EP 8
世界崩壊の危機(虫歯)
シェアハウス『メゾン・ド・キャロット』の朝は、いつも通りの平和な光景から始まるはずだった。
俺がキッチンでコーヒーを淹れ、リーザがパンの耳を齧り、イグニスが冷蔵庫のハムを盗み食いしてキャルルに怒られる。
そんな日常が、突如として崩壊した。
ゴゴゴゴゴゴゴ……ッ!!
地鳴りだ。
それも、震度5クラスの激しい揺れがマンション全体を襲った。
「うわっ!? なんだ、敵襲か!?」
「キャルル、机の下に潜れ!」
俺たちは慌てて身構える。
だが、揺れの震源地は地下ではなかった。
リビングのソファの上だ。
「はうぅ……はうぅぅぅ……」
そこには、頬を押さえて涙目で震えているルナの姿があった。
彼女が「痛い」と呻くたびに、ズドン、ズドンと建物が揺れる。
それだけではない。
窓の外を見ると、信じられない光景が広がっていた。
街路樹が急速成長してアスファルトを突き破り、庭の雑草が触手のように蠢いて、電柱をへし折ろうとしている。
「な、なんだこれ!? 植物が暴れてやがる!」
「た、大変です! ルナちゃんの『共鳴』が始まっちゃいました!」
キャルルが顔面蒼白で叫ぶ。
「共鳴? どういうことだ?」
「ルナちゃんはハイエルフの王族で、世界樹とリンクしてるんです! 彼女が痛みを感じたり泣いたりすると、世界中の植物が暴走して、最悪……人類が滅びます!」
「なんだその迷惑極まりない仕様は!?」
俺は愕然とした。
この天然エルフ、歩く災害かよ。
しかし、文句を言っている場合ではない。窓ガラスには既に蔦が張り付き、ミシミシと圧力をかけてきている。
「ルナ! どこが痛いんだ! 腹か? 頭か?」
「はひ……はが……歯がぁ……」
ルナが涙ながらに口を開ける。
俺が覗き込むと、右奥の歯茎が赤く腫れ上がり、親知らずが横向きに生えて周囲を圧迫していた。
さらに、その手前の歯には黒い穴――虫歯が見える。
「……親知らずの炎症と、虫歯の併発だな。こりゃ痛むわけだ」
「ち、治癒魔法は!? 誰か使える奴いねぇのか!」
「ダメだよイグニス! 虫歯菌は魔法じゃ消せないの! 下手に塞ぐと中で爆発しちゃう!」
キャルルの言う通りだ。
原因(患部)を物理的に除去するしかない。
「……やるぞ。緊急オペだ」
俺は覚悟を決めた。
ここでルナの痛みを止めなければ、シェアハウスどころか太郎国がジャングルに沈む。
「オペって……医者を呼ぶのか?」
「間に合わん。俺がやる」
俺は腰のツールポーチから、一本の工具を取り出した。
グリップの赤い『ラジオペンチ』だ。
先端が細く、細かい作業に適している。
さらに、昨夜の残りのウォッカ(度数96%)をドボドボとかけて消毒する。
「ひぃッ!? り、竜さん!? その凶器で何をする気ですかぁ!?」
「暴れるな。じっとしてれば一瞬で終わる」
「いやぁぁぁ! 乱暴反対ですぅ! 植物虐待ですぅ!」
ルナが半狂乱になって暴れる。
そのたびに観葉植物が巨大化し、天井を突き破ろうとする。
「イグニス! キャルル! ルナを押さえろ!」
「わ、わかった! 悪く思うなよルナ!」
「ごめんねルナちゃん! 世界のためだから!」
イグニスがルナの両腕を、キャルルが両足をガッチリとホールドする。
俺はルナの顔の前に立ち、ペンチを構えた。
【ウェポンズマスター】発動。
対象:『虫歯』および『親知らず』。
認識:『排除すべき敵』。
俺の脳内で、最適な抜歯ルートと力加減がシミュレートされる。
ペンチは今、俺にとって「聖剣」であり「手術メス」だ。
「あーんしろ」
「ふぐぅぅぅーーッ!!(断固拒否)」
ルナが口を固く閉ざす。
俺は空いた左手でルナの顎関節のツボを軽く圧迫した。反射的に口が開く。
「……ターゲット確認。行くぞ」
俺は迷わずペンチを口内に突っ込んだ。
先端が患部の歯を捉える。
滑らない。ミクロン単位の精度でガッチリとグリップする。
「んぐぐぐぐッ!?」
「動くな。『安全第一』だ」
俺は手首のスナップを効かせた。
力任せに引っこ抜くのではない。
歯根の生えている角度に合わせて、螺旋を描くように、最小限の力で――
キュッ、スポンッ!
小気味よい音と共に、元凶である親知らずが抜け落ちた。
出血は最小限。痛みを感じる暇すらない神速の早業。
「…………へ?」
ルナが間の抜けた声を出す。
同時に、外で暴れていた植物たちが、嘘のように大人しくなり、元のサイズへとシュルシュル縮んでいった。
「お、終わった……?」
「完了だ。うがいしろ」
俺はコップの水を渡した。
ルナは恐る恐る口をゆすぎ、腫れが引いていく頬を触った。
「……痛くない。痛くないですぅ~!」
「よかったな。これで世界は守られた」
俺はペンチを拭きながら、ドッと疲れが出たのを感じてソファに座り込んだ。
ハイオークと戦うより神経を使ったかもしれない。
だが、問題はここからだった。
痛みから解放されたルナは、頬を染め、潤んだ瞳で俺をじっと見つめてきたのだ。
先ほどまでのパニック状態とは違う、妙に熱っぽい視線。
「あの……竜さん」
「ん? まだ痛むか?」
「いえ……その……」
ルナはもじもじと指を合わせ、爆弾発言を投下した。
「エルフの乙女にとって、口の中を見られるというのは……裸を見られるのと同じくらい恥ずかしいことなんです」
「は?」
「あんなに大きく口を開けさせて……中までじっくりいじくり回して……」
言い方。
語弊がありすぎる。
「もう……私、お嫁にいけません」
ルナが俺の腕にすり寄ってくる。
「竜さん……責任、取ってくださいね? ♡」
上目遣い。
世界を滅ぼしかけた天然エルフからの、重すぎる求婚。
俺は全速力で首を横に振った。
「無理だああああああああああッ!!」
俺の悲鳴が、平和を取り戻したシェアハウスに虚しく響き渡った。
虫歯は抜けても、もっと厄介なフラグが立ってしまったようだ。




