1-7. 嵐の前の静けさ
夜明けの点呼が終わると同時に、ラグス中佐は偵察班への志願を募った。僕が一歩踏み出すと、中佐はわずかに眉を上げただけで
「ならばリナとゼロを連れて夜泣き沼の手前まで進め」
と命じる。凍り付いた木立の間を進む道すがら、ゼロは冗談めかして
「お前の傷移し、兵站に記録されたら英雄扱いかもな」
と笑った。けれどリナは僕の包帯を見て静かに首を振る。
「あれは治療じゃない。自分を削っているだけだよ」
その声には責めよりも、どこか怯えが混じっていた。
沼へ続く谷底では、薄紅色の霧が渦巻き、足元の雪が灰色に変色していた。シルヴァのノートには、同じ色の霧は旧文明の儀式陣に由来すると走り書きされている。僕が魔法陣の欠片を拾い上げると、指先に冷たい痛みが走った。その瞬間、欠片がまるで生き物のように脈動し、僕の手に食い込むように吸い付いた。直後、遠くで金属音が重なり、砦から狼煙が上がる。敵の蠢きを察した僕たちは急ぎ帰還しようとしたが、沼地に埋められていた呪符が一斉に光り、地面が震えた。僕が触れた魔法陣の欠片が、周囲の呪符と共鳴し、爆発的な魔力の奔流が生まれた。ゼロが僕を突き飛ばし、リナが咄嗟に障壁を張る。しかし、その障壁は魔力の奔流に押し潰され、衝撃で耳鳴りが止まず、視界が白くまたたいた。
目を覚ますと、僕は砦の医務室の簡素なベッドにいた。頭はガンガンと痛み、耳の奥で金属音が響き続けている。ラグス中佐は報告書を投げつけ、
「お前が触れた呪符、基地の結界が吸い上げて暴発した」
と低く告げる。怒りではなく、信じ難いものを見る眼だった。
「夜泣き沼の底で誰かが意図的に力を増幅させている。お前の体質が媒介になるなら、利用する」
その言葉の意味がよく分からない。増幅?媒介?僕には何が起きているのか理解できない。ただ、呪符に触れたら爆発したことだけは分かった。魔法陣の欠片が僕の手に食い込むように吸い付き、周囲の呪符と共鳴して爆発を起こした──その事実だけが、頭の中で繰り返される。その言葉にリナが抗議するが、中佐は
「任務だ」
の一言で切り捨てた。僕は何も言えず、ただ混乱の中で拳を握り締めるだけだった。
静まり返った診療所で、シルヴァからの新しい手紙を開いた。
「呪符には"記録"が残る。君が触れた痕跡を辿れば、術者の意図が読めるはず」
と墨で書かれている。でも、僕にはその意味がよく分からない。呪符の記録をどう辿ればいいのか、術者の意図をどう読めばいいのか、すべてが謎のままだった。
僕は震える手で包帯を解き、腕に浮かぶ黒い紋をなぞった。すると薄い囁きが耳元を掠め、
「沼に還れ」
と繰り返す。恐怖と共に、不可解な納得が芽生える。僕の傷が鍵になるのなら、逃げても誰かが苦しむだけだ。窓の外では夜明けの霧が再び濃さを増し、遠くで鐘が鳴る。僕は深く息を吸い込み、それでも答えは見つからなかった。
その晩、ゼロは焚き火のそばで
「お前は自分を捨てるのが早すぎる」
と言った。
「俺も昔は隊のために何でもすると思っていたが、死んでしまえばやり直せない」
彼の声には過去への悔いが滲む。リナは地図を広げ、夜泣き沼周辺の地形を指でなぞりながら
「明日、私たちだけで行くわけじゃない。王都から追加の部隊が来る。その間に、何が起きているのか少しでも理解できれば」
と呟いた。彼女の頼もしさに、胸が少し軽くなった。でも、僕には何も分からない。ただ、目の前で苦しむ人を放っておけないだけだ。
その時、ゼロが焚き火に薪をくべながら、
「お前、シルヴァって子から手紙来てるぞ」
と告げた。僕は急いで手紙を開き、彼女の文字を読んだ。
「リオ、あなたは一人じゃない。私も図書館で調べ続けている。もし何か分かったら、すぐに知らせるわ」
その言葉に、凍えるような孤独が少しだけ溶けた。遠く離れていても、僕を支えてくれる人がいる。その事実が、暗闇の中で小さな光となって輝いていた。
夜泣き沼の霧は、王国が忘れようとした歴史を吐き出しているのかもしれない。落ちこぼれとして蔑まれていた少年が、いまや戦場の鍵を握る存在になろうとしている。恐怖は消えないが、退く理由ももう見当たらない。リナやゼロ、シルヴァの信頼、クロウの教え、父の手紙──すべてが背中を押す。僕は包帯を巻き直し、再び剣の柄を握った。次の戦いが、リオ・アーデンという人間を決定的に変えるものになることを、まだ誰も知らない。
焚き火の火が揺れ、遠くで夜泣き沼の霧が濃くなっていく。その霧の中に、何かが潜んでいる。旧文明の呪詛、エリーザが封印したものの残滓──すべてが、僕の周りで蠢き始めている。でも、僕は一人じゃない。シルヴァの手紙を胸に、僕は次の朝を待った。




