第一章 石ころの勇者
血尿とジャージと赤マルと
「レジ3番、お願いします! 袋詰め応援入って!」
「すいません店員さん! この2バイ4材、カットまだなの!?」
「あーもう! 佐藤! 灯油売り場が混んでるぞ、走れ!」
怒号とBGMが混ざり合った、耳鳴りのような騒音。
ホームセンター『ドリーム・ホーム』の歳末大感謝祭は、まさに戦場だった。
俺、鍵田竜は、その戦場の最前線で棒立ちになっていた。
視界がグラグラと揺れている。
今、自分が何をしているのか一瞬わからなくなる。
ああ、そうだ。クレーム対応だ。電動ドリルの使い方がわからない爺さんに、三十分も怒鳴られているんだった。
「……申し訳ございません、お客様。こちらの機種は……」
頭を下げる。だが、言葉が出てこない。
冷や汗が背中を伝う。腹の奥が、焼けるように熱い。
そういえば、最後にトイレに行ったのはいつだ?
最後に水を飲んだのは?
昨日の朝から三十六時間、ぶっ通しで働いている気がする。
「おい、聞いてんのか!」
「少々、失礼します……」
客の怒声を背に、俺はフラフラとバックヤードへ向かった。
サボりじゃない。限界だった。
トイレの個室に転がり込み、震える指でズボンのチャックを下ろす。
排尿痛。
そして、便器の水溜まりに落ちたのは、黄色い液体ではなかった。
「……は?」
赤。
鮮やかな、毒々しいまでの赤。
血尿なんてレベルじゃない。まるで動脈を切ったかのような鮮血が、便器を染め上げていく。
「あ、これ……アカンやつや……」
乾いた笑いが漏れた。
労災、下りるかな。
明日のシフト、誰が変わってくれるんだ?
資材館のシャッター、誰が閉めるんだよ。
そんな、どうしようもない社畜の思考を最後に、俺の意識はプツリと断線した。
***
「あー、起きた? お疲れー」
不意に聞こえた声に、俺は目を開けた。
そこは、何もない白い部屋だった。
病院のベッドではない。天井も壁もない、無限に広がる白い空間。
その中心に、ちゃぶ台があり、一人の女が座っていた。
緑色の芋ジャージに、便所サンダル。
髪はボサボサのお団子頭。
片手にはコンビニで売っているカップ酒、もう片手には細いメンソールのタバコ。
「……ここ、どこですか? 俺、倒れて……」
「うん、死んだよ。過労死。心不全だってさ」
女はカップ酒をズルズルと啜りながら、天気の話でもするように言った。
「……そうですか」
俺の反応は薄かった。
悲しみも恐怖も湧いてこない。ただ、「ああ、もう働かなくていいんだ」という安堵感だけがあった。
「物分かりが良くて助かるわー。あ、私はルチアナ。一応、女神やってる者です」
「どうも。ホームセンター社員の鍵田です」
「丁寧だねぇ。まあ座りなよ」
ルチアナと名乗るジャージ女神は、空いた酒のカップをポイと投げ捨てた。カップは空中で光の粒子になって消えた。
「君の人生、ちょっと覗かせてもらったけどさ。ドン引きだわ。月残業百五十時間? サービス残業の嵐? あれじゃ奴隷の方がマシな生活してるよ」
「……否定はしません」
「だからさ、お詫びってわけじゃないけど、次はもっと自由に生きなよ。異世界、行ってみない?」
異世界。
ラノベでよくあるやつか。
今の俺には、天国よりも魅力的に響いた。少なくとも、クレーマーと在庫管理のない世界ならどこでもいい。
「行きます。……条件は?」
「条件なんてないよ。ただの放牧。で、手ぶらじゃなんだから、スキルあげる」
ルチアナは懐から適当な紙切れを取り出し、サラサラと何かを書いた。
「君、仕事で色んな道具使ってたでしょ? だからこれ。【ウェポンズマスター】」
「ウェポンズ……マスター?」
「そ。剣でも槍でも、工具でも農具でも、君が『道具』と認識したものは何でも達人レベルで扱えるスキル。あと、亜空間に道具を出し入れできるオマケ付き」
随分と大雑把だが、悪くない。
俺は頷いた。そして、一つだけどうしても確認したいことがあった。
「あの、女神様」
「んー?」
「タバコ……ありますか?」
俺の人生の唯一の支え。
休憩時間の十分間だけ、俺を人間につなぎ止めていた相棒。
ルチアナはキョトンとして、それからニヤリと笑った。
「いいねぇ、その枯れた感じ。嫌いじゃないよ」
彼女は指をパチンと鳴らした。
「じゃあ、君の愛飲してる『赤マル』。ポケットに無限湧きするようにしといたから。ライターもセットで」
「……一生ついていきます」
「いや、ついて来られても困るから。じゃ、元気でねー」
ルチアナがヒラヒラと手を振る。
俺の足元の床が抜け、視界が真っ白に染まった。
***
鳥のさえずりと、土の匂い。
頬を撫でる風が心地よい。
目を覚ますと、俺は森の中にいた。
鬱蒼とした木々。見たこともない植物。確かに日本ではない。
体を起こし、自分の恰好を確認する。
血尿と汗で汚れていたはずのチノパンは綺麗に浄化され、上は相変わらず『ドリーム・ホーム』のロゴが入ったダサいポロシャツだ。
異世界に来てまで社畜ルックかよ、と苦笑する。
だが、体は軽い。
あの鉛のようなダルさが嘘のように消えている。
「さて……」
俺はチノパンの右ポケットに手を突っ込んだ。
指先に触れる、硬い箱の感触。
取り出すと、見慣れた赤と白のパッケージ。『Marlboro』の文字。
左ポケットには、100円ライター。
一本取り出し、口に咥える。
カシュッ、というライターの音。
先端に火が灯り、チリチリと葉が燃える。
「スゥー…………」
深く、肺の底まで吸い込む。
ガツンとくるタールの重みと、ニコチンの刺激。
紫煙をゆっくりと吐き出すと、森の空気に溶けていった。
「……ふぅ」
うめぇ。
死ぬほどうめぇ。
生きててよかった。いや、死んでるんだけど。
俺は木漏れ日を見上げながら、二口目を吸った。
誰にも邪魔されない。
「レジ応援」の放送も聞こえない。
「とりあえず……休憩だな」
俺の第二の人生は、最高の一服から始まった。




