前編:治療か、愛撫か。氷の指先に全てを支配される、背徳の契約。
あらすじ:
実業団ルーキーの千夏は、怪我を隠すため冷徹なトレーナー氷室と「秘密の治療契約」を結ぶ。密室で施されるのは、医療の域を超えた甘く執拗な手技。「これは治療だ」と囁く指先に翻弄され、千夏は痛みと快感の境界を見失っていく。その施術はドーピングか、それとも救済か。ライバルの疑惑の目が光る中、勝利への渇望と罪悪感に引き裂かれながら、千夏は氷室との危険な共犯関係へ堕ちていく。
登場人物紹介
小山内 千夏 (19):勝利への焦りから、氷室の「禁断の施術」に溺れる新人選手。
氷室 透 (30):「神の手」で選手を支配し、理想の肉体へ改造する狂気の職人。
藤堂 エレナ (22):千夏の不自然な強さに疑念を抱き、正論で追い詰めるライバル。
※姉妹作品の『蜜月のコンディショニング』~氷のコーチと熱情の契約~のR15リメイク版
第1話:隠蔽
体育館の床を激しく蹴るバッシュのスキール音が、鼓膜を劈くような高音で反響し続けている。湿度を含んだ重苦しい空気には、汗と制汗スプレー、そして使い古されたゴムと床ワックスの匂いが混ざり合い、肺の奥までべっとりと張り付くようだった。実業団バスケットボールチーム「レッド・ヴァルキリーズ」の練習場は、リーグ開幕戦を一週間後に控え、ピリピリとした緊張感に支配されていた。壁面の大型時計の秒針が進むたびに、選手たちの焦燥感もまた加速していく。高卒ルーキーである小山内千夏にとって、この場所は幼い頃からの夢の舞台であると同時に、一瞬のミスも許されない断崖絶壁でもあった。乱れた呼吸を整える間もなく、千夏は腰を深く落としてディフェンスの構えをとる。連日のハードワークで太ももの筋肉が悲鳴を上げ、乳酸が溜まって鉛のように重いが、足を止めることは許されない。視界の端で、腕を組んだ監督の鋭い視線が自分を値踏みするように追っているのがわかった。ここで膝に手をつけば、その瞬間に評価は地に落ちる。千夏を突き動かしているのは、勝利への希望よりもむしろ、脱落への根源的な恐怖だった。
「千夏、遅い! もっと寄れ! インサイドに入れさせるな!」
キャプテンの牧原の叱責が、鋭いナイフのように飛んでくる。千夏は反射的に「はいっ」と叫び返し、歯を食いしばってマークマンの懐へ飛び込んだ。対峙する相手は、同じスモールフォワードのポジションを争う最大のライバル、藤堂エレナだ。大卒ルーキーのエレナは千夏より上背こそないが、ウェイトトレーニングで鋼のように鍛え上げられた体幹を持っていた。千夏が間合いを詰めた瞬間、エレナは右へ行くと見せかけ、鋭いクロスオーバードリブルで千夏の重心を揺さぶる。その動きは雷光のように速く、そして岩のように重い。千夏は反応しようと右足を踏ん張り、フロアを強く噛んだ。新品のバッシュのグリップが、きゅっと高い悲鳴を上げる。
その時だった。足首の奥深く、関節の噛み合わせの悪い場所で、何かが弾けるような、嫌な音が内耳に直接響いた。
ブチッ、という乾いた音と共に、熱した鉄杭を打ち込まれたような激痛が右足首を駆け抜ける。視界が一瞬ホワイトアウトし、千夏の身体はバランスを失ってフロアに崩れ落ちそうになった。世界がスローモーションになり、天井の照明が歪んで見える。
「っと、危ない!」
エレナが軽やかに千夏をかわし、そのまま無人のゴールへレイアップシュートを決める。ボールがネットを通過する小気味よい音が、千夏には遠い世界の出来事のように聞こえた。歓声ともため息ともつかない空気がコートを支配する中、千夏は本能だけで倒れるのを堪えた。倒れてはいけない。ここで倒れれば、怪我が露呈する。千夏は反射的に受け身を取り、あくまで「ディフェンスでバランスを崩された」かのように装って立ち上がろうとした。だが、右足に体重を乗せた瞬間、脳髄を痺れさせるような電撃が走り、膝がガクンと折れそうになる。脂汗がどっと噴き出し、背筋を冷たいものが伝う。これは、ただの捻挫ではないかもしれない。靭帯が悲鳴を上げている。それでも、千夏は顔を上げた。痙攣しそうになる表情筋を総動員して、痛みを笑顔の下に無理やり押し隠す。
「……すみません、足がもつれました」
喉の奥から絞り出した声は、自分でも驚くほど掠れていた。牧原は呆れたように溜息をつき、腰に手を当てて千夏を見下ろす。
「集中しなさい。怪我人は即、戦力外よ。今のチームに待っている余裕はないの」
その言葉は、千夏の心臓を氷のように冷たい手で鷲掴みにしたようだった。怪我人は要らない。それはこの弱肉強食の実業団における絶対的なルールだ。特に実績のない替えの利く新人にとって、故障者リスト(インジュリー・リスト)入りは死刑宣告に等しい。千夏は「はい、すみません」と短く答え、右足を引きずらないように細心の注意を払ってポジションに戻った。靴の中で、右足首がドクドクと脈打ち始めている。まるで別の生き物が皮膚の下で暴れ回り、靴を内側から食い破ろうとしているかのようだった。
練習は容赦なく続く。ハーフコートでの激しい3対3、オールコートでのトランジション練習。千夏にとっては、一分一秒が永遠に続く拷問のような時間だった。ジャンプの着地のたびに、火花が散るような痛みが脊髄を駆け上がる。急なターンをするたびに、足首の骨がきしむ音が聞こえる気がした。それでも千夏は走った。痛みを庇うあまり、プレーは精彩を欠き、パスミスを連発してしまう。
一方で、エレナの動きは神がかっていた。彼女は千夏が苦悶している間も、涼しい顔でコートを支配していた。強靭なフィジカルでポストプレーを制し、外からは高確率の3ポイントシュートを次々と沈める。汗に濡れた肌は照明を弾いて輝き、その姿はまさに太陽だった。誰もが彼女を認め、信頼し、ボールを託す。千夏はその光景を、痛みで霞む視界の隅で見ていた。悔しさと情けなさで、涙が滲みそうになるのを必死で堪える。
私は、あそこには行けないのか。高校時代、天才と呼ばれ、将来を嘱望された自分の姿は、もうここにはない。あるのは、壊れかけた足首を抱え、怯えながら走る一人の矮小な選手だけだ。自分の才能が、メッキが剥がれるように崩れ落ちていく音が聞こえるようだった。
「よし、今日はここまで! 各自、クールダウンとストレッチを徹底しろ!」
監督の終了の合図と共に、千夏はその場に崩れ落ちそうになるのを堪え、膝に手をついて荒い息を吐いた。全身が鉛のように重い。右足の感覚は、もはや鋭い痛みを超えて、熱を持った巨大な異物と化していた。アドレナリンが引いていくにつれ、耐え難い鈍痛が波のように押し寄せてくる。
「千夏、大丈夫? なんか今日、顔色悪いよ」
同期の沢渡美佳が、タオルで汗を拭きながら心配そうに覗き込んでくる。千夏は反射的に、仮面のような笑顔を貼り付けた。
「ううん、大丈夫。ちょっと酸欠気味かも。久しぶりに追い込まれたから」
「無理しないでね。開幕前なんだから、ケア、ちゃんとしなよ。マッサージ行く?」
美佳の無邪気な優しさが、今は棘のように心に刺さる。ケア。そうだ、早く冷やさなければ取り返しのつかないことになる。だが、トレーナーのいるメディカルルームに行けば、プロの目で即座に怪我を見抜かれてしまうだろう。「全治三週間」と診断された瞬間、千夏の開幕スタメンの夢は潰え、ベンチ外へと追いやられる。それだけは絶対に避けたかった。千夏は誰とも目を合わせないようにして、「シャワー浴びてくるね」と言い残し、足を引きずるのを極限まで隠しながらロッカールームへと向かった。一歩歩くごとに、足首に埋め込まれたカミソリが神経を切り裂くようだ。
ロッカールームの湿った喧騒から逃れるように、千夏は一番奥のトイレの個室に駆け込んだ。鍵をかけ、プラスチックの冷たい便器の蓋の上に座り込むと、ようやく重い息を吐き出すことができた。ここだけが、今の彼女に残された唯一の安全地帯だった。
震える手でバッシュの紐を解き、固く巻かれたテーピングをハサミで切り裂く。サポーターを外し、恐る恐る靴下を脱いだその先には、目を覆いたくなるような光景があった。くるぶしの周りが赤黒く腫れ上がり、通常の倍近くに肥大している。内出血の色が毒々しく皮膚を染め、皮膚が限界まで引き伸ばされてパンパンに張っていた。指先で軽く触れると、そこだけ高熱を発しているかのように熱い。
「……嘘でしょ。こんなの……」
千夏は絶望的な声を漏らした。想像以上に酷い。これでは明日の練習どころか、歩くことさえままならない。バッグの底に隠していた氷嚢を取り出し、予備のタオルで幾重にも包んでから、震える手で患部に当てた。
「っぅ……!」
氷の冷たさが、熱を持った患部に焼きつくような鋭い刺激を与える。悲鳴が出そうになるのを、自分の腕を強く噛んで押し殺した。痛い。痛くてたまらない。涙が自然と溢れ出し、頬を伝って床に落ちる。
あと一週間。たった一週間だけ隠し通せば、なんとかなるかもしれない。痛み止めを規定量の倍飲んで、テーピングでガチガチに固めれば、試合には出られるかもしれない。そう自分に言い聞かせるが、心の奥底では分かっていた。この足でトップレベルの試合についていけるはずがない。エレナのスピードに、牧原のフィジカルに、対抗できるはずがない。じわじわと、冷たい絶望が胸を満たしていく。それは氷嚢の物理的な冷たさとは違う、もっと暗く、粘着質な恐怖だった。自分がこれまで積み上げてきた努力と時間が、たった一つの着地ミスで崩れ去っていく。その理不尽さに、千夏は唇を血が滲むほど噛み締めた。口の中に広がる鉄錆のような味が、今の自分の惨めさを象徴しているようだった。
「勝ちたい……」
誰にも聞こえない声で、千夏は呟いた。この痛みを取り去ってくれるなら、悪魔にだって魂を売る。そんな陳腐なフレーズが頭をよぎるほど、彼女は追い詰められていた。足首を冷やす氷が溶けて、水滴となって床に落ちる。ピチャリ、という小さな音が、静寂に包まれた個室の中で大きく響いた。その時、彼女はまだ知らなかった。この傷が、ただの怪我ではなく、彼女の運命を狂わせる「契約」への入り口になることを。そして、この個室の扉の向こう、薄暗い廊下の先で、傷ついた獲物の匂いを嗅ぎつけた男が、静かにその目を光らせていることを。
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第2話:見抜く目
午後十一時を過ぎた選手寮は、深海のような重苦しい静寂に沈んでいた。廊下の天井に等間隔で並ぶ常夜灯だけが頼りなく瞬き、遠くで業務用の大型冷蔵庫が低い唸り声を上げている。小山内千夏は自室のベッドを抜け出し、きしむ床板に音を立てさせないよう、細心の注意を払って階段を降りていた。一歩進むたびに、右足首から脳天へ向かって鋭利なガラス片で抉られるような痛みが突き抜ける。規定量を超えて服用した鎮痛剤の効果はとうに切れ、患部はまるで独立した心臓がそこにあるかのように激しく脈打ち、不快な熱を帯びていた。部屋に持ち込んだ氷嚢の氷はとっくに溶け、生温かい水袋になってしまっている。このままでは朝まで眠れないどころか、患部の炎症がさらに広がり、明日の練習に致命的な支障をきたすのは明白だった。千夏は誰にも見つからないよう息を潜め、渡り廊下で繋がった体育館の用具室を目指した。そこにある製氷機だけが、今の彼女にとって唯一の救命具だった。
夜の体育館は、昼間の熱気と歓声が嘘のように冷え切り、広大な闇の中にバスケットゴールが墓標のように佇んでいた。窓から差し込む青白い月光が、磨き上げられたフロアの一部を切り取り、不気味なほどの静けさを演出している。千夏は暗闇に目を凝らしながら、引きずる右足を必死に庇って用具室へと滑り込んだ。鼻をつく湿布のメントール臭と、使い古されたボールの革の匂い。普段なら闘争心を掻き立てるはずのその匂いが、今夜はなぜか後ろめたい罪悪感を刺激する。千夏は手探りで製氷機のスコップを掴み、新しい氷嚢に氷を詰め込んだ。カラン、カラン、という氷の硬質な音が、静寂の中で不吉なほど大きく響き渡る。心臓が跳ねるたびに、周囲の闇が凝縮して自分を見つめているような錯覚に陥った。
「……よし、これで」
千夏は小さく安堵の息を漏らし、用具室の隅に置かれたパイプ椅子に腰を下ろした。震える手で右足の靴下を脱ぎ、赤黒く腫れ上がった足首を露わにする。携帯電話のライトで照らされたその惨状に、改めて血の気が引いた。内くるぶしの周辺がパンパンに張り詰め、皮膚が限界まで引き伸ばされて悲鳴を上げている。千夏は祈るような気持ちで、冷たい氷嚢を患部に押し当てた。
「っ……うぅ……!」
焼きつくような冷気が過敏になった神経を逆撫でし、思わず声が漏れる。痛みと冷たさが混ざり合った強烈な感覚に、奥歯をガチガチと鳴らして耐えるしかなかった。孤独だ、と思った。ライバルのエレナやチームメイトたちは今頃、明日のスタメン争いに備えて泥のように眠っているだろう。自分だけが、壊れた部品のように暗闇で震え、誰にも言えない傷の手当てをしている。このまま明日、監督に「走れません」と告げる自分を想像して、千夏は恐怖で身震いした。それは即ち、ここ数ヶ月積み上げてきた信頼の崩壊であり、実業団選手としての死を意味する。まだ何も成し遂げていないのに、終わってしまうのか。
その時だった。背後の深い闇から、微かな衣擦れの音が聞こえた気がした。
千夏は弾かれたように振り返ろうとしたが、それより早く、冷たく乾いた手が暗闇から伸びてきて、千夏の右足首を正確に鷲掴みにした。
「ひっ……!」
短い悲鳴を上げて足を引こうとするが、万力のような力で固定されてピクリとも動かない。心臓が早鐘を打ち、冷や汗が一気に噴き出す。手から滑り落ちた携帯電話のライトが床を転がり、揺れる光の影に、白衣を着た男のシルエットが亡霊のように浮かび上がった。銀縁の眼鏡が、床の光を鋭く反射して冷たく光る。
氷室透だった。
チームのヘッドトレーナーであり、その卓越した技術と徹底した冷徹な管理主義から「氷の職人」と畏怖される男。彼は千夏の驚愕など意に介さず、無言のまま膝をつき、彼女の腫れ上がった足首を無機質な瞳で見つめていた。その目は、苦しむ人間を見る目ではない。故障した精密機械の破損箇所を特定しようとする、エンジニアの冷ややかな分析眼だった。
「ひ、氷室、さん……。こ、これは、その……」
千夏は唇を震わせながら、必死で言い訳を探した。だが、氷室は千夏の言葉を遮るように、親指の腹で患部の一点を強く押し込んだ。
「あぐっ!」
激痛に千夏の上体が跳ねる。涙目で睨む千夏に対し、氷室は表情一つ変えずに淡々と言葉を紡いだ。
「前距腓靭帯のⅡ度損傷。加えて、短腓骨筋腱への過度な負荷による炎症反応。……腫脹の熱量と浮腫の具合から見て、受傷から最低でも六時間は経過しているな。隠蔽工作にしては杜撰だ」
まるで死体検案書を読み上げるような、抑揚のない声だった。氷室の指先は、氷のように冷たかった。その冷たさが、熱を持った千夏の皮膚の上を這うように滑っていく。内くるぶしからアキレス腱、そしてふくらはぎへと、指先が筋肉の繊維一本一本を確かめるように深く食い込むたびに、千夏はゾクゾクとした悪寒にも似た感覚に襲われた。それは単なる接触ではない。皮膚の下にある筋肉、血管、神経のすべてを透視され、掌握されているような、抗いがたい支配の感触だった。痛みと恐怖の中で、身体の奥底が奇妙にざわめく。
氷室は千夏の足首を掌で包み込み、ゆっくりと、しかし容赦なく回旋させた。ゴリッ、という嫌な音が用具室に響く。千夏は痛みに声を殺し、パイプ椅子の座面を爪が白くなるほど強く握りしめた。
「可動域(ROM)が死んでいる。底屈、背屈ともに著しい制限あり。関節内で軋轢音も確認できる。……おい」
氷室が初めて顔を上げ、眼鏡の奥から千夏を射抜いた。その爬虫類を思わせる瞳には、怒りも憐れみもなく、ただ底冷えするような合理性だけが宿っていた。
「お前、これで明日も走る気か?」
千夏は言葉に詰まった。「はい」と言えば素人の無謀と断じられ、「いいえ」と言えば選手失格の烙印を押される。喉が渇き、舌が上顎に張り付く。氷室の手はまだ千夏の足首を掴んだままだ。その掌から伝わる冷気が、千夏の血液を凍らせていくようだった。氷室は鼻で短く笑うと、千夏の足を無造作に放した。ドサリと足が床に落ちる衝撃さえも痛い。
「馬鹿げている。この状態でコートに立てば、十分と持たずに完全に断裂するぞ。そうなれば今シーズンは絶望、選手生命にも取り返しのつかない傷がつく。自分の身体の価値をドブに捨てる気か」
「で、でも……!」
千夏は縋るように叫んだ。理性では彼の言うことが正しいと分かっている。だが、感情がそれを認めない。認めてしまえば、すべてが終わる。
「明日、大事な紅白戦なんです……。ここでアピールしないと、開幕スタメンが……エレナに、負けたくないんです……。私には、もう時間がないんです」
