芸人先生
この前、兄と二人でゲームをして過ごしていると母がやってきて、「宿題はやったの?」と聞いてきました。不思議なのですが、なぜ大人は今やろうと思ったタイミングで声をかけてくるのでしょうか。その時私も兄も正に最後の勝負の最中だったのです。それが終われば宿題をやろうというタイミングでありました。やろうと思っていて声をかけられるとやる気は消えてしまうものです。大人が声をかけたばかりに行動をやめた子供は相当数いるはずです。私が今やるとこだったのに、と訴えると兄も私も怒られてしまいました。こういう親とのケンカは私の家だけではないと思われます。
やる気の問題は非常に大切です。
私はゲームなら寝ずに三日三晩やれるくらいに好きですが、校長先生の話などは1分と聞いていたくない。先生にも授業や話の上手い下手はあると思います。世の中面白いもの、楽しいものは繰り返し見ても飽きませんが、退屈なものは一度で充分であります。
学校の授業も同じです。話の上手い先生の授業は退屈にならず、あっという間に時間は過ぎ、授業の密度も高いように感じるものですが、つまらない授業は苦痛であり、まだかまだかと時計を見てなかなか進まない針に余計疲れ、次第に眠気さえ感じだし、終わる頃には何の話をしていたのか覚えていないということも少なくない。
先生方は我々子供達に注意します。「居眠りをするな」とか、「ちゃんと聞いていないと大人になったとき困るぞ」とか。そうした助言は親切からくるものなのかもしれませんが、私は本当に我々のことを思うのなら退屈しない授業をする努力をしてほしいと思うこともあります。退屈させない努力とは、聞いてもらう努力であります。政治家だって答弁中に居眠りをしているのだから、なにも子供だけの問題ではないはずです。
授業の面白さはそのまま成績に繋がると私は考えています。楽しいものは記憶に残り、退屈なものは記憶に残らずすぐ忘れてしまいます。墾田永年私財法、聖徳太子に小野妹子、語呂の面白さは記憶に残り、退屈な話は退屈だったことしか覚えていません。私はこの自説をもとに学力底上げの政策をここに掲げます。
話の上手い人と言えば人前で話すことを仕事としている人であります。私は芸人の皆さんに学校の先生をやっていただきたい。漫才でもコントでも、どんな手段でも良いので面白い授業をやってほしい。面白いものは何度でも見たくなります。そして勉強とは反復学習の積み重ねであり、繰り返すほど良い。面白い授業を繰り返し見るたびに学習も深まるのです。
楽しい授業はやる気にもつながります。今日の授業はどんなだろうかと想像しながら通学できることの喜びはどうでしょう。友達との会話が授業の面白さを語ったものであったらどうでしょう。学校が学びの場として退屈しない場所であったなら、学力は向上し、笑いは心を健康にし、毎日通うことが苦でない理想の教育の場と言えるでしょう。
先生方が新たにお笑いを学んだり、落語のような達人の話し方を授業に取り入れるよりも、話のプロが授業を取り込んだ話をすることの方がずっと面白いと思うのであります。
私の教育改革は、まずここから始めようかと思っています。




