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『蜜月のコンディショニング』〜氷のトレーナーと禁断のカルテ〜  作者: 舞夢宜人


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後編:治療か、愛撫か。氷の指先に全てを支配される、背徳の契約。

あらすじ:

実業団ルーキーの千夏は、怪我を隠すため冷徹なトレーナー氷室と「秘密の治療契約」を結ぶ。密室で施されるのは、医療の域を超えた甘く執拗な手技。「これは治療だ」と囁く指先に翻弄され、千夏は痛みと快感の境界を見失っていく。その施術はドーピングか、それとも救済か。ライバルの疑惑の目が光る中、勝利への渇望と罪悪感に引き裂かれながら、千夏は氷室との危険な共犯関係へ堕ちていく。


登場人物紹介


小山内 千夏 (19):勝利への焦りから、氷室の「禁断の施術」に溺れる新人選手。

氷室 透 (30):「神の手」で選手を支配し、理想の肉体へ改造する狂気の職人。

藤堂 エレナ (22):千夏の不自然な強さに疑念を抱き、正論で追い詰めるライバル。


※姉妹作品の『蜜月のコンディショニング』~氷のコーチと熱情の契約~のR15リメイク版

第17話:スキャンダルの予兆


 その変化は、最初は些細な違和感として、千夏の日常に滲み出し始めた。ロッカールームに入った瞬間、それまで賑やかだった会話がフッと不自然に途切れる。視線が合うと、慌てて目を逸らされる。食堂でトレイを持って席を探していると、空いていたはずの席に無言で荷物が置かれる。千夏は当初、それらを「エレナとの喧嘩が原因だろう」と解釈し、耐えていた。キャプテン格であり、チームの精神的支柱であるエレナに睨まれれば、周囲が距離を置くのは組織の力学として当然だ。だが、その空気は日を追うごとに、もっと粘着質で、湿った悪意を含んだものへと変質していった。

 ある日の練習後、千夏はトイレの個室で、外の手洗い場から聞こえてくる話し声を耳にした。


「……ねえ、聞いた? 小山内の話」


「聞いた聞いた。やっぱりそうなのかな?」


「だってさ、あんな急に上手くなるわけないじゃん。怪我してたはずなのに、リハビリもしないでいきなりエース級とかありえないし」


「夜中に氷室さんの部屋に出入りしてるって噂、本当っぽいよ。美佳が見たって言ってた」


 心臓が凍りついた。美佳。一番仲が良かったはずの同期の名前。彼女までが、噂の拡散源になっているのか。いや、美佳だけではない。エレナがあの夜目撃した事実が、いつの間にか歪んだ形で漏れ伝わり、尾ひれがついて拡散しているのだ。


「うわ、引くわー。身体でスタメン買ったってこと?」


「氷室さんも氷室さんだよね。あんな真面目そうな顔して、結局若い子が好きなんだ。職権乱用じゃん」


「最低。真面目にやってる私たちがバカみたい。あーあ、早く消えてくんないかな」


 クスクスという嘲笑と、水の流れる音。千夏は個室の中で息を殺し、震える手で耳を塞いだ。聞きたくない。嘘だ。そんな下世話な関係じゃない。私たちはもっと、崇高な目的のために契約しているんだ。彼が求めているのは私の身体ではなく、筋肉の機能美であり、私が求めているのは快楽ではなく勝利なのだ。

 だが、世間はそうは見てくれない。「深夜の密会」「急激なパフォーマンス向上」。この二つの事実が揃えば、導き出される答えは一つしかない。「枕営業」。その卑俗なレッテルが、千夏の背中にべっとりと貼り付けられていた。


 精神的な動揺は、すぐにプレーに現れた。パスを受け損ねる。マークを見失う。シュートがリングに嫌われる。千夏は焦れば焦るほど空回りし、単純なミスを重ねた。


「おい小山内! 集中しろ! 何をやっている!」


 監督の怒号が飛ぶ。千夏は「すみません」と頭を下げるが、視界の隅でチームメイトたちが冷ややかな目を向けているのが分かる。「ほらね」「やっぱり実力じゃないんだ」「魔法が解けたんじゃない?」という声なき声が聞こえてくるようだ。エレナだけは、無表情で前を見据えていた。彼女は約束通り、誰にも言わずにいてくれているのかもしれない。だが、一度撒かれた疑念の種は、エレナの意志とは関係なく、勝手に根を張り、毒の花を咲かせていた。


 練習後、千夏は逃げるように特別室へ向かった。ここだけが、今の千夏に残された唯一の居場所であり、呼吸ができる場所だった。部屋に入ると、氷室はいつものようにパソコンに向かい、データを入力していたが、千夏の青ざめた顔を見るなり眉をひそめた。


「……顔色が悪いな。また佐伯に何か言われたか?」


「違います……。みんなが、私のことを……」


 千夏はその場に崩れ落ち、泣き出した。噂されていること。軽蔑されていること。居場所がないこと。枕営業だと言われていること。心の中に溜まっていた汚泥のような感情を、すべて吐き出した。氷室は手を止めて黙って聞いていたが、その表情は少しも動じなかった。千夏が泣き止むのを待ち、彼は鼻で笑った。


「……くだらない。雑音だ。気にするな」


「でも! みんな、私が先生と寝てスタメン取ったって……! 先生のことまで悪く言ってるんです!」


 千夏が訴えると、氷室は椅子を回転させ、千夏の方を向いた。そして、諭すように、だが絶対的な説得力を持って言った。


「事実無根だと言えばいい。……いや、否定する必要すらない。そもそも俺は監督ではないのだから、試合での選手起用に関する権限はない。選手の状況を把握し、調整したうえで状況を報告するのが俺たちの仕事だ」


 氷室は淡々と、理路整然と語る。その言葉には、一点の曇りもない論理があった。トレーナーには起用権がない。だから、枕営業など成立しようがない。


「だから、トレーナーの仕事を理解していないような無能は無視しておけばいい。選手であるお前は結果で黙らせればいいんだ」


 無能。氷室はチームメイトたちをそう切り捨てた。その傲慢なまでの自信と冷徹さが、今の千夏には救いだった。「間違っているのはお前じゃない、周りだ」と言われている気がしたからだ。


「……結果で」


「そうだ。お前は強くなった。それは事実だ。誰が何と言おうと、コートの上での数字は嘘をつかない。……それとも何か? お前は他人の評価のためにバスケをしているのか? 仲良しこよしがしたいなら、今すぐ辞めてしまえ」


 突き放すような言葉。だが、千夏は首を横に振った。違う。私は勝ちたい。あの全能感を、もう一度味わいたい。


「……違います。私は、勝ちたいです」


「なら、余計なノイズは遮断しろ。耳を塞げ。俺の声だけを聞け」


 氷室は立ち上がり、千夏を抱き寄せた。その頭を胸に押し付ける。ドクン、ドクンという彼の心音が、千夏の乱れた鼓動を鎮めていく。そうだ。私には先生がいる。この部屋がある。この論理がある。外の世界が敵になっても、ここさえあれば生きていける。千夏は氷室の白衣を握りしめ、その匂いを深く吸い込んだ。消毒液とアロマの入り混じった、安らぎと背徳の匂い。

 だが、千夏はまだ知らなかった。この「スキャンダル」が、単なる選手間の噂話では済まされない事態へと発展しつつあることを。翌日、監督室に呼び出され、さらなる屈辱を味わうことになる自分の運命を。


---


第18話:離脱の危機


 監督室の重厚な扉が開かれると、そこには息が詰まるような沈黙と、革のソファに染み付いた古い煙草の匂いが待ち受けていた。部屋の中央にあるローテーブルを挟み、革張りのソファに深く腰掛けた監督は、デスクの上に置かれた一枚の書類を厳しい目つきで睨みつけている。その横には、腕組みをしたヘッドコーチと、そして白衣姿の氷室が立っていた。氷室の表情はいつものように冷徹で、照明を反射する眼鏡の奥の瞳からは、焦りも不安も、何一つ読み取ることができない。千夏は震える足で部屋の中央に進み出た。まるで断頭台の前に引き出された囚人の気分だった。心臓の音がうるさい。


「小山内。お前を呼んだ理由は分かっているな?」


 監督が低い声で切り出した。千夏は小さく頷いた。分かっている。あの噂だ。私が身体を使ってスタメンを勝ち取ったという、根も葉もない、けれどある意味では真実に限りなく近い、醜聞についてだ。


「チーム内で妙な噂が流れている。お前が不正な手段でパフォーマンスを上げているとな。……具体的には、薬物だ」


 予想外の言葉に、千夏は顔を上げた。枕営業の話ではなかった。もっとアスリートとして致命的な、禁止薬物の使用疑惑だ。


「や、薬物……? 違います! そんなもの、やってません! 絶対に!」


「では、このデータをどう説明する?」


 監督は書類を千夏の方へ滑らせた。それは直近のメディカルチェックにおける身体測定データだった。筋肉量、体脂肪率、除脂肪体重。すべての数値が、ここ一ヶ月という短期間で異常なほどの向上を示している。


「この一ヶ月で、お前の身体は別人のように変わった。特に筋肥大のスピードとリカバリーの速さが常軌を逸している。通常のトレーニングだけで、これほどの数値が出ることは生理学的にあり得ない。……アナボリックステロイドの使用を疑われても仕方がない数字だ」


 千夏は言葉を失った。確かに、身体が変わったという自覚はある。だが、それは薬のおかげではない。氷室の「神の手」による施術と、徹底された食事制限、そして死ぬ気でこなしたトレーニングの結果だ。それを「薬」の一言で片付けられるなんて、あまりにも悔しい。


「私は……やってません。信じてください。先生の指導の下で、正しく努力した結果です」


「口では何とでも言える。だが、チームの規律を守るためにも、疑惑を放置するわけにはいかない。スポンサーの手前もある」


 監督は冷たく言い放った。


「ドーピング検査を受けてもらう。結果が出るまで、お前をチーム練習から外す。当然、今週末の試合もベンチ外だ」


 目の前が真っ暗になった。ベンチ外。それはスタメン争いからの脱落を意味する。エレナに負けたくない一心で、あんなに痛い思いをして、恥ずかしい思いをして、魂まで売ってここまで来たのに。すべてが無駄になるのか。絶望に膝が折れそうになったその時、それまで静観していた氷室が静かに口を開いた。


「待ってください、監督。彼女を外す必要はありません」


 よく通る、冷静な声だった。監督とヘッドコーチの視線が氷室に集まる。


「彼女の身体の変化は、薬物によるものではありません。私が作成した特別プログラムによる成果です」


「特別プログラムだと? そんな魔法みたいなトレーニングがあるわけないだろう」


 ヘッドコーチが鼻で笑った。だが、氷室は微動だにしなかった。


「ありますよ。私が管理すれば」


 傲慢なまでの断言。氷室は一歩前に出て、千夏の肩に手を置いた。その手は温かく、力強かった。


「彼女の筋繊維は、通常の選手よりも柔軟性が高く、刺激に対する反応が極めて良い。私はその特性を見抜き、独自の筋膜リリースと神経系の調整によって、眠っていたポテンシャルを強制的に引き出したのです。……いわば、肉体のリミッターを外した状態です」


「リミッターを外す……? そんな漫画みたいな話があるか」


「信じるか信じないかは自由ですが、彼女の身体に薬物の痕跡はありません。検査をすれば分かります。ですが、結果が出るまでの時間を無駄にするのは、チームにとって損失です」


 氷室は監督を真っ直ぐに見据えた。


「彼女は今、進化の過程にあります。ここで止めてしまえば、せっかく作り上げた筋肉のバランスが崩れ、元の木阿弥になってしまう。……私が保証します。彼女は潔白です」


 場が静まり返った。あの冷徹な氷室が、一人の選手をここまで強く擁護するのは初めてのことだった。監督は唸り声を上げ、氷室と千夏を交互に見た。


「……氷室。お前がそこまで言うなら、検査結果が出るまでは練習参加を認めよう。ただし、もし黒だったら……お前もただでは済まないぞ」


「構いません。その時は、私が責任を取って辞任します」


 氷室は迷いなく言った。千夏は驚いて彼を見上げた。辞任。自分のために、そこまでしてくれるのか。自分のキャリアを賭けてまで。

 監督はしばらく氷室の目を睨みつけていたが、やがて「分かった」と短く言い、書類を片付けた。


「下がっていい。……小山内、検査の準備をしておけ。なお、きっかけは小山内だが、検査そのものは抜き打ち検査として所属選手全員に対して行う。小山内だけを特別扱いするわけではないことは理解して欲しい」


 全員。その言葉に千夏はハッとした。私だけが疑われているわけではないというポーズを取ることで、チーム内の不協和音を最小限に抑えようという配慮なのか、それとも誰一人として逃さないという網なのか。どちらにせよ、千夏個人への「魔女狩り」のような状況は回避されたことになる。


「……はい。ありがとうございます」


 千夏は深々と頭を下げ、逃げるように監督室を出た。廊下に出た途端、緊張の糸が切れて足の力が抜け、その場にしゃがみ込む。助かった。首の皮一枚で繋がった。

 氷室が後から出てきて、千夏を見下ろした。


「……立て。みっともない」


「先生……ありがとうございます。私なんかのために、辞任なんて……」


 千夏が涙目で言うと、氷室は呆れたように鼻を鳴らした。


「勘違いするな。俺は自分の作品を守っただけだ。お前が薬などやっていないことは、俺が一番よく知っている。……毎日、この手で隅々まで触れているんだからな」


 氷室はしゃがみ込み、千夏の耳元で悪魔のように囁いた。


「それに、お前の身体は薬物なんかより、もっと強力な『何か』で改造されている。……検査キットごときで、俺の技術が見抜けるものか。全員検査? 上等だ。お前の数値がいかに特異で、優れているか、他の有象無象と比較して証明してやる。シロだった場合の組織防衛のためでしかない」


 シロだった場合の組織防衛。その冷徹な分析に、千夏は戦慄した。彼は監督の意図――もし千夏が潔白だった場合、「特定の選手を不当に疑った」という批判を避けるための保身――を完全に見抜いているのだ。この男の前では、大人の政治的な思惑さえも透けて見える。

 千夏はゾクリと震えた。彼は私を守ってくれたのではない。私が彼の「作品」であり、「所有物」だから、手放したくなかっただけなのだ。そして、チーム全員を巻き込んでまで、自分の理論を証明しようとしている。

 だが、それでもいい。彼がいれば、私はまだ戦える。

 千夏は氷室の手を取り、立ち上がった。その手は、冷たくて、恐ろしいほど頼もしかった。この手さえ離さなければ、私はどんな地獄でも生き残れる。共犯者たちの絆は、公的な嘘によってさらに強固なものとなった。


---


第19話:氷室の賭け


 監督室での緊迫したやり取りから数時間が経過し、時刻は深夜を回ろうとしていた。千夏は再び、慣れ親しんだ特別室の施術台の上に座っていた。ただし、今は治療を受けているわけではない。部屋にはパソコンの冷却ファンが回る低い音だけが響き、氷室はデスクに向かって黙々と検査データの分析と、今後のトレーニングメニューの再構築を行っていた。千夏はその広い背中を、祈るような、縋るような眼差しで見つめていた。室内の空気は、嵐の前の静けさのように張り詰め、重苦しい沈黙が漂っている。千夏は膝の上で固く握りしめた拳に力を込めた。手汗が滲む。「辞任」。氷室があの場で、迷いなく口にした言葉が、呪いのように頭から離れない。私のために、彼は自分のキャリアを捨てようとしている。その事実の重みが、千夏の胸を締め付けていた。


