3:抜け道
『件名:戦闘中のバグによる敗者復活のお知らせ
本文:
※本内容は、他社への口外は控えるようお願いいたします。
名無しAさま
WMカテゴリ大会運営です。
このたび、WMカテゴリにおいて行われた三位決定戦において、バグの発生を確認いたしました。
プレイヤー視点からのバグの詳細についてヒアリングを実施したく、添付の場所までお越しください。
現時点での解析結果も同時にご説明させていただく予定です。
また、バグの影響と本人様の希望次第では敗者復活戦の開催も想定しております。
今回の情報は解析が進んでおらず、全てが不確定情報であるため、
ヒアリング実施までは他者への口外は控えるようお願いいたします。 』
翌日、オープンスペースの誰もいない路地裏で、僕は昨日のメッセージを見ていた。
昨日、コミュニティスペースでもメッセージの確認はしていたが、情報を他社に口外しないよう釘を刺されていたので、昨日は内容を読み込むことはせずにログアウトした。
メッセージを周りの人間にも見せられるようにするには別途設定が必要なので、コミュニティスペース『ゲーム部屋』でメッセージを開いても誰かに見られる心配はなかった。でも、僕がメッセージを見ることで、動揺が伝わってしまうのも間違いない。それに、内容は見られなくてもメッセージを見ていることは分かる。
僕が見たのはやはりバグだったのかと少し安心する気持ちも感じつつ、敗者復活戦という単語に不安も覚えていた。仮に敗者復活のチャンスがあったとしても、敗者復活したらしたで世間から何か言われないだろうか。
そもそも昨日の試合は僕が勝っていたかと聞かれると怪しかった。カリーが消滅していたと認識していたからこそ僕はあの場面で勝ちを確信していたけれど、カリーが消滅していなかった場合、あの試合の勝敗は僕の回避が成功するかしないかにかかっていた。何度もリプレイを見返して、ダメージ計算もちゃんと行って検証した。
回避が成功した上で、僕目線ではHANAEさんに水風船―――通常攻撃を一発か二発当てなければいけなかった。対するHANAEさん目線は、ハンマーの通常攻撃を二発、又はカリーの攻撃を三発。それか、ハンマーの通常攻撃を一発とカリーの攻撃を一発ずつでもいい。僕のレンタルモンスターであるコビーの魔力が尽きていたことも加味すると、僕の勝率は四割…三割もないくらいだろうか。
リプレイを何度も見返したからこそ、僕は結果に不満はなかった。試合直後こそ結果に影響が出たかもしれないと思ったが、バグが出ても出ていなくてもHANAEさんが勝っていたと思う。
だからといって、出向かない訳にはいかない。バグが発生したなら報告するべきだし、勝敗に大きく影響してしまう機会もあるかもしれない。これからもWMカテゴリは続けるつもりだし、界隈が良くなっていくことは僕にとってもプラスだ。
ヒアリングをなるべく早く行いたいのか、指定された日時は対戦翌日である今日の午後六時だった。昨日の時点でパラ見ではあるものの確認はしていたので、ある程度余裕を持ってログインし、集合場所が書かれている添付ファイルを開いていた。
『スタジアムの裏側へ回り、一つだけある赤い屋根の建物を目指して歩く』
スタジアムは、昨日の大会のような何かしらのイベントがない場合は自由に使用できる。つまりは公式でない、友人同士での対戦や、対戦だけではなくボードゲーム等の別のゲームの会場としても使用できる。仮にスタジアムを使用しているユーザーが既に存在しても、チャンネルが別途用意されるので別のユーザーがスタジアムを使用することもできる。ちなみに他のユーザーに対してオープン、つまりイベント内容を公開してコミュニティの宣伝・拡大をすることもできるし、もちろん非公開で身内だけで楽しむことも可能だ。イベントの内容を動画投稿して人気を得ているユーザーもいる。