最後は消え入りそうな声になった。子供のような駄々だと分かっている。プロのトレーナーである彼に、こんな感情論が通じるはずがない。氷室は立ち上がり、白衣のポケットに両手を突っ込んで千夏を見下ろした。その視線は、壊れかけた玩具を見る子供のように、どこか嗜虐的な色を帯びていた。
「藤堂エレナか。確かに、今の彼女のフィジカルコンディションは完璧だ。筋肉の質、バランス、メンタリティ、どれをとっても一級品だ。今の、お前のような欠陥品が太刀打ちできる相手じゃない」
欠陥品。その言葉が千夏のプライドを容赦なく踏み躙る。悔しさと惨めさで涙が溢れそうになった。もう終わりだ。彼はこのまま監督に報告し、私は明日からリハビリ組へ送られる。そしてエレナがコートで輝く姿を、指をくわえて見ていることしかできなくなる。千夏が絶望に目を伏せ、唇を噛み締めたその時、氷室がふと声を低くした。
「……だが」
その一言が、千夏の顔を弾かれたように上げさせた。氷室は眼鏡の位置を中指で直し、用具室の扉の方へ顎をしゃくった。
「報告すれば全治三週間の離脱。それが『通常』の診断だ。ルール通り、教科書通りの処置だ。……しかし、俺の『管理下』に入るなら、話は別だ」
「え……?」
「ついて来い。特別室で、精密な検査を行う。そこで、お前の身体が修理に値するかどうか、俺が判断してやる」
氷室は返事も待たずに踵を返し、白衣を翻して闇の中へと歩き出した。その背中は、千夏に拒否権を与えない絶対的な威圧感を放っていた。特別室。メディカルルームのさらに奥にある、一般選手は立ち入り禁止の施錠された個室。そこで何が行われるのか、千夏は噂でしか聞いたことがない。
心臓が早鐘を打っていた。行ってはいけない気がする。彼の提案に乗れば、引き返せない一線を越えてしまう予感があった。だが、ズキズキと疼く足首の熱が、千夏の理性を焼き尽くしていく。「三週間の離脱」という絶望と、「修理に値するか」という僅かな希望。天秤にかけるまでもなく、千夏の身体は答えを選んでいた。
千夏は靴下も履かずにバッシュを突っ掛け、足を引きずりながら氷室の後を追った。深夜の廊下を進む二人の足音だけが、不気味なほど規則的に響いている。それはまるで、悪魔との契約に向かう処刑台への行進曲のようだった。氷室が開けた扉の向こう、メディカルルームの深淵なる暗がりが、大きな口を開けて千夏を待ち受けている。彼女はその闇の中へ、自ら足を踏み入れた。
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### 第3話:トリアージ(選別)
氷室の背中を追って足を踏み入れた「特別室」は、千夏が想像していた無機質な処置室とは異質だった。重厚な防音扉が背後で閉ざされると、ドスッという重い音が鼓膜を圧迫し、廊下を支配していた冷たい静寂が完全に遮断された。代わりに千夏を包み込んだのは、微かなアロマの香りと、まとわりつくような湿度を含んだ暖気だった。照明は落とされ、間接照明が壁面の解剖図や骨格標本を不気味に浮かび上がらせている。部屋の中央には、黒革張りの幅広な施術台が鎮座し、その横には最新鋭の超音波診断装置や、用途の知れない銀色の器具が並ぶワゴンが置かれていた。そこは病院というよりも、ある種の宗教的な儀式を行う祭壇のようにも見えた。外界の喧騒も、時間の流れさえも切り離された、二人だけの密室。千夏は本能的な警戒心を抱き、ドアノブに手を伸ばしかけたが、電子ロックが作動する乾いた電子音が、その退路を無情に断ち切った。
「座れ」
氷室は白衣を脱いでハンガーに掛けると、自身も黒いスクラブ姿になり、顎で施術台を指した。その動作には一切の無駄がなく、拒絶を許さない絶対的な響きがあった。千夏は生唾を飲み込み、強張る身体を引きずって革のベッドに腰を下ろした。ひんやりとした感触を想像していたが、予想に反してシートは人肌のように温められており、緊張で冷え切った太ももの裏に奇妙な安堵感を与えた。氷室はキャスター付きのスツールを引き寄せ、千夏の目の前に座ると、無言で右足を自分の膝の上に乗せた。
「……これから超音波で内部の状態を確認する。動くな」
氷室の手が冷たいジェルを患部に塗りたくる。プローブが皮膚の上を滑るたびに、モニターに白黒の断層画像が映し出された。千夏にはその画像の何が異常なのか分からない。だが、画面を見つめる氷室の瞳が、獲物の急所を見定めた猛禽類のように鋭く細められたのを見て、心臓が凍りつくような錯覚を覚えた。沈黙が続く。秒針の音が聞こえないこの部屋では、自分の心音だけがやけに大きく響く。数分とも数時間ともつかない沈黙の後、氷室はプローブを置き、ペーパータオルで千夏の足についたジェルを乱暴に拭き取った。
「結論を言う」
氷室は千夏の目を真っ直ぐに見据えた。眼鏡の奥の瞳は、感情の色を一切排除したガラス玉のようだった。
「前距腓靭帯の部分断裂。加えて、周囲の筋膜に重度の癒着が見られる。……通常の整形外科なら、ギプス固定で三週間。その後リハビリに一ヶ月だ。今シーズンの復帰は絶望的だな」
分かっていたことだった。けれど、言葉にして突きつけられると、その重みは千夏の精神を粉々に粉砕した。三週間。それは、新人である千夏にとって永遠にも等しい時間だ。その間にエレナはスタメンの座を確固たるものにし、チームは新しいシステムを完成させるだろう。戻ってきた頃には、千夏の席などどこにもない。視界が急速に滲み、膝の上で握りしめた拳が震えた。
「そんな……。嘘ですよね? テーピングすれば、痛み止めを打てば、走れるって……」
「走れば、切れる。確実にだ」
氷室は冷酷に断言した。
「痛覚というのは、身体が発する『止まれ』という警告信号だ。お前がやろうとしていることは、火災報知機のスイッチを切って火事の中に飛び込むのと同じだ。勇気じゃない。ただの自殺行為だ」
千夏は言葉を失い、うなだれた。涙がポタポタと黒い革シートに落ちて染みを作る。終わりだ。私のバスケ人生は、こんなあっけない形で幕を閉じるのか。高校時代の栄光も、実業団入りが決まった時の歓喜も、すべてが幻のように消えていく。
嗚咽を漏らす千夏を、氷室は静かに見下ろしていた。その表情に憐れみはない。あるのは、実験の結果を待つ科学者のような、冷徹な観察眼だけだった。彼はゆっくりと立ち上がり、壁際の棚から一冊の黒いファイルを取り出した。
「……だが、それはあくまで『通常』の話だ」
氷室の声色が、ふと変わった。千夏が顔を上げると、彼はファイルを手に持ち、悪魔的な笑みを口の端に浮かべていた。
「俺の専門は『スポーツ医学』じゃない。『コンディショニング(調整)』だ。壊れた部品を直すのではなく、壊れたままでも機能するように再構築する。……あるいは、壊れる寸前の限界値を引き出す」
「え……?」
「選択肢をやろう、小山内千夏。一つは、このまま監督に報告し、健全に療養する道。選手生命は守られるが、今期のスタメンは消える」
氷室は一歩、千夏に近づいた。その圧迫感に、千夏は身を引こうとするが、背後は壁だった。
「もう一つは、俺と『契約』を結ぶ道だ。俺の独自の理論に基づく特別施術を受ける。医学的なエビデンスギリギリの、かなり強引な手技になる。痛みも伴うだろう。だが……」
氷室は顔を寄せ、千夏の耳元で甘く、低く囁いた。その吐息が耳の産毛を揺らし、背筋にゾクゾクとした電流を走らせる。
「三日で走らせてやる。痛みも消してやる。開幕戦のコートに、万全の状態で立たせてやる」
三日。その言葉は、溺れかけた千夏に垂らされた蜘蛛の糸だった。常識ではあり得ない。魔法のような話だ。しかし、この男の自信に満ちた瞳を見ていると、それが不可能なことだとは思えなくなってくる。目の前にいるのは狂気の科学者かもしれないが、同時に「神の手」を持つ天才でもあるのだ。
「……本当に、走れるんですか?」
「俺を誰だと思っている。俺が触って治せない筋肉など存在しない」
傲慢なまでの自信。だが、今の千夏にはその傲慢さが頼もしく、眩しく見えた。エレナの背中が脳裏をよぎる。あの輝く太陽に追いつくためなら、どんな代償でも支払える気がした。千夏は震える声で尋ねた。
「け、契約って……何をすればいいんですか?」
「単純なことだ。俺の指示に絶対服従すること」
氷室は指を三本立てた。
「一、俺が指定した時間に必ずここへ来ること。たとえ深夜だろうと早朝だろうと関係ない。
二、施術の内容、およびこの部屋で見聞きしたことは、一切他言無用。
三、施術中は、どんなに痛くても、どんなに恥ずかしくても、俺の手を拒絶しないこと」
三つ目の条件に、千夏は微かな違和感を覚えた。恥ずかしい? 治療なのに? だが、今の彼女にその違和感を追求する余裕はなかった。藁にもすがる思いだったのだ。千夏は涙を拭い、真っ直ぐに氷室を見上げた。その瞳には、すでに狂気への同調を示す危うい光が宿っていた。
「……お願いします。走れるなら、なんでもします。私を、コートに立たせてください」
氷室は満足げに頷くと、ワゴンの上のカルテを手に取り、ボールペンを走らせた。サラサラという筆記音が、静寂な部屋に吸い込まれていく。彼は千夏の名前に続けて、備考欄に赤字で何かを書き込み、パタンとファイルを閉じた。
「交渉成立だ。……いいか、これは『共犯』だぞ。お前が俺を裏切れば、俺もお前を壊す。その覚悟を持て」
氷室の言葉は脅しには聞こえなかった。むしろ、二人だけの秘密を共有する甘美な約束のように響いた。千夏はこくりと頷いた。
氷室は再びスツールに座り、千夏の右足を両手で包み込んだ。先ほどまでの検査のような無機質な触り方ではない。指先からじわりと熱が伝わり、千夏の皮膚と筋肉を侵食していくような、粘着質な感触だった。
「では、始めようか。最初のセッションだ。……今日は、たっぷりと啼かせてやるから覚悟しろ」
「え……?」
千夏が聞き返す間もなく、氷室の親指が、患部ではなくふくらはぎの深層筋肉に深く、鋭く突き刺さった。
「ぎ、ああっ——!?」
千夏の悲鳴が特別室に響き渡る。だが、その声が分厚い扉の外に漏れることはない。これは治療だ。そう自分に言い聞かせる千夏の理性とは裏腹に、氷室の指先は正確に、執拗に、彼女の肉体の奥底にあるスイッチを探り当てていた。密室の鍵は閉ざされた。ここから先は、痛みと快楽が未分化のまま混ざり合う、背徳の時間の始まりだった。
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### 第4話:激痛と緩和
特別室の空気が、さらに湿度を増したように感じられた。千夏は黒革の施術台の上でうつ伏せになり、顔を埋めたタオルの隙間から、自分の乱れた呼吸音だけを聞いていた。視界は遮断され、身体の自由は奪われている。唯一の接点は、右足首を掴む氷室の手の感触だけだ。先ほどまでの検査の時とは明らかに違う。彼の指先は、獲物の急所を探る捕食者のように、千夏のふくらはぎの肉をゆっくりと、しかし確実に蹂躙し始めていた。
「力を抜け。筋肉が強張っていると、指が入らない」
頭上から降ってくる氷室の声は、冷徹な命令だった。千夏は言われた通りに脱力を試みるが、これから何がされるのかという恐怖で、身体の芯が勝手に震えてしまう。その震えを嘲笑うかのように、氷室の親指がアキレス腱の付け根、ヒラメ筋と骨の隙間に滑り込んだ。
ヌルリ、というオイルの感触と共に、あり得ない強さの圧力が一点に集中する。
「あぐっ……!」
千夏は悲鳴を飲み込み、タオルを噛んだ。痛い。マッサージという生易しいものではない。まるで先の尖った鉄の棒をねじ込まれているような感覚だ。だが、氷室は千夏の反応など意に介さず、さらに指を深部へと沈めていく。
「癒着が酷いな。筋膜が骨に張り付いて、動きを阻害している。まずはこれを剥がす」
剥がす。その言葉の響きに戦慄する間もなく、氷室の手首が返された。
ブチブチブチッ、と体内で何かが引きちぎられるような音が響いた気がした。
「ぎぃ、あああああっ!」
今度は声にならなかった。喉の奥から空気が搾り取られ、涙がどっと溢れ出す。痛い、痛い、痛い。焼けるような激痛が神経を逆流し、脳髄を白く焼き尽くす。千夏は無意識に逃げようと足をバタつかせたが、氷室の左手が万力のように足首を固定し、ピクリとも動かせない。
「暴れるな。ずれる」
氷室の声には、嗜虐的な響きすら混じっていた。彼は千夏が苦痛に悶える様子を、まるで極上の音楽でも聴くかのように楽しんでいる気配がある。右手の親指は、容赦なく筋肉の深層をえぐり、骨から筋膜を強引に引き剥がしていく。そのたびに、千夏の身体は魚のように跳ね、脂汗が革のシートを濡らした。
「や、やめて……壊れちゃう……っ!」
「壊しているんじゃない。直しているんだ。お前の使い方が荒いせいで、組織が固まって腐りかけている。俺が手を入れてやらなけば、この足は一生動かないままだ」
正論の暴力。反論する余地も与えられないまま、氷室の指はふくらはぎの中央、腓腹筋の谷間へと移動した。そこは「トリガーポイント」と呼ばれる、痛みの発信源だ。氷室はそこを正確に捉え、全体重を乗せて圧迫した。
「ひっ、ぐぅ……!」
息が止まる。視界が明滅し、意識が飛びそうになる。千夏は必死でシーツを握りしめ、爪が食い込む痛みで意識を繋ぎ止めた。これは治療だ。これは治療だ。心の中で呪文のように繰り返すが、生理的な拒絶反応が止まらない。吐き気がするほどの激痛。だが、氷室は決して力を緩めない。むしろ、千夏が抵抗すればするほど、その圧力は執拗さを増していく。
「抵抗するな。俺に委ねろ。お前の身体の主導権を、俺に渡せ」
耳元で囁かれる悪魔の誘惑。痛みで朦朧とする千夏の頭に、その言葉が直接染み込んでくる。もう無理だ。耐えられない。逃げたい。でも、逃げられない。
極限の緊張状態が続いた、その時だった。
「……息を吐け」
氷室が短く命じた。
千夏は反射的に、肺に残った空気をすべて絞り出すように長く息を吐いた。身体の力がふっと抜ける。その瞬間、氷室が親指を一気にスライドさせ、凝り固まっていた筋肉の束を弾いた。
パチン、と体内で何かが弾ける感覚。
直後、千夏を襲ったのは、激痛ではなかった。
「あ……っ、ぁ……」
声にならない吐息が、勝手に口から漏れた。
堰を切ったように、熱い血液が血管を駆け巡る感覚。今まで詰まっていた泥が取り除かれ、清流が一気に流れ込んでくるような、爆発的な解放感。
痛みが嘘のように消え去り、代わりにじわじわとした痺れにも似た甘い感覚が、足先から腰へと這い上がってくる。それは痛みへの反動が生み出す脳内麻薬であり、強制的なリラックス状態だった。
千夏はガクガクと震えながら、泥のように脱力した。指一本動かせない。涙と汗と涎で顔はぐちゃぐちゃだが、不思議と不快感はなかった。ただ、圧倒的な力の前に屈服し、許されたという安堵感だけが胸を満たしていた。
「……いい反応だ」
氷室が満足げに呟き、オイルで濡れた手で千夏のアキレス腱を優しく撫で上げた。先ほどまでの凶器のような指先が、今は嘘のように優しく、慈愛に満ちている。その温度差に、千夏はわけもなく泣きたくなった。
「癒着は剥がした。これで血流が戻る。痛み物質も流れていくはずだ」
氷室はペーパータオルで千夏の足を丁寧に拭き取ると、立ち上がって千夏の顔を覗き込んだ。眼鏡の奥の瞳は、やはり冷ややかだったが、そこには「所有物」を確認するような暗い光が宿っていた。
「立てるか?」
千夏はおぼつかない動作で上体を起こし、恐る恐る施術台から降りて右足に体重を乗せた。
——痛くない。
あれほどズキズキと脈打っていた激痛が、嘘のように消えていた。それどころか、怪我をする前よりも足が軽く感じる。まるで自分の足ではない、高性能なバネを埋め込まれたようだ。
「……すごい」
千夏は呆然と呟いた。自分の足を見下ろし、何度も足首を回してみる。可動域が広がっている。引っ掛かりがない。本当に魔法だ。
「言ったはずだ。俺なら治せると」
氷室はタオルをワゴンに投げ捨て、流し目で千夏を見た。
「だが、これは一時的な処置だ。筋膜を剥がした分、明日は筋肉痛のようなダルさが来る。それを乗り越えて初めて、お前の筋肉は生まれ変わる」
千夏は氷室を見上げた。恐怖はまだある。あの激痛の記憶は、身体の奥底にトラウマのように刻み込まれている。けれど、それ以上に「結果」を出した彼への畏敬の念と、自分の身体が彼の手によって変えられていくことへの背徳的な高揚感が勝っていた。
悪魔との契約。その代償として支払った痛みは、想像を絶するものだった。だが、その先にある甘い果実の味を、千夏は知ってしまったのだ。
「……ありがとうございます、氷室先生」
千夏は深く頭を下げた。その姿は、患者というよりも、絶対的な支配者に傅く従順な下僕のようだった。
氷室は薄く笑った。それは、手塩にかけた作品の第一段階が成功したことを確信する、職人の笑みだった。