「……先生」


 千夏が恐る恐る沈黙を破ると、氷室はキーボードを叩く手を止め、ゆっくりと回転椅子を回してこちらを向いた。眼鏡の奥の瞳は、相変わらず感情の色を映さない無機質な光を湛えている。


「本当に、辞めるつもりなんですか? もし、私が……結果を出せなかったら」


 声が震えた。口に出すのも恐ろしい仮定だった。だが、氷室は表情一つ変えずに答えた。


「当然だ。監督の前で吐いた言葉を飲み込むつもりはない。もしお前が検査でクロと判定されるか、あるいはシロであっても、試合で無様な姿を晒して俺の理論を証明できなければ、俺はこのチームを去る。……業界からも追放されるだろうな」


 淡々とした口調。まるで明日の天気を話すような気軽さだった。それが逆に、彼の覚悟の凄まじさを物語っている。


「でも、それは……私の責任です。私が疑われるようなことをしたから……。先生まで巻き込むなんて、そんなの……」


「巻き込む? 勘違いするな、小山内。これは俺の戦いだ」


 氷室は椅子から立ち上がり、白衣のポケットに両手を突っ込んで千夏に近づいた。その威圧感に、千夏は息を飲んだ。


「俺は、俺の『コンディショニング理論』が正しいことを証明したい。従来のスポーツ医学の常識では説明できない、倫理の壁を超えた領域にある俺だけのメソッドで、選手をどこまで進化させられるか。その実験体として、俺はお前を選んだのだ」


 実験体。その冷徹な響きに、千夏は一瞬傷ついたように身体を強張らせたが、すぐにその奥にある意味を理解し、奇妙な安堵感に包まれた。彼は私を「一人の人間」として見ているのではない。「代わりの利かない唯一無二の素材」として見ているのだ。それは千夏にとって、どんな甘い愛の言葉よりも価値のある評価だった。


「今回の検査騒動と、それに伴うスキャンダルは、ある意味で絶好の好機だ。もしお前がシロ判定を受け、その上で次の試合で圧倒的なパフォーマンスを見せれば、周囲の雑音はすべて称賛へと変わる。そして、お前を作り上げた俺の理論は、結果という最強の事実によって正当化される」


 氷室は千夏の目の前まで来て、彼女を見下ろした。その瞳には、狂気的なまでの自信と、千夏という作品への重く、暗い期待が宿っていた。


「俺は自分のキャリアの全てを、人生の全てを、お前という『作品』に賭けた。……負ければ俺も終わる。路頭に迷うことになるだろうな。全てはお前の双肩にかかっている」


 氷室は自嘲気味に口の端を歪めた。その歪んだ笑顔を見て、千夏の中で何かが弾けた。恐怖ではない。プレッシャーに押し潰されそうな不安でもない。もっと熱く、激しい感情が胸の奥底から噴き出した。

 この人は、私のために人生を賭けてくれた。

 親でも、友人でも、誰もしてくれなかったことを、この狂気の科学者だけがしてくれたのだ。私という存在に、自分の全てをベットしてくれた。その事実は、千夏にとって至上の喜びであり、魂を震わせるほどの感動だった。自分が「価値のある存在」であると、命懸けで肯定された気がした。

 千夏は顔を上げ、涙で潤んだ瞳で氷室を真っ直ぐに見つめ返した。


「……負けません」


 千夏は力強く宣言した。その声には、もはや迷いはなかった。エレナの正論も、チームメイトの冷たい視線も、監督の権威も、今の彼女には些末なことに思えた。背負うものができたからだ。自分一人のためではなく、彼のために戦う。彼を生かすために、私が勝つ。その目的意識が、千夏の脆かったメンタルを鋼のように硬化させていく。


「絶対に勝ちます。先生を辞めさせたりしません。私の身体で、先生が正しいことを……先生の理論が世界一だということを、証明してみせます。だから……見ていてください」


 それは、選手としての宣誓ではなく、信者としての誓いだった。氷室は満足げに目を細め、ゆっくりと手を伸ばした。千夏の手を取り、恭しく持ち上げる。そして、その手の甲に、自分の唇を押し当てた。

 触れるだけの、乾いた唇の感触。

 それは愛の口づけではなく、主従の契約を更新し、互いの運命を縛り付ける刻印のようだった。


「いい目だ。……その覚悟があれば、肉体はさらに応える。リミッターは完全に外れた」


 氷室は顔を上げ、千夏の瞳を覗き込んだ。


「次の試合、お前はベンチ入りできるはずだ。そこで世界に見せつけてやれ。俺たちが作り上げた『最高傑作』の性能を。凡人たちが束になっても敵わない、圧倒的な暴力を」


「はい。……必ず」


 千夏は深く頷いた。

 二人だけの密室で交わされた、重く、逃げ場のない約束。それは、千夏を極限のプレッシャーの中に放り込む行為だったが、今の彼女にとって、その重圧こそがエンジンを回すための最高の燃料だった。

 私は彼と一蓮托生だ。

 心中する覚悟で、千夏は自らの運命を受け入れた。もう後戻りはできないし、するつもりもない。彼と共に、地獄の底まで走り抜け、その先にある勝利という光を掴み取るしかないのだ。この夜、千夏は本当の意味で、氷室透という男の「共犯者」となった。


---


第20話:決別のフェイク


 週末の試合前夜。千夏はいつものように、期待に胸を膨らませて特別室の重厚な防音扉の前に立っていた。今夜は特別な日だ。明日の試合で結果を出せば、氷室の理論が正しいことが証明され、二人の絆はより強固なものになる。そう信じて疑わなかった。この一週間、チーム内での孤立やエレナからの冷たい視線に耐えられたのは、ひとえにこの部屋で過ごす密やかな時間と、氷室との共犯関係があったからこそだ。千夏は深呼吸をして、昂る気持ちを抑えながらノックをし、ドアノブを回した。いつものように、甘美なアロマの香りと、湿度を含んだ背徳的な空気が迎えてくれるはずだった。

 だが、扉を開けた先に待っていたのは、予想を裏切る寒々しい光景だった。部屋の照明はダウンライトではなく、蛍光灯の白々しい光が隅々まで照らしており、あの陶酔を誘う香りもしない。代わりに漂っていたのは、乾いた紙とインクの匂い、そして冷え切った事務的な空気だった。施術台にはカバーがかけられ、氷室はいつもの白衣さえ着ておらず、私服姿でデスクに向かい、山積みの書類と格闘していた。千夏が入室しても、彼は振り返りもしない。キーボードを叩く乾いた音だけが、部屋の沈黙を刻んでいる。千夏は足を踏み入れた瞬間、場の空気が決定的に違うことに気づき、背筋が粟立つような不安を覚えた。まるで、知らない他人のオフィスに迷い込んでしまったかのような疎外感。


「……先生? あの、今日の施術は……」


 千夏が戸惑いながら声をかけると、氷室は手を止めず、背中を向けたまま短く、冷淡に答えた。


「ない。帰れ」


 耳を疑った。冗談だろうか。それとも、新しいプレイの一種なのだろうか。焦らしプレイ? そう思って千夏は強張った笑顔を作ろうとしたが、頬が引きつって上手くいかない。


「え……でも、明日は試合です。調整しないと、身体が動きません。先生も言ったじゃないですか、最高傑作を見せつけろって……。そのために、今日まで……」


「必要ない。お前の身体は物理的には仕上がっている。これ以上の調整は過剰だ」


 氷室はキーボードを叩く手を止め、乱雑に書類を束ねて鞄に放り込むと、ようやく千夏の方を向いた。その瞳は、出会った頃よりもさらに冷たく、他人行儀だった。そこには、千夏を慈しむような色は欠片もなく、ただの物体として認識しているかのような無機質な光しかなかった。


「小山内。俺とお前の契約は、ここまでだ」


「……は?」


 千夏は呆然と立ち尽くした。契約終了? どういうこと? 私たちは運命共同体じゃなかったの? 進退を賭けてまで、私を守ってくれたんじゃなかったの? あの「俺だけのものだ」という言葉は嘘だったの? 思考が真っ白になり、足元の床が崩れ落ちていくような錯覚に襲われる。


「ま、待ってください! 意味が分かりません! 私が何かしましたか!? 謝ります、何でもしますから! 捨てないでください!」


 千夏はパニックになり、氷室に駆け寄ってその腕に縋り付いた。過呼吸になりそうだ。彼に見捨てられたら、私はどうやって生きていけばいいのか。今の私には、彼しかいないのに。チームにも居場所がなく、唯一の理解者である彼に拒絶されたら、私の存在価値はゼロになってしまう。だが、氷室は千夏の手を、汚いものでも払うかのように冷たく振り払った。


「甘えるな」


 その一喝が、千夏の動きを凍りつかせた。氷室は冷徹な眼差しで千夏を見下ろし、淡々と、しかし残酷な事実を告げた。


「俺は、お前を最高の作品にするために手を尽くした。肉体的な機能は完璧だ。だが、メンタルが伴っていない。……俺という『お守り』がなければ戦えないような選手は、俺の作品とは認めない。今のままでは、お前はただの依存症患者ジャンキーだ」


 氷室は視線をデスクの上の書類の山へと移した。そこには、チームメイトたちの名前が書かれたカルテや、ドーピング検査に関する膨大な報告書が積まれている。


「例の薬物検査の結果で、小山内以外の選手のレポートを明日までに書かなければならなくなってしまった。協会への提出書類だ。申し訳ないが時間がない。短い時間で中途半端な施術をするくらいならば、安静にして明日の試合のために睡眠をとった方が適切だ」


 あまりにも事務的で、合理的な理由だった。千夏を突き放したのは、彼女のためではなく、単に「時間がないから」だと言うのだ。しかもその原因は、千夏の疑惑を晴らすために行われた全員検査の事後処理だ。自分のせいで彼が忙しくなり、そのせいで自分が切り捨てられる。さらにショックだったのは、「小山内以外の選手」のために時間を割くという事実だ。私以外の、有象無象のチームメイトたちのために、私たちの神聖な時間が削られるのか。私は特別じゃなかったのか。他の誰よりも優先されるべき「最高傑作」ではなかったのか。


「そ、そんな……。私より、書類の方が大事なんですか? 私より、あいつらの方が……? 少しでいいんです、五分でいいから、触ってください……! 先生の手がないと、私、怖くて……」


 千夏は床に膝をつき、懇願した。プライドも何もない。ただ、彼に捨てられたくない一心だった。触れられなければ、不安で押し潰されてしまう。私が私でなくなってしまう。禁断症状にも似た渇望が、千夏の理性を食い破っていた。

 だが、氷室は千夏の足元を見ることさえせず、冷酷に扉を開け、出口を指差した。


「出て行け。……一人で戦う覚悟ができるまで、俺の前に顔を見せるな」


 千夏は泣きじゃくりながら、部屋を追い出された。背後でガチャン、と鍵がかかる重い音がし、それが心臓を抉るように響く。物理的な遮断。もう、あの部屋には入れない。

 廊下に一人残された千夏は、閉ざされた扉の前でうずくまった。冷たい床の感触が膝から伝わり、全身を震わせる。

 寒い。怖い。

 身体の芯が凍えていく。明日、私は一人でコートに立たなければならない。あんなに頼もしかった「魔法」が解けた状態で。メンテナンスされていない機械がまともに動くはずがない。きっと失敗する。笑われる。そして捨てられる。絶望が、黒い波のように千夏を飲み込んでいった。彼女は扉の向こうにいるはずの氷室に聞こえるように、小さな声で「ごめんなさい」と呟き続けたが、答えは返ってこなかった。


 一方、扉の向こうでは、氷室がその場に立ち尽くしていた。彼は扉に背を預け、苦しげに顔を歪めていた。握りしめた拳が白くなり、爪が掌に食い込んでいる。

 書類仕事など、後で徹夜すればどうにでもなる。これは嘘だ。千夏を突き放すための、残酷な嘘だ。

 今の彼女に必要なのは、施術による癒やしではない。「喪失」による危機感だ。

 今の千夏は、氷室に依存しすぎている。このままでは、彼女は氷室の操り人形で終わってしまう。それではダメなのだ。彼女自身の意志で、彼女自身の足で立ち、その上で「氷室が必要だ」と選択させなければ、真の共犯関係は成立しない。

 「耐えろ、千夏。……ここを乗り越えなければ、お前は壊れてしまう」

 氷室は低く呟いた。それは、愛玩する対象を手放す苦しみと、一人のアスリートとして大成させたいという親心、そして何より、彼女をより完璧な「自分のもの」にするための歪んだ執着が入り混じった、矛盾する感情の吐露だった。

 これは試練だ。彼女が真に覚醒し、自分自身の足で立つための、最後の、そして最大の儀式なのだ。氷室は千夏の気配が廊下から消えるまで、動くことなく扉の前に立ち続けていた。


---


第21話:ボロボロの敗北


 試合開始を告げるブザーが、鼓膜を劈くような高音で鳴り響いた。観客席から降り注ぐ歓声、バッシュがフロアを激しく擦るスキール音、そしてボールが弾む重低音。それら全ての音が、今の千夏の耳には水底から聞くように籠もり、不快なノイズとして響いていた。スターティングメンバーとしてコートに立った千夏は、自分の身体が自分のものではないような、奇妙な浮遊感と違和感に襲われていた。

 身体は軽かった。恐ろしいほどに。氷室が昨夜冷たく言い放った通り、物理的なコンディションは完璧に近い状態に仕上がっている。足首の可動域は驚くほど広く、ふくらはぎの筋肉はバネのようにしなやかに収縮し、今にも爆発的な推進力を生まんと躍動している。だが、その高性能な肉体を統御するはずの千夏の精神コックピットが、決定的に機能不全を起こしていた。

 ――先生がいない。

 その事実だけで、千夏の思考回路はショート寸前だった。ベンチを見ても、そこに白衣を着た氷室の姿はない。彼は今日、帯同していないのだ。「小山内以外の選手のレポート」を書くために残ったのか、それとも私の無様な姿など見る価値もないと判断したのか。視線がない。指示がない。呼吸のリズムを与えてくれる支配者がいない。いつもなら、「大丈夫、先生がついてる」「私の身体は最強だ」という自己暗示が、プレッシャーを跳ね返す盾になっていた。だが今は、その盾がない。丸腰で、地図も持たずに戦場のど真ん中へ放り出された迷子のように、千夏は恐怖で震えていた。


「千夏、走れ! パス来るぞ!」


 ポイントガードの声が遠くから聞こえた。反応がコンマ数秒遅れる。パスボールが千夏の手をすり抜け、サイドラインを割って転がっていった。単純なキャッチミス。会場から失望のため息が漏れるのが分かった。

 千夏は青ざめた。違う、こんなはずじゃない。身体は動くのに、脳からの指令が指先に届かない。神経回路が断線しているみたいだ。


「ドンマイ! 切り替えて!」


 チームメイトに声をかけられても、顔を上げることができない。視線の端に、ベンチに座る監督の苛立った表情が見えた。その光景が、昨夜の拒絶の記憶をフラッシュバックさせる。『俺というお守りがなければ戦えない選手は、俺の作品とは認めない』。氷室の冷酷な声が脳内で再生され、千夏を委縮させる。認められなければ、捨てられる。捨てられたら、私は終わりだ。

 焦燥感が空回りし、千夏はコートの中で、存在しない氷室の幻影を探して視線を彷徨わせていた。戦うべき相手は目の前にいるのに、彼女はどこにもいない誰かを探してキョロキョロと首を振る、哀れな迷子だった。


 相手チームのエースが、千夏の動揺を見透かしたように鋭いドライブを仕掛けてくる。千夏は反射的にディフェンスに入った。反応速度自体は悪くない。ついていける。昨日の練習でエレナを止めた時と同じように、身体が勝手に最適解を導き出そうとする。だが、接触の瞬間、無意識に強烈な恐怖がよぎった。

 ――ここで怪我をしたら?