当然、基本的には公開しているユーザーは少ないので、何もイベントの予定のない今日はスタジアムには人はいない。他のスペースから直接スタジアム内部にファストトラベルできるので、スタジアムの中には人はいるだろうけど、少なくともスタジアムの前に人が集まることはないだろう。
何かから隠れている訳ではないが、人に見られていないか確認しながらスタジアムの裏側に回る。
基本的に利用率の高い場所にはファストトラベルができるので、スタジアムの裏のような特に何もない場所に人が訪れることは少ない。逆に怪しまれる動きになるだろう。
裏に回ると、指示通り赤い屋根の建物が一つだけ見える。路地裏のように入り組んでいる地形だけど、目印が大きくて目立つ分迷うことはない。
ちょうど赤い屋根の建物の角部分に到達した。オープンスペースをここまでくまなく散歩したことはなかったので、路地裏のような場所があるとは思っていなかった。どうやら同じ広さの四角形の建物を等間隔に並べたように配置して、その間に通路があるような配置になっているようだ。高さこそそれぞれ異なっているが、面積だけで考えれば寸分の狂いもないのだろう。
『赤い建物に着いたら、建物の外周を時計回りに一周する』
一周する意味はよくわからないが、指示に従って進む。一周すると何かが変わるような仕組みがあるのだろうか?運営が直接管理しているオープンスペースにそんな仕掛けがあるのなら、掲示板とかで既に話題になっていると思うけど…。
「…」
ちょうど一周を終えたが、特に何も変わらない。首をかしげながら次の手順を見る。
『今立っている十字路から、街灯がある通路に向かって進む』
前後左右を見渡すと、ちょうど今時計回りで進んできた進行方向の真後ろに街灯が見えた。電気はついていないが、他の道にはオブジェクトが無いので間違いないだろう。
本来の目的とは別に、だんだん楽しくなってきた。小さい頃、公園とかでこういうゲームをひとりで作っていた気がする。遊具にヒントを置いて、次のヒントに誘導して、最後にゴールに辿り着く…宝探しのようなゲームだ。
…誰かにやってもらったことは一度もなかったが。
街灯に辿り着き、もう一度手順を見る。
『街灯から、次の通路を右に曲がり、その次の通路を左に曲がり、そのまま進む』
…?
違和感を感じながら、指示通りに進む。通路を右に曲がると、オープンスペースの主要場所から離れたからか薄暗くなっていた。何も見えないほどではないので、そのまま進み、次の通路を左に…。
「…」
案の上、目の前には壁しかない。
進んでいる途中で気付いていたが、オープンスペースの端に向かって歩いているので、いずれは一番端…最北端に辿り着くとは思っていた。オープンスペース自体が宙に浮いているような構造なので、オープンスペースの端は落ちないように高い壁と金網に囲まれている。端に向かって歩けば、当然この壁にぶつかるだろう。
メッセージに書かれている手順はまだ続いている。どこかで手順を間違えたのだろうか。
振り返っても、特に何もないし誰もいない。からかわれたのかと思いつつ、メッセージを読み返す。
『街灯から、次の通路を右に曲がり、その次の通路を左に曲がり、そのまま進む』
…そのまま進む?