「礼には及ばない。これは契約だ。……明日の朝、またここへ来い。次は腰を見せてもらう」
腰。その言葉に千夏はビクリと身体を震わせたが、もはや拒絶の言葉は出てこなかった。
特別室の扉が開かれ、千夏は再び冷たい廊下へと放り出された。だが、彼女の中に灯った熱は、もう消えることはない。足取りは軽く、しかしその魂には、消えない鎖が確実に巻き付いていた。
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第5話:魔法の代償
翌朝、目覚めた瞬間の感覚は、かつて経験したことがないほど奇妙で、異質なものだった。スマートフォンのアラームが鳴る数分前に意識がふわりと浮上し、重い瞼を開ける。カーテンの隙間から差し込む朝日が、埃の舞う室内を白く切り取っていた。千夏はベッドの中で、恐る恐る右足首を動かしてみた。昨夜の特別室での記憶、脳髄を焼くような激痛と、その後に訪れた爆発的な解放感が鮮烈に蘇り、反射的に身体が強張る。だが、予想していた鋭い痛みは訪れなかった。代わりに感じたのは、ふくらはぎ全体を覆う重く鈍い倦怠感だけだ。まるで鉛の板でも埋め込まれたようにダルいが、それは不快な痛みではなく、激しいトレーニング後の心地よい疲労感に似ていた。これが氷室の言っていた「好転反応」なのだろうか。千夏は期待と不安をない交ぜにしながら、ベッドから降りてフローリングの床に足をつけた。体重を乗せる。膝を曲げる。そして、ゆっくりとつま先立ちをする。
――痛くない。
昨日まであれほど悲鳴を上げ、一歩歩くたびに脂汗が滲むほどだった靭帯が、嘘のように沈黙を守っている。それどころか、足裏が床を捉える感覚が、怪我をする前よりも遥かに鮮明になっている気がした。足首の可動域が広がり、地面に吸い付くように安定している。千夏は洗面所の鏡に映る自分を見た。寝不足で顔色は少し青白いが、瞳の奥には今までになかった種類の熱が宿っている。それは希望というよりも、禁断の果実を口にしてしまった共犯者の、危うい光を帯びた目つきだった。
午前九時。体育館には再び、バッシュのスキール音とボールが弾む重低音が充満していた。開幕戦に向けた最終調整となる、実戦形式のスクリメージ。千夏は控え組の赤いビブスを身につけ、スモールフォワードとしてコートに立っていた。対面には、レギュラー組の白いビブスを着たエレナがいる。彼女は今日も完璧なコンディションで、鍛え上げられた肉体から威圧的なプレッシャーを放っていた。ポイントガードからパスが回ってくる。千夏がボールを受けた瞬間、エレナが鋭く間合いを詰めてきた。速い。昨日までなら、この圧倒的な圧迫感だけで萎縮し、安易なパスを選択して逃げていただろう。だが、今の千夏は違った。ボールを持つ指先から、不思議なほど冷静な情報が脳内に流れ込んでくる。エレナの重心が、わずかに左足に乗っている。右が空く。思考よりも早く、千夏の身体が反応した。
「……!」
千夏は右足で強くフロアを蹴った。昨夜、氷室の指によって強引に剥がされた筋膜が、今は新品のゴムのようにしなやかに伸縮し、爆発的な推進力を生み出す。鋭いクロスオーバードリブルで右へ行くと見せかけ、瞬時に左へ切り返す。足首が悲鳴を上げるどころか、滑らかに回転して千夏の急激な重心移動を完璧に支えた。視界がスローモーションのように引き延ばされる。エレナの反応が遅れるのが見えた。その一瞬の隙を突き、千夏は風のように彼女の横をすり抜けた。
抜いた。あのエレナを。
驚愕に目を見開くエレナの顔が、後方へと流れていく。千夏はそのままペイントエリアへ侵入し、カバーに来たセンターをゼロステップのユーロステップでかわしてレイアップシュートを放った。指先から放たれたボールは美しい放物線を描き、吸い込まれるようにネットを揺らした。
「ナイスプレー、千夏! 今のキレキレじゃん!」
チームメイトの驚きを含んだ歓声が飛ぶ。腕組みをしてコートサイドに立っていた監督も、驚いたように眉を上げていた。千夏は自分の両手を見つめた。心臓が高鳴っている。息は上がっているが、苦しくはない。むしろ、もっと走れる、もっと跳べるという万能感が全身を駆け巡っていた。これが、あの施術の効果なのか。たった一度、あの密室で激痛に耐え、身を委ねただけで、これほどまでに世界が変わるのか。背後から突き刺さるような視線を感じて振り返ると、エレナが悔しそうに唇を噛み締め、こちらを睨んでいた。その視線を受け止めた時、千夏の胸の奥底で、暗く甘い優越感が鎌首をもたげた。私は手に入れたのだ。彼女に対抗するための、いや、彼女を超えるための「武器」を。たとえそれが、悪魔から借りたものであったとしても、結果が出るなら構わない。
その後の練習は、千夏の独壇場だった。今まで一歩届かなかったルーズボールに手が届き、フィジカルの競り合いでも当たり負けしない。身体のキレが増すにつれ、周囲の評価が目に見えて変わっていくのが分かった。「怪我をしているのではないか」という疑念の目は消え、「ルーキーが覚醒した」という称賛の眼差しへと変わっていく。
だが、その魔法の代償は、練習が終わった直後に訪れた。
ロッカールームに戻り、高揚した気分のままスマートフォンを確認した千夏は、画面に表示された通知を見て息を飲んだ。送信者は『氷室透』。件名はない。
『お疲れ様。動きは悪くなかったが、着地の瞬間に右膝が内側に入る癖が出ている。前十字靭帯への負荷が高い。修正しろ』
心臓が跳ね上がった。彼は見ていたのだ。どこかから、千夏のすべての動きを監視していたのだ。体育館のどこかにいたのだろうか、それとも映像で確認したのだろうか。どちらにせよ、自分の行動が筒抜けであるという事実に、背筋に冷たいものが走る。続けて、二通目のメールが届いた。そこには画像が添付されていた。
『今日の昼食メニューを指定する。
・鶏胸肉のグリル(皮なし、塩のみ)200g
・ブロッコリーとアスパラガスの温野菜
・玄米 100g
・オレンジジュースは禁止。水か麦茶のみ。
以上を摂取し、証拠の写真を送れ。完食するまで食堂を出ることは許可しない』
千夏は呆然と画面を見つめた。これはアドバイスではない。明確な命令だ。拒否権など最初から存在しない。
食堂に行くと、チームメイトたちは唐揚げやパスタなど、好きなものを皿に盛って談笑していた。練習後の解放感が漂う中、美佳が「千夏、こっちで一緒に食べようよ! 今日のハンバーグ、肉汁すごくて美味しいよ」と手招きしている。ハンバーグ。デミグラスソースの濃厚な香りが鼻腔をくすぐり、空腹の胃袋を強烈に刺激する。食べたい。激しい練習で消耗した身体が、脂質と糖質を求めている。だが、千夏はその誘惑を断ち切るように首を振り、無表情で指定されたメニューだけをトレイに乗せた。
「ごめん、今日はちょっと……食事制限してるから」
美佳の不思議そうな顔を避けるように、千夏は一人離れた席に座った。パサパサの鶏肉を機械的に口に運ぶ。味気ない。まるでブロイラーの餌だ。スマホで写真を撮り、送信ボタンを押す。数秒後、既読がつく。返信はない。ただ「確認した」という無言の圧力が伝わってくるだけだ。千夏は周囲の賑やかな話し声から切り離され、見えない檻の中に閉じ込められたような孤独を感じた。自分の身体なのに、自分のものではない。胃袋の中身まで、あの男に管理されている。その事実に生理的な反発を覚える一方で、千夏は心のどこかで奇妙な安堵感も抱いていた。
これを食べていれば、強くなれる。彼の言う通りにしていれば、また今日のような素晴らしいプレーができる。思考停止の甘い誘惑。自分で考えなくていい。責任を持たなくていい。ただ従えば、結果が出る。それは過酷な競争とプレッシャーに晒されるアスリートにとって、ある種の救済でもあった。
午後のウェイトトレーニングを終え、寮の自室に戻ったのは夜の九時過ぎだった。肉体的な疲労で身体が鉛のように重い。ベッドに倒れ込みたい衝動に駆られるが、またしてもスマホが短く震えた。まるで千夏の行動を見透かしているかのようなタイミングだった。
『22:00には消灯し、就寝すること。睡眠導入の妨げになるため、これ以降のスマホ操作および入浴は禁止する。明日は06:00に特別室へ来い。腰の調整を行う』
千夏は壁の時計を見た。あと三十分しかない。慌ててシャワーを浴び、髪を乾かす間もなくベッドに潜り込む。友人からのLINEも、SNSのチェックも許されない。暗闇の中で目を閉じると、昨日の施術の感覚が生々しく蘇ってきた。ふくらはぎを蹂躙する冷たい指。骨の隙間に侵入してくる異物感。そして、痛みが快感に変わる瞬間の、あの頭が真っ白になるような陶酔。
明日は、腰だと言った。
あんな激痛を、身体の中心に近い腰や臀部に与えられたら、私はどうなってしまうのだろう。恐怖で身体が震える。だが、その震えの中心には、期待に似た熱い疼きがあった。千夏は枕を抱きしめ、自分を支配する男の爬虫類のような冷たい瞳を思い浮かべながら、泥のような眠りへと落ちていった。彼女の日常は、もう彼女だけのものではなくなっていた。
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### 第6話:深夜の呼び出し
廊下の窓の外はまだ漆黒の闇に包まれていた。午前五時五十分。選手寮の空気は冷たく澱み、早朝というよりも深夜の延長線上にある静寂が支配している。千夏は誰にも見つからないように足音を殺し、渡り廊下を抜けて体育館のメディカルルームへと急いだ。昨夜のメールの指示通り、シャワーも浴びず、指定されたジャージ姿での訪問だ。睡眠時間は短かったはずなのに、脳は奇妙に冴え渡り、これから始まる「治療」への恐怖と期待で指先が微かに震えていた。
特別室の防音扉の前に立つと、中から微かなクラシック音楽が漏れ聞こえてくる。千夏は深呼吸をして、震える手でドアノブを回した。
カチャリ、と鍵が開く音がして、濃厚なアロマの香りと暖気が千夏を包み込んだ。部屋の中は間接照明によって薄暗く演出されており、その中央で、氷室透が電子カルテのモニターを眺めていた。彼は千夏が入室しても視線を動かさず、ただ顎で施術台を指し示した。
「時間通りだ。……脱げ」
挨拶も前置きもない、冷徹な命令。千夏は生唾を飲み込み、ジャージのズボンに手をかけた。昨日の施術は足首からふくらはぎだったため、ハーフパンツをまくり上げるだけで済んだ。だが、今日の部位は「腰」だと言われている。どこまで脱げばいいのか。躊躇う千夏を見透かしたように、氷室が眼鏡の奥から冷ややかな視線を投げた。
「何を突っ立っている。腰と臀部の筋肉を見るんだ。邪魔な布は排除しろ。下着になれ」
下着。その言葉に千夏の顔がカッと熱くなった。医療行為だと分かっていても、若い女性にとって、異性の前で下着姿になることのハードルは高い。だが、ここには「拒否権」など存在しないのだ。千夏は唇を噛み締め、震える手でジャージを下ろした。冷たい空気に晒された肌が粟立つ。千夏は逃げるように施術台に上がり、うつ伏せになって顔をタオルに埋めた。視界が遮断されることで、背後で動く氷室の気配がより鮮明に感じられる。衣擦れの音。ワゴンの上で器具が触れ合う金属音。そして、彼が近づいてくる足音。
「昨日の動きを見たが、右足を庇うあまり、骨盤の左側が落ちている。その代償動作をすべて臀部の筋肉で受け止めている状態だ。このまま放置すれば、足首が治る前に腰椎がイカれる」
氷室の声がすぐ耳元で響いた。論理的な説明。それは千夏の羞恥心を封じ込めるための、完璧な正論だった。
直後、温かいタオルが千夏の腰にかけられ、ショーツのラインギリギリまで下げられた。露出した臀部に、ひんやりとしたオイルが垂らされる。
「っ……!」
冷たさにビクリと身体を跳ねさせると、すぐに大きく温かい手がそれを覆い、全体に塗り広げ始めた。ヌルヌルとしたオイルの感触と、氷室の手のひらの熱。それは愛撫のように優しく、しかし同時に、肉の厚みや骨の形を詳細に探るような、不気味な観察眼を感じさせるタッチだった。
「……硬いな。鉄板でも入っているのかと思ったぞ」
氷室が呆れたように呟き、両手の親指を仙骨の横、大臀筋の起始部に食い込ませた。
ズン、と重い痛みが腰の奥に響く。
「う、くぅ……っ」
千夏は枕を掴んで耐えた。昨日のふくらはぎのような鋭利な痛みではない。もっと鈍く、重く、身体の芯まで響くような圧迫感だ。氷室は体重を乗せ、親指をゆっくりと回旋させながら、凝り固まった筋肉の繊維を押し広げていく。
「大臀筋、中臀筋ともに過緊張を起こしている。お前は無意識に尻の筋肉を締め続けているんだ。これでは股関節がロックされ、スムーズな重心移動などできるはずがない」
氷室の手が、臀部の中央、最も肉付きの良い部分を鷲掴みにした。ムギュッ、と肉が指の間からはみ出す音が聞こえるようで、千夏は顔から火が出るほどの恥ずかしさに襲われた。お尻を揉まれている。文字通り、揉みしだかれている。これはマッサージなのだろうか。それとも、ただのセクハラなのだろうか。混乱する千夏の思考を断ち切るように、氷室の指がさらに深く、際どい場所へと侵入した。
「力むな。指が入っていかない」
氷室が千夏の臀部をピシャリと叩いた。乾いた音が室内に響く。
「ああっ!」
「変な声を出すな。治療だと言っているだろう。……お前の尻は、今は単なる『駆動装置』に過ぎない。俺にとっては肉の塊だ。自意識過剰になるな」
屈辱的な言葉攻め。だが、不思議なことに、その言葉は千夏の羞恥心を逆撫ですると同時に、奇妙な安心感も与えていた。「これは治療だ」「私はただの肉だ」と思い込むことで、許されない行為を受け入れている自分を正当化できるからだ。千夏は荒い息を吐きながら、必死に脱力を試みた。
筋肉の緊張が緩んだ一瞬の隙を逃さず、氷室の肘が梨状筋と呼ばれる深層筋肉に突き刺さった。
「ぎぃっ……!?」
声にならない悲鳴。坐骨神経に触れるような痺れる痛みが、お尻から太ももの裏へと稲妻のように駆け抜ける。
「そこだ。ここが詰まっているから、足への血流が悪くなる」
氷室は容赦なく肘でグリグリと患部を抉った。痛い。けれど、その奥にある「芯」を捉えられた瞬間、千夏の口から漏れたのは苦痛の声ではなく、甘く掠れた吐息だった。
「ぁ……っ、んぅ……」
強烈な「痛気持ちよさ」が、脳内麻薬となって炸裂する。凝り固まった岩盤が砕かれ、そこから熱い温泉が湧き出すような感覚。痛みが快感に反転するスイッチを、氷室は正確に把握していた。
彼は千夏の反応を見て取り、さらに執拗に、リズムを変えて圧迫を繰り返した。時には強く、時には優しく撫でるように。その手技は、まるで楽器を奏でるかのように千夏の肉体を翻弄する。
千夏はもう、自分が何を感じているのか分からなくなっていた。痛みなのか、快楽なのか。ただ分かるのは、氷室の手が離れるのが怖いということだけだ。もっと、もっと深く触ってほしい。奥底にある澱んだものを、すべて絞り出してほしい。そんなおぞましい欲求が、理性の底から湧き上がってくる。
「……いい声で鳴くようになったな」
氷室が耳元で囁いた。その声は低く、粘り気のある情欲を含んでいるようにも聞こえたが、千夏にはもう判断がつかなかった。
気がつけば、施術台のシーツは千夏の汗と涎で濡れていた。氷室の手が離れ、施術の終了を告げる。千夏は抜け殻のようにぐったりと横たわったまま、荒い呼吸を繰り返していた。腰から下が溶けてなくなったように軽い。血流が爆発的に巡り、身体中が熱くてたまらない。
「立て。水を飲め」
氷室がペットボトルを差し出した。千夏はふらつく足取りで立ち上がり、それを受け取った。ジャージを履く動作すらもどかしいほど、股関節が滑らかに動く。
――軽い。
昨日よりもさらに、身体の性能が向上しているのが分かる。腰の位置が高くなり、背筋が自然と伸びる。これなら、昨日のプレー以上のことができる。
「ありがとうございます……」
千夏は潤んだ瞳で氷室を見上げた。そこにあったのは、もはや恐怖や警戒心ではない。絶対的な服従と、盲目的な信頼だった。
氷室は満足げに口角を上げ、千夏の濡れた前髪を指で払った。
「明日は、さらに深いところをやる。……股関節の前面、鼠径部のリンパを流す。今日以上に際どい場所だ。覚悟しておけ」
鼠径部。脚の付け根。そこは女性にとって「不可侵領域」とも呼べる聖域だ。だが、千夏はその言葉に戦慄するどころか、下腹部が甘く疼くのを感じていた。
はい、と小さく頷く。
東の空が白み始め、朝の光が窓の外に差し込んできたが、千夏の心はまだ、あの薄暗い密室の中に囚われたままだった。彼女はもう、戻れないところまで堕ちていた。
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第7話:不可侵領域(鼠径部)