 もしまた足を痛めたら、もう二度と先生に触ってもらえないかもしれない。「自己管理ができていない」と罵られ、今度こそ完全に見限られるかもしれない。

 その一瞬の躊躇が命取りだった。千夏の腰が引け、重心が浮いたのを相手は見逃さず、強引に身体をねじ込んでシュートを決めた。バスケットカウント。千夏のファウルだ。審判の笛が無情に鳴り響く。


「何やってんだ小山内! ビビるな! 当たれ!」


 監督の怒声が飛ぶ。千夏は呆然とリングを見上げた。身体は動くのに、心がブレーキをかける。高性能なエンジンを積んだ車で、アクセルとブレーキを同時に踏み込んでいるような、不快な空転感と焦げ臭いにおいが胸の奥で燻る。私の身体は、先生の手で直前にメンテナンスされなければ動かない、欠陥品になってしまったのか。いや、最初から欠陥品だった私を、先生が無理やり動かしてくれていただけなのだ。魔法が解ければ、私はただの鈍重なカボチャに戻る。

 その疑念が確信に変わるにつれ、千夏はさらに萎縮し、プレーは精彩を欠いていった。


 悪夢のような時間は続いた。

 シュートはリングに弾かれ、ドリブルは手につき、パスは相手にカットされる。千夏のミスからリズムを崩したチームは、相手に連続得点を許し、点差は開く一方だった。千夏はコートの上で、自分が何をしているのか分からなくなっていた。走らなければならないのに、足が重い。ボールを追わなければならないのに、目が追いつかない。

 そして、決定的な瞬間が訪れた。

 第3クォーター終盤。千夏がボールを持ち、速攻を仕掛けた場面。前にはディフェンスが一人だけ。スピードに乗ればかわせる。昨日の練習でエレナを抜き去った時のように、身体が勝手に反応し、置き去りにできるはずだ。行け。行け。行け。

 だが、千夏は止まってしまった。

 ペイントエリアの手前で、急激に視野が狭まり、幻聴が聞こえた気がしたのだ。「お前には無理だ」という氷室の冷たい囁きが。あるいは、「いい気になれよ」というエレナの嘲笑が。

 足が止まった千夏の手から、ボールがこぼれ落ちる。それを相手ディフェンスが奪い、カウンター速攻が決まる。決定的なターンオーバー。会場の空気が凍りつき、味方ベンチからは怒声すら上がらず、ただ重苦しい沈黙が落ちた。


 ピーッ!


 審判の笛と共に、選手交代が告げられた。

 交代するのは千夏。入るのは、藤堂エレナだった。

 千夏はうつむいたまま、逃げるようにコートを出た。サイドライン際でエレナとすれ違う。彼女は千夏を一瞥もしなかった。軽蔑の視線すら向けず、ただ前だけを見て、力強くコートに入っていく。その背中は、千夏が失ってしまった、あるいは最初から持っていなかった「自立した強さ」そのものだった。エレナは誰かに頼ることもなく、自分の足で立ち、自分の意志で戦っている。それに比べて、私はどうだ。男に依存し、快楽に溺れ、それを「コンディショニング」と言い訳して、結局このザマだ。


「……っ」


 ベンチの端に座ると、千夏はタオルを頭から深く被り、外界との接触を遮断した。汗と一緒に、惨めな涙が止めどなく溢れ出してくる。

 終わった。何もかも。

 先生の言う通りだ。私は、ただの依存症患者ジャンキーだった。身体だけ立派に改造されても、中身は空っぽの人形だった。操り糸が切れれば、ただ崩れ落ちるしかないガラクタだ。

 タオル越しに、エレナがコートで躍動する音が聞こえる。バッシュが床を鳴らす鋭い音。指示を飛ばす凛とした声。そして、湧き上がる歓声。チームが息を吹き返し、点差を縮めていく熱気。

 その光のコントラストが、千夏の孤独をより深く、暗く塗りつぶしていく。

 私は必要ない。このチームにも、先生にも。

 私がいない方が、チームは上手く回る。私がいない方が、先生は煩わしい事務処理に追われなくて済む。私の存在そのものが、ノイズであり、汚点なのだ。

 試合終了のブザーが鳴るまで、千夏は一度も顔を上げることができなかった。膝の上で握りしめた拳には力がなく、ただ指先が白く変色していた。その手は、誰かを掴むことも、ボールを握ることもできず、ただ虚空を彷徨う迷子の手だった。


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第22話:雨の中の再会


 試合会場の出口ゲートを潜り抜けた時には、すでに空は鉛色に閉ざされ、氷のような雨がアスファルトを叩きつけていた。傘を持たない千夏は、逃げ惑う観客たちの波に逆らうようにして、あてどもなく歩き出した。どこへ行けばいいのか分からなかった。選手寮に戻れば、期待を裏切られたチームメイトたちの冷ややかな視線と、自分自身の無様な現実が待っている。特別室には鍵がかかり、もう二度と入れてもらえないかもしれない。実家や友人に電話をかける気力もない。千夏は世界から弾き出された異物のように、雨に打たれながらふらふらと歩き続けた。ジャージが瞬く間に水を吸って重くなり、肌に張り付いて体温を奪っていく。だが、身体の芯まで冷え切っているはずなのに、不思議と寒さは感じなかった。ただ、心が壊れて機能停止しているだけだ。

 公園のベンチを見つけ、吸い寄せられるようにその場に崩れ落ちた。泥水が跳ねて膝を汚すが、気にならなかった。もう、どうでもいい。

 勝つために魂を売り、身体を差し出し、プライドも倫理も捨てたのに、結局手に入れたのは惨めな敗北だけだった。エレナに見下され、監督に見限られ、そして何より、唯一の支えだった氷室に「失敗作」の烙印を押されて捨てられた。私に残っているのは、ボロボロになった自尊心と、ドーピング疑惑という消えない汚名、そして太ももに残る情事の痕跡だけだ。


「……バカだなぁ、私」


 激しい雨音に紛れて、自嘲の言葉が漏れた。もう、バスケなんて辞めてしまおうか。そう思った瞬間、涙腺が決壊し、熱いものが溢れて止まらなくなった。雨水と混ざり合い、頬を伝って地面の泥に吸い込まれていく。悔しい。勝ちたかった。あんな無様な姿ではなく、最高のプレーをして、先生に褒めてほしかった。あの部屋で、もう一度、彼の指に触れてほしかった。

 視界が涙と雨で歪み、世界が灰色に溶けていく。このまま溶けて消えてしまいたい。そう願って目を閉じた時だった。


「……いつまでそこで濡れているつもりだ」


 頭上から、聞き覚えのある、低く冷徹な声が降ってきた。

 千夏は弾かれたように顔を上げた。雨に煙る視界の中に、黒い影が立っていた。幻覚かと思った。彼がここにいるはずがない。彼は私を見捨てたのだから。

 氷室透だった。

 彼は黒い傘を持っていたが、それを開こうともせず、閉じたまま手に提げて、全身ずぶ濡れになって千夏を見下ろしていた。整えられていた髪は雨で濡れそぼり、額に張り付いている。眼鏡には無数の水滴がつき、その奥の瞳を隠している。いつもの白衣ではなく、仕立ての良い黒いコートを着ていたが、その全身から発せられる威圧感は、施術室のそれと変わらなかった。


「せん、せい……?」


 千夏は震える唇で呟いた。氷室は無言のまま一歩近づき、千夏の前に立ちはだかった。雨が彼の顔を打ち、滴り落ちる。


「試合、見たぞ。……酷いザマだったな」


 容赦ない言葉だった。千夏は唇を噛み締め、視線を落とした。弁解の余地はない。


「すみません……。先生の顔に、泥を塗って……」


「泥? 違うな」


 氷室は冷たく言い放った。


「お前が塗ったのは、自分自身の顔にだ。……俺が作った身体は完璧だった。昨夜の最終調整のデータ上、お前は今日、自己ベストを更新できるはずだった。それなのに、なぜ動かなかった? なぜ足が止まった?」


「それは……先生がいなかったから……先生が、触ってくれなかったから……」


「俺がいなければ動かない? そんな脆い設計図を俺が引いたと思っているのか?」


 氷室の声に、初めて明確な怒気が混じった。彼は千夏の胸倉を掴み、無理やりベンチから立たせた。濡れたジャージ越しに、彼の手の熱が伝わってくる。


「ふざけるな。俺はお前の身体を、誰にも負けない最強の兵器として作り上げた。一つ一つの筋肉に、勝利するための回路を焼き付けたはずだ。それを『お守りがない』程度のくだらない理由で機能不全にさせるなど、俺の技術への冒涜だ」


 至近距離で睨まれる。雨に濡れた彼の瞳は、怒りと、そして狂おしいほどの執着でギラギラと光っていた。千夏はハッとした。彼は怒っている。私が負けたことに対してではない。私が「彼の作った身体」を信じなかったこと、私自身の可能性を私自身が否定したことに、本気で怒っているのだ。


「自分の身体を信じろと言ったはずだ。……お前の中には、俺が刻み込んだ記憶がある。俺が触れなくても、お前の筋肉は俺の指の感触を、リズムを、痛みを覚えているはずだ。それを引き出すのが、搭乗者パイロットであるお前の仕事だろうが!」


 氷室の叫びが、雨音を切り裂いて千夏の心臓に突き刺さる。そうだ。私の身体は、彼によって変えられた。あの痛みも、快楽も、すべてはこの筋肉の中に記憶されている。それを使いこなせなかったのは、彼がいないせいではない。私の心の弱さだ。私が勝手に「一人では無理だ」と決めつけ、彼がくれた武器を捨てたのだ。


「……勝ちたいか?」


 氷室が唐突に尋ねた。胸倉を掴んでいた手を離す。千夏はその場にへたり込みそうになるのを、必死に足を踏ん張って堪えた。


「負け犬のまま終わるか、それとも俺と共に世界を見るか。……選べ」


 選択肢などなかった。千夏の中に眠っていた闘争心が、彼の言葉で再び火を吹き始めた。このままじゃ終われない。この人に、ここまで言わせて終わるわけにはいかない。惨めなまま、エレナに見下されたまま消えるなんて嫌だ。


「勝ちたい……です」


 千夏は絞り出すように言った。喉が熱い。


「勝ちたい! エレナに勝ちたい! みんなを見返したい! ……先生の凄さを、証明したい!」


 最後は叫びになっていた。涙と雨でぐしゃぐしゃの顔で、千夏は氷室を睨み返した。あなたの作品は失敗作じゃないと、世界中に叫びたい。そのためなら、私はもう一度、悪魔にだって魂を売る。

 千夏の慟哭を聞いた氷室は、一瞬きょとんとした後、ゆっくりと口の端を歪めて笑った。それは、凶悪で、けれどどこか嬉しそうな、心からの笑みだった。


「そうか……いい顔になった。憑き物が落ちたな」


 氷室は雨に濡れた前髪をかき上げ、千夏を見据えた。その瞳には、以前のような一方的な支配欲だけでなく、対等な共犯者に向ける信頼の色が宿っていた。


「俺にはお前と二人で実現したい夢が二つある。一つは、お前を世界一のアスリートにすることだ」


 氷室は言葉を切り、千夏の目を見て、意味深に微笑んだ。


「お前が勝ちたいというなら、もう一つの夢は、お前が選手を引退するまで取っておくことにしよう。……今は、勝つことだけを考えろ。俺の手を取れ」


 もう一つの夢。その言葉の意味を深く考える余裕はなかったが、それが千夏の人生そのものを縛る、永遠の契約であることを本能的に悟った。氷室は右手を差し出した。冷たい雨の中で、その手だけが熱を放っているように見えた。

 千夏は迷わずその手を掴んだ。ガシリと握り返される強い力。


 氷室は差し出した千夏の手を強く引っ張り上げた。千夏の身体が軽々と持ち上がり、氷室の胸にぶつかる。二人の体温が混ざり合い、雨の冷たさを忘れさせる。


「なら、立て。……リハビリの時間だ」


 氷室は千夏の手を引いたまま、背を向けて歩き出した。その背中は、以前よりも大きく、頼もしく見えた。

 千夏は濡れた顔を袖で乱暴に拭い、その後を追った。雨はまだ降り続いていたが、もう寒くはなかった。身体の奥底で、再び熱いエンジンが唸りを上げ始めていたからだ。

 依存でもない、支配でもない。二人の間には、より深く、強固な「共犯」の絆が結ばれようとしていた。


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第23話:真の覚醒(再構築)


 雨上がりの翌日、特別室はこれまでとは全く異なる、研ぎ澄まされた空気に支配されていた。甘ったるいアロマの香りは完全に消え去り、部屋の照明も手術室のように明るく調整されている。施術台の横には人体骨格模型が運び込まれ、壁一面のホワイトボードには複雑な運動力学の数式と、筋肉の名称がびっしりと書き込まれていた。そこはもはや密室の情事の場ではなく、厳格な教室であり、人体改造のための実験室だった。千夏はジャージ姿で直立し、ホワイトボードの前に立つ氷室を見つめていた。その瞳には、以前のような怯えや迷いはない。与えられる知識を貪欲に吸収しようとする、飢えた獣の光が宿っていた。


「いいか、小山内。よく聞け」


 氷室は指し棒でホワイトボードを叩いた。乾いた音が室内に響く。


「これまでの施術は、俺が一方的にお前の身体をメンテナンスし、自動的に動くように設定していたに過ぎない。いわば、お前は高性能なオートマチック車の助手席に乗っていただけだ。アクセルを踏めば走り、ブレーキを踏めば止まる。楽だが、それだけだ。路面の状況やエンジンの回転数に合わせて、微細なコントロールをすることはできない」


 氷室の視線が千夏を射抜く。


「昨日の試合で、お前がパニックに陥ったのは当然だ。オートマチック制御(無意識)に頼り切っていたお前は、想定外のプレッシャーという悪路に放り出され、ハンドル操作を見失った。……だが、これからは違う。マニュアルに切り替える」