オープンスペースの端を意味する高い壁に張り付くように近づき、左右を見渡す。やはり左右には人が通れるような道は他にない。
「!」
おそるおそる正面の壁に左手を伸ばして金網を掴もうとしたが、掴めなかった。そのまま左手を少し奥に押し入れると、左手が壁に埋め込まれるように吸い込まれていく。
そのまま手を握ったり開いたりしてみるが、ちゃんと手の感覚はある。試しに右手側にある建物の壁を触ってみるが、こちらにはちゃんと壁の感触が返ってくる。正面の壁はダミーで、実は通り抜けられる…ということだろうか。
少し躊躇ったが、おそるおそる歩を進めた。目を瞑って金網に向かって進むと、金網に引っかかることなく、壁にぶつかることもなく前に進むことができた。足の踏み場があることを確認しながらおそるおそる目を開くと、オープンスペースと変わらない空間がそのまま先に続いている。後ろを振り返ると、ちゃんと今通ってきた壁があった。
オープンスペースやコミュニティスペースはそれぞれ個別の空間になっている。つまりはオープンスペースを端から端まで移動しても、どれだけ上下に移動しても、コミュニティスペースやスタジアム内部等、他のエリアに移動することはない。別の空間への移動は必ずファストトラベルのようにワープ移動となり、それぞれが独立した空間に存在している。
だから、今僕がいるこの場所はオープンスペースの端を示す壁の外ではあるものの、この空間は結局オープンスペースの延長線上になっていると思う。セキュリティの強固なオープンスペースの外に出るのは億劫だけど、オープンスペース内であるならばその不安も消える。
試しにモバイルモニターを起動して、画面を拡張してみる。コミュニティスペースでは画面の拡張に制限はないが、オープンスペースなら拡張制限があるので一定の大きさまでしか広げることができない。案の定、モバイルモニターは一定のサイズで拡張できなくなった。
やっぱり、オープンスペースの規定をそのまま踏襲している。オープンスペースで定められている規律、及び安全性が失われた訳ではないようだ。
周りを見渡してみると、壁の外は壁内のオープンスペースとは異なり、外装がかなり無機質になっている。壁内にあるようなモニターもなければ、徘徊しているセキュリティボットもいない。壁のデザインもただの灰色のコンクリートのような壁が広がっているだけだ。しかも、均等に整理された配置ではないようで、左右の壁は高さが統一されていない上、少し進むごとに高さが階段状に変わっている。場所によっては斜めになっているような場所もあり、外装が無機質なだけで規則性は感じない。登ろうと思えば登れる場所もあるだろう。
続くメッセージを確認し、手順を見る。
『そのまま道なりに進み、「2-3」へ』
これが最後の文章だった。「2-3」が何を指しているのかわからないが、おそらく場所のことだろう。
オープンスペースとは違い内装の全くない景色に違和感を覚えつつ、道なりに進んでいく。
もしかするとここは、今後のアップデートで拡張される予定の空間なのかもしれない。空間だけ先に拡張されていて、これから内装や建物を設置していくのであれば納得だ。NOWHERE運営だけが知っているような抜け道を使って出入りができる状態にしてあって、それを使って呼び出しを行う。理には適っている。
自分自身で納得しながらも、不規則に高さが変化する無機質な壁と地面を見ながら歩き続けた。ふと違和感を感じて地面を見ると、地面の一部が白色で塗られている。
最初は何かわからなかったが、少し離れた所から見てみたことで理解した。どうやら、地面に白色で「1-2」と書かれているようだった。
メッセージに書いていた「2-3」はおそらくこれのことだろう。地面に「2-3」と書かれている場所があって、そこに向かって進めということらしい。
辺りを見渡してみるが、僕のいる場所は一本道で、進むか戻るかの選択肢しかない。たまに右や左に曲がることはあるものの、分かれ道は無い。特に迷うこともなく、周りを警戒しながら進んでいく。
案の定何も変化しない空間を進んでいくと、ようやく「2-3」と思われる場所に着いた。地面の表記は確認していないが、既に何かが立っているのが確認できる。