その日の朝、千夏は特別室の重厚な防音扉の前で、石像のように立ち尽くしていた。廊下の冷気とは裏腹に、握りしめたドアノブの手のひらはじっとりと汗ばんでいる。昨日の去り際、氷室が告げた予告。「鼠径部のリンパを流す」。その言葉が、一晩中、千夏の脳内を反響し続けていた。脚の付け根。下半身と胴体を繋ぐ結節点であり、太い血管や神経、リンパ節が集中する急所であると同時に、女性にとっては最も無防備で、他人に触れられることなど想像もできない聖域だ。本能的な拒絶反応と、昨日の施術後に感じたあの圧倒的な身体の軽さをもう一度味わいたいという渇望が、千夏の中で激しくせめぎ合っていた。逃げ出したい。けれど、逃げれば「三日で走る」という夢は潰える。千夏は大きく深呼吸をし、肺の中の空気をすべて入れ替えるような気持ちで、意を決してドアノブを回した。
カチャリ、と鍵が開く音が静寂を破り、昨日と同じ、薄暗く湿度のある空間が千夏を迎え入れた。アロマの香りが鼻腔をくすぐる。氷室は既に準備を整えており、ワゴンには数種類のオイルボトルと、真っ白なタオル、そして今日は見慣れないタブレット端末が置かれていた。彼は千夏が入室しても視線を上げず、手元のカルテに何かを書き込んでいたが、千夏が扉を閉めた音を確認すると、ようやく顔を上げた。
「時間通りだ。……顔色が悪いな。覚悟が決まらないか?」
氷室の声には、千夏の葛藤などお見通しだと言わんばかりの冷ややかな響きがあった。千夏は小さく「すみません」と呟き、ジャージのファスナーに手をかけようとしたが、氷室がそれを手で制した。
「待て。着替える前に、説明と確認を行う」
氷室はスツールを引き寄せ、千夏に座るよう促した。そしてワゴンの上のタブレットを起動し、複雑な人体解剖図を表示させて千夏の目の前に突きつけた。画面には、骨盤から大腿部にかけての筋肉と血管の走行図が鮮明に描かれており、特に股関節周辺のエリアが赤くハイライトされていた。
「今日アプローチするのは、このエリアだ。長内転筋、恥骨筋、そして大腿動脈と静脈が通るスカルパ三角(大腿三角)。見ての通り、非常にデリケートな場所だ」
氷室は電子ペンで画面上の筋肉をなぞりながら、淡々と説明を続けた。
「ここは下半身の血流とリンパのターミナル駅だ。ここが詰まれば、いくら足首やふくらはぎを治しても、老廃物が逆流してすぐにまた浮腫む。根本的な改善には、このゲートを開く必要がある。……だが」
氷室は一度言葉を切り、眼鏡の奥から千夏を射抜くように見つめた。その視線は、医師が手術のリスクを告知する時のような、厳粛で冷徹なものだった。
「場所が場所だ。施術者の手が、性的な誤解を招きかねない部位に深く触れることになる。俺は治療として行うが、受け手がそれを拒絶したり、不快感を抱いたままでは筋肉が防御反応を起こし、指が入らないどころか逆効果になる」
氷室はタブレットを置き、千夏の目を真っ直ぐに見据えた。
「だから確認する。小山内千夏。お前は、この部位への施術が必要であることを理解し、俺が触れることに同意するか? もし少しでも迷いがあるなら、今すぐ帰れ。中途半端な覚悟で俺の時間を奪うな」
突きつけられたのは、あまりにも合理的な「踏み絵」だった。医学的な必要性を説かれ、その上で「嫌なら帰れ」と言われれば、千夏に「嫌です」と言う選択肢など残されていない。それは治療の放棄であり、スタメンへの道を自ら閉ざすことを意味するからだ。千夏は膝の上で拳を握りしめた。恥ずかしい。怖い。でも、走りたい。エレナに勝ちたい。その執念が、羞恥心をねじ伏せる。
「……理解、しました。お願いします。私の股関節を、治してください」
絞り出すような声だった。だが、それは明確な同意の言葉だった。氷室は満足げに頷くと、カルテの同意欄にチェックを入れ、千夏に署名を求めた。紙の上を走るペンの音が、千夏自身の退路を断つ音のように響いた。
「よし。契約更新だ。……では、脱げ。今日は下着姿で、仰臥位(仰向け)になれ」
千夏は震える手でジャージを脱ぎ捨てた。三日目ともなると、この異常な空間での作法が身体に染みつき始めている。躊躇いなくハーフパンツを下ろし、スポーティなショーツ一枚になって施術台に仰向けになる。天井のダウンライトが眩しい。まるでまな板の上の鯉になった気分だ。
「両膝を立てて、外に開け。足裏を合わせるカエル足のポーズだ」
氷室の指示に、千夏は息を飲んだ。それは、産婦人科の検診台に乗るような、あまりにも無防備で、股間のすべてを晒け出す屈辱的な体勢だったからだ。千夏は顔を真っ赤にして躊躇ったが、先ほどの「同意」が呪いのように身体を縛り付けた。自分で許可したのだ。今さら拒むことはできない。千夏は意を決して、ゆっくりと膝を割り、股関節を露わにした。冷たい空気が太ももの内側の柔らかな皮膚を撫でる。腕で顔を覆い、世界から逃げ出したい衝動を必死に堪える。
氷室の手が、たっぷりとオイルを含ませて千夏の太ももに触れた。
「ひっ……!」
冷たさとヌメリ感に、身体がビクリと跳ねる。氷室の手は膝上から太ももの内側を滑り上がり、同意を得たはずの「不可侵領域」へと迷いなく侵入してきた。
「内転筋群がコンクリートのように硬い。骨盤が前傾し、腰椎を圧迫している元凶はここだ。……力を抜け」
言うが早いか、氷室の親指が太ももの付け根、恥骨のすぐ際にある筋肉の束を、容赦なくグリリと押し込んだ。
「あぐっ! んぐぅっ……!」
激痛。神経が集中している場所だけに、その刺激は脳天を突き抜けるほど鋭い。千夏はシーツを鷲掴みにし、反射的に足を閉じようとしたが、氷室の左腕がそれを強引に押し留めた。
「閉じるな。逃げるな。同意したはずだ」
氷室の低い声が耳元で響く。彼はさらに指を深部へと沈めていく。際どい。指先がショーツのクロッチ部分の布地に触れそうなほど、ギリギリの場所を攻めている。千夏は恐怖と恥ずかしさでパニックになりかけた。これは本当に治療なのか。もし指が滑ったら。もし彼がその気になったら。だが、氷室の表情はあくまで真剣そのものだった。いや、真剣というよりも、難解なパズルを解くような没頭の色が見え、それが逆に千夏の自意識を惨めにさせる。
「ここだ。大腿動脈の拍動が弱い。周囲の組織が癒着して、血管を締め付けている。……流すぞ」
氷室はそう呟くと、手技を変えた。一点を強く押すのではなく、滞ったリンパ液と血液を心臓へ送り返すように、鼠径部のラインに沿って親指の腹をゆっくりと、粘りつくようにスライドさせる。
その動きは、あまりにも官能的だった。
ズズズ、と老廃物が流れるような感覚と共に、下腹部の奥底からじわりと熱いものが込み上げてくる。痛みではない。擽ったいような、それでいて芯まで蕩けるような、得体の知れない快感。
「んっ、ぁ……や、そこ……熱い……」
千夏は自分の口から漏れた声に驚愕した。それは苦痛の呻きではなく、甘く濡れた喘ぎ声に近かったからだ。身体が熱い。氷室の指が動くたびに、下半身の血液が沸騰し、子宮の奥がキュンと収縮するような錯覚に陥る。ダメだ。こんなの、おかしい。治療でこんな気持ちになるなんて。しかし、氷室は千夏の反応を無視するどころか、さらに追い討ちをかけるように分析を口にした。
「顔が赤いぞ。発汗も見られる。体温が急激に上昇しているな。……いい傾向だ。閉じていたゲートが開き、血流が改善されている証拠だ」
冷静な分析。それが余計に千夏の恥辱を煽る。彼は分かっていてやっているのだ。私が感じていることを。私が、治療という名目の下で、彼の手指に翻弄され、感じてしまっていることを。
氷室の指が、鼠径部の最も深い窪み、リンパ節の集合体を円を描くように圧迫した。
「ああっ、んんっ……!」
千夏は背中を反らせ、無意識に氷室の白衣の袖を掴んでしまった。拒絶ではなく、もっと触れて欲しいという懇願のように。頭の中が真っ白になり、理性が吹き飛ぶ。目の前にいる男がトレーナーであることも、ここが神聖なメディカルルームであることも、すべてどうでもよくなっていく。ただ、この指が与えてくれる痺れるような熱に、身を任せていたい。自分が「患者」なのか「雌」なのか、その境界線が溶けていく。
「……随分と素直な身体だ。教えがいがある」
氷室が千夏の耳元で低く笑った。その息遣いは荒く、彼の瞳の奥にもまた、昏い情欲の炎が揺らめいているように見えた。だが、彼が一線を超えることは決してなかった。あくまで「治療」の範疇ギリギリで、千夏を寸止めし、焦らし続ける。それが余計に、千夏の渇望を煽り立てる。
やがて、長い長い時間が過ぎ、氷室の手が離れた時、千夏は抜け殻のように放心していた。荒い呼吸だけが静寂な部屋に響く。汗で張り付いた前髪。紅潮した肌。その姿は、激しい情事の後のようになまめかしかった。
「……終わりだ。着替えろ」
氷室は淡々と告げ、シンクへ手を洗いに行った。その背中は、先ほどまでの熱情など嘘のように冷ややかで、プロフェッショナルなトレーナーのものに戻っていた。千夏は震える手で下着を整え、ジャージを履いた。足が震えて上手く立てない。だが、その震えは恐怖によるものではなかった。
股関節周りが、信じられないほど軽い。詰まっていた泥が流れ去り、下半身に新たな活力が満ち溢れている。血が巡り、細胞の一つ一つが呼吸をしているようだ。
「……ありがとうございました」
千夏は消え入りそうな声で言った。顔を上げられない。彼にどんな顔を見せればいいのか分からない。同意し、受け入れ、あまつさえ快感まで覚えてしまった自分への嫌悪と、それでも彼を求めてしまう依存心。
氷室はペーパータオルで丁寧に指を拭きながら、千夏を一瞥した。
「明日はチーム練習が休みだな。だが、指定したストレッチは欠かすな。……それと」
彼はゆっくりと千夏に近づき、その熱を帯びた頬に触れようとして、寸前で止めた。その仕草が、直接触れられるよりも強く心を揺さぶる。
「誰にも見せるなよ。その顔は。……誤解される」
千夏は息を飲んだ。鏡を見なくても分かる。今の自分が、どんなに淫らで、充足した顔をしているか。それを指摘し、「誤解される」と突き放す彼の言葉は、二人の間にしか通じない秘密の共有だった。
はい、と頷くのが精一杯だった。
特別室を出て廊下を歩く千夏の足取りは、昨日よりもさらに軽やかで、羽が生えたようだった。だが、その心には重い鉛のような背徳感が沈殿していた。私はもう、普通の選手には戻れない。あの指を知ってしまったから。あの熱に侵されてしまったから。その時、千夏はまだ気づいていなかった。自分の太ももの内側、誰にも見せないはずの場所に、氷室の指圧によってつけられた赤黒い鬱血痕――キスマークにも似た「治療の痕」が、鮮明に残されていることに。
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第8話:エレナの視線
激しいチーム練習を終えた後のロッカールームは、充満した熱気と制汗スプレーの人工的な香りが混ざり合った、独特の重たい空気に支配されていた。シャワーを浴び終えた選手たちが、火照った身体をバスタオルで拭きながら、今日のプレーの反省や週末の予定について賑やかに談笑している。その喧騒の中で、小山内千夏もまた、濡れた髪をタオルで無造作にまとめ、自分のロッカーの前で着替えを始めていた。鏡に映る自分の肌は、連日の施術による血流改善のおかげか、以前のような疲労によるくすみが消え、内側から発光するような艶やかな血色を帯びている。今日のシュート練習における成功率は九割を超えていた。身体が軽い。関節が滑らかに連動し、イメージ通りに、いや、イメージ以上に肉体が躍動する感覚。それは、かつて感じたことのない全能感だった。千夏は高揚した気分のまま、鼻歌交じりにバスタオルを解き、下着を身につけようとした。その無防備な瞬間、彼女は自分の身体に刻まれた、ある「異質な色彩」の存在を忘れていた。あるいは、無意識に見ないようにしていたのかもしれない。
「……千夏」
背後から唐突に声をかけられ、千夏はビクリと肩を跳ねさせた。心臓が嫌な音を立てる。恐る恐る振り返ると、そこには藤堂エレナが立っていた。彼女は既にチームジャージに着替え終えており、ロッカーの扉に背を預けて腕組みをしている。その視線は、いつものライバルとしての鋭い闘争心とは違う、得体の知れない不審物を探るような、底冷えする冷ややかさを帯びていた。周囲の談笑が、ふと遠のいた気がした。
「なに、それ」
エレナが顎でしゃくった先。千夏は視線に導かれるように、自分の下半身へと目を落とした。
そこに、あった。
真っ白な太ももの内側、股関節に近い柔らかい皮膚の上に、赤黒い花が咲いたような鮮明な内出血の痕が、毒々しく浮かび上がっていた。それは昨日の朝、氷室が親指で強く圧迫し、滞ったリンパを強引に流した場所だ。「血行が良くなった証拠だ」「好転反応だ」と彼は言ったが、医学的な知識を持たない者の目には、どう見てもそれは治療の痕などではない。何かに強く吸い付かれたか、あるいは男の指で乱暴に愛撫された後の、情事の刻印のようにしか見えなかった。
「っ……!」
千夏は喉の奥で悲鳴を上げ、慌ててバスタオルで太ももを隠した。心臓が早鐘を打ち、全身の血液が逆流するような感覚に襲われる。見られた。一番見られてはいけない相手に、一番見られてはいけないものを。
「な、なんでもないよ。これ、ちょっと……ぶつけただけ」
声が裏返り、自分でも驚くほど不自然な響きになった。あまりにも苦しい言い訳だ。太ももの内側、しかも股関節のすぐそばだ。日常生活やバスケのプレー中で、そんな場所をピンポイントでぶつけることなどあり得ない。千夏は必死に笑顔を作ろうとしたが、頬の筋肉が痙攣して引きつるのが分かった。
エレナは目を細め、威圧的な足取りで一歩、千夏に近づいた。
「ぶつけた? そんな太ももの内側を? ……随分と激しいケアを受けてるのね」
ケア。その言葉の響きに、千夏は息を飲んだ。彼女は気づいている。これが単なる怪我や事故ではなく、人の手によって意図的につけられた痕跡であることを。そして、その「手」の主が誰であるかも、薄々勘づいているのかもしれない。千夏の脳裏に、氷室の冷たい指の感触と、あの密室の湿った空気が蘇る。
「違う、これは……自分でマッサージしてて、力が入りすぎちゃって。ほら、私、内転筋が張りやすいから」
「へえ。自分で。……まるで、男の指の跡みたいに見えるけど」
エレナの指摘は、鋭利なナイフのように千夏の核心を正確に抉った。千夏は反論しようと口を開いたが、言葉が出てこない。顔が熱い。否定すればするほど、泥沼にはまっていく気がする。周囲のチームメイトたちは談笑を続けており、この一角で起きている緊迫した対峙には気づいていない。それが余計に、千夏の孤独感を深めた。
エレナは千夏の動揺を完全に見透かしたように、深いため息をついた。
「千夏。あなた、最近おかしいわよ」
エレナの声のトーンが落ちた。それは非難というよりも、理解できないものに対する困惑と、僅かな懸念の色が強かった。
「動きは良くなってる。認めざるを得ないくらいにね。今日のドライブなんて、正直反応できなかった。……でも、その身体、なんか不自然よ。筋肉のつき方も、肌の質感も、短期間で急に変わりすぎてる。それに、練習が終わるとすぐに姿を消すし、食事も変なメニューばかり食べてる。まるで何かに取り憑かれたみたいに」
エレナは真っ直ぐに千夏を見据えた。その澄んだ瞳には、スポーツマンとしての潔癖な正義感が宿っていた。不正を許さない、努力だけを信じる強者の目。その眩しさが、今の千夏には痛くてたまらない。
「変なこと、してないでしょうね? ドーピングとか、危ない薬とか」
「してない!」
千夏は叫ぶように否定した。それだけは事実だ。薬などやっていない。ただ、あの防音扉の向こうで、あの男の手によって調整されているだけだ。激痛に耐え、羞恥心を捨て、人間としての尊厳を対価に差し出すことで、この身体を手に入れたのだ。けれど、その内容は薬物以上に依存性が高く、倫理的に危ういものかもしれない。
「……本当に、何もしてない。ただ、勝ちたくて必死なだけだよ。エレナに負けたくないから、死ぬ気でコンディション整えてるだけ」
千夏はエレナを睨み返した。それは半分本音で、半分は自分自身を鼓舞するための虚勢だった。エレナはしばらく千夏を値踏みするように見つめていたが、やがて興味を失ったように肩をすくめた。
「そう。ならいいけど。……でも、忠告しておくわ。近道なんてないのよ。身体を粗末に扱えば、いつか必ずしっぺ返しが来る。壊れてからじゃ遅いのよ」
エレナはそれだけ言い残すと、踵を返してロッカールームを出て行った。彼女の背中は堂々としていて、一点の曇りもなかった。
千夏はその場にへなへなと座り込んだ。冷や汗が背中を伝い、バスタオルの下で肌を冷やす。怖かった。心臓が止まるかと思った。もし彼女が監督に報告したら? もしあのあざの意味を追求されたら?