 マニュアル。その言葉の重みを噛み締めるように、千夏は生唾を飲み込んだ。


「お前自身がエンジンの構造を理解し、クラッチを繋ぎ、自分の意志でギアチェンジを行うんだ。無意識や本能に任せるのではなく、意識の全てを使って、筋肉の一つ一つ、関節の角度、重心の位置を管理下に置く。……これは、精神的に凄まじい負荷がかかる作業だ。常に身体と対話し続けなければならないからな。脳が焼き切れるほど考えることになるぞ」


「……構いません。やります」


 千夏は即答した。脳が焼き切れてもいい。昨日味わった、あの無力感と絶望に比べれば、考える苦しみなど些細なことだ。氷室は口の端を吊り上げ、満足げに頷いた。


「いい返事だ。……では、まず昨日の敗因分析からだ。お前は『足首が怖い』という恐怖心から、無意識に重心を後ろに残した。その結果、ハムストリングスが機能せず、大腿四頭筋(前太もも)だけでブレーキをかけながら走る形になった。これでは出力が落ちる上に、膝への負担が倍増する。……ここだ」


 氷室はタブレットを操作し、昨日の試合映像をスロー再生した。千夏がミスをして転倒しかけた瞬間のフォームが映し出される。無様だ。見るのも辛い。だが、千夏は目を逸らさなかった。自分の弱さを直視しなければ、先へは進めない。


「骨盤が後傾し、膝が割れている。これでは地面からの反力を前進エネルギーに変換できない。ただ踏ん張っているだけだ。……修正するぞ。腸腰筋だ」


 氷室は千夏の腹部に手を当て、指先を深く沈めた。これまでの愛撫のような触り方ではない。筋肉の位置を確認し、意識を向けさせるための、冷徹なガイドだ。


「深層にあるこの筋肉を使って、骨盤を前傾させる。息を吐きながら、俺の指を押し返すように腹圧をかけろ。その状態をキープしたまま、股関節を折り畳むんだ」


「んっ……、こう、ですか……?」


 千夏は言われた通りに腹筋の奥、身体の中心に意識を集中させ、力を込める。額に脂汗が滲む。普段使っていない筋肉を意識的に動かすのは、針の穴に糸を通すような繊細さと、重い扉をこじ開けるようなパワーが同時に必要だった。脳の奥が熱くなる。

 だが、カチリ、と何かが嵌る感覚があった。

 不思議なことに、腹圧が入った瞬間、背筋がすっと伸び、足の裏全体で床を捉える感覚が生まれたのだ。足首の不安が消え、太ももの前側の緊張がふっと抜ける。


「そうだ。その感覚だ。……今、身体が軽くなっただろう?」


「は、はい……! 嘘みたいに、足が軽いです」


「当然だ。骨格が正しい位置に収まり、無駄な筋出力がゼロになったからだ。……これが、マニュアル操作の基本だ。身体の負担を減らし、パフォーマンスを最大化する。だが、これはまだアイドリング状態に過ぎない」


 氷室は次々と指示を飛ばした。足指の接地、肩甲骨の寄せ方、目線の位置、呼吸のリズム。一つ一つは細かい修正だが、それらを組み合わせることで、千夏の身体は劇的に変化していった。考えることは山ほどある。右足を出す時、左の肩甲骨はどうなっているか。着地の瞬間、腹圧は抜けていないか。脳はフル回転し、情報処理の濁流に溺れそうになる。精神的な疲労は凄まじい。

 けれど、それ以上に快感だった。

 自分の身体が精密機械のように感じられ、その操縦マニュアルを読み解いていく全能感。思考と肉体が完全に同期し、イメージ通りに、いや、イメージ以上の速度で身体が動く瞬間の、脳髄が痺れるような心地よさ。


「気持ちいい……」


 千夏は思わず呟いた。施術による受動的な快楽とは違う。自分の意志で身体を支配できることの、知的な快感。パズルのピースが完璧にハマった時のような、世界がクリアに見える感覚。


「そうだ。その快感を覚えろ。筋肉が正しく連動した時、脳はそれを『気持ちいい』と感じるようにできている。……それを試合中に、お前自身の手で再現しろ。無意識に逃げるな。常に意識の主であれ」


 氷室は千夏の汗をタオルで拭いながら言った。その瞳は、優秀な生徒を見守る教師のように穏やかで、しかし奥底には変わらぬ独占欲と、狂気的な期待が燃えていた。こいつは俺の理論を理解した。俺の言葉を肉体で翻訳できる、唯一無二の存在になった。


「先生。私、もっと速く走れそうです。……今までブレーキをかけたままアクセルを踏んでたんだって、やっと分かりました」


 千夏は自分の足を見下ろし、拳を握った。力が漲ってくる。これならいける。


「ああ。計算上、トップスピードはあと15%向上する。さらに、マニュアル車の利点はもう一つある」


 氷室はにやりと笑い、声を潜めた。


「勝負所での無理が利くことだ。オートマチックなら安全装置が働いて止まるところを、マニュアルならお前の意志でレッドゾーンまで回せる。……多少のリスクはある。エンジンが焼き切れる可能性もある。だが、ここぞという場面で、常識を超えた出力を叩き出すことができる」


 リスク。怪我の再発や、選手生命の短縮。だが、今の千夏にとってそれは恐怖の対象ではなかった。むしろ、自分の意志で限界を超えられるという事実に、武者震いが止まらなかった。


「やります。……私、焼き切れてもいいです。先生が直してくれるなら」


「フッ、いい心がけだ。壊れたら俺が直してやる。何度でもな。だから恐れずに踏み込め」


 氷室は千夏の背中をバンと叩いた。

 エレナの名前が出ても、もう千夏は萎縮しなかった。むしろ、早く彼女の前でこの力を試したいという衝動に駆られた。今の私なら、勝てる。魔法でも、ドーピングでもない。論理と執念で作り上げた、本物の強さで。

 千夏は不敵に笑った。その笑顔は、かつての弱気な少女のものではなく、獲物を狩る準備を整えた女豹のものだった。共犯者たちの実験室は、今や最強のアスリートを生み出すための、熱い溶鉱炉と化していた。


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第24話:対決前夜


 ファイナル進出をかけた大一番の前夜。いつものように訪れた特別室の空気は、これまでになく透明に澄み渡っていた。嗅ぎ慣れた甘いアロマの香りも、鼻を突く鋭い消毒液の匂いもしない。ただ、塵一つない真空のような静寂だけが、神聖なヴェールのように二人を包み込んでいる。千夏は黒革の施術台の上に浅く腰掛け、目の前に立つ氷室を見上げていた。今日の氷室は白衣を着ておらず、身体のラインが出る黒いシャツの袖を無造作に捲り上げている。その姿は、冷徹なトレーナーというよりも、これから厳粛な儀式を執り行う祭司、あるいは死地へ向かう戦士を見送る王のようだった。部屋の四隅に置かれた間接照明が、彼の横顔に深い陰影を落としている。


「……準備はいいか」


 氷室の静かな問いに、千夏は深く、力強く頷いた。恐怖はない。焦燥もない。あるのは、研ぎ澄まされた刃物のような、冷たく青い闘志だけだ。数日前の雨の中で再契約を交わして以来、千夏の中で何かが決定的に変わっていた。迷いが消え、自分の身体と氷室の理論に対する絶対的な信頼が、揺るぎない芯となって背骨を貫いている。


「今日は、筋肉には触らない。これ以上の物理的な刺激は、研ぎ澄まされた感覚を鈍らせるノイズになる」


 氷室はそう言い、ゆっくりと千夏の手を取った。彼の手は温かく、乾燥していた。いつものように指圧のために硬化した指先ではなく、一人の人間としての体温を感じさせる掌だった。その手を静かに引き寄せ、自分の左胸――心臓の上に押し当てる。薄いシャツ越しに、ドクン、ドクン、という力強く、規則正しい鼓動が、千夏の手のひらを通じて直接伝わってきた。それはまるで、巨大なエンジンのアイドリング振動のようであり、同時に、あらゆる生命活動の源泉である温かいリズムだった。


「感じるか?」


「……はい。強く、打ってます」


「これが、俺のリズムだ。……俺の心臓は、今、お前のために動いている」


 その言葉は、どんな甘い愛の告白よりも重く、千夏の魂を震わせた。彼は自分の命のリズムを、千夏に預けているのだ。千夏は掌の下で波打つ鼓動を、自分の脈拍に刻み込むように意識を集中させた。

 氷室は今度は自分の右手を、千夏の左胸にそっと当てた。掌が千夏の胸の膨らみを包み込むが、そこに性的な意味合いは微塵もなかった。あるのは、エンジニアが精密機械の動作確認をするような、あるいは医師が患者の生命力を確かめるような、真摯な接触だけだった。薄い練習着の下で、千夏の心臓が早鐘を打っているのが分かる。だが、それは恐怖による動悸ではなく、戦いを前にした武者震いのような、純粋な高揚感によるものだ。


「……速いな。だが、悪くない。エンジンが十分に温まっている証拠だ」


 氷室は目を閉じ、指先から伝わる千夏の鼓動を感じ取っていた。千夏もまた、目を閉じて氷室の鼓動に意識を委ねた。

 ドクン。ドクン。

 彼のリズム。私のリズム。

 最初はバラバラだった二つの音が、次第に互いの波長を探り合い、引き寄せられ、やがて一つの大きなうねりとなって重なり合っていく。

 共振。

 まるで二つの振り子が干渉し合い、完全に同期するように、二人の心臓が同じリズムを刻み始めた。千夏は不思議な感覚に包まれた。自分の身体の境界線が溶け出し、目の前の男と血管が繋がっているような、あるいは一つの巨大な生命体の一部になったような感覚。彼が吸えば私も吸い、彼が吐けば私も吐く。思考も、感情も、痛みも、すべてが共有され、循環している。


「……明日の試合中、苦しくなったら思い出せ。このリズムを」


 氷室がゆっくりと目を開け、至近距離で千夏を見つめた。その瞳には、もはや千夏以外の何ものも映っていなかった。


「コートの上で、お前は一人になる。観客の罵声も、相手のプレッシャーも、全てがお前を押し潰そうとするだろう。だが、お前は一人じゃない。俺がここにいる。お前の心臓の裏側に、俺の鼓動がある。……だから、恐れずに走れ」


「はい……。先生のリズムで、走り抜けます」


 千夏は氷室の手を、祈るように両手で包み込み、握り返した。それは契約の更新であり、魂の結婚式だった。言葉はいらなかった。互いの体温と鼓動の振動だけで、すべての意思が伝達されていた。

 この人がいれば、私は無敵だ。

 千夏は確信した。明日のコートで、自分は誰よりも速く、誰よりも強く、美しく輝けるだろうと。それは予感ではなく、確定された未来の事実として、千夏の脳裏に焼き付いていた。

 氷室の手が離れ、千夏は深く息を吐いた。身体中に力が満ちている。暴走するような熱さではなく、静かで、冷たく、それでいて尽きることのない青い炎のような力が。


「……行け。今日はもう寝ろ。最高のコンディションで朝を迎えろ」


 氷室が背中を向けた。それは拒絶ではなく、戦場へと送り出すための、信頼に満ちた背中だった。千夏はその広い背中に向かって、深く一礼した。


「おやすみなさい、先生」


 特別室を出て、深夜の廊下を歩く千夏の足音は、驚くほど静かだった。明日は決戦。ファイナルへの切符をかけた、負けられない戦い。だが、千夏の心は凪いだ湖のように静まり返っていた。彼女の中には、氷室透という絶対的な羅針盤が埋め込まれているのだから、迷うことなどあり得ないのだ。千夏は自分の左胸に手を当て、そこに残る彼のリズムを確かめながら、闇の奥へと消えていった。


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第25話:ゾーン(無我の境地)


 ファイナル進出をかけた運命のティップオフ。会場を埋め尽くす観客の熱気と、張り詰めた緊張感が、体育館の空気を震わせていた。千夏はセンターサークル付近に立ち、大きく息を吸い込んだ。肺いっぱいに満ちる酸素が、血液に乗って指先から足の爪先に至るまで、全身の細胞へ行き渡る感覚が鮮明に分かる。昨夜の特別室で行われた「儀式」の余韻が、まだ身体の芯に熱く残っていた。左胸の奥で、自分の心音と重なるように、氷室の力強く冷静な鼓動が響いているのを感じる。ドクン、ドクン、というリズムが、千夏の中で暴れ出しそうな恐怖心を鎮め、闘争心へと変換していく。私は一人じゃない。私の心臓の裏側には、彼がいる。その確信が、千夏の迷いを消し去り、視界をクリアにした。


 試合は序盤から激しい展開となった。対戦相手はリーグ屈指のディフェンス力を誇る強豪だ。千夏がボールを持つたびに、執拗なマークと激しいボディコンタクトが襲いかかる。以前の千夏なら、この物理的かつ精神的なプレッシャーに飲まれ、焦ってパスミスをするか、無理な体勢でシュートを打って外していただろう。だが、今は違う。相手が詰めてくる。圧力がかかる。ユニフォームを掴まれそうなほどの密着。その瞬間、千夏の世界からふっと音が消えた。歓声も、ブザーも、バッシュが床を擦る不快なスキール音も、すべてが遠い彼方へ退いていく。残ったのは、自分の深く静かな呼吸音と、心臓が刻む正確無比なリズムだけ。


「……あ、見える」


 千夏は心の中で呟いた。時間が引き延ばされ、世界がスローモーションのように緩やかに流れていく。目の前のディフェンダーの筋肉が収縮し、重心が僅かに左に傾くのが見えた。視線の先、次の瞬間の未来までもが、設計図を見るように鮮明に理解できる。千夏は思考するよりも速く、身体を「操作」した。氷室に叩き込まれたマニュアル通りに、意識的に筋肉を駆動させる。腸腰筋を鋭く引き込み、骨盤を前傾させる。足裏の接地圧をミリ単位で感じながら、地面からの反力を逃さずに推進力へと変換する。


 鋭いクロスオーバー。ボールが床を叩く音が、静寂の中で弾ける。相手が反応しようと足を出すよりも早く、すでに千夏はその横を風のようにすり抜けていた。速い。自分でも驚くほどのスピードだった。重力から解放されたかのような軽やかさで、千夏はゴールへ向かって飛翔した。カバーに来た相手チームの長身センターが立ちはだかる。壁のような威圧感。だが、千夏にはその壁の向こう側に、ボールを通すための糸のような細い道筋が光って見えていた。空中で身体を捻り、相手のブロックをかわす。ダブルクラッチ。指先から放たれたボールは、柔らかく美しい放物線を描き、音もなくネットを通過した。


 ワァァァァッ!


