1-6. 北境前哨基地の初日
北境へ向かう馬車は三日かけて荒野を進み、黄昏時に第七前哨基地へ到着した。砦の門は分厚い氷に覆われ、兵士たちの息が白く煙る。馬車を降りた瞬間、頬を打つ冷気が肺まで刺し込んだ。僕たちは到着早々武具庫に連れて行かれ、厚手の防寒具と新しい魔刀を支給された。指揮官のラグス中佐は軍帽のつばから鋭い視線を覗かせ、壁に貼られた地図を指し示しながら状況を説明する。
「夜泣き沼から敵の散兵が滲み出ている。治癒班は疲弊しているから、呪詛が疑われる傷は後回しだ」
その言葉に、僕の背筋が無意識に強張った。
「噂は届いている。ここでは結果だけを示せ」
中佐はそう付け加え、僕の目をまっすぐ見据えた。
配属された宿舎は石壁がむき出しで、窓からは隙間風が吹き込む。ゼロ・ナイトが隣のベッドに荷を放り、
「思ったより早く再会したな」
と笑った。彼は二十代半ばの老練な兵士で、傷跡だらけの腕を軽くさすりながら
「ここでは誰もお前の過去を気にしちゃいない。生き残るかどうかだけだ」
と肩を叩く。気圧された僕は、父から預かったロザリオを握りしめた。荷袋の底には、出発前にシルヴァが託してくれた手書きのノートが入っている。
「もし誰かの傷が治らなかったら、これを試してみて」
と添えられた手紙を思い出し、ページをめくった。彼女は王立学院に残り、資料整理と情報支援を続けると言っていた。遠く離れていても、僕は一人ではない。
初日の夜、警鐘が鳴り響いた。敵の偵察隊が霧に紛れて侵入したらしい。僕とリナは即席の班を組み、ゼロの指揮で城壁の外へ出る。雪を踏みしめながら進むと、闇の中で倒れた兵士を見つけた。彼の腕には細い斬り傷があり、血が凍りついている。リナが治癒術を試みるが、光が弾かれてしまった。
「呪詛だ」
と彼女が唇を噛む。
「僕が連れ戻す」
そう言って抱きかかえた瞬間、兵士の手が僕の袖を掴み、
「頼む…痛みが消えない」
と震える声で訴えた。その重みを背負ったまま砦へ急ぐと、医師が応急処置を施すが効果は薄い。ラグス中佐が苛立ちを隠さずに命じた。
「明朝までに原因を突き止めろ。できなければ、呪詛を撒いた者を炙り出す」
周囲の視線が僕へ集まり、喉が乾く。
深夜、僕は診療所に残って兵士の脈を確かめ続けた。リナは魔法陣を描き、呪詛の流れを可視化しようと奔走する。ゼロは入口で警備に立ちながら、時折
「息をしろ」
と僕へ声を掛ける。僕は傷口に手を翳し、何か変化が起きないか祈った。母の言葉が耳の奥で囁く。
「この力を使ってはだめ」
──それでも、目の前で苦しむ人を放っておくことはできない。意を決して指先で傷口をなぞると、鈍い痛みが自分の腕に走り、血が滲む。同じ黒い紋が浮かび上がり、兵士の呼吸が少し楽になる。ラグス中佐は
「曲芸か」
と鼻を鳴らしたが、命は繋がった。
夜明け前、診療所を出た僕は雪原に立ち、北風に晒された腕を見つめた。治らないはずの傷が、自分の体ではゆっくり塞がり始めている。どうして自分だけが耐えられるのか分からない。何が起きているのか、なぜこうなるのか、すべてが謎のままだった。だが戦場で役に立てる道があるなら、それを拒む理由はもうない。遠くの空が白み始め、砦の鐘が新しい日を告げた。僕は剣を握り直し、心の中で呟く。
「何が起きているのか分からなくても、誰かを救えるなら続ける」
足元の雪がきしみ、夜泣き沼の方角から吹く冷気が新たな戦いを予感させる。落ちこぼれとして過ごした日々はもはや過去となり、ここから始まるのは「兵器」としての役割か、それとも別の道なのか。答えは霧深い北境だけが知っている。