震える手で、再び太もものあざを撫でる。ズキリと痛むその場所は、氷室との秘密の共有を証明する刻印のようであり、同時に自分を縛り付ける鎖のようでもあった。エレナの言う通りだ。これは近道なのかもしれない。代償を伴う、危険な賭けだ。いつか破綻するかもしれない。
けれど。
千夏は自分の手を見つめた。今日、エレナを置き去りにしたあの瞬間の感覚。ボールが手に吸い付くようなフィット感。あれは幻覚じゃない。本物だ。氷室の手が、私を強くしてくれている。正攻法で勝てないなら、裏道を行くしかないじゃないか。持たざる者が勝つためには、何かを捨てなければならないんだ。
スマートフォンの通知音が短く鳴った。千夏は縋るように画面を見た。氷室からだった。
『明日のメニューに変更はない。鼠径部の鬱血は想定内だ。毛細血管が再生すれば、組織はより強くなる。気にするな』
無機質なテキスト。彼は、あざが残ることすら計算に入れていたのだ。エレナに見つかるリスクさえも、彼にとっては「想定内」の些事なのだろう。その冷徹なまでのコントロールに、千夏は恐怖よりも深い安堵を覚えた。彼が知っているなら大丈夫だ。私は間違っていない。このあざは、私が強くなるための通過儀礼なのだ。
千夏は急いで着替えを済ませた。早くあの部屋に行きたい。あの薄暗い密室で、彼の声を聞きたい。エレナの正論に揺らぐ弱い心を、彼の歪んだ理論と、あの冷たい指先で塗りつぶしてほしい。
ロッカールームを出て、薄暗い渡り廊下を歩く千夏の足取りは速かった。彼女はもう、光の当たる場所には戻れないことを悟っていた。自分の意志で、自分の足で、甘美な闇の奥へと続く道を走り出した。
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第9話:オイルの匂い
その日の夕方、千夏は逃げるようにして選手寮の自室に戻った。エレナの鋭い視線と「不自然」「男の指の跡」という言葉が、まだ耳の奥で不快な残響音となって木霊している。心臓を直接鷲掴みにされたような恐怖と、言いようのない後ろめたさが胸を塞いでいた。シャワーを浴びて身体を洗っても、皮膚の下に染み込んだ罪悪感がタールのようになってこびりつき、落ちないような錯覚に陥る。太ももの内側に残る鮮明な鬱血痕を見るたびに、昨日の施術の甘美な熱と、それを他人に暴かれる恐怖が同時に押し寄せ、千夏の精神を内側から引き裂いていくようだった。だが、恐怖を感じれば感じるほど、千夏の本能は逆説的に「救済」を求めた。あの薄暗い部屋に行けば、この不安も焦燥もすべて氷室が取り除いてくれる。彼の冷徹な論理と絶対的な指先に全てを委ねれば、思考を停止させ、ただの「機能的な肉体」に戻ることができる。それは理性を蝕む麻薬的な誘惑だった。午後八時。千夏は指定された時間に一秒たりとも遅れないよう、祈るような気持ちで特別室の扉を叩いた。
中に入ると、いつもとは違う甘く重い香りが充満していた。ラベンダーとイランイラン、それに微かなムスクが複雑に混ざり合ったような、鎮静作用と催淫効果を同時に併せ持つ濃厚なアロマ。照明は極限まで落とされ、部屋の四隅に置かれたキャンドル型のライトだけが揺らめき、壁に長い影を落としている。氷室は施術台の横で、小瓶に入ったオイルをウォーマーで温めていた。
「……何かあったか? 脈が速い。呼吸も浅い」
背中を向けたまま、氷室が静かに言った。千夏は心臓が凍る思いだった。まだ何も言っていないのに、入室した瞬間の気配だけで動揺を見抜かれている。
「い、いえ……何でもありません。ちょっと走ってきたので」
エレナに怪しまれたとは口が裂けても言えなかった。言えば、「リスク管理ができていない」と冷たく叱責され、この契約を一方的に破棄されるかもしれない。それだけは避けたかった。今の千夏にとって、この部屋を失うことは死を意味する。千夏は嘘を隠すように、早口で話題を変えた。
「きょ、今日は、何をするんですか? こんないい匂いさせて」
「昨日の鼠径部へのアプローチで、下半身の大まかな滞りは消えた。今日は全身の筋膜を緩め、筋肉の繊維一本一本を解きほぐしてリカバリーをかける。……そのためには、皮膚と手の摩擦を極限まで減らす必要がある」
氷室はゆっくりと振り返り、琥珀色の液体が入ったボトルを掲げて見せた。とろりとした液体がガラスの中で揺れる。
「高純度のスクワランオイルだ。浸透性が高く、皮膚呼吸を妨げない。今日はこれを使って全身をトリートメントする。……脱げ。今日はすべてだ」
すべて。その言葉の意味を脳が理解するのに、数秒の空白を要した。
「すべ、て……って、下着もですか?」
「オイルで汚れる。それに、布一枚の厚みやゴムの締め付けが、お前の筋肉の微細な反応を鈍らせるノイズになる。邪魔だ」
氷室は当然のことのように言い放った。千夏は立ち尽くした。医療行為だと言い聞かせてきたし、際どい場所も触れられてきた。だが、全裸になることは最後の一線を越えることだ。人間としての尊厳に関わる。しかし、この部屋の濃厚な空気と、氷室の有無を言わせぬ圧力が、千夏の抵抗力を削いでいく。どうせ、もう何度も際どい場所を見られている。身体の中まで指を入れられたようなものだ。今さら何を隠すことがあるのか。自暴自棄に近い感情が湧き上がり、千夏は震える手でジャージを脱ぎ捨てた。最後に残ったショーツを下ろす時、羞恥心で視界が滲んだが、氷室はそれを見ようともせず、大きなバスタオルを広げて待っていた。
「台に上がれ。うつ伏せだ」
千夏は裸身をバスタオルで隠すようにして施術台に上がり、顔をタオルに埋めた。背中にタオルがかけられ、直接的な視線は遮られたが、自分が生まれたままの姿で横たわっているという事実は変わらない。肌が空気に触れる感覚が、神経を過敏にさせる。心臓がうるさいほど鳴っている。
「視覚情報は交感神経を刺激し、リラックスを妨げるノイズになる。今日は目を塞ぐぞ」
氷室の声と共に、温かいホットアイマスクが千夏の目に装着された。視界が完全な闇に閉ざされる。それにより、千夏の世界は一変した。視覚が遮断された途端、他の感覚が異常なほど鋭敏になったのだ。衣擦れの音、ボトルの蓋が開く小さな音、ウォーマーの微かな駆動音、そして氷室の規則正しい息遣い。気配だけで、彼がどこに立ち、何をしているかが手に取るように分かる。見えないことの恐怖と、見えないからこそ感じる予感が、背筋をゾクゾクと震わせる。
とぷん、と温かい液体が背中に垂らされた。
「ひゃっ……!」
人肌よりも少し高い温度のオイルが、背骨に沿ってツーッと滑り落ちていく。それはまるで生き物のような滑らかさで皮膚に吸い付き、ゆっくりと広がっていく。直後、氷室の大きく分厚い手が背中全体を覆い、オイルを塗り広げ始めた。
ヌチャ、ヌチャ、という粘着質な水音が、静寂な部屋に淫らに響く。自分の肌と彼の手の間で鳴るその音が、耳元で拡大されて聞こえる。
氷室の手は、これまでのように点を攻める鋭い指圧ではなく、面で捉えて波打つように動いた。肩甲骨から腰、そして臀部の膨らみへと、途切れることなく滑り降りる。オイルの被膜が皮膚と手の間の摩擦を完全に消し去り、指の圧力がダイレクトに、しかし優しく筋肉の深層へと届く。
「僧帽筋から広背筋にかけての緊張が異常に強い。……誰かに何か言われたか? これはストレス性の張りだ」
氷室の指が、凝り固まった肩甲骨の裏側に滑らかに滑り込んだ。痛い。けれど、オイルの滑らかさが痛みの角を取り除き、重厚な快感へと変換していく。見えない彼には、筋肉を通して千夏の心が丸見えだった。
「い、言われて……ないです。ただ、練習がハードで……」
「嘘をつくな。言葉で取り繕っても、筋肉は嘘をつかない。……怯えているな。何に怯えている? 俺か? それとも、外の世界か?」
図星だった。千夏は答えられず、ただ唇を噛んだ。氷室の手は答えを待たずに下へと移動し、腰のくびれを両手で包み込んだ。そして、そのまま臀部の割れ目へと指を滑らせる。
「っ……!」
視界がない分、触れられている場所の感覚が通常の何倍にも増幅される。指が尾骨の周りを円を描くようにマッサージするたびに、背骨を駆け上がるような痺れが走る。自分の身体の輪郭が、オイルと熱によって溶かされ、氷室の手と一体化していくような錯覚。
「リラックスしろ。この部屋には俺とお前しかいない。誰も見ていない。……お前を責める奴なんて、ここにはいない」
氷室の低い声が、アイマスク越しに脳内に直接溶け込んでくる。誰も見ていない。その言葉が、エレナの視線に怯えて凝り固まっていた千夏の心を、劇薬のように解きほぐしていく。そうだ、ここは密室だ。外の世界の正義も倫理も届かない、安全な場所だ。見えなければ、なかったことと同じだ。
氷室の手はさらに大胆に、太ももの裏から膝裏、ふくらはぎへと滑り降りた。たっぷりのオイルを含んだ手で包み込まれ、揉みしだかれる感覚は、自分が人間ではなく、こねられる粘土になったような気分にさせる。思考がとろけていく。抵抗しようという意志が、快楽の波に洗われて消えていく。
次第に、千夏の中で「恥ずかしい」という感情が薄れ、「もっと触ってほしい」「もっと深く」というおぞましい欲求が頭をもたげてきた。氷室の手が触れるたびに、身体の芯が熱くなり、自分がどこにいるのか、今がいつなのかも曖昧になり、ただ温かい泥の中に沈んでいくような浮遊感に包まれる。
「……ん、ぁ……」
千夏の口から、無防備な吐息が漏れた。それを合図にしたかのように、氷室の手技が熱を帯びる。指先だけでなく、手のひら、手首、腕全体を使って、千夏の身体を波状攻撃のように愛撫する。太ももの内側、昨日施術したあざの上を、温かい手が何度も往復する。それは傷を癒やす手当てであり、同時に傷跡を確認する所有者の確認作業のようでもあった。治療という名の、魂の浸食。
エレナの言葉も、監督の顔も、スタメン争いのプレッシャーも、すべてが遠い彼方へ消えていく。世界には今、このオイルの匂いと、氷室の手の熱、そして耳元で響く水音しかない。
どれくらいの時間が経ったのだろうか。永遠にも一瞬にも思える陶酔の時間が終わり、氷室の手が離れた時、千夏は深い海から引き上げられたように大きく息を吸い込んだ。身体中の力が抜け、指一本動かせない。脳が痺れて、現実に戻ってくるのを拒んでいる。
「……終わりだ。今日はこのまま拭き取らずに帰れ。良質なオイルだ。皮膚から浸透させて、筋肉に栄養を与える」
氷室がアイマスクを外した。薄暗い光が戻ってきたが、千夏の目は虚ろで、焦点が定まらない。世界がまだ揺れている。
言われるがままに立ち上がり、ジャージを着るが、肌に残ったオイルが布に張り付き、動くたびにヌルリとした感触が全身を包む。それはまるで、氷室の手がまだ全身に触れているかのような、生々しい錯覚を与えた。服を着ているのに、裸でいる時以上に彼を感じる。
「ありがとうございました……」
千夏は夢遊病者のように礼を言い、ふらつく足取りで部屋を出た。
夜の冷たい空気に触れても、身体の火照りは冷めなかった。寮への道を歩きながら、千夏は自分の匂いを嗅いだ。汗の匂いは消え、代わりに氷室が選んだアロマとオイルの香りが、髪にも肌にも、毛穴の奥まで染み付いている。
マーキング。
ふと、そんな言葉が脳裏に浮かんだ。私は、あの男の匂いをつけられたのだ。誰の目にも見えない首輪のように、この匂いが私を縛り付けている。
だが、千夏はその事実に嫌悪感を抱くどころか、深く息を吸い込み、その香りを肺の奥まで満たした。エレナの正しい言葉よりも、この甘く危険な匂いの方が、今の千夏には心地よかった。彼女はもう、自分が何者かに飼われているという事実に、安らぎさえ覚え始めていた。
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第10話:呼吸の支配
特別室の空気は、今日もまた湿度を増し、濃厚なアロマの香りが充満していた。千夏は黒革の施術台の上に座り、背後から氷室に抱きすくめられるような体勢を取らされていた。氷室の広い胸板が千夏の薄い背中にぴったりと密着し、彼の高い体温と、驚くほどゆっくりとした心臓の鼓動が、衣服越しに直に伝わってくる。それはまるで、捕食者に捕らえられた小動物のような、絶対的な無力感と、奇妙な安心感が同居する矛盾した構図だった。今日のテーマは「呼吸」だと言われた。アスリートにとって酸素は血液を燃やす燃料であり、呼吸筋の柔軟性はスタミナとパフォーマンスに直結する。理屈は分かる。だが、その手法はあまりにも暴力的で、かつ親密すぎた。氷室の腕が千夏の脇の下から伸び、腹部と肋骨を囲い込むようにして置かれている。その拘束感に、千夏は身動き一つ取れずにいた。
「いいか、よく聞け。人間は一日に二万回以上の呼吸をしている。だが、そのほとんどは浅く、効率の悪いガス交換だ。お前は特に、プレッシャーがかかると横隔膜が固まり、肩で息をする悪癖がある。それがスタミナ切れと判断ミスの原因だ」
耳元で響く氷室の低い声は、鼓膜を震わせ、脳の芯に直接染み込んでくるようだった。彼の吐息が耳の産毛を揺らし、背筋にゾクゾクとした電流を走らせる。
「本能や無意識で行っている呼吸を、自分の意識で支配して制御するんだ。俺がそのための回路を焼き付けてやる」
「……はい」
千夏は掠れた声で頷くしかなかった。拒否権など、この部屋の鍵が閉められた瞬間に消滅している。氷室の大きな手が、千夏の肋骨の下部、みぞおちのあたりをガシリと掴んだ。指先が肋骨の隙間にある肋間筋に深く食い込み、骨がきしむような圧迫感が走る。
「肋骨が閉じている。これでは肺が広がらない。……俺が広げてやる」
宣言と同時に、氷室の手が万力のように肋骨を締め上げた。
「ぐっ……!」
苦しい。内臓を直接握り潰されるような不快感と、物理的に胸郭を圧縮されることで息ができなくなる恐怖。千夏は反射的に身体を強張らせ、酸素を求めて浅く速い呼吸を繰り返そうとした。溺れる者が空気を求める本能的な反応だ。しかし、氷室はそれを許さなかった。
「違う。吸うな。吐け」
氷室の命令は絶対的だった。彼の手がさらに強く肋骨を押し込み、千夏の肺に残っていた空気を強制的に口から絞り出させる。
「はっ、ぐ……っ、く……」
「もっとだ。肺の中の空気を一滴残らず絞り出せ。横隔膜を限界まで引き上げろ。死ぬ気で吐け」
氷室の腕に容赦ない力が籠もる。千夏は必死で息を吐き続けた。苦しい。もう空気なんて残っていない。肺が真空になってペチャンコに潰れてしまいそうだ。視界がチカチカと明滅し、生存本能が「吸え! 死んでしまう!」と激しい警報を鳴らす。だが、氷室の腕は緩まない。千夏の背中で、彼自身の呼吸はあくまで冷静に、一定のリズムを保っているのが分かった。その温度差が恐ろしい。
「まだだ。まだ吐ける。……甘えるな」
極限まで吐ききり、目の前が真っ白になりかけた、その瞬間だった。ふっと氷室の力が抜けた。
「吸え」
反動で、新鮮な空気が爆発的に肺に流れ込んでくる。
ヒュッ、と喉が大きく鳴り、しぼんでいた胸郭が一気に拡張する。濃密な酸素が血液に溶け込み、脳髄を痺れさせるような感覚。それは窒息寸前に水面に顔を出した時の救済にも似た、涙が出るほどの強烈な快感だった。
「ぁ……っ、はぁ……っ! はぁ、はぁ……」
千夏は肩で息をしながら、ガクガクと震えた。涙目で氷室を振り返ろうとするが、彼の胸が壁となってそれを許さない。助かった。死ぬかと思った。酸素の味が甘い。
「いい反応だ。肋骨の可動域が広がった。……だが、まだお前の呼吸は浅い。俺のリズムに合わせろ」
氷室は千夏の背中に顎を乗せ、まるで恋人を抱きしめるように深く密着した。そして、自分の深い呼吸音を千夏に聞かせた。
スー……ッ、ハァ……ッ。
深く、長く、規則正しい呼吸。それは大木が風に揺れるような、揺るぎない安定感を持っていた。千夏の背中に、彼の胸郭の動きが大きな波のように伝わってくる。
「俺が吸ったら吸え。俺が吐いたら吐け。……お前の自律神経を、俺が上書きする」
それは、身体のコントロール権の完全な譲渡を意味していた。自分の意志で息をすることすら許されない。千夏は恐怖を感じたが、同時に抗いがたい魅力も感じていた。自分で呼吸をするのは苦しい。自分でタイミングを計るのは疲れる。彼の呼吸に身を委ね、ただの操り人形になってしまえば、この苦しさから解放されるかもしれない。