 一瞬の静寂の後、会場が爆発したような歓声に包まれる。だが、千夏はその熱狂の中にいながら、どこまでも冷静だった。熱いのに、冷たい。激しいのに、静かだ。これが、ゾーン。氷室が言っていた「マニュアル操作の極致」だ。意識と無意識が融合し、肉体が思考の速度を超越する領域。千夏はディフェンスに戻りながら、自分の掌を見つめた。汗で濡れているが、震えはない。ただ、力が漲っている。


 千夏はふと、自チームのベンチの方を見た。そこには、腕組みをしてコートを見つめる氷室の姿があった。彼は歓声を上げることもなく、ただ静かに、眼鏡の奥の冷徹な瞳で千夏を捉えている。表情は変わらない。だが、その視線が「やれ」と命じているのが分かった。千夏は小さく頷いた。背中に、彼の手の熱を感じる錯覚に襲われる。腰に、太ももに、足首に。彼が触れ、痛みを与え、作り変えてくれた全てのパーツが、歓喜の声を上げて機能している。「もっと動ける」「もっと行ける」。筋肉がそう叫んでいる。私は彼の作品だ。彼が人生を賭けた、最高傑作だ。その誇りが、千夏をさらなる高みへと押し上げた。


 第3クォーターが終わる頃には、千夏の得点は30点を超えていた。もはや誰も彼女を止められない。相手チームの監督が頭を抱え、たまらずタイムアウトを取る。ベンチに戻った千夏に、チームメイトたちが興奮した様子で駆け寄ってくる。


「すごいよ千夏! どうなってるの!?」


「あんな動き、見たことない!」


 賞賛の声、驚きの声。だが、千夏は上の空だった。彼女の意識はまだゾーンの中にあり、そして氷室と繋がっていた。ドリンクボトルを受け取り、一口飲む。冷たい水が喉を通る感覚さえも、研ぎ澄まされている。ふと視線を感じて顔を上げると、少し離れた場所で、エレナがじっとこちらを見ていた。彼女の目には、以前のような軽蔑や疑念の色はない。あるのは、一人の強者に対する純粋な闘争心と、認めざるを得ないという悔しさが入り混じった、複雑な光だった。


「……」


 千夏はエレナに向かって、不敵に微笑んだ。言葉はいらない。結果で黙らせると言った氷室の言葉通り、今の私は誰よりも強い。さあ、来てください。今の私なら、あなたと対等に戦える。いや、あなたを超えてみせる。氷室透という最強のパートナーと共に。千夏はタオルで汗を拭うと、再びコートへと向かった。その背中は、もはや迷える新人ではなく、勝利を義務付けられたエースのそれだった。


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第26話:エレナとの和解


 第4クォーター残り三分。スコアボードの数字は一点差で拮抗し、会場のボルテージは飽和点に達して破裂寸前だった。だが、コートの上に立つ小山内千夏にとって、周囲の熱狂や歓声は、分厚いガラスの向こう側で起きている出来事のように遠く、現実味を欠いていた。彼女の意識は極北の氷河のように冷たく澄み渡り、視界の中心にはたった一人の人間だけが、鮮烈な色彩を持って映っていた。藤堂エレナ。このチームのエースであり、絶対的な正義と努力を体現する光の住人。彼女は腰を深く落とし、千夏の行く手を阻む巨大な壁として立ちはだかっていた。その瞳には、昨日まで千夏に向けていた軽蔑や疑念の濁った色はもうない。あるのは、目の前の脅威を全力で排除しようとする、純粋で鋭利な殺気と、獲物を前にした捕食者の歓喜だけだった。


 千夏はドリブルのリズムを刻みながら、深く呼吸をした。左胸の奥で、氷室と同期した心臓が正確無比なビートを打っている。ドクン、ドクン。その振動が全身の筋肉に指令を送り、疲労を忘れさせ、最適化された動きへと導く。思考はいらない。最適解はすでに身体が知っている。千夏は重心を低くし、一気に加速した。正面突破。小細工なしの真っ向勝負だ。


「……来なさい!」


 エレナが短く吠え、迷いなく身体をぶつけてきた。ガツン、という鈍く重い衝撃音が響き、互いの汗が飛沫となって空中に散る。ファウルぎりぎりの激しい接触。普通の選手なら弾き飛ばされ、心が折れるほどの圧倒的なフィジカルだ。だが、千夏は体幹コアを瞬時に硬化させ、その衝撃を受け流した。氷室の手によって癒着を剥がされ、ミリ単位で調整された筋肉は、鋼のように硬く、同時に鞭のようにしなやかだった。衝撃を吸収し、反発力に変える。千夏はエレナの圧力を利用して、さらにギアを上げた。


 抜かせない。抜いてみせる。二人の意地が火花を散らす。千夏がクロスオーバーで揺さぶりをかければ、エレナは野生の勘でコースを読み切り、先回りして身体を入れる。エレナが長い腕を伸ばしてスティールを狙えば、千夏は背面ドリブルでそれを躱し、瞬時にシュートモーションへと移行する。一進一退。コンマ一秒の判断ミスが命取りになる極限の攻防。周囲の選手たちは、二人が作り出すあまりにも速く、濃密な空間に手出しができず、ただ呆然とその光景を見守ることしかできなかった。

 攻守が入れ替わる。今度はエレナがボールを持ち、ゴールへ向かって突進してくる。戦車のような突進力。だが、千夏は逃げない。氷室から叩き込まれた運動力学を脳内で展開し、エレナの重心移動、足の踏み込み位置、視線の角度から、次の動作を予測する。右だ。千夏は先回りしてコースを塞いだ。


「っ……、やるじゃない!」


 エレナがニヤリと笑ったのが見えた。彼女は強引にステップを踏み変え、身体を捻ってフェイダウェイシュートを放つ。千夏もまた、バネのように跳躍し、指先を極限まで伸ばしてブロックに飛ぶ。指先がボールを掠める感触。シュートは軌道をわずかに変え、リングに弾かれた。リバウンド。千夏が着地と同時に再び跳び、ボールをもぎ取る。


「走れ!」


 自ら叫び、千夏はドリブルを開始した。速攻。前を走るエレナの背中が見える。追いつき、追い越す。心臓が早鐘を打つが、苦しくはない。むしろ、もっと速く、もっと強く動けるという予感が全身を駆け巡る。楽しい。こんなにも身体が動くことが。こんなにも全力でぶつかり合える相手がいることが。

 ペイントエリア付近で、再び二人は激突した。トップスピードに乗ったままの衝突。エレナの執念深いディフェンスが、千夏のコースを塞ぎ、ボールを掻き出そうと腕を伸ばしてくる。その指先が千夏の腕を強く擦り、皮膚を焼くような摩擦熱を生む。痛い。苦しい。肺が焼けそうだ。だが、その痛みが千夏をさらに覚醒させた。これは「治療」の受動的な痛みではない。私が私の足で立ち、対等な敵と戦い、互いの存在を削り合っている証の痛みだ。


 ――あなたの正義なんて、私の筋肉りくつでねじ伏せる。

 ――私の努力を、紛い物の力で超えられると思って!?


 言葉にならない叫びが交錯する。千夏は空中で身体を大きく捻り、エレナのブロックを紙一重でかわした。重力に逆らう滞空時間。世界がスローモーションになり、エレナの驚愕に見開かれた瞳が、コマ送りのように鮮明に見えた。その瞳の奥に、千夏自身の姿が映っている。汗まみれで、髪を振り乱し、獣のように獰猛な笑みを浮かべた自分自身の姿が。


「あぁぁぁっ!」


 気合いと共に、千夏はボールをリングへ叩き込むようにレイアップを放った。指先から放たれたボールは、バックボードを強く叩き、ネットを激しく揺らして吸い込まれた。


 ピーッ!


 審判の笛が鋭く鳴り響き、バスケットカウントが宣告される。千夏は着地と同時にバランスを崩し、フロアに手をついた。肩で息をする。視界が明滅する。汗が滝のように流れ落ち、フロアに染みを作っていく。全てのエネルギーを使い果たしたような虚脱感と、それを上回る爆発的な達成感。

 ふと、目の前に手が差し出された。

 顔を上げると、そこにはエレナが立っていた。彼女もまた、膝に手をついて肩で息をし、髪は汗で濡れて頬に張り付いていたが、その表情には、憑き物が落ちたような晴れやかな笑みが浮かんでいた。


「……はぁ、はぁ……。あんた、本当に化け物ね」


 エレナは呆れたように言い、それでも差し出した手を引っ込めなかった。その声には、もう棘も冷たさもない。


「ドーピングでも、枕営業でも、魔法でも、もう何でもいいわ。……今のプレーは、紛れもなく本物だった。私の全力を、真正面から力尽くでねじ伏せたんだから。文句のつけようがないわ」


 その言葉は、千夏に対する完全な降伏宣言であり、同時にアスリートとして最大級の賛辞だった。手段がどうであれ、プロセスがどれほど歪んでいようと、コートの上で示した結果と熱量こそが真実。限界を超えてぶつかり合った者同士にしか分からない言語が、断絶していた二人の魂を強引に繋いだのだ。千夏は戸惑いながらも、震える手でエレナの手を掴んだ。強く、一気に引き上げられる。掌の熱さと、ゴツゴツとしたタコのある手の感触。それは、氷室の滑らかで冷たい手とは違う、泥臭く、等身大のライバルの温度だった。


「……やっと本気になったじゃない。最初からそうしてればよかったのよ。ウジウジしてて気持ち悪かったけど、今の顔は悪くないわ」


 エレナは千夏の背中をバシッと強く叩き、ニカっと笑った。その笑顔には、一点の曇りもなかった。千夏の中で、張り詰めていた何かが音を立てて崩れ落ちた。許されたわけではない。認められたわけでもないかもしれない。彼女の正義感は、千夏の背徳を完全には肯定しないだろう。けれど、少なくとも「戦う相手」としては認められた。汚い異物ではなく、倒すべき好敵手として、同じ地平に立つ存在として。


「……負けませんから。次も、その次も」


 千夏は震える声で返した。涙が出そうになるのを、汗だと自分に言い聞かせて堪える。


「望むところよ。調子に乗るな。次は倍にして返してやる」


 エレナは不敵に言い放ち、背を向けてリバウンドの位置についた。その背中は、敵として対峙していた時よりも大きく、そして近く感じられた。

 千夏はフリースローラインに立った。リングが遠く、しかし鮮明に見える。会場の歓声が戻ってくる。だが、千夏の心は静かだった。私は汚れているかもしれない。歪んでいるかもしれない。でも、今この瞬間、私は誰よりも強く、誰よりもバスケットボールを楽しんでいる。ベンチを見れば、氷室が腕を組み、静かに頷いているのが見えた。彼の作った身体で、彼の理論で、私は最強のライバルと渡り合い、彼女を黙らせたのだ。

 千夏はボールを受け取り、深く息を吐いた。この一本を決めて、終わらせる。私と先生の「共犯」を、勝利という名の正義に変えるために。シュートを放つその指先は、迷いなくリングの芯を捉えていた。


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第27話:ラストプレー


 第4クォーター、残り時間はわずか12秒。電光掲示板の赤い数字が無情にカウントダウンを刻む中、スコアボードは78対79を示していた。一点ビハインド。ボールポゼッションは相手チームにあり、このまま時間を消費されれば敗北が決まる絶体絶命の状況だ。会場を埋め尽くす観客の悲鳴にも似た声援が渦巻く中、コート上の選手たちは酸欠で霞む視界を必死に保ちながら、最後の力を振り絞っていた。相手のポイントガードがボールをキープし、時間を稼ごうとドリブルをつく。誰もが諦めかけたその瞬間、赤い閃光が走った。藤堂エレナだ。彼女は獣のような反応速度で相手の隙を突き、死角からボールを弾き出した。ルーズボールがサイドラインへ向かって転がる。エレナは躊躇なく床にダイブし、身体を投げ出してボールをコート内へと執念で掻き出した。


「走れぇぇぇっ! 千夏!」


 エレナの喉が裂けんばかりの絶叫が、千夏の背中をドンと押した。弾かれたボールが転がる先にいたのは、小山内千夏だった。彼女は反射的にボールを拾い上げると、敵陣へ向かって疾走を開始した。残り時間は8秒。心臓が早鐘を打ち、全身の血液が沸騰するような音が耳元で轟いている。相手チームのディフェンスが必死の形相で戻ってくるのが見えた。二人、いや三人がかりで壁を作り、千夏の進路を塞ごうとしている。パスコースは完全に切られている。味方は誰も追いつけない。どうする? 強引に行くか、一度止まってファウルを誘うか。迷いが足元を鈍らせそうになったその瞬間、千夏は無意識に自チームのベンチへと視線を走らせた。


 そこには、これまで石像のように微動だにしなかった氷室透が、パイプ椅子を蹴倒す勢いで立ち上がっている姿があった。彼は大声を張り上げることも、派手なジェスチャーで指示を出すこともない。ただ、白衣のポケットに手を突っ込んだまま、真っ直ぐに千夏を見つめ、静かに、しかし力強く頷いた。その眼鏡の奥の瞳が、「行け。お前なら決められる」と告げている。その確信に満ちた視線が、千夏の中に埋め込まれた最後のスイッチを入れた。迷いは消滅した。私が撃つ。私が決める。これは私と先生が作り上げた、勝利のための方程式だ。


 残り5秒。千夏はトップスピードのまま、ディフェンスが構築した肉の壁に向かって突っ込んだ。ぶつかる。誰もがそう思い、目を覆いそうになったその瞬間、千夏は強靭な足首と体幹を使って急停止した。

 キュッ!

 タイヤが焼けるような甲高い摩擦音が響き、千夏の身体が慣性の法則を無視したかのようにその場に釘付けになる。全力疾走からの急停止。相手ディフェンスはその動きに反応できず、つんのめるようにして千夏の前を通り過ぎ、体勢を崩した。


 残り3秒。千夏は自ら作り出した一瞬の空間スペースの中で、ボールを構えた。周囲の時間が泥のように重く、遅くなる。ディフェンスが慌てて戻ってくる足音、観客のどよめき、ベンチからの叫び声。それらすべてが遠い彼方へ退き、世界には千夏とリングを結ぶ透明なラインだけが残された。心臓がドクンと大きく跳ねる。このリズムだ。昨夜、薄暗い密室で先生と同期した、あの絶対的な鼓動のリズム。雑音は聞こえない。プレッシャーも感じない。ただ、自分の身体が精密機械のように正確に作動することへの信頼だけがある。膝を柔らかく使い、床からのエネルギーを上半身へと伝達する。


 残り2秒。千夏は跳んだ。重力から解き放たれ、空中で身体が伸びる。最高到達点。指先にボールの革の粒子一つ一つの感触が吸い付くようだ。肘を畳み、手首を返す。その一連の動作は、何万回と繰り返した反復練習の結晶であり、氷室によって研ぎ澄まされた機能美の極致だった。

 リリース。

 指先から放たれたボールは、美しい回転と共に手元を離れ、高い高い放物線を描いて、眩しい照明の光の中へと吸い込まれていった。


 残り1秒。ビーーーーッ!

 試合終了を告げるブザーが、長く、大きく鳴り響く。バックボードの枠にある赤いランプが点灯し、会場の時間を止めた。ボールはまだ空中にある。オレンジ色の球体が頂点を越え、重力に従って落下を始める。会場中の数千の視線が、その一点に注がれる。千夏は着地し、その行方を静かに見守った。入る。確信があった。祈る必要などない。だって、これはあの先生が人生を賭けて作った身体で、あの先生と同期したリズムで放った、完璧なシュートなのだから。外れる道理がない。


 スパッ。


 乾いた、心地よい音が静寂を切り裂き、白いネットが大きく跳ね上がった。ボールが床に落ちる音だけが、やけに鮮明に響く。

 一瞬の空白。理解が追いつくまでのタイムラグ。

 そして、爆発。

 ワァァァァァァッ!!

