1-3. 治らぬ傷の予兆
午後の実戦演習は砂塵の舞う屋外闘技場で行われた。太陽は雲の切れ間から白く光り、剣を握る手のひらに汗が滲む。対面に立つのはガルドの取り巻きの一人、デルンという大柄な少年だ。雷属性の派手さはないが、純粋な腕力で押し切るタイプで、僕のような非力な生徒には最も相性の悪い相手でもある。クロウ教官が木札を鳴らして試合開始を告げると、デルンは砂を蹴り上げながら突進してきた。僕は盾を構えたまま後退したが、背中に掲げた学院支給の魔刀の柄が揺れただけで何も起こらない。
「本気を出せよ、リオ。いや、出せないんだったな」
デルンの揶揄に周囲が笑う。その瞬間、クロウが砂煙を割って二人の間に飛び込み、刀身を横向きに構えた。
「手を抜いたのはどちらだ」
と低く叱責する。僕の動きの鈍さも、挑発に任せた攻撃も、戦場では即座に命を落とす隙だと指摘され、胸の奥に冷水を浴びたような感覚が広がった。クロウは木剣を僕の掌に押し戻し、
「恐れるのではなく、観ろ」
とだけ告げて離れる。視界の中心にデルンの肩の揺れが映り、呼吸のリズムも聞こえる気がした。彼の右肩がわずかに上がり、次の瞬間に左足を踏み出す──その予兆を捉えた僕は、意を決して踏み込んだ。木剣の切っ先がデルンの左腕を掠め、浅い切り傷をつけた。血はほとんど出ず、デルンは一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに笑みを浮かべた。
たったそれだけのはずだった。血もほとんど出ず、デルンは
「この程度」
と笑って武器を下げた。試合は終わり、僕は一礼して退場した。デルンは傷口を軽く拭い、何事もなかったように次の試合に備えていた。しかし、その傷口は時間が経つにつれて、まるで生き物のようにじわじわと広がり始めていた。夕刻になって、彼は激痛を訴えて保健塔へ運ばれたという噂が瞬く間に広がった。
「治癒薬が効かない」
「呪いだ」
「リオが何かした」
──食堂で皿を運んでいた僕の耳にも、揶揄と恐怖が混ざった囁きが次々と突き刺さる。手の震えを隠そうとしても、木杓子がカタカタと音を立て、湯気を上げるスープがこぼれ落ちそうになる。胸の中心が凍えるように冷たくなり、呼吸が浅くなっていった。
夜、シルヴァが寮の廊下で僕を待ち構えていた。薄い外套のポケットから古い羊皮紙を取り出し、
「詠唱無しで残る呪痕」
の項目を指さす。
「切り傷が時を越えて疼き続ける。施術者は自覚しない……今日の出来事に似てると思わない?」
彼女の声は震えていたが、僕を責める色はない。代わりに彼女は
「怖いよね。でも観察してみよう。もし本当に呪いだったら、どこかに発動条件があるはず」
と静かに提案してくる。僕は
「そんな力なんてない」
と首を振るが、心臓の裏側で母の遺言が再び脈打った。
「この力を使ってはだめ」
──何の力か分からないまま守ってきた言葉が、急に現実味を帯びてくる。
その夜は眠れず、窓の外に広がる月光が校庭を冷たく照らしていた。気付けば手紙を取り出していた。父から届いたばかりの文字を読み返し、
「自分を信じろ」
の一文に指を滑らせる。信じようとすればするほど、足元が崩れ落ちそうになる。やがて夜半、寮の扉をノックする音がし、クロウが呼び出しに現れた。彼は淡々とした口調で、
「保健塔でデルンの経過を見てこい」
と命じた。逃げることもできたが、僕は頷いて外套を羽織る。
保健塔は薬草の匂いと消毒液の刺激臭が入り混じる独特の空間だ。ベッドに横たわるデルンの腕には黒ずんだ線が走り、包帯の隙間からはまだ血が滲んでいる。治癒術師が詠唱を繰り返しても光は弾かれ、魔力の波長が乱れているのが素人目にも分かった。デルンは僕を見ると、唇を震わせながら
「頼む……痛みが消えない」
と訴える。恐怖と罪悪感に押し潰されそうになりながらも、僕は彼の手を握った。温かい鼓動が伝わり、同時に自分の掌が冷たくなっていく。
クロウは静かに立ち会い、
「恐れるな。結果だけを見ればいい」
と言い残して部屋を出た。僕はデルンの傷口を凝視し、そこから立ち上る淡い黒煙のようなものを目にした気がした。手を伸ばすと、空気が震え、指先に鋭い痛みが走る。次の瞬間、デルンの呼吸が少し楽になったように見えた。だが僕の腕には同じ黒い紋が浮かび上がり、焼けるような疼きが始まる。治癒術師が驚き、クロウが戻ってきて
「何をした」
と問うた。僕は答えられず、ただ腕を押さえて震えるだけだった。
その夜、シルヴァの勧めで古文書を読み込んだが、難解な文字の羅列に頭が痛くなった。彼女は
「呪いは"媒介"を必要とする。もし君がそれになっているなら、いずれ王国が気付く」
と説明するが、僕にはその意味がよく分からない。ただ、何か恐ろしいことが起きていることだけは感じ取れた。僕は窓の外の月を見上げ、
「僕は何もしていない。ただ、触れただけだ」
と呟いた。だが同時に、誰かが苦しむなら自分が痛みを引き受ければいいという、危うい決意も芽生え始める。落ちこぼれと呼ばれてきた少年が、初めて"自分にしか出来ないこと"に触れた瞬間だった。恐怖と罪悪感に満ちた夜は明けず、ただ消えかけのランタンだけが机の上で揺れていた。