氷室が大きく息を吸い込んだ。背中越しに伝わる拡張。千夏も慌ててそれに合わせて息を吸う。
氷室がゆっくりと息を吐く。千夏の肋骨が彼の手によって優しく、しかし強制的に締め付けられる。千夏も息を吐く。
繰り返される同期。
吸って、吐いて。吸って、吐いて。
次第に、二人の呼吸のズレが消え、完全に一つに重なっていった。千夏の意識が朦朧としてくる。過呼吸に近い状態によるトランス現象。自分がどこにいるのか、誰なのかが分からなくなる。ただ、背後の温かい存在と、肺に出入りする空気の流れだけが世界の全てになる。
「そうだ。力を抜け。委ねろ。……お前は俺の一部だ」
氷室の手が、肋骨から腹部、そしてさらに上、胸の膨らみのすぐ下へと這い上がってきた。大胸筋の付着部。リンパが詰まりやすい場所であり、女性にとっては胸そのものに触れられるのと変わらないほど際どい領域だ。指先が胸の肉の柔らかさを捉えている。だが、千夏にはもう、それを拒絶する意志も、羞恥心を感じる余裕も残されていなかった。自律神経を掌握された今、彼女の身体は氷室の臓器の一部として機能していた。
「んぅ……っ、先生……」
千夏は無意識に頭を後ろに預け、氷室の肩にスリスリと頬を擦り付けた。それは甘える猫のような、あるいは愛を乞う恋人のような、無防備で従順な仕草だった。
氷室の呼吸が一瞬止まり、すぐにまた深く、熱を帯びて再開された。彼の手が千夏の胸元を強く圧迫し、痛みと快感のスパークを脊髄に走らせる。
「……可愛いな、千夏」
耳元で囁かれた名前。いつもは「お前」や「小山内」としか呼ばない彼が、初めて名前を呼んだ。その低く、湿った響きが、千夏の子宮の奥を震わせた。
熱い。身体中が熱くて、溶けてしまいそうだ。
氷室は千夏のリズムを完全に掌握し、意のままに操っていた。速くすれば速く、遅くすれば遅く。千夏の心臓さえも、彼の手の中にあるようだった。このままずっと、彼に呼吸させられていたい。私の命綱を、彼に握っていてほしい。千夏は薄れゆく意識の中で、そう願っていた。それは、アスリートとしての自立を放棄し、一人の男の所有物になることを選んだ瞬間の、甘美な敗北宣言だった。
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第11話:トランス状態(変性意識)
その日の練習は、地獄という言葉すら生温く感じるほど凄惨で、過酷を極めるものだった。開幕戦を目前に控え、ピリピリとした焦燥感が支配する体育館で、監督の怒号が飛び交う中、千夏たち選手は肉体の限界点まで追い込まれていた。終わりの見えないシャトルラン、オールコートでのマンツーマンディフェンス、そして実戦形式の激しいスクリメージ。千夏の身体はとっくに悲鳴を上げていた。氷室の施術のおかげで右足首の痛みこそ消えているものの、その「治った箇所」を無意識に庇い、カバーするために全身の他の筋肉が動員され、酷使されているのだ。肺が焼けつくように熱く、酸素を求めて喘ぐたびに鉄錆の味が喉の奥に広がる。太ももは鉛のように重く軋み、思考は霞み、立っているのがやっとの状態だった。それでも千夏が倒れずにいられたのは、身体の奥底に埋め込まれた「氷室透」という名の命令系統が、壊れかけた肉体を無理やり駆動させていたからに他ならなかった。
練習終了のホイッスルが鳴った瞬間、千夏は糸が切れた操り人形のようにその場に崩れ落ちそうになったが、最後の気力を振り絞ってロッカールームへと向かった。シャワーを浴びる気力さえ残っていない。汗にまみれ、熱を持った身体を引きずるようにして、彼女は迷わず特別室の扉を叩いた。今の千夏にとって、そこは治療室ではなく、唯一呼吸が許されるシェルターだった。中に入ると同時に、張り詰めていた糸が切れ、彼女は泥のように施術台へと倒れ込んだ。
「……酷いな。全身が炎症を起こして熱を持っている。ラジエーターの壊れたエンジンのようだ」
氷室の冷静な声が、遠くの水底から響いてくるように聞こえた。彼は千夏の背中に大きな手を当て、その異常な熱さを確かめるように眉をひそめた。
「完全なオーバーワークだ。自律神経の交感神経が暴走しすぎて、休息モードに切り替わらなくなっている。……だが、これだけの負荷をかけなければ、筋肉は進化しない。壊れる寸前まで追い込んで、俺が再生させる。それが最強への最短ルートだ」
氷室は手早く準備を整え、千夏の背中に鎮静作用のある冷たいジェルをたっぷりと塗布した。ひんやりとした感触が一瞬だけ千夏の意識を現実に引き戻すが、すぐにまた熱く重い倦怠感の波に飲み込まれていく。今日の施術は、これまでのように特定の筋肉をほぐすものではなかった。背骨に沿って走る脊柱起立筋を揺さぶるような、一定のリズムを刻む不思議な手技が繰り返される。
「自律神経を調整する。脳が興奮状態にあるままでは、筋肉は緩まない。……強制的にシャットダウンさせるぞ」
氷室の親指が、首の付け根、延髄に近い窪みにあるツボを、容赦なくグイと押し込んだ。
「あ……っ!」
視界が明滅するような衝撃が走り、脳の芯が痺れた。痛いのか気持ちいいのか、判断がつかない。ただ、その強烈な刺激が、千夏の脳内にあるメインスイッチをパチンと切り替えたことだけは分かった。身体の力が急速に抜けていく。重力に逆らうことを諦め、自分の肉体が施術台の黒い革に沈み込んで一体化していくような感覚。氷室の手は休むことなく動き続け、千夏の意識を現実世界から切り離していく。筋肉の軋みや疲労感が、自分のものではなく、遠い世界の出来事のように感じられる。氷室の指が触れるたびに、そこから金色の光が溢れ出し、空っぽになった千夏の中を満たしていくような、甘美な幻覚が見え始めた。
「そうだ。意識を手放せ。考えるな。お前は今、ただの肉体だ。感じるだけでいい」
氷室の囁きが、鼓膜を通さず脳内に直接響く神託のように聞こえる。千夏は虚ろな目で天井の闇を見つめたまま、口を半開きにして荒い息を吐いた。涎が垂れるのも、目が潤んで視界が歪むのも気にならない。背中を揉みしだく大きな手。腰を揺さぶる心地よい振動。そして、時折鋭く突き刺さり、神経を跳ねさせる指圧の痛み。それら全てが渾然一体となり、巨大な快楽のうねりとなって千夏を襲う。
ああ、気持ちいい。
死ぬほど疲れているはずなのに、身体の奥底からマグマのような熱いものが湧き上がってくる。それは性的な興奮によく似ていたが、もっと直接的で、暴力的なまでの多幸感だった。脳内麻薬であるエンドルフィンが大量に分泌され、疲弊したシナプスを焼き尽くしていく。
「んっ、ぁ……あぁっ、せん、せ……」
千夏は譫言のように氷室を呼んだ。何を求めているのか自分でも分からない。ただ、この波に溺れていたい。もっと強く、もっと深く。私を壊して、作り直して。
氷室の手が、千夏の臀部から太ももの裏へと滑り降り、ハムストリングスの深層、疲労が最も蓄積するポイントを的確に捉えた。
「ここだ。疲労の塊がある。……散らすぞ」
ゴリッ、と筋肉の束が弾かれた。
その瞬間、千夏の世界が白く弾けた。
「ああっ――!!」
声にならない絶叫が喉の奥で爆発する。背中が弓なりに反り、手足がピーンと張って痙攣する。目の前が真っ白になり、意識が飛び散る。痛みも苦しみも、エレナへの劣等感も、自分という存在さえも消え失せ、ただ純粋な「感覚」だけがスパークする。ホワイトアウト。それは、性的な絶頂を超えた、脳の限界点突破だった。
千夏はガクンと力を失い、糸が切れた人形のように施術台に崩れ落ちた。視界は真っ暗で、耳鳴りだけがキーンと響いている。身体が浮いているような、深く沈んでいるような、不思議な浮遊感。時間感覚が消失し、自分が生きているのか死んでいるのかさえ曖昧になる。
「……落ちたか」
氷室の冷静な声が、遠くから聞こえた。彼は千夏の脈を取り、乱れた呼吸を確認して満足げに頷いた。
「変性意識状態。脳が外部刺激を遮断し、内側の感覚に没入している状態だ。この深さなら、脳は休息を取りながら、身体の再構築を受け入れるだろう」
氷室は無抵抗な千夏の身体を、まるで愛用品の手入れをするかのように丁寧に拭き清めた。浮き出た汗をホットタオルで拭い、乱れた髪を整え、保温のための毛布をかける。千夏はその間、指一本動かすことができなかった。されるがまま。完全なる受動。
どれくらいの時間が経ったのか。千夏がようやく重い瞼を開けた時、部屋の照明はさらに落とされ、静寂が戻っていた。身体の鉛のようなダルさは嘘のように消え、代わりに信じられないほどの爽快感と活力が満ちている。まるで生まれ変わったようだ。
「……おはよう、眠り姫」
氷室が皮肉っぽく笑いかけ、常温の水が入ったボトルを手渡した。千夏は起き上がり、貪るように水を飲んだ。喉が渇いて仕方がない。
「私……寝てましたか?」
「いや。意識はあったはずだ。ただ、脳の処理能力を超えた快楽信号と修復信号が同時に入力されたせいで、記憶が飛んでいるだけだ。……いわゆる、脳のオーバーロードだ」
快楽信号。その言葉に千夏は顔を赤らめた。断片的に蘇る記憶。自分の淫らな声。無様な痙攣。すべて彼に見られ、コントロールされていたのだ。恥ずかしさと、それを上回る充足感。
「いい反応だった。お前の身体は、俺の施術に対して極めて高い適応性を示している。……まさに、俺のために作られた身体だ」
氷室は千夏の頬に触れ、愛おしそうに目を細めた。その瞳の奥にある狂気的な独占欲に、千夏は身震いした。怖い。けれど、それ以上に嬉しいと思ってしまう自分がいる。私は、彼のものだ。その事実は、今の千夏にとって何よりの安定剤だった。自分の意志などいらない。彼の手があれば、私はどこまでも行ける。千夏がそう思いかけた時、氷室の表情がふと真剣なものに変わった。彼は千夏の顎を掴み、視線を強制的に合わせさせた。
「しかし、大事なことは、お前の身体の主はお前の意識だってことだ。お前の本能でも、お前の無意識でも、ましてや別の誰かのものでもない。こうして意識しているおまえの意識のものだ」
意外な言葉だった。支配しようとしているはずの彼が、主導権はお前にあると言う。千夏は混乱し、彼の瞳を見つめ返した。
「俺はお前の意識がお前の身体をより自由に動かせるように整えているに過ぎない。自分が何をするのかどうしたいのか意識をしっかり持っておかないと、せっかくコンディションを整えた身体が無駄になるぞ」
それは、究極の詭弁であり、同時に真理でもあった。彼は千夏の身体を改造し、支配しつつも、それを動かす「ドライバー」としての千夏の精神には、強烈な自覚を求めているのだ。「俺のために、お前が自分で自分を律しろ」。そう言われている気がした。
千夏はハッとして、背筋を伸ばした。そうだ、私は走らなければならない。彼がくれたこの身体を使って、私が勝つのだ。
「……はい。分かりました」
千夏は力強く頷いた。その目には、以前のような迷いはなく、澄んだ狂気が宿っていた。氷室はその答えに満足し、口角を上げた。二人の共犯関係は、依存を超え、互いを利用し合う歪で強固な「システム」へと進化していた。
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第12話:遠征先のホテルで
遠征先で手配されたビジネスホテルは、驚くほど壁が薄かった。廊下を歩く誰かの足音や、隣の部屋でドライヤーを使うモーター音が、まるで自分の部屋の出来事のように鮮明に響いてくる。千夏は自室の狭いシングルベッドに腰を下ろし、壁越しに聞こえるチームメイトたちの微かな話し声に耳を澄ませていた。時刻は深夜一時を回っている。明日は強豪実業団との重要な交流戦が控えており、本来ならとっくに眠りについていなければならない時間だが、千夏の身体は芯から微熱を持ったように火照り、神経が高ぶって一睡もできる気がしなかった。原因は明白だ。筋肉が、求めているのだ。あの冷たい指を。理性を破壊し、脳を溶かすようなあの背徳的な快楽を。千夏は震える手でスマートフォンを握りしめた。画面には、十分前に氷室から送られてきた部屋番号だけが、無機質な光を放って表示されている。『502』。千夏の部屋から二つ上の階、スタッフ専用のフロアだ。行ってはいけない。もし廊下で誰かに見つかったら、深夜の密会など言い逃れようがない。監督に見つかれば即刻謹慎、最悪の場合は除名処分だろう。リスクはこれまでの比ではない。だが、千夏は突き動かされるように立ち上がった。理性のブレーキなど、とっくの昔に焼き切れている。身体の奥底が甘く疼き、彼の元へ行けと命令しているのだ。
千夏は音を立てないように慎重にドアを開け、誰もいない深夜の廊下へと滑り出した。安っぽいカーペット敷きの床が足音を吸い込む。エレベーターを使わず、非常階段を使って五階へと上がる。静寂に包まれた階段室では、自分の心臓の音がうるさいほど大きく響いた。まるで心臓だけが先に走って行ってしまったかのようだ。502号室の前で立ち止まり、深く息を吸い込む。ノックをする代わりに、事前に知らされていた合図――二回短く、一回長くドアを軽く叩く。すぐにカチャリと金属的な音がして、鍵が開いた。千夏は誰かに見られる前にと、素早く部屋の中に滑り込んだ。
部屋の中は狭く、そして暗かった。シングルルームのベッドの横に、無理やり折りたたみ式のポータブル施術台が広げられており、足の踏み場もないほどだ。氷室はパイプ椅子に座り、パソコンの画面を見ていたが、千夏が入ってくるとゆっくりと顔を上げた。モニターの青白い光だけが、彼の眼鏡を冷たく照らし出している。
「……遅い。三分待ったぞ」
低い声。千夏は慌てて背後のドアを閉め、鍵をかけた。カチリという施錠音が、退路を断つ合図のように響く。狭い空間に、男の匂いと湿布のメントール臭、そして彼が愛用しているアロマの香りが充満しており、それだけで千夏の膝が崩れそうになる。
「すみません、隣の部屋の子がなかなか寝なくて……出るタイミングを計ってました」
「言い訳はいらない。……壁が薄いのは分かっているな?」
氷室は壁を親指で指した。その動作だけで、千夏は彼の意図を察し、息を飲んだ。
「隣は監督の部屋だ。少しでも大きな声を出せば、すぐに飛んでくるぞ。ここでの情事は筒抜けだと思え」
千夏は血の気が引くのを感じた。まさか、そんな危険極まりない配置だとは。壁一枚隔てた向こうに、チームの全権を握る人間がいる。その事実は、千夏にとって死刑宣告にも等しい恐怖だったが、同時に、身体の奥底でどす黒い興奮の種火が爆ぜるのを感じた。見つかったら終わる。でも、このスリルがたまらない。
「え、じゃあ、今日は……」
「中止にするか?」
氷室が意地悪く口角を上げる。試されている。千夏は唇を噛み締め、首を横に振った。ここまで来て、手ぶらで帰るなんてできない。身体が、彼の手を欲して悲鳴を上げている。
「……お願いします。やってください」
「いい心がけだ。……なら、今日は特別ルールだ。絶対に声を出すな。どんなに痛くても、どんなに気持ちよくてもだ。もし声を出したら、その瞬間に放り出す。声に出さずに息として吐き出せばいい。声を出すまいと我慢して体を固くしたら意味がないぞ」
氷室の冷酷な言葉に、千夏は戦慄した。声を出すなと言うだけではない。声を我慢するために身体を強張らせることすら許さないと言うのだ。「無防備に開いたまま、黙って刺激を受け入れろ」。それは拷問にも等しい要求だった。だが、拒否権はない。千夏は震えながら頷き、施術台にうつ伏せになった。狭い部屋のため、氷室との距離がいつも以上に近い。彼の規則正しい息遣いが、うなじにかかるのが分かる。
今日の施術は、声を出させないための配慮なのか、それとも千夏を追い詰めるための計算なのか、いつもよりもゆっくりとした、粘着質な手技だった。ふくらはぎから太ももにかけて、筋肉の溝を指でなぞるように、じわりと圧迫していく。強い痛みはない。けれど、神経を逆撫でするような、擽ったさと快感が入り混じった刺激が長く続く。氷室の指は、わざと神経が過敏な場所ばかりを選んで触れているようだ。膝の裏のリンパ節、太ももの内側の柔らかな皮膚、そして臀部の下部の膨らみ。
「んっ……ふぅ……っ」
千夏はシーツを強く握りしめそうになり、慌てて力を抜いた。「身体を固くしたら意味がない」。氷室の言葉が呪いのように身体を縛る。力を抜けば、その分だけ指の感触がダイレクトに脳髄まで届いてしまう。逃げ場のない刺激。声になりそうなものを、千夏は必死に息に変えて吐き出した。ヒュー、ヒューという浅い呼吸音が、静寂な部屋に漏れる。