 会場が揺れるほどの大歓声が巻き起こり、千夏の鼓膜を震わせた。チームメイトたちがベンチから飛び出し、雪崩のように千夏に殺到する。


「やった!」

「千夏!」

「信じられない!」


 口々に叫びながら抱きついてくる仲間たちの重みと熱気。逆転。勝利。ファイナル進出。千夏はもみくちゃにされながら、滲む視界で天井を見上げた。眩しいライトの光が、涙で万華鏡のようにキラキラと輝いて見える。勝った。私たちが、勝ったんだ。そして、私が勝たせたんだ。


 歓喜の輪の中心で、千夏はふと視線をベンチの方へと戻した。あそこで誰よりも早く立ち上がり、私に力をくれた人を探すために。だが、そこにはもう、氷室の姿はなかった。パイプ椅子は空っぽで、ただ脱ぎ捨てられたタオルが残されているだけだ。千夏は視線を巡らせ、人混みの向こう、選手用通路の奥に、白衣の背中が小さく遠ざかっていくのを見つけた。彼は一度だけ振り返り、誰にも気づかれないように、ほんのわずかに口角を上げて笑ったように見えた。


「よくやった」


 声は聞こえなかったけれど、その唇の動きだけで十分だった。その一瞬の視線の交錯だけで、千夏の胸は張り裂けそうなほどの幸福感で満たされた。千夏は涙を乱暴に拭い、改めてチームメイトたちと強く抱き合った。胸の奥で、アスリートとしての誇らしさと、共犯者としての愛おしさが、同時に爆発していた。


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第28話:勝利の余韻


 試合終了のブザーが鳴り止んだ後も、会場の興奮は冷めるどころか、どよめきと歓声が入り混じった熱狂の坩堝と化していた。千夏はコートの中央で、チームメイトたちにもみくちゃにされ、頭を撫でられ、背中を叩かれていた。汗と涙でぐしゃぐしゃになった顔を見合わせ、誰もが理性を失ったように笑い、叫んでいる。逆転勝利。ファイナル進出。それは、このチームにとって数年ぶりの快挙であり、その立役者がルーキーの千夏であるという事実は、会場中の人々を熱狂させるのに十分すぎるドラマだった。


「やったね! すごかったよ千夏!」

「最後のアレ、痺れた! 神がかってた!」


 キャプテンの牧原が千夏を抱きしめ、他の先輩選手たちも次々と千夏に重なってくる。その中には、昨日まで千夏を遠巻きにし、陰口を叩いていた者たちもいた。だが、今の彼女たちの瞳に悪意はない。あるのは純粋な称賛と、勝者への掌を返したような好意だけだ。これが、勝利。これが、結果を出すということ。これまで孤独に耐え、痛みに耐え、倫理を捨ててまで手に入れたかった「場所」が、今ここにある。千夏は笑みを浮かべながらも、心のどこかで冷めた感情を抱いていた。勝てば官軍。氷室の言った通りだ。結果さえ出せば、雑音はすべて歓声に変わるのだ。


 千夏は歓喜の輪の中心にいながら、視線だけで必死に周囲を探索していた。この勝利を、誰よりも先に報告したい相手。私をここまで連れてきてくれた、狂気の共犯者。彼がいなければ、今の私は存在しない。この歓声も、称賛も、すべては彼が作り上げた「作品」に対する評価なのだから。

 ベンチの方を見ると、そこにはもうスタッフたちが片付けを始めているだけで、目当ての人物はいなかった。監督とヘッドコーチが抱き合って喜んでいる横に、彼の姿はない。いつもなら、冷徹な顔で選手のコンディションチェックをしているはずなのに。


 ――先生?


 千夏は焦燥感に駆られ、背伸びをして会場の奥、関係者以外立ち入り禁止のエリアへと視線を巡らせた。まさか、もう帰ってしまったのだろうか。私の晴れ姿を見届けることもなく。不安が胸をよぎる。心臓の鼓動が、試合中とは違う不規則なリズムを刻み始める。

 その時だった。人混みの向こう、薄暗い選手用通路の入り口に、見慣れた白衣の背中が一瞬だけ見えた。

 いた。

 周囲の喧騒から切り離されたように、ひっそりと、しかし確かな存在感を持って彼はそこにいた。氷室透だ。彼はチームの歓喜の輪に加わることもなく、また誰かに挨拶をするでもなく、静かに会場を去ろうとしていた。その孤高の背中が、千夏には痛いほど愛おしく、そして頼もしく見えた。彼は知っているのだ。自分の仕事が終わり、ここから先は選手たちが浴びるべきスポットライトの時間だということを。


 ――先生! 見て!


 千夏は心の中で叫んだ。声には出せない。出してはいけない。二人の関係は、光の下では決して交わらない。

 すると、まるでその心の声が届いたかのように、通路の闇に消えようとしていた氷室が、ふと足を止めた。

 彼はゆっくりと、何気ない動作で振り返った。

 遠い距離。無数の観客と選手たちに遮られた視線。煌めくフラッシュの光。

 だが、二人の目は、その障害物をすべて透過して、確実に合った。

 時が止まる。周囲の爆発的な歓声が、一瞬で真空の中に吸い込まれて消えたようだった。

 氷室は表情を変えなかった。手を振ることも、頷くこともしない。ただ、眼鏡の奥の爬虫類めいた冷徹な瞳を細め、ほんのわずかに、ミリ単位で口角を上げただけだ。それは、彼を知る者でなければ気づかないほどの、極小の微笑みだった。

 だが、千夏にははっきりと聞こえた気がした。鼓膜ではなく、脳髄に直接響くような、あの低い声が。


「よくやった」


 その一言だけで十分だった。どんな金メダルよりも、どんなトロフィーよりも価値のある報酬。千夏は小さく、誰にも気づかれないように頷いた。熱いものがこみ上げてきて、視界が滲む。

 言葉なんていらない。この一瞬の視線の交錯だけで、私たちの心は通じ合っている。私たちは共犯者だ。この勝利は、私たち二人の秘密の実験の成果なのだ。

 氷室は千夏の反応を確認すると、満足げに視線を外し、再び背を向けて闇の中へと消えていった。その潔い去り際さえも、千夏の胸を締め付けるほどに美しかった。


「千夏、どうしたの? ヒーローインタビューだよ!」


 チームメイトに腕を引かれ、現実に引き戻される。コートサイドにはテレビカメラとマイクが用意され、アナウンサーが待ち構えている。千夏は涙を乱暴に拭い、プロのアスリートとしての「表の顔」を作った。

 今はまだ、この表舞台で演じなければならない。期待の新人、奇跡の逆転劇を演じたヒロインを。

 マイクを向けられ、アナウンサーが興奮気味に問いかける。


「最後のシュート、見事でした! あの極限状態で、何を考えていましたか?」


 千夏は少しだけ息を整え、カメラのレンズの向こう側にいるかもしれない彼に向かって、答えた。


「……信じていました。自分の身体と、私をここまで導いてくれた人たちのことを」


 会場が拍手に包まれる。誰もがそれを、チームメイトや監督への感謝だと受け取っただろう。だが、千夏だけは知っている。その言葉が、たった一人の男に向けられた、愛と服従のメッセージであることを。

 でも、待っていて。

 この騒ぎが終わったら、必ず行くから。誰にも邪魔されない、鍵のかかった二人だけの場所へ。そこでたっぷりと、私を褒めて。壊れるくらいに愛して。

 千夏は胸の奥でそう誓い、眩しい照明の中で誇らしげに微笑んだ。その笑顔は、もはや迷える少女のものではなく、秘密を抱えた大人の女の、妖艶な輝きを帯びていた。


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第29話:深夜の祝勝会


 ホテル最上階のバンケットルームを貸し切って行われた祝勝会は、日付が変わる深夜になっても熱気を失うことなく続いていた。天井の豪奢なシャンデリアが眩い光を乱反射させ、スポンサー企業の重役やチーム関係者、そして嗅ぎつけたメディアの人間たちが入り乱れ、グラスを片手に勝利の美酒に酔いしれている。その喧騒の中心、台風の目のごとき場所に立たされているのは、今日の殊勲者である小山内千夏だ。彼女は慣れないドレッシーなワンピースに身を包み、次々と注がれる称賛の言葉とノンアルコールのカクテルを、顔に張り付けたような精巧な笑顔で受け流していた。

 フラッシュが焚かれ、視界が白く灼かれる。握手を求められ、何十回目か分からない「ありがとうございます」を繰り返す。それは新人選手としてこの上なく光栄な時間だったが、同時に千夏の精神と肉体をヤスリのようにすり減らす作業でもあった。試合で極限まで酷使し、悲鳴を上げている全身の筋肉は、すでに限界を超えて休息を求めている。ヒールの高い靴の中で、疲弊した足裏がジンジンと痺れ、ふくらはぎが痙攣しそうになるのを必死に堪えていた。この華やかな場所にあるすべてが、千夏にとっては現実味のない虚構であり、ただのノイズでしかなかった。


「……千夏、ちょっと顔色が悪いわよ。疲れたでしょ?」


 ふいに耳元で囁かれ、千夏がビクリとして振り返ると、そこにはグラスを優雅に傾けるエレナが立っていた。彼女は周囲の視線を気にすることなく千夏に寄り添い、ウィンクしてみせた。その瞳には、かつての敵意を含んだ鋭さはなく、死線を共に潜り抜けた戦友を気遣う、大人の余裕と優しさが宿っていた。


「ありがとう、エレナ。……正直、もう立っているのもやっとで」


「無理もないわ。あれだけの試合をした直後だもの。少し抜けて、休んでくるといいわ。私が適当に誤魔化しておくから」


「え、でも……主役がいなくなったら」


「いいのよ。主役は遅れて戻るくらいが丁度いいわ。それに、あなたがここにいなくても、お偉いさんたちは勝手に盛り上がってるもの」


 エレナは声を潜め、悪戯っぽく、しかし鋭い意味を含んだ笑みを浮かべた。


「……ただし、変な噂を立てられない程度にね。羽目を外しすぎないように」


 千夏は心臓を射抜かれたようにドキリとしたが、曖昧に微笑んで小さく頷くことしかできなかった。エレナは全てを察しているのかもしれない。それでも黙認し、背中を押してくれる彼女の懐の深さに感謝しつつ、千夏は「化粧直し」を口実に人混みを縫って会場を後にした。

 重厚な扉が閉まり、絨毯敷きの廊下の静寂が戻ってきた瞬間、千夏は壁に背を預けて深く息を吐き出した。仮面が剥がれ落ちる。ヒールの靴をその場で脱ぎ捨てて、裸足で走り出したい衝動に駆られる。

 目指す場所は一つしかなかった。このホテルの中に隠された、秘密の避難場所。

 千夏はエレベーターには乗らず、非常階段を使って下の階へと降りた。スタッフ専用のフロア。人気のない無機質な廊下。その突き当たりにある、臨時のメディカルルーム。昼間はテーピングを巻く選手たちで戦場のような活気に満ちていたその部屋も、今はひっそりと静まり返り、闇に沈んでいる。千夏は周囲を見回し、誰もいないことを慎重に確認してから、震える手でドアノブに触れた。回る。鍵は開いていた。招かれている。


 中に入ると、部屋は完全な闇に包まれていた。窓のカーテン越しに差し込む月明かりだけが、整然と並べられた医療機器やポータブルベッドの輪郭を、青白く幻想的に浮かび上がらせている。外の華やかなパーティー会場とは対極にある、冷たく静謐な空間。だが、そこに漂う微かな消毒液とメントール、そして独特なアロマの混じった匂いを嗅いだ瞬間、千夏の身体から強張っていた力が抜け、安堵のため息が漏れた。ここだ。ここが私の帰る場所だ。どんな煌びやかなステージよりも、この薄暗い密室こそが、私にとっての真実の世界なのだ。

 カチャリ、と鍵を閉める音が響く。これで世界とは断絶された。


「……遅かったな。待ちくたびれたぞ」


 闇の奥から、低く、鼓膜を撫でるような声が響いた。千夏は驚くどころか、その声の磁力に引かれるように部屋の奥へと歩み寄った。施術台の横、パイプ椅子に深く腰掛け、足を組んでいる人影があった。氷室透だ。彼は暗闇の中で、まるで最初からそうやって千夏を待つ運命だったかのように、静かに座っていた。眼鏡が月光を反射して冷たく光る。


「先生……!」


 千夏はヒールを脱ぎ捨て、駆け寄って彼の膝元に跪いた。高価なワンピースの裾が床に広がるのも構わずに、彼の太ももに顔を埋める。白衣の硬い生地の感触と、その下にある確かな筋肉の体温。求めていたものがそこにあった。


「主役はなかなか解放されないらしいな。……外は随分と盛り上がっているようだ」


 氷室の手が、千夏の汗ばんだ髪を優しく、ゆっくりと撫でた。その指先は冷たかったが、触れられた頭皮から脳髄にかけて、痺れるような熱が伝播していく。その愛撫は、ペットを慈しむようであり、同時に所有物を確認するようでもあった。


「ごめんなさい。……でも、抜け出してきました。もう限界でした。あの場所には、私の欲しいものなんて一つもなかったから」


 千夏は顔を上げ、潤んだ瞳で氷室を見つめた。


「私が会いたかったのは、褒めてほしかったのは、先生だけです」


「フッ、殊勝な心がけだ。……よくやった、千夏。お前のシュートは完璧だった。俺の理論を、俺が作り上げたお前の身体が、世界に見事に証明してくれた」


 氷室の声には、隠しきれない誇りと、独占欲が滲んでいた。彼は千夏の顎を指先ですくい上げ、月明かりの中でその瞳を覗き込んだ。試合の興奮と、アルコールではない陶酔で濡れた瞳。そこには、彼への絶対的な服従と信頼が宿っている。


「疲れただろう。筋肉が悲鳴を上げているのが、服の上からでも聞こえるようだ」


 氷室の親指が、千夏の顎から頬、そして首筋へと滑り落ちる。そこにある胸鎖乳突筋のこわばりを確かめるように、愛おしげに、しかし的確に圧をかける。


「……はい。身体中が痛いです。立っているのも辛いくらいに。でも、心地いい痛みです。先生のために戦った証ですから」


「強がりを言うな。極限まで使い果たした身体だ。アドレナリンが切れたら動けなくなるぞ。……すぐにケアしなければ、明日に響く」


 氷室は立ち上がり、千夏の手を引いて立たせた。そして、彼女の背中に回り、ワンピースのファスナーに手をかけた。ジジジ……という衣擦れの音が、静寂な部屋に背徳的に、そして官能的に響き渡る。


「脱げ。……メンテナンスの時間だ」


 命令口調だが、そこには以前のような冷酷さや突き放すような響きはなかった。あるのは、手塩にかけた愛機を労り、慈しみ、そして再び自分の色に染め直そうとする、甘く濃厚な執着だけだった。千夏は従順に頷き、ワンピースを肩から滑り落とした。月光に晒された白い肌は、勝利の熱を孕んで微かに上気し、氷室の手が触れるのを待ちわびて震えている。