今までの一方通行の道も大型トラックが三台並べるくらいのそこそこ広い幅だったが、この「2-3」と書かれている場所を中心にさらに開けた場所になっていた。
時間を確認すると、まだ午後五時四十分だった。少し余裕がある。
近づくにつれて、何が立っているのかわかるようになってきた。ちょうど「2-3」と書かれている場所に、ナビボットが立っているみたいだ。
NOWHEREにはいくつか人の手で操作されていない、AIで動いているNPCが存在する。建物内の受付や店員の役割を行うオペレーションボットや、迷惑行為やバグを取り締まるセキュリティボット、そして、今僕の目の前に立っている、施設や機能について説明を行うナビボットが該当する。
何も無い空間にナビボットだけが立っているのも少し不思議だが、アップデート予定地であればあり得る話だろう。先にナビボットを置いておいたのか、それとも建設予定地だから注意喚起の説明を行うのか。
周りを見渡すが、特に誰もいない。手順書に書かれている内容に従わなければならないのだから、ユーザーのほとんどはここに来られないだろう。人がいないのも当然だ。
指定された時間よりも早いのだから、僕を呼び出した人もまだ来ていないのだろう。
ナビボットから少し離れた場所、『2-3』と書かれた区域を囲む壁に近付く。ここは壁内とは異なり、金網は設置されていないようだ。
おそるおそる壁を触ると、ちゃんと壁の抵抗が返ってくる。ここは壁をすり抜けるような仕組みはないらしい。
思い返してみれば、途中で赤い屋根の建物の外周を無駄に一周させられた手順があったが、あれは壁をすり抜けるために必要な手順だったのかもしれない。もしもあの手順を踏んでいなければ、壁がすり抜けずにただの行き止まりになっていた可能性がある。手順を踏まずともすり抜けられるのであれば、隅々まで散策するような人たちの間で既に発見され、話題になっていたかもしれない。
時間もまだあるので、壁を背にしながら昨日のHANAEさんとの試合の録画をもう一度見ようとモバイルモニターを起動した。画面を限界まで拡大しようとした時、ポン、ポンと聞き慣れない音が聞こえてきたので、音のする方を見る。
「っ!」
『2-3』と書かれているちょうど真ん中に立っていた筈のナビボットが、僕の方に近付いてきていた。正確には、さっきよりも僕に近い位置で、僕を興味ありげに観察したまま動かない。
ナビボットは、丸みを帯びたアルファベットの『T』のようなフォルムに、簡単な顔文字が表示できるモニターがついている。モニターに表示されている顔文字はデフォルトのにこやかなものだが、僕の方を向いたままじっと動かないのでやけに不気味に見える。
ナビボットは、基本的に決められた一方向を向いたまま待機しており、ユーザーが話しかけると、ユーザーの方を向き決められた内容を話し始める。話せる内容はナビボット事にいくつかあり、スタジアムにいるナビボットの場合は『建物についての説明』『観戦マナー』『プライベート利用の方法』『直近の公式大会の情報』等の説明が聞ける。
だからこそ、自立して動いているように見える目の前のナビボットは不気味さが増す。ナビボットを警戒したまま周囲を見渡すが、相変わらず特に誰もいない。さっきより時間は経っているが、まだ約束時間より早いだろう。
…もしかして、このナビボットが待ち合わせに関係してる?
運営の人間ならば、ナビボットを操作できるだろう。ナビボットが『URL』を僕に教えてくる可能性もある。
NOWHEREにおける『URL』は、コミュニティスペースのURLを指す。コミュニティに参加するにはURLが必須で、URLを入手後にさらにパスワードを要求される可能性はあるものの、URLがないとそもそもコミュニティに接触すること自体ができない。僕の所属する『ゲーム部屋』も、URLを教えるだけで新たなメンバーを迎えられる。
それに、公式イベントでも『URLだけを知っていればアクセスできるコミュニティ』が使われることが多い。例えば、NOWHERE内でのリアル脱出ゲームのゴール地点やチェックポイントとして使われ、URLとパスワードを探してアクセスできればクリア、という仕組みもある。ショッピング関連では特別なURLを先着数名に配布して、入手できた人だけは特別価格や数量限定商品のあるエリアで買い物ができる等、ユーザーが集まって交流する以外にも使い道があるのがコミュニティスペースだ。
