水売りの男
雨が降り始めた繁華街で、彼女は男を見つけた。
スーツは古く、傘も差さずに立っている。
足元にはペットボトルが並べられているが、どれもラベルがない。
ただの水のように見える。
「……SNSで見たことある……」
彼女は呟いた。
キャバクラからの帰り道。
今日も客に笑顔を作り続けて、頬の筋肉が痛い。
「本当に……叶うの?」
男は何も言わず、一本のボトルを差し出した。
彼女が受け取ると、透明な液体が深紅に変わった。
香りを嗅いだ瞬間、息をのむ。
熟したベリー、バラの花、湿った木の香り――
複雑で柔らかくて、ひとつひとつが記憶のどこかを震わせる。
――こんな香り、教科書でしか知らなかった。
一口。
舌に触れた瞬間、涙がにじんだ。
柔らかくて、果てしなく繊細で、余韻が終わらない。
飲んでいるはずなのに、身体が飲まれていくような感覚。
「……まさか……これ、“あれ”なの……?」
ロマネ・コンティ。
世界中のソムリエが一生に一度と憧れる、幻の赤。
“神に選ばれた畑”とまで言われた、奇跡の味。
夢だった。
ワインに恋していたあの頃、いつか辿り着きたいと思っていた場所。
けれど現実は違った。
キャバクラの笑顔で食いつなぎ、夢は、安酒で洗い流された。
ボトルの最後の一滴まで飲み干して、彼女は小さく笑った。
そして尋ねた。
「ありがとう。代金は……?」
男は静かに答えた。
「……すでに、いただきました」
その声は、雨音にまぎれて消えていった。
彼女は家に帰り、鏡を見た。
そして気づいた。
笑えない。
どんなに口角を上げようとしても、顔が動かない。
心は泣いているのに、表情は、何も語らない。
彼女は、笑顔を売って得たワインと引き換えに、
“自分の笑顔”を失っていた
別の日。
夜勤明け――そう呼ばれてはいるが、実際には四日ぶりに現場から解放された帰り道だった。
コンビニの袋には、冷えた缶ビールと塩辛いスナック。
「晩酌って感じじゃないけど……まあ、いいか」
そう呟いて、彼は溜息をついた。
「……これで何連勤目だっけ……」
思わずこぼれた言葉に、自分でも小さく笑う。
誰も強制していない、という建前のもと、シフトは“自発的”に組まれている。
だが、断れば誰かが倒れる――そういう空気を、もう何年も吸っていた。
目の下の隈。
疲れ切った足取り。
「……なんで俺ばっかり」
独り言のように漏れる。
会社では“独身だから”という理由で無茶な要求を押しつけられ、
上司は「今が勝負だぞ」と、笑顔で言いながら毎日定時で帰って行くところを
何度も目にした。
ふと、目の前に“男”が立っていた。
濡れたスーツ、無言のまま、水のボトルを差し出す。
彼は反射的にそれを受け取った。
すると、中身が金色に変わる。
まるでエナジードリンクのように、煌めいていた。
一口、口に含む。
瞬間、全身を駆け抜ける活力。
痛みも疲労も、すべて消えた。
「……すごいな……」
彼は目を見開いたまま、空になったボトルを見つめた。
「代わりに、何を失ったんですかね……俺」
男は何も答えなかった。
その背中を見送りながら、彼は自宅へ戻った。
翌朝、人事部から彼の社用スマートフォンにメールが届いた。
件名:新プロジェクトチーム発足に伴う人事異動について
お疲れ様です。
表題の件について、来月1日付で「開発推進部 部長職」にご就任いただきたく存じます。
プロジェクト内容及び、待遇等の詳細は、出社時に別途ご説明いたします。
以上です。
彼はスマートフォンを見つめながら、小さく呟いた。
「……あのプロジェクト、本当に始動するんだ」
社内ではずっと噂になっていた。
無茶で、誰も手を挙げたがらない、いわくつきの案件。
責任の所在も曖昧で、ミスが出れば誰かが潰される――そんな空気だけが漂っていた。
(まさか、自分に回ってくるなんて…)