「どうした? 呼吸が乱れているぞ」
氷室がわざとらしく耳元で囁く。その声の低さが、千夏の子宮を震わせる。
「声を出したいなら出してもいいんだぞ。……監督に聞かせてやれ。お前がどんな声で鳴くのか。エース候補の期待の新人様が、こんな夜中に男の部屋で、どんなあられもない姿を晒しているのか」
悪魔の囁き。千夏は首を激しく振った。ダメだ。絶対にダメだ。そんなことをされたら、私はもう生きていけない。だが、想像してしまった。監督に踏み込まれ、この痴態を見られる瞬間を。その絶望的な光景への恐怖が、逆説的に千夏の興奮を極限まで高めていく。
氷室の手が、千夏のパジャマのズボンの中に滑り込んだ。直接肌に触れる冷たい指。その温度差に、千夏はビクリと身体を跳ねさせたが、声は必死に飲み込んだ。指先が、尾てい骨のあたり、仙骨の窪みをグリグリと押し込む。
「っ、はぁ……っ、くぅ……!」
声が漏れそうになり、千夏は自分の手首を噛んで耐えた。そこは、下半身の快感のスイッチが入るツボだ。氷室はそれを知っていて、執拗にそこを攻める。強く、弱く、円を描くように。焦らすような愛撫。千夏は力を抜こうと必死に深呼吸を繰り返すが、刺激が強すぎて筋肉が勝手に収縮してしまう。
隣の部屋から、微かに咳払いが聞こえた。監督だ。起きている。壁の向こうで、誰かが動いている。その気配がリアルに感じられ、千夏の背筋に冷たい汗が伝う。
「ひっ……! ふ、ぁ……っ」
氷室の手がさらに深く、臀部の割れ目へと侵入してきた。千夏は身体を海老反らせ、無言の絶叫を上げた。頭の中が真っ白になる。理性が弾け飛ぶ。ダメ、そこは、声が出ちゃう。
だが、氷室は止まらない。「息を吐け」。無言の圧力が指先から伝わってくる。千夏は口をパクパクと開閉し、声帯を震わせないようにしながら、熱い呼気だけを断続的に吐き出した。
ハッ、ハッ、ハッ……。
その音は、まるで獣の荒い息遣いのようだった。恥ずかしい。こんな音を自分が立てているなんて。でも、止められない。氷室の指は残酷なまでに巧みに、彼女の弱点を突き続ける。筋肉の深層をえぐり、神経を弾き、千夏を快楽の地獄へと突き落としていく。
千夏の目から生理的な涙が溢れ出した。苦しい。気持ちいい。怖い。シーツを握る指の関節が白くなり、爪が食い込んで破れそうだ。限界だった。
隣室のテレビの音がわずかに大きくなった瞬間、千夏の中の何かが決壊し、全身が激しく痙攣した。音のない絶頂。脳髄が痺れ、身体が浮遊する。魂が肉体から剥がれ落ち、白い光の中へと溶けていくような感覚。
氷室の手が離れた時、千夏は汗だくで施術台に沈み込み、ピクリとも動けなくなっていた。隣の部屋からは、変わらずテレビの音がくぐもって聞こえている。誰も気づいていない。この薄い壁一枚隔てた場所で、千夏が地獄のような快楽に堕ち、倫理的な死を迎えていたことを。世界の日常は何一つ変わらず続いているのに、千夏の中身だけが決定的に書き換えられてしまった。
「……よく我慢した。合格だ」
氷室が満足げに言い、千夏の汗ばんだ髪を優しく撫でた。千夏はその手に頬を擦り寄せた。安堵と、達成感と、そして底知れぬ背徳感が胸を満たす。私はもう、普通の世界には戻れない。このスリルと、この指が与えてくれる救済なしでは、一日たりとも生きていけない。
千夏はぼんやりとした視界で氷室を見上げた。薄暗い部屋の中で、彼の眼鏡がモニターの光を受けて冷たく光っている。その瞳に映る自分は、きっと酷く淫らで、哀れな顔をしているに違いない。けれど、それでよかった。彼だけの秘密のおもちゃになれるなら、共犯者としてこの秘密を抱えていけるなら、どんな代償を払っても構わないと、千夏は心からそう思った。
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第13話:禁断症状
遠征から戻った翌日の練習は、奇妙なほど身体が重かった。筋肉痛や疲労といった物理的な要因ではない。関節の噛み合わせが悪く、歯車が錆びついた機械を無理やり動かしているような、不快な摩擦熱が全身を蝕んでいる。千夏はシュート練習の合間に、何度も首を回し、肩を揺すった。遠征先のホテルで、あの薄い壁の中で与えられた極上の快楽と解放感は、一夜にして消え失せ、代わりに鉛のような渇きが身体の深層に沈殿している。まるで、麻薬の効果が切れた中毒者が味わう禁断症状のようだった。千夏は無意識のうちに視線で彼を探していた。氷室透。私の身体を正しく機能させるための鍵を持つ男。彼はコートの隅、メディカルステーションのパイプ椅子に座り、淡々と仕事をこなしていた。だが、その光景が千夏の神経を逆撫でした。
氷室の前には、三年目の先輩選手が座り、足首を出していた。氷室は何の感情も読み取れない横顔で、テープを切り、慣れた手つきでアンダーラップを巻いていく。その指先が、先輩の白い皮膚に触れる。アキレス腱をなぞり、くるぶしを包み込む。
千夏の視界が、一瞬赤く染まったような錯覚を覚えた。
嫌だ。見たくない。
胸の奥で、どす黒い感情がとぐろを巻く。それは単なる独占欲を超えた、生理的な嫌悪感と激しい嫉妬だった。あの手は私のものだ。あの冷たくて、でも芯まで熱くしてくれる指先は、私の筋肉を解すためにあるはずだ。どうして他の女に触れているの? どうしてそんなに平然としていられるの? 千夏は自分がボールを握りしめる手に、異常な力が籠もっていることに気づいた。爪が革に食い込む。先輩選手が氷室に何かを話しかけ、氷室が短く答えて薄く笑ったように見えた瞬間、千夏の胃袋が嫉妬の酸で焼け爛れるような激痛を訴えた。
あれは仕事だ。トレーナーとして当然の行為だ。頭では分かっている。理性はそう告げている。だが、千夏の本能はそれを「浮気」だと認識していた。秘密の共有、痛みの共有、そしてあの夜の共犯関係。それらすべてを経た今、千夏にとって氷室は単なるスタッフではなく、自分の魂と肉体の所有者になっていたのだ。所有者が、所有物以外を愛でることは許されない。そんな歪んだ論理が、千夏の脳内を支配していく。
「千夏、ボーッとしてないで! リバウンド!」
キャプテンの牧原に怒鳴られ、千夏はハッと我に返った。慌ててボールを追いかけるが、足がもつれそうになる。身体のバランスが狂っている。重心が定まらない。氷室の手によるチューニングがなければ、私はただのポンコツなのか。その事実を突きつけられるたびに、惨めさと彼への渇望が募っていく。
その日の夜、千夏は選手寮の自室で、一人フォームローラーと格闘していた。今日は「施術なし」の日だ。氷室からは『遠征の疲労を考慮し、今日はオフとする。セルフケアで済ませろ』という短いメールが届いただけだった。拒絶されたわけではない。合理的な判断だ。けれど、千夏にとっては、餌を待つ犬がお預けを食らったような絶望感があった。
千夏は硬いローラーの上にふくらはぎを乗せ、体重をかけてゴリゴリと押し付けた。
痛い。ただ、痛いだけだ。
皮膚が擦れる摩擦と、筋肉が圧迫される鈍痛はある。だが、そこには何の快楽もない。氷室の指なら、もっと的確に、もっと深く、痛みの核を捉えてくれるはずなのに。ローラーは無機質に表面を撫でるだけで、奥底にある一番解してほしい部分には決して届かない。
「……違う、そこじゃない」
千夏は苛立ちを込めて呟き、ローラーを蹴り飛ばした。プラスチックの塊が壁に当たって乾いた音を立てる。
自分の手で太ももを揉んでみる。鼠径部のリンパを流そうと指を押し込んでみる。だが、自分の体温と同じ温度の手では、何の刺激にもならない。まるでゴムの人形を触っているような感覚。自分の身体なのに、自分の感覚が通っていないようだ。
足りない。圧倒的に足りない。
氷室の冷たい指の温度。体重を乗せた時の重み。耳元で囁かれる支配的な言葉。そして、痛みが限界を超えた瞬間に訪れる、あの脳が溶けるようなリリース感覚。あれがないと、身体が強張って呼吸さえ満足にできない。
千夏はベッドに倒れ込み、枕に顔を埋めた。身体中が熱い。風邪の発熱とは違う、芯から湧き上がるような渇望の熱だ。シーツを握りしめる。昨日のホテルの狭いベッドで、声を殺して耐えた記憶が蘇る。あの時の恐怖と興奮が、今は愛おしくてたまらない。
「先生……」
口から漏れたのは、助けを求めるような、あるいは愛を乞うような弱々しい声だった。
スマートフォンを手に取る。メッセージアプリを開き、氷室の名前を表示させる。
『足が痛いです』『眠れません』『会いたいです』
打っては消し、打っては消しを繰り返す。もし「甘えるな」と突き放されたら、今度こそ心が壊れてしまうかもしれない。あるいは、面倒な女だと思われて、契約を切られるかもしれない。それが怖くて、送信ボタンが押せない。
千夏はスマホを胸に抱き、胎児のように丸まった。身体の節々が軋む。幻肢痛のように、氷室に触れられた場所が疼いている。太ももの内側に残るあざが、ドクンドクンと脈打ち、彼の所有印であることを主張してくる。
認めるしかなかった。私はもう、彼なしでは走れないどころか、まともに生活することさえできなくなっている。ドーピングと同じだ。一度知ってしまったら、もう元の身体には戻れない。
今日一日は我慢しよう。明日はきっと、呼んでくれるはずだ。もし呼んでくれなかったら、どうすればいい? 自分から特別室へ押しかけるか? そんな惨めなことができるのか?
千夏は答えの出ない問いを反芻しながら、長く苦しい夜を過ごした。孤独な部屋の静寂が、これほどまでに恐ろしいものだとは知らなかった。彼女の心は、完全に「氷室透」という劇薬に依存し、蝕まれていた。
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第14話:疑念の種
深夜二時。重厚な防音扉がごく僅かな隙間を開け、そこから小山内千夏が廊下へと滑り出てきた。足元がおぼつかない。膝に力が入らず、壁に手をついて身体を支えるのがやっとだった。だが、その千鳥足は疲労困憊によるものではなく、許容量を超えた快楽を神経に流し込まれた後の、特有の気怠い虚脱感によるものだった。今日の施術は、二日分の空白と渇望を埋めるかのように濃厚で、そして執拗だった。氷室は千夏の身体が求めている場所を正確に理解し、焦らし、責め立て、最後には脳髄が白く焼けるほどのリリースを与えてくれた。身体の奥底に溜まっていた重い澱がすべて洗い流され、今はただ、溶けたバターのような純粋な充足感だけが、指先から毛根に至るまで満ちている。千夏は熱を帯びた頬を冷たい手の甲で冷やしながら、誰もいないはずの深夜の廊下を歩き出した。髪は汗でしっとりと湿り、首筋には氷室が最後に擦り込んだ鎮静用のアロマオイルの香りが、まるで所有印のように残っている。今の自分は、誰が見ても練習帰りのアスリートではなく、密室での情事を終えたばかりの「女」の顔をしているだろう。鏡を見なくても分かる。緩んだ口元、潤んだ瞳、そして火照った肌。だが、こんな時間に誰かが起きているはずがない。そう高を括っていた千夏の油断は、自動販売機のある角を曲がった瞬間に、粉々に打ち砕かれた。
「……やっぱり」
暗闇の中から、低い声が響いた。氷のような冷たさを帯びたその声に、千夏は心臓が止まるかと思った。息を飲み、筋肉が硬直する。自動販売機の人工的な明かりに逆光で照らされ、腕組みをして壁に寄りかかっている人影があった。藤堂エレナだった。彼女はチームジャージ姿で、手には未開封のスポーツドリンクを持っている。偶然通りかかったのか、それとも確信を持って待ち伏せしていたのか。その表情は影になって読み取れないが、全身から放たれる研ぎ澄まされた冷気は、隠しようもなかった。
「え、エレナ……? どうして、こんな時間に……」
千夏の声は震え、掠れていた。必死に平静を装おうとして背筋を伸ばすが、乱れた呼吸と、衣服の下から立ち昇る熱気までは隠せない。エレナは壁から背を離し、ゆっくりと、音もなく千夏に近づいてきた。その視線が、千夏の乱れた前髪、汗ばんだ首筋、そして微かに震える指先へと、舐めるように這う。それは獲物の弱点を探る捕食者の目であり、同時に、罪人を断罪する冷徹な審問官の目でもあった。
「眠れなくて、水を買いに来たのよ。……あなたは?」
エレナが問いかける。その声には、答えなど求めていない、結論ありきの響きがあった。彼女の視線は、千夏が今しがた出てきた方向――突き当たりにあるトレーナー室と、その奥にある特別処置室の方角へと向けられている。そこにはもう、深夜に稼働している施設などないはずだ。
「わ、私も……ちょっと、喉が渇いて。目が覚めちゃって」
「自販機はこっちよ。あっちには何もない。あるのは鍵のかかった部屋と、氷室さんのいる部屋だけ」
逃げ場を塞ぐような的確な指摘。千夏は言葉に詰まった。嘘をつくことさえ許されない、圧倒的な「事実」が目の前にある。千夏は視線を泳がせ、エレナから目を逸らそうとしたが、エレナはさらに一歩踏み込み、千夏との距離を詰めた。鼻をひくつかせ、眉をひそめる。
「……すごい匂いね。アロマオイル? それに、この独特な湿布の匂い」
エレナの手が伸び、千夏の熱い頬に触れようとして、まるで汚いものを見るように寸前で止まった。その拒絶の動作が、言葉以上に千夏を傷つけた。
「目が、潤んでる。息も上がってる。肌も赤い。……今、何をしてきたの?」
確信に満ちた問い。千夏は後ずさり、背中が冷たい壁に当たった。否定しなければならない。「自主練をしていた」「一人でストレッチをしていた」。どんな嘘でもいいから吐かなければならない。だが、施術直後の千夏の脳は、氷室によって与えられた快楽の余韻で麻痺しており、咄嗟の機転が利かなかった。口をパクパクと開閉させ、酸素を求める魚のように喘ぐことしかできない。その無様な姿を見て、エレナは冷酷なまでに冷静な結論を下した。
「……そう。そういうことね」
軽蔑。失望。そして、決定的な拒絶。エレナの瞳から、千夏に対する「ライバルとしての敬意」や「チームメイトとしての情」が完全に消え失せた。そこにあるのは、神聖なスポーツの場を冒涜する不純物を見る目だけだ。エレナは千夏を見下ろし、吐き捨てるように言った。
「黒だと思ってたけど、真っ黒ね。……最低。プロの選手ではなく、女として生きたいなら、引退して結婚した方がいいわよ」
その言葉は、鋭利な刃物となって千夏の胸を貫いた。プロ失格。お前はアスリートではない、ただの「女」だという宣告。それは、これまで千夏が必死に積み上げてきた努力やプライドを、根底から否定する呪いの言葉だった。千夏は反論しようとしたが、声が出なかった。否定できない。今の自分は、確かに「選手」の顔をしていない。氷室に愛玩され、快楽に溺れた「雌」の顔をしているのだと、自分でも分かっていたからだ。
エレナはそれ以上何も聞こうとはせず、千夏の横を通り過ぎていった。すれ違いざま、彼女の肩がわざとらしく千夏にぶつかる。その衝撃は小さかったが、千夏の心を粉砕するには十分だった。
遠ざかっていくエレナの背中を見送りながら、千夏はその場に崩れ落ちた。冷たい床に膝をつく。終わった。バレた。言い訳のしようもない姿を見られた。明日、彼女はどう出るだろうか。監督に報告するのか。それともチーム全員の前で暴露するのか。恐怖で胃が縮み上がり、吐き気がこみ上げる。
だが、不思議なことに、千夏の中に後悔はなかった。
むしろ、開き直りに近い、暗く冷たい感情が芽生え始めていた。
どう思われたっていい。軽蔑されたっていい。私には先生がいる。あの部屋がある。あの快楽さえあれば、他には何もいらない。正攻法で勝てないなら、私は私のやり方で生き残るしかないじゃないか。
千夏は震える足で立ち上がった。その瞳には、追い詰められた獣のような、昏く濁った光が宿っていた。
もう、戻れない。戻るつもりもない。
千夏は自分の太ももの内側、エレナには見えない場所に残るあざを、服の上から強く握りしめた。ズキリとした痛みが走り、それが今の彼女にとって唯一の現実的な支えだった。彼女はエレナの言葉を反芻した。「女として生きたいなら」。いいえ、私は両方手に入れる。女としての悦びも、選手としての勝利も。氷室の手を使って、全てを貪り尽くしてやる。千夏は歪んだ決意を胸に、自分の部屋へと足を向けた。