おそるおそるナビボットに近づいて、手をかざす。ナビボットと接触するには声を出す必要はなく、手をかざす事でナビボットがあらかじめプログラムされている行動を取る。
ピロン、と音を出してナビボットが合成音声を発する。
「待チ合ワセ時間ヲ入力シテクダサイ」
わざとらしく機械的な音声とともに、顔文字を表示していたモニターが『00:00』の表示へ切り替わった。
間違いなくこれだ。ナビボットのモニターに表示されている時刻をタッチ操作で入力していく。『18:00』に設定し決定すると、ナビボットのモニターが再度切り替わった。
「ユーザー名ヲ入力シテクダサイ」
少し手が止まったが、ユーザー名を入力する。
ユーザー名だけで個人を特定することは不可能なので、さほど大きな問題ではない。そもそも情報を渡す先は運営だし、時間とユーザー名の二段階認証をしているのであれば入力しないと意味がない。
僕のユーザー名…『名無しA』を入力し、決定する。
「セイカイ!」
「!?」
決定した直後、今まで流暢に話していた合成音声が急に機械的になると同時に、ナビボットが跳ねた。
ナビボットの突然の挙動と、爆音の音声に驚いて思わず軽く飛び上がってしまった。
「うっ!」
同時に、僕の視界が揺れる。心臓が頭にあるような、鼓動の度に視界が震える感覚。
実際の痛みはないのに、指先が震えるような痺れを感じる。両手と両ひざをついたが、手に力が入らずすぐにうつ伏せに倒れた。
戦闘時の電撃系スキルをさらに強力にしたような衝撃だ。しかも、多くのレギュレーションでは禁止された、修正前の衝撃に近い。
現在のNOWHEREは、ダメージを受けた時にプレイヤーが感じる衝撃はかなり抑えられている。
というのも、NOWHEREで対戦ができるようになった当時は現実に近いレベルの衝撃が身体に与えられていた。実装当初はこの衝撃で気を失ってしまう人もいたくらいだ。当然すぐに修正されたので、当時を知っているプレイヤーはほとんどいない。
それに、視界が揺れるような作用は当時はなかった。仮想空間を貫通して、現実世界の僕にもダメージが通るような感覚がある。間違いなく実装当初よりも強力になっている気がする。
そもそも、攻撃行動が禁止されているオープンスペースであるこの空間で、何故攻撃行動が取れる?
立ち上がらなければ危険ということは理解しているが、身体に力が入らない。これも戦闘で体験したことがある。状態異常の『麻痺』だ。
麻痺は一定時間、身体に力が入らなくなり、動きが鈍る。実質行動不能なのだが、ステータスで『麻痺耐性』を高めておくと痺れが緩和され、多少動きやすくなる。今の僕が受けている麻痺は歩いたり、走ったりすることはできないが、這って移動することは時間をかければできるだろう。動きにくいことに変わりはない。
僕の耳元でポン、ポンとナビボットが跳ねる音がする。追撃してこないことが、余計に恐怖感を増してくる。通常の麻痺状態では起きないはずの視界が揺れるような感覚が止まない。
今いる場所がオープンスペースの延長線上なら、体力がゼロになってもリスポーンするだけだ。いつも遊んでいるモードと似たようなものだ。
…リスポーン?何処に?
NOWHEREのMMOサービスの場合、専用のスペースがある。そこではリスポーン地点を登録して、体力がゼロになったら最後に登録した地点にリスポーンする。でも、オープンスペースで体力がゼロになることなんてない。そもそも、リスポーン地点なんてあるのだろうか。
すぐさまUIを起動する。麻痺状態ではあるものの、完全に動けない訳ではない。両手で支えるようにして身体を起こす。
麻痺により指先が震えたまま、ログアウトを選択した。
『エラー。ログアウトできません』
頭の中に流れた音声と出てきたポップアップに、僕の思考がストップする。
呼吸が早くなる。喉からヒューヒューと音がするのが感覚で分かった。
気が動転して聞こえていなかったポン、ポンと跳ねる音に気付き、すぐさま目を閉じて強制ログアウトを念じる。
NOWHEREでは、通常のログアウトはUIを