 ここは二人だけの聖域。

 誰にも邪魔されない、深夜の本当の祝勝会の幕が、今静かに開こうとしていた。


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第30話:最高のご褒美


 深夜二時を回ったメディカルルームは、日中の喧騒が嘘のように静まり返り、世界から切り離された異空間のように深沈としていた。遮光カーテンの僅かな隙間から細く差し込む月明かりだけが、暗闇の中で二人のいる空間を青白く切り取っている。空調の微かな稼働音と、二人の呼吸音を除けば、世界は完全に静止していた。千夏は施術台の上にうつ伏せになり、生まれたままの姿を晒していた。そこには羞恥心など微塵もなかった。むしろ、自分の傷ついた肉体を氷室の視線に委ね、隅々まで検分されることに、倒錯した喜びと安心感を覚えていた。今日の試合で、この身体は彼の理論を証明するために極限まで酷使された。急激なストップ&ゴーを繰り返した足首は悲鳴を上げ、相手選手と何度も衝突した太ももの筋肉は断裂寸前まで張り詰め、全身の関節が軋んでいる。だが、その痛みこそが名誉の負傷であり、今夜、氷室に触れられるための最上の口実だった。カチャリ、とガラス瓶の蓋を開ける乾いた音が響く。ふわりと漂ってきたのは、いつもの鎮静用のアロマではなく、もっと濃厚で、鼻腔の奥に粘りつくような官能的な甘さを含んだイランイランとサンダルウッドの香りだった。


「……今日は特別だ。取り寄せたばかりの最高級のオイルを使う」


 氷室の声は、甘く、鼓膜を溶かすように低く響いた。彼の手のひらで丁寧に温められたオイルが、千夏の肩甲骨の間に垂らされる。とろりとした重みのある液体の感触と、人肌よりもわずかに高い熱が背筋を伝い落ちていく感覚に、千夏は反射的に小さく背中を反らせた。


「んっ……」


「力を抜け。今日は痛みを与えるつもりはない。……お前はよくやった。俺の期待に応え、想像を超える成果を出した。これは、そのご褒美だ」


 氷室の両手が、背中全体を包み込むように滑り出した。これまでの施術のような、癒着した筋膜を強引に剥がす鋭い痛みや、悲鳴を上げさせるような圧力はない。波が寄せては返すように、ゆっくりと、深く、滞ったリンパと血液を流していく極上のストローク。大きな掌が肩甲骨の周りを円を描くように撫で、脊柱起立筋の溝を親指の腹が優しく、しかし確かな存在感を持ってなぞる。その手つきは、故障した精密機械を修理するというよりは、国宝級の美術品を愛でる鑑定家か、あるいは壊れ物を扱う硝子職人のように繊細で、慈愛に満ちていた。

 気持ちいい。千夏の口から、ため息のような熱い吐息が漏れる。痛みと緊張で石のように凝り固まっていた細胞の一つ一つが、氷室の指先から放たれる魔力によって解きほぐされ、液状化していくようだ。脳の芯が痺れ、意識が白濁していく。試合中に分泌された興奮物質アドレナリンが抜け落ち、代わりに脳内麻薬エンドルフィンが全身を駆け巡る。千夏は枕に顔を埋めながら、自分の輪郭が溶けて氷室の手の中に吸収されていくような錯覚に溺れていた。


「ここだな。……一番負担がかかっていたのは」


 氷室の手が背中から腰へと下がり、千夏の豊かな臀部から太ももにかけてのアウトラインを捉えた。あの日、エレナに「汚い」と罵られた場所。欲望と背徳の象徴のような場所。けれど今は、ここが世界で一番神聖な祭壇のように思える。氷室は体重を乗せ、大臀筋の深層にある疲労のコアに向かって、ゆっくりと圧をかけた。


「あ、ぁ……っ、そこ、は……」


「硬くなっている。無理な体勢からのジャンプ、急激なストップ、相手との接触。……よく耐えたな。偉いぞ」


 労いの言葉と共に、氷室の指が筋肉の繊維に沿って滑る。痛気持ちいい刺激が、腰の奥から脊髄を駆け上がり、脳天へと突き抜ける。千夏はシーツを強く握りしめ、快楽の波に流されないように必死に耐えた。誰にも見せない顔。誰にも聞かせられない声。この鍵のかかった部屋でだけ許された、堕落の時間。氷室の手技は、次第に熱を帯びていった。ふくらはぎを揉み上げ、アキレス腱を指で挟み、足裏のツボを押し、指の股一本一本まで丁寧にオイルを行き渡らせていく。それはまるで、千夏の身体という地図を指先で再確認し、その所有権を更新していくかのような執拗さだった。千夏は夢見心地の中で、ぼんやりと考えていた。私は、この手があれば何もいらない。メダルも、名声も、賞賛も、この快楽の前では色褪せて見える。私はただ、この人に触れられ、整えられ、愛されるために生まれてきたのかもしれない。アスリートとしての自我と、氷室への依存心が完全に融合し、千夏の中で新たな「自分」が確立されていく。


「……仰向けになれ」


 氷室の命令に従い、千夏は緩慢な動作で身体を反転させた。天井の薄暗い影が目に入る。無防備に晒された前面。激しい試合と今の施術で上気した肌は、月光に濡れて艶めかしく輝いている。胸が激しく上下し、乱れた呼吸が部屋の静寂を揺らしていた。

 氷室は千夏の顔を覗き込んだ。眼鏡を外した彼の素顔が、すぐそこにあった。普段の冷徹な仮面は剥がれ落ち、そこには一人の男としての、熱っぽく潤んだ瞳があった。彼はオイルで滑る指で、千夏の鎖骨のくぼみをなぞり、首筋の脈動を確かめるように触れた。


「美しい。……機能美の極致だ」


 氷室は夢見るように呟き、千夏の熱い頬に両手を添えた。そして、ゆっくりと顔を近づけてくる。その瞳に捕らえられ、千夏は身動きが取れなくなった。キスされる。千夏は反射的に目を閉じ、唇を微かに開いて待ち受けた。心臓が早鐘を打ち、破裂しそうだ。初めての、彼からの「治療以外」の接触。

 だが、氷室の唇が触れたのは、千夏の唇ではなかった。

 熱く、乾いた感触が、千夏のひたいに押し当てられた。

 長く、深く、恭しい口づけ。

 それは安易な性欲の発露というよりも、創造主が自ら作り上げた被造物に与える祝福であり、あるいは所有者が自らの所有物に永遠の証として押す焼印のようだった。


「――っ!」


 千夏は驚きに目を見開き、息を飲んだ。唇へのキスよりも、遥かに深く、魂の根源を射抜かれたような衝撃が走る。身体の奥底が震え、涙が滲む。


「お前は俺の理論を証明した。俺の期待に応え、俺の想像を超えた。……お前は、俺の最高の作品だ」


 氷室が顔を離し、千夏の瞳を至近距離で見つめて言った。その声は優しく、そしてどこまでも傲慢だった。


「これからも、その身を俺に捧げろ。俺が、お前を世界一の場所へ連れて行ってやる」


 それはプロポーズのようであり、悪魔との契約更新のようでもあった。千夏は涙が溢れるのを止められなかった。嬉しくて、愛おしくて、どうしようもない。私はこの人のものだ。骨の髄まで、筋肉の繊維一本に至るまで、すべてが彼によって生かされている。


「……はい。先生。……私のすべてを、あなたにあげます」


 千夏は震える腕を伸ばし、氷室の首に巻きついた。氷室はそれを受け入れ、千夏の身体を強く抱きしめた。滑りやすいオイルの香りと、互いの体温が混ざり合い、二人の境界線が消えていく。外の世界では、まだ祝勝会が続いているだろう。人々は勝利を祝い、明日のニュースについて語り合っているだろう。だが、真実の祝勝会はここにあった。密室の闇の中、二人の共犯者だけが知る、甘く背徳的な蜜月の宴が、今まさに最高潮を迎えようとしていた。


---


第31話:責任の所在


 濃厚な高級オイルの香りと、行為の余韻である二人の熱気が充満していたメディカルルームの空気が、夜明け前の鋭い冷気によって少しずつ冷まされていく。激しい施術と、それに続く魂の交感に浸りながら、千夏は氷室の広い胸に頭を預けていた。彼の心臓の規則正しい鼓動が、自分のそれと重なり合うように背中から伝わってくる。遮光カーテンの隙間から白み始めた光が差し込み、この密室での時間が終わりを告げようとしていた。それは千夏にとって、甘い夢から醒めて現実の荒野に放り出されるような、恐怖にも似た寂しさを伴うものだった。

 千夏は氷室の白衣の裾を、指が白くなるほどギュッと握りしめた。昨日の試合での劇的な勝利、そして今夜与えられた極上の褒美。すべてが完璧だった。けれど、完璧であればあるほど、失うことへの恐怖が鎌首をもたげる。もし私が怪我をして走れなくなったら。もし私が年齢を重ねて引退したら。この関係はどうなるのだろうか。「作品」としての価値を失った自分を、彼は変わらず愛し、触れてくれるのだろうか。

 千夏は顔を上げ、薄暗がりの中で氷室の顎のラインを見つめた。眼鏡を外した彼の横顔は、冷徹なトレーナーのそれではなく、欲を満たした雄の、それでいてどこか孤独な男の顔をしている。今なら、聞けるかもしれない。いや、聞かなければならない。


「……先生」


 千夏が情事の後の掠れた声で呼ぶと、氷室は千夏の髪を弄ぶ手を止めず、視線だけで応えた。


「私、もう先生なしじゃ走れません。……身体も、心も、全部先生に作り変えられちゃいましたから。元の私には戻れません」


 それは依存の告白であり、同時に責任の追及でもあった。私の人生を狂わせ、同時に救ったのはあなたなのだから、最後まで面倒を見てほしいという、女としての切実な我儘。


「責任、取ってくれますよね?」


 千夏はさらに踏み込んだ。氷室はふっと短く息を吐き、千夏の汗ばんだ髪を指で梳いた。


「責任か。……俺は最初からそのつもりだ。お前がコートに立ち続ける限り、俺はお前の脚だ。メンテナンスを怠るつもりはない」


 それは「トレーナーとして」の模範回答だった。千夏が求めているのは、それだけではない。現役選手としての期間が終わった後、その先の未来までを含めた、逃げ場のない保証が欲しかった。千夏は意を決して、彼の胸板に手を当て、その奥にある心臓の鼓動を確かめた。


「違います。……私が聞きたいのは、選手としての契約の話じゃありません」


 千夏は一度言葉を切り、喉の奥で熱い塊を飲み込んだ。そして、震える唇で、初めてその名を呼んだ。


「……透さん」


 氷室の目がわずかに見開かれたのが分かった。その反応に勇気を得て、千夏は続けた。


「あの雨の日、透さんは言いましたよね。私と二人で実現したい夢が二つあるって。一つは、私を世界一のアスリートにすることだって言ってくれましたけれど……」


 千夏は潤んだ瞳で、氷室を射抜くように見つめた。懇願と、脅迫にも似た執着を込めて。


「私も、その夢を共有できますか? 最初の一つ目だけでなく、……もう一つの方も?」


 もう一つの夢。引退するまで取っておくと言われた、封印された箱の中身。千夏はそれを、今ここで開けたかった。引退してからでは遅い。今、この瞬間に、未来永劫の約束が欲しかった。

 氷室はしばらく沈黙し、千夏の瞳の奥底にある渇望を探るように見つめ返した。やがて、彼は観念したように、しかしどこか嬉しそうに、獰猛な笑みを口元に浮かべた。


「……随分と強欲になったな。俺の教育が良すぎたか」


 氷室は千夏の手を取り、自分の唇に強く押し当てた。


「いいだろう。共有しろ。俺の二つ目の夢。……それは、お前が現役を退いた後、この身体を完全に俺だけのものにすることだ」


 氷室の言葉は、甘く、重く、千夏の魂を縛り付ける鎖のように響いた。


「アスリートとしての機能美も愛しているが、それだけではない。俺は、小山内千夏という女の人生そのものを管理したい。お前が選手を辞めても、俺の隣にいさせろ。……俺の遺伝子を残す器として、お前以上の適任はいない。俺と千夏との子で、再び世界を狙いたい」


 あまりにも氷室らしい、狂気じみた歪んだプロポーズだった。愛の言葉の中に、平然と「管理」や「器」という言葉が混じる。だが、千夏にとってはどんな甘い愛の言葉よりも甘美に、そして頼もしく響いた。彼は私の「機能」だけでなく、「存在」そのものを、そして「未来」までも求めてくれている。自分たちの血を引く子供で、再び夢を見る。それは、終わりのない物語への招待状だった。


「安心しろ。責任なら、一生かけて取ってやる」


 氷室は千夏を強く抱き寄せ、耳元で囁いた。


「俺の方こそ、もう戻れないんだ。お前という最高級の素材に触れてしまったせいで、他の有象無象の筋肉では満足できない身体になってしまった。……俺の指は、お前の形を記憶しすぎた」


 それは、支配者が被支配者に堕ちた瞬間の、敗北宣言にも似た告白だった。彼もまた、千夏に依存している。千夏の肌の質感、筋肉の張り、吐息の熱さがなければ、彼の「神の手」は満たされないのだ。

 千夏は氷室の背中に腕を回し、力一杯抱きしめ返した。涙が溢れる。不安が消え、絶対的な安心感が胸を満たす。私たちは共犯者だ。勝利という光の中だけでなく、引退という闇の先まで、死ぬまで、いや死んでからもその血脈の中で離れられない運命共同体なのだ。


「……はい。透さん。……私、一生、あなたにコンディショニングされたいです。あなたの望むものを、全部産みます」


「ああ。覚悟しておけ。死ぬまで逃がさない」


 白み始めた窓の外から、新しい朝の光が差し込み、二人の姿を照らし出す。だが、二人の間にある濃厚な背徳の空気は、光に照らされても消えることはない。

 契約は更新された。今度は、期限のない「永久契約」として。

 千夏は氷室の腕の中で、幸福な微睡みに落ちていった。その表情は、愛される女のそれであると同時に、自らの運命を受け入れた聖女のようでもあった。


---


第32話:共犯者たちの未来(Ending)


 数年の月日が流れ、季節は巡り、再び夏が訪れていた。

 ナショナルトレーニングセンターの広大なバスケットボールコートには、日の丸を背負った選ばれし選手たちの、鋭い気合とバッシュの擦れる音が響き渡っている。世界選手権を直前に控えた日本代表強化合宿。その中心に、小山内千夏の姿があった。

 かつての線の細さは影を潜め、今の彼女の肢体は、無駄な脂肪が削ぎ落とされた鋼のような筋肉で鎧われていた。しなやかで、強く、美しい。メディアがこぞって「氷の彫刻」と称賛するその肉体は、一人の狂気的な職人が数年かけて丹念に磨き上げた、最高傑作だった。