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第15話:問い詰め(正論)
翌日の練習は、千夏にとって呼吸をするのも憚られるような、冷たく鋭利な針の筵だった。コートに一歩足を踏み入れるだけで、背中に絶対零度の視線が突き刺さるのを感じる。視線の主は、言うまでもなく藤堂エレナだ。彼女は練習中、一度も千夏に話しかけてこなかった。セットプレーの確認でも視線を合わせず、マッチアップになれば、ボールとは関係のない局面でも必要以上に激しく身体をぶつけてくる。その無言の圧力と拒絶のオーラは、チーム全体に微かな、しかし無視できない不協和音を生んでいた。周囲の選手たちも二人の間の異様な空気に気づき始めているが、エレナの圧倒的な実力と正しさを前にしては、誰も口を挟めない。全体練習が終わり、選手たちがクールダウンのために散り始めた時、千夏が最も恐れていた瞬間がついに訪れた。
「小山内。ちょっといい?」
エレナのよく通る声が、静まり返りかけた体育館の空気を切り裂いた。他の選手たちが何事かと顔を上げる中、千夏は逃げ出したい衝動を太ももを抓って抑え込み、ゆっくりと振り返った。エレナはコートの隅、マットやボールカゴが積まれた用具置き場の陰になる死角を顎でしゃくった。拒否権など最初から存在しない。千夏は鉛を詰め込まれたような重い足取りで、彼女の後を追った。
他の選手からの視線が遮断された死角に入った途端、エレナが振り返り、腕組みをして千夏を見下ろした。その表情は、昨夜の廊下で見せた軽蔑の色をさらに濃くし、冷徹な怒りを氷の刃のように湛えていた。
「単刀直入に聞くわ。……あなた、身体で枠を買ってるの?」
あまりに直球で、かつ侮蔑的な問いに、千夏は息を飲んだ。心臓が早鐘を打ち、冷や汗が背中を伝う。
「ち、違います! そんなこと……」
「じゃあ、昨日のあれは何? 深夜に男性トレーナーの個室から出てきて、あんな乱れた格好で、独特な甘い匂いをさせて。しかも、太もものあんな際どい場所に、キスマークみたいなあざをつけて」
エレナが一歩踏み込む。その物理的な圧迫感に、千夏は思わず後ずさった。背中が冷たい壁に当たる。
「言ったでしょ、マッサージだって。氷室先生は、私の怪我を治すために……」
「怪我?」
エレナが眉をひそめ、千夏の言葉尻を鋭く捕らえた。
「やっぱり怪我してたのね。隠してプレーしてたんだ。……インジュリー・リスト入りを避けるために」
しまった、と思った時には遅かった。誘導尋問にまんまと引っかかったのだ。千夏は唇を血が滲むほど噛んだ。
「……大したことない怪我です。もう治りました」
「治った? そんな短期間で? あんなに足を引きずってたのに、昨日は私を抜き去るほどのスピードを出してた。おかしいと思ったのよ。通常のリカバリーで、あんな急激な変化が起きるわけがない」
エレナは鼻で笑った。それは千夏の拙い嘘を嘲笑う、強者の笑みだった。
「ねえ、本当に薬はやってないの? それとも、あのトレーナーが何か、医学的にも倫理的にもグレーな『特別なこと』をしたの?」
特別なこと。その言葉が、千夏の脳裏に昨夜の施術の記憶を鮮明に呼び覚ます。声を殺して快楽に耐えた時間。視覚を奪われ、オイルと指先で弄ばれた陶酔。あれは確かに特別だった。けれど、それを言葉にして説明することは、自分自身の尊厳を自らドブに捨てることと同義だった。
「……言えません。これは、私と先生の契約ですから」
千夏が精一杯の虚勢を張ると、エレナの顔から感情の色が消え、能面のような冷たさが張り付いた。
「契約ね。……身体を差し出して、パフォーマンスを買う契約?」
パチン、と乾いた音が鼓膜の奥で鳴った気がした。エレナの言葉は、物理的な平手打ちよりも痛く、千夏のアスリートとしてのプライドを粉々に打ち砕いた。
「最低ね。軽蔑するわ」
エレナは冷たく、そして静かに言い放った。
「私たちは、自分の力で戦ってるの。毎日汗水流して、食事制限して、筋肉を鍛えて、技術を磨いて。それこそがスポーツでしょう? それなのにあなたは、裏口から入ってきて、汚い手を使って、努力している人間からスタメンを奪おうとしてる」
正論だった。あまりにも正しい、一点の曇りもない光の側の論理。千夏には反論する資格がなかった。だって、その通りなのだから。私は自分の力だけでは勝てないと思ったから、弱さに負けて氷室の手を取った。魂を売って、インスタントな強さを手に入れた。
「でも……勝ちたいんです」
千夏は震える声で絞り出した。涙が滲んで視界が歪む。
「エレナさんには分からないでしょうね。天才のエレナさんには、凡人の焦りなんて。……どんな手を使っても、私はここに残りたいんです。結果が出なければ捨てられる、それがプロの世界でしょう!?」
「凡人? バカにしないで」
エレナが初めて感情を露わにして激昂した。
「私が天才? ふざけるな! 私がどれだけ練習してるか、あんた見てないの!? あんたがコソコソ男の部屋で情事に耽ってる間も、私はずっとウエイト場にいたわよ! 自分の弱さと向き合わずに安易な道を選んだ人間が、必死にやってる人間を『天才』の一言で片付けるな!」
エレナの叫びが、千夏の胸に突き刺さる。そうだ、彼女は努力の人だ。誰よりも練習し、誰よりも自分を律している。だからこそ、千夏の「近道」が許せないのだ。生理的に、倫理的に、どうしても認められないのだ。二人の間には、決して埋まることのない深い溝が横たわっていた。
エレナは大きく息を吐き、乱れた呼吸を整えると、哀れむような目で千夏を見た。
「もういいわ。あなたとは話にならない。……住む世界が違いすぎる」
エレナは千夏に背を向け、去ろうとした。だが、数歩進んだところで立ち止まり、振り返らずに言った。
「監督には言わないでおいてあげる。……証拠もないし、言ったところでチームの雰囲気が悪くなるだけだから。でも、覚えておいて」
エレナは顔だけを千夏に向け、その瞳を鋭く細めた。
「……それと、そこまでは堕ちていないとは思うけれど、違反薬物には手を出さないでね。あなたたちだけの問題ではなくなるから」
それは、最後通告だった。チームを守るキャプテンシーと、堕ちていくかつてのライバルへの僅かな情け。その「慈悲」こそが、千夏にとっては最も屈辱的だった。見逃されたのだ。相手にする価値もないと判断されたのだ。
エレナは今度こそ背を向け、走り去っていった。その背中はあまりにも遠く、眩しかった。
千夏は一人、薄暗い用具置き場の陰に残された。体育館の冷たい空気が、汗ばんだ肌を冷やしていく。汚い身体。その言葉が、呪いのように心に張り付いて離れない。千夏は自分の手を見つめた。この手で掴んだボールも、決めたシュートも、すべて「汚い」のだろうか。ふと、視界が歪み、熱い涙が頬を伝った。悔しい。惨めだ。情けない。
でも、それ以上に強烈な、どす黒い感情が、千夏の腹の底で渦を巻き始めた。
――だったら、証明してやる。
この身体が、汚くても強いということを。正義だの努力だのという綺麗な言葉を、氷室先生が作り上げたこの肉体がねじ伏せるということを。結果さえ出せば、誰も文句は言えないはずだ。
千夏は涙を乱暴に拭い、拳を強く握りしめた。爪が皮膚に食い込み、痛みで意識が覚醒する。もう、誰にも分かってもらえなくていい。私には先生がいる。共犯者として、地獄の底まで付き合ってくれる人がいる。あの部屋の鍵さえ開いていれば、私は生きていける。
千夏の中で、最後の良心が音を立てて崩れ去り、代わりに昏い復讐の炎が燃え上がった。彼女はエレナが消えた方向を睨みつけると、迷いのない足取りで、氷室の待つ特別室へと歩き出した。
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第16話:氷室の独占欲
エレナに絶縁を宣言された翌日の練習は、千夏にとって呼吸をするのも苦しい、精神的な拷問にも等しい時間だった。コートに立っているだけで、全方向から見えない棘が突き刺さってくるような感覚に襲われる。集中しようとすればするほど身体が強張り、視野が狭くなり、普段ならあり得ないようなイージーなパスミスを連発してしまった。「どうしたの?」「調子悪いんじゃない?」というチームメイトたちのひそひそ話が、すべて自分を嘲笑い、非難する声に変換されて鼓膜を叩く。孤立。その二文字が鉛のように重くのしかかり、千夏の精神を摩耗させていく。練習後のクールダウン中、ベンチの端でタオルを被って項垂れていると、ふいに温かい手が肩に置かれた。
「小山内、大丈夫か? 顔色が悪いぞ」
驚いて顔を上げると、そこにはフィジカル担当の男性コーチ、佐伯が心配そうな表情で立っていた。彼はチーム内でも温厚で知られ、選手からの信頼も厚い人物だ。エレナや他の選手たちが千夏を遠巻きにする中で、彼だけが以前と変わらない態度で接してくれた。その無防備な優しさに、千夏は張り詰めていた糸が切れそうになるのを感じた。
「あ……佐伯コーチ。すみません、ちょっと考え事をしていて」
「無理するなよ。お前は期待の新人なんだ。プレッシャーもあるだろうし、色々と言われることもあるかもしれないが、俺たちがついてる。何かあったらいつでも相談しろよ」
佐伯は優しく微笑み、励ますように千夏の肩をポンポンと叩いた。その何気ない優しさと、掌から伝わる人間的な体温が、孤独に凍えていた千夏の心にじわりと染み込んだ。思わず涙腺が緩みそうになるのを必死に堪える。自分が否定されていないという事実が、これほどまでに救いになるとは思わなかった。
「……はい。ありがとうございます」
千夏は深く頭を下げた。佐伯の手の温もりは、氷室の無機質で冷たい指とは違う、健全な安心感があった。だが、その光景を、体育館の二階にあるメディカルルームの窓から、爬虫類のような冷ややかな視線が見下ろしていたことに、千夏は気づいていなかった。
その夜、指定された時間に特別室に入った瞬間、千夏は室内の空気が物理的に凍りついているのを感じた。いつも焚かれている甘いアロマの香りは消え失せ、代わりに病院特有の、鼻を突くような鋭い消毒液の匂いが充満している。照明は薄暗く、部屋の温度も心なしか低い。氷室は腕組みをして壁に寄りかかり、入室した千夏を無言で睨みつけていた。その瞳には、これまでの冷徹な観察眼とは異なる、ドロドロとした昏い感情が渦巻いている。
「……遅い」
地を這うような低い声。千夏は反射的に身を縮こまらせた。
「すみません、ケアに時間がかかってしまって」
「ケア? 佐伯に媚びを売るのがお前のケアか?」
氷室の口から出た名前に、千夏は息を飲んだ。見ていたのだ。あのほんの数秒のやり取りを。
「ち、違います! コーチはただ、調子の悪い私を心配してくれて……」
「触らせたな」
氷室は千夏の言葉を遮り、音もなく一歩近づいた。その圧迫感に、千夏は後ずさりもできずに立ち尽くす。
「俺以外の男に、その身体を触らせたな」
「だ、だから、肩を叩かれただけで……変な意味なんて」
「黙れ!」
氷室の怒号が狭い室内に響き渡り、千夏は恐怖で肩を跳ねさせた。彼は乱暴に千夏の手首を掴み、問答無用で施術台へと引きずっていった。手首が痛いほど強く握られている。
「お前の筋肉は、俺が管理している。俺が調整し、俺が隅々まで把握して仕上げた芸術品だ。それを、あんな三流の指導者の手垢で汚されるなど、耐え難い屈辱だ。……不潔だ」
氷室は千夏をうつ伏せにさせると、ジャージの上から肩甲骨のあたり、佐伯の手が触れた場所を、まるで汚物を拭い去るかのように乱暴に擦った。
「痛っ……! 先生、痛いです!」
「痛いか? 当然だ。他人のノイズが入ったせいで、筋肉が緊張してバランスが崩れている。……消毒が必要だな」
氷室はいつものオイルも使わず、乾いた手で千夏の僧帽筋を鷲掴みにした。潤滑油のない皮膚の上を、硬い指が容赦なく滑り、肉に食い込む。それはマッサージというより、肉体への懲罰だった。ゴリゴリと骨に近い部分を削られるような痛みに、千夏は悲鳴を上げて身をよじったが、氷室は全体重を乗せてそれを封じ込めた。
「俺以外の男に触らせるな。視線も合わせるな。口もきくな。……お前の身体の所有権は、契約によって俺にあることを忘れるな」
理不尽な独占欲。狂気じみた嫉妬。だが、その激しい感情を向けられているという事実が、孤立無援の千夏には歪んだ喜びに感じられたのも事実だった。彼はこれほどまでに、私を見てくれている。私に執着し、私を自分のものだと言ってくれている。エレナに見捨てられ、チームメイトからも距離を置かれ、世界中から拒絶されたように感じていた千夏にとって、氷室のこの狂気だけが、唯一自分を繋ぎ止めてくれる命綱だったのだ。痛みが強ければ強いほど、彼の愛の深さを感じる。そんな異常な回路が、千夏の脳内で完成しつつあった。
「……ごめんなさい。もうしません。先生以外には、誰にも触らせません」
千夏は涙ながらに謝罪した。それは恐怖からの服従ではなく、愛を乞う女の懇願だった。私にはあなたしかいないのだと、全身全霊で訴える言葉だった。その言葉を聞いた瞬間、氷室の手から暴力的な力がふっと抜けた。彼は千夏の背中から手を離し、深いため息をついた。部屋の空気が一変する。
「……分かればいい。俺が一番、お前の身体を知っている。他の誰にも、指一本触れさせない」
氷室は呟くように言い、千夏の髪に触れた。だが、その手つきはどこかよそよそしく、すぐに離れてしまった。彼は背を向け、ワゴンの方へ歩き出した。突き放されたような感覚に、千夏は不安で顔を上げた。
「……だがな、お前にも選択権があることを忘れるな。俺は人形が欲しいわけではない」
背中越しの言葉に、千夏は心臓が凍りつく思いがした。選択権? どういうこと? 契約を破棄されるの? 見捨てられるの? 混乱する千夏を振り返り、氷室は冷徹な、しかしどこか自嘲的な響きを含んだ声で続けた。
「お前が俺を必要としないなら強制することはできない。施術にはお前自身による協力が必要だ。専門家として、嫌だという相手に施術することはできない」
「ち、違います! 嫌じゃありません! 私は先生に……」
千夏は施術台から身を乗り出した。嫌だなんて思ったことはない。痛かったけれど、それは私が悪かったからだ。捨てないでほしい。その一心で言葉を探すが、上手く出てこない。氷室は静かに首を横に振った。
「今日は俺の方が醜い独占欲で感情的になりすぎた。不必要な痛みを与えた分については悪かった。許してほしい。俺の謝罪を受け入れるかどうかを含めて選択権はお前にある」
氷室が頭を下げた。その姿は、あまりにも誠実で、そして残酷だった。彼は千夏に「自由」を突きつけたのだ。「許さない」と言ってここを出て行く自由を。だが、それは千夏にとって、この世界でたった一つの居場所を失うことと同義だった。外の世界には、エレナの軽蔑と、チームの冷たい視線しかない。ここを出て行けば、私はまた「弱くて惨めな自分」に戻ってしまう。それだけは耐えられない。
千夏は施術台から降り、氷室の背中にしがみついた。プライドも羞恥心もかなぐり捨てて、彼の白衣を握りしめる。
「謝らないでください……! 選択権なんていりません。私が悪いんです。私が、先生を怒らせるようなことをしたから……」
涙が溢れて止まらなかった。許すとか許さないとか、そんな対等な関係じゃない。私はあなたがいなければ呼吸もできないのだ。
「お願いです、捨てないでください。私には先生しかいないんです。どんなに痛くてもいい、何をされてもいいから、私を……私を、先生のものにしておいてください」
それは完全なる敗北宣言であり、魂の譲渡契約だった。氷室はしばらく沈黙していたが、やがてゆっくりと振り返り、千夏の身体を抱きしめた。強い力で。骨が軋むほどに。
「……そうか。ならば、もう迷うな。俺もお前を離さない」
耳元で囁かれたその声に、千夏は安堵で崩れ落ちそうになった。氷室の腕の中で、消毒液の匂いに包まれながら、千夏は深く息を吸い込んだ。ここが私の場所だ。痛みと嫉妬と独占欲で塗り固められた、窒息しそうなほど狭く、温かい檻。
氷室の眼鏡の奥で、冷たい瞳が怪しく光ったことに、彼女は気づかなかった。彼の謝罪も、選択権の提示も、すべては千夏からこの言葉を引き出すための、計算され尽くした演出だったことに。
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