした貧乏スキルの融合。
彼女の指先が、目にも止まらぬ速さで爪楊枝を摘まみ上げた。
パクッ。
仮面の下半分を少しずらし、電光石火で口の中へ放り込む。
そして何食わぬ顔で、雑誌コーナーへと移動して立ち読みのフリをする。
所要時間、0.5秒。完全犯罪だ。
口の中に広がる、肉汁の洪水。
安っぽい脂の旨味、塩気、そしてスパイスの刺激。
(……っ!?)
ルルシアの目から、大粒の涙が溢れ出した。
(な、何これ……美味しい……! 王宮で食べたフルコースよりも、お父様に買ってもらった高級ケーキよりも……五臓六腑に染み渡るわ……!)
それは極限の空腹が生み出した、魔法のスパイス。
彼女は震えながら咀嚼し、飲み込んだ。
「……うまい」
仮面の下で、彼女は恍惚の表情を浮かべていた。
店員を撒いて戻ってきたリーザが、ニッと親指を立てる。
「ナイスです、新人ちゃん! いい食いっぷりでしたよ!」
「パイセン……私……もっと……もっと食べたい……!」
ルルシアはリーザの手を握りしめた。
そこにはもう、ナンバーズの幹部としての尊厳はなかった。
あるのは、ただの腹を空かせた哀れな家出少女(兼、貧乏スキルの継承者)だけだった。
「いいでしょう! 次は『公園のサラダバー』に行きますよ!」
「はいっ! ついて行きます!」
二人は夕焼けの街へと走り出した。
ルルシアの堕落への第一歩は、こうして踏み出されたのだった。