画面を伏せて、彼は目を閉じた。
けれど、もう眠気はどこにもなかった。
また別の日
古びた団地の一室。六畳間のフローリングには、ところどころ傷がついている。
カーテン代わりの布地の隙間から、夜の街灯が静かに差し込んでいた。
母親は、冷たい空気に肩をすくめながら扉を閉めた。
コンビニにも薬局にも、ミルクはもうなかった。バイト先が潰れてから、冷蔵庫の中は空っぽだ。
薄明かりの中、小さな布団に寝かされた子どもが、かすかに咳をした。
その声を聞いて、彼女はそっと頭を撫でる。
ふと、ふところにあるボトルに目を落とした。
商店街の裏路地で“あの男”から手渡された水――
見れば、中身は真っ白な液体に変わっていた。まるで温めたミルクのような、やさしい色と香り。
「……本物なんだね。YouTubeで見たことあるよ、“水商売人”。
声をかけられたらラッキー、だっけ……こんな状況で笑えるわけないけどさ」
彼女はくすっと笑ってみせた。自嘲気味ではあるが、どこか優しい響きが混じっていた。
「子どもできたってわかったとたん、元旦那に逃げられてさ。
学歴も資格もないまま働いて、フルタイムより長い時間バイトして……
やっと少し余裕ができたと思ったら、今度は物価が跳ね上がって、バイト先も倒産。
“お母さん、制度使えばいいんですよ”って、市の職員は言うけど、
あの目……まるで、何かの処理みたいだった」
ぽつり、ぽつりと吐き出される言葉。
止まれば崩れてしまいそうな声で、彼女は続けた。
「……ねえ、聞いてくれてる? いや、聞いてないか……でも……」
彼女はボトルを抱えたまま、うつむいた。
「答えてくれないのは、わかってる。でも、聞いてくれて……ありがとう」
彼女は空腹で泣いている子どもをそっと抱き上げ、ミルクを哺乳瓶に注いだ。
香りはあたたかく、どこか懐かしい。母の記憶にある“誰かがくれた優しさ”のようだった。
「たくさんは無理だけど、今日だけはおなかいっぱいにしてあげるね。
……ほら、泣かないで。大丈夫。ママがついてるから」
子どもは目を開け、静かにミルクを口にした。
喉を鳴らしながら、嬉しそうな眼をしている。
その笑顔を見届けると、彼女はそっと目を閉じた。
背中に、わずかな安堵と静けさが広がっていく。
しばらくして、ミルクを飲み終えた子どもが、すやすやと眠りに落ちる。
母の姿は、もうそこにはなかった。
机の上には、書きかけの書類が残されていた。
生活保護に関する申請用紙。綺麗な文字のまま、最後の一行が書きかけで止まっている。
そこに記されたのは、「子どもには、どうか温かい部屋を…」という言葉だけだった。
雨が降る夜、街の片隅に男は立っている。
傘も差さず、古びたスーツのまま。
足元には、無数のラベルのないボトルが並ぶ。
彼に声をかける者は、ほとんどいない。
だが、時折――ほんのわずかに――誰かが足を止める。
笑顔を失った女は、今も夜の街をさまよっている。
表情のないその顔に、人々は違和感を覚えながらも、誰も気づかない。
眠りを失った男は、今日も始発電車に乗り込む。
目は冴えたまま、脳は休まらず、心だけが疲れていく。
子を抱いた母の姿は、もうない。
だが、その部屋にはミルクの香りと、ぬくもりが残っていた。
小さな手が、未来を掴もうとするように、布団をぎゅっと握っていた。
水売りは、何も語らない。
だが、彼は知っている。
――人が何かを強く望むとき、
その代わりに手放す“何か”を、自分では選べないということを。
代償は、いつもその人が最も大切にしているもの。
気づいたときには、もう遅い。
それでも、今日も誰かが願いを抱く。
愛を、自由を、救いを、赦しを。
そして今夜もまた、
水売りの前に、新たな足音が近づいてくる。
静かな雨の音だけが、全てを包み込んでいた。