 紅白戦の最中、千夏が鋭いドライブで切り込み、相手の外国人コーチすら反応できない速度でレイアップを決める。会場の空気が一瞬止まり、次の瞬間にどよめきに変わる。


「……相変わらず、人間離れした動きね」


 タイムアウトの笛が鳴り、ベンチに戻ってきた千夏に、ボトルを渡しながら藤堂エレナが苦笑した。彼女もまた、日本代表のスタメンとして、千夏と並び立つ存在になっていた。


「エレナこそ。あのスクリーン、痛いくらい完璧だったよ」


 千夏が汗を拭いながら笑い返すと、エレナはふんと鼻を鳴らして視線をベンチの奥へ向けた。


「私の筋肉は努力の賜物だけど、あなたのは……半分以上、あの男の執念でできてるんじゃない?」


 エレナの視線の先には、腕組みをしてコートを見つめる氷室透がいた。彼は代表チームのチーフトレーナーとして帯同しており、その冷徹な手腕で選手たちを管理している。周囲からは「千夏を育てた名伯楽」として尊敬を集めているが、その瞳の奥にある昏い光を知っているのは、千夏と、勘の鋭いエレナくらいのものだった。


「人聞きが悪いなぁ。私だって努力してるよ」


「はいはい。……でも、気をつけることね。あの人、最近あなたのことを見る目が、トレーナーというより『所有者』のそれになってるわよ。食われないようにね」


 エレナの忠告に、千夏は曖昧に微笑むことしかできなかった。食われないように、なんて手遅れだ。私はもうとっくに、骨の髄まで彼に食い尽くされているのだから。


 練習後の取材対応とミーティングを終え、千夏が宿舎の自室に戻ったのは深夜近くだった。同室の若手選手が寝息を立てているのを確認し、音を立てないように部屋を抜け出す。向かう先は、最上階の角部屋。トレーナー専用の個室だ。

 廊下を歩く足取りは軽い。疲労はピークに達しているはずなのに、これから彼に会えると思うだけで、脳内麻薬が分泌されて痛みが遠のく。

 ノックは二回。決められた合図。

 カチャリ、と鍵が開く音がして、千夏は重い扉の中に滑り込んだ。


 部屋の中は、懐かしい匂いで満たされていた。消毒液とメンソール、そして彼が好んで使うサンダルウッドのアロマ。かつて実業団の薄暗い用具室から始まった「秘密の治療」は、場所をナショナルトレーニングセンターという公的な聖域に移しても、その本質は何一つ変わっていない。

 氷室はソファに座り、タブレットで今日の練習データをチェックしていたが、千夏が入ると画面を消し、静かに立ち上がった。


「遅かったな。……身体の張りはどうだ?」


「最悪です。全身バキバキ。……先生の手がないと、明日起き上がれないかも」


 千夏が甘えるように言うと、氷室は呆れたように、しかし愛おしげに口元を緩めた。


「手のかかる作品だ。……ベッドへ行け」


 千夏は慣れた手つきで衣服を脱ぎ捨て、施術台の上にうつ伏せになった。露わになった背中には、無数の筋肉が美しい陰影を作っている。氷室の手が、温められたオイルと共に滑るように触れた。

 ビクン、と千夏の身体が跳ねる。数年経っても、この瞬間の電流が走るような快感は色褪せることがない。むしろ、互いの身体を知り尽くした今の方が、より深く、鋭く神経を逆撫でする。


「……いい筋肉だ。世界で戦うための、完璧な装甲だ」


 氷室は千夏の脊柱起立筋を親指でなぞりながら、独り言のように呟いた。


「今回の大会が終われば、ひと段落だな」


「そうですね。……そしたら、少しは休めますか?」


「休み? そんなものはない。……忘れたわけじゃないだろう? 俺たちの『次の計画』を」


 氷室の手が腰から臀部へと滑り落ち、際どいラインを愛撫するように揉みしだいた。千夏は枕に顔を埋め、熱い吐息を漏らした。

 次の計画。

 それは、現役引退後に待っている、さらに長い契約のことだ。


「……忘れてません。先生との子供で、世界を狙うんでしょう?」


「そうだ。お前の遺伝子と、俺の理論。それが融合すれば、人類の到達点を更新できる。……楽しみにしておけ。引退したその日から、お前は母体としてのコンディショニングに入ってもらう」


 狂気じみた、マッドサイエンティストの夢。だが、千夏にとってそれは、この上ない愛の言葉だった。彼はずっと先まで、私の人生を必要としてくれている。死ぬまで、いや死んだ後も、私たちは共犯者として結ばれ続けるのだ。


「ふふ……。スパルタなのは勘弁してくださいね、透さん」


 千夏が身体を反転させ、仰向けになって氷室を見上げると、彼は眼鏡を外して千夏に覆いかさった。その瞳には、世界中の誰にも見せない、ドロドロとした独占欲と情愛が渦巻いている。


「手加減はしない。……お前は俺が作った、俺だけのものだからな」


 氷室の唇が、千夏の額に、瞼に、そして唇に落とされる。

 外の世界では、彼女は日本の希望であり、清廉潔白なアスリートだ。だが、この密室の中では、ただ一人の男に開発され、管理される「素材」に戻る。

 その背徳感が、千夏の五感を極限まで研ぎ澄ませていく。


「先生、今日もお願いします」


 千夏はとろけるような瞳で懇願した。

 氷室はニヤリと笑い、その白くしなやかな脚を高く持ち上げた。


「ああ。……世界一の脚に仕上げてやる」


 部屋の明かりが消され、闇の中に二人の吐息だけが溶けていく。

 治療か、愛撫か。その境界線はとうの昔に消失し、そこにあるのは永遠に終わらない、蜜月のコンディショニングだけだった。


---


第33話 外伝:二人の夢の結実



 氷室家の朝は早い。そして、静寂と規律に支配されている。

 ダイニングルームの大きなテーブルには、計算し尽くされた朝食が並んでいた。脂質を極限まで抑えた鶏胸肉のボイル、彩り豊かな温野菜、玄米、そして特製のプロテインスムージー。それは一般的な家庭の食卓というよりは、F1マシンの燃料補給ステーションのようだった。

 小山内千夏――今は氷室千夏となった彼女は、キッチンカウンター越しに、黙々と食事を摂る三人の背中を見つめていた。現役を引退してから早二十年。かつて「氷の彫刻」と称されたその肉体は、激しい競技生活から解放され、母としての柔らかな丸みを帯びている。だが、エプロンの下にある背筋はピンと伸び、立ち姿にはトップアスリートとして一時代を築き上げた品格が、色褪せることなく残っていた。

 彼女の視線の先には、二人の若い女性が並んで座っている。

 氷室夏樹と、氷室夏実。双子の娘たちだ。

 長い手足、しなやかでバネのある筋肉の付き方、そして意志の強さを感じさせる切れ長の瞳。日本代表のジャージに身を包んだ彼女たちの後ろ姿は、18歳の春に、千夏が実業団の薄暗い用具室で氷室と出会った頃の自分と瓜二つだった。まるでタイムスリップしたかのような錯覚に、千夏は目を細める。

 彼女たちもまた、両親の敷いたレールを疑うことなく――あるいは、それ以上の道はないと本能で悟り――バスケットボールの道を選んだ。現在、二人は同じ実業団チームに所属し、かつて千夏とエレナがそうであったように、左右のスモールフォワードとしてコートを支配している。そして今日、彼女たちは日の丸を背負い、オリンピック代表団の発足式へと向かうのだ。


「……ごちそうさま。今日のスムージー、ちょっと配合変えた?」


 姉の夏樹がグラスを置き、ナプキンで口元を拭いながら尋ねた。味覚の鋭さまで父親譲りだ。


「ええ。合宿前だから、ビタミンB群を多めにしておいたわ。疲労回復のためにね」


「やっぱり。お母さん、さすが」


 妹の夏実がニカっと白い歯を見せて笑う。その笑顔の無邪気さは千夏に似ているが、瞳の奥に宿る不敵な光は、間違いなく食卓の主座にいる男のものだ。

 氷室透。五十代半ばになった彼は、ロマンスグレーの髪を綺麗に撫でつけ、歳月を重ねたことで冷徹さの中に重厚な渋みと包容力を加えていた。目元の皺は増えたが、眼鏡の奥の瞳の鋭さは衰えるどころか、より一層研ぎ澄まされているように見える。彼は現在、娘たちが所属する実業団、そして女子日本代表チームのヘッドトレーナーとして、彼女たちの身体を――かつて千夏にしたように――徹底的に、狂気的なまでに管理している。


「食事中の私語は慎めと言ったはずだ。……だが、味の違いに気づいた点は評価しよう。自分の身体に入れるものへの感度は、アスリートの基本だからな」


 氷室はタブレット端末で娘たちのバイタルデータを確認しながら、淡々と言った。家庭内では父親だが、一歩外に出れば、あるいはバスケットボールに関わることになれば、彼は絶対的な「先生」であり、支配者となる。その切り替えこそが、この氷室家の奇妙で、しかし幸福なルールだった。

 食事が終わり、出発の時間が近づく。

 玄関ホールに移動した娘たちは、慣れた手つきで互いの肩や背中を触り合っていた。


「夏実、右の肩甲骨、ちょっと硬いかも」


「嘘? 昨日お父さんにメンテしてもらったのに」


「寝相が悪かったんじゃない? ほら、ここ」


 姉が妹の筋肉を押す。その指使いは、幼い頃から氷室の施術を見様見真似で覚えてきた、英才教育の賜物だ。

 千夏はその様子を微笑ましく見守りながら、ふと自分の古傷である右足首を摩った。現役時代の過酷な使用に耐え、最後には悲鳴を上げた関節。だが、不思議と痛みはない。なぜなら、引退して二十年経った今でも、氷室は毎晩欠かさず千夏の身体をメンテナンスし続けているからだ。

 『お前がコートに立たなくなっても、俺はお前の脚だ』。あの日交わした契約は、一度も破られることなく履行されている。夜ごとの施術は、治療から愛撫へとその意味合いを変えながら、夫婦の絆を、そして共犯者としての記憶を更新し続けていた。


「準備はいいか。車を出すぞ」


 氷室がポケットから車のキーを取り出し、カチャリと鳴らした。その金属音を聞いただけで、娘たちの背筋が条件反射のように伸び、表情が引き締まるのが分かった。ここからは、親子の時間ではなく、師弟の時間だ。


「はい! いつでも行けます!」


 二人の娘が同時に声を揃え、立ち上がった。その動きのシンクロ率は、長年のトレーニングの成果であり、双子ならではの共鳴だった。

 千夏は重厚な木製のドアを開け、三人を見送るために外に出た。朝の冷涼な空気が肌を刺すが、それは心地よい緊張感を運んでくる。かつて自分が戦場へ向かう前に感じていた、あの懐かしい空気。


「透さん。……ううん、先生」


 千夏はあえて、現役時代の呼び名で夫を呼んだ。これから戦場へ向かう彼に対する、敬意と激励、そして何より、自分もまだその戦いの一部なのだという意思表示を込めて。


「監督のエレナによろしくね。私も後から、別便で応援に行くからって伝えて」


 かつての宿敵であり、最高の戦友だった藤堂エレナは、現役引退後、指導者の道を歩み、現在は女子日本代表の監督を務めている。千夏たちの娘を、エレナが指揮し、氷室が支える。それは、あの激闘の日々を知るオールドファンにとっては、奇跡のような、あるいは運命的な布陣だった。

 今朝もエレナからは、『あんたの分身たち、預かるわよ。壊さない程度に絞り上げてやるから覚悟しなさい』という、相変わらず好戦的で、愛のあるメッセージが届いていた。


「ああ、伝えておく。……相変わらずあの女は、『千夏の娘にしては根性が足りない』だの『詰めが甘い』だのとぼやいていたがな。要求レベルが高すぎるんだ。俺が作った作品にケチをつけるとは、いい度胸だ」


 氷室は苦笑しながら言ったが、その声にはエレナへの信頼と、職人としてのプライドが滲んでいた。かつては互いに敵視し合っていた二人が、今では娘たちを育てるための最強のタッグを組んでいる。人生とは分からないものだ。


「エレナらしいわね。でも、あの子たちならきっと応えられるわ。誰の血を引いていると思ってるの」


「当然だ。誰が育て、誰が調整したと思っている」


 氷室は傲慢に言い放ち、娘たちの頭に大きな手を置いた。その手つきは、筋肉の状態を確かめるトレーナーのものではなく、ただの父親の、不器用だが深い慈愛に満ちたものだった。


「あなた、娘たちをお願いね」


 千夏の言葉に、氷室は深く頷いた。その瞬間、彼の眼鏡の奥で、千夏が全てを捧げた時に密室で語った狂気的な夢の炎が、確かな現実として燃え上がっているのが見えた。『俺と千夏との子で、再び世界を狙いたい』。あの日、愛の言葉として囁かれたその妄執は、いまや形を成して目の前にある。二人の娘という、最強の結晶となって。


「ああ。任せておけ。……娘たちよ、行くぞ。俺たちと一緒に、俺たちの『忘れ物』を取りにな」


 忘れ物。それは、千夏が現役時代にあと一歩で届かなかった、世界一の称号。オリンピックの決勝で敗れ、首にかけられた銀メダルという、輝かしくも悔しい涙の結果。それは氷室にとっても、トレーナー人生で唯一の、そして最大の未練だった。彼は二十年間、その悔しさを忘れることなく、理論をアップデートし続け、次世代のために牙を研ぎ続けてきたのだ。


「もう、お父さんってば。朝からプレッシャーかけないでよ。ハードル上げすぎ」


 姉の夏樹が苦笑いをする。


「そうだよ。お母さんの時シルバーだったからって、ゴールドは難しいんだからね。世界は広いんだよ?」


 妹の夏実も口を尖らせる。だが、口では不満を言いながらも、彼女たちの目には怯えの色など微塵もなかった。そこには、父親と同じ野心的な光と、母親と同じ負けん気の強さが宿っていた。彼女たちもまた、勝利に飢えているのだ。生まれながらにして、勝つことを宿命づけられたサラブレッドとして。


「フッ、甘えるな。お前たちの身体には、俺の最高傑作である千夏の遺伝子と、俺が二十年かけて完成に近づけた理論のすべてが詰め込まれているんだ。金以外に何がある」


 氷室はニヤリと笑い、娘たちの背中をバンと叩いて歩き出した。その手は、かつて千夏を地獄の底から引き上げ、栄光へと導いた「神の手」そのものだった。


「ほら、遅れるぞ。走れ」


「はいはい! 行ってきます、お母さん!」


 娘たちが手を振り、父親の後を追って駆け出していく。その躍動する筋肉、地面を蹴る軽やかな足音、弾むようなポニーテール。すべてが千夏の記憶にある「青春」そのものであり、同時にそれを超えていく新しい力だった。

 その三人の背中を見送りながら、千夏は胸の奥が熱くなるのを感じた。寂しさはない。あるのは、自分の人生が肯定されたという深い満足感と、これから始まる新たな戦いへの期待だけだ。

 あの日、雨の中で交わした契約は、決して間違いではなかった。依存と支配から始まった歪な関係は、長い時間をかけて熟成され、かけがえのない家族の絆へと昇華された。

 私の身体は引退しても、私の夢は、血を受け継いだ新しい翼となって、再び空を飛ぶ。そして、その翼を整備するのは、いつだって私の最愛の共犯者なのだ。

 千夏は三人の姿が角を曲がって見えなくなるまで、ずっと手を振り続けた。

 二十年の時を超えて、透と千夏、二人の共犯者の夢は、すぐそこまで近づいていた。


(完)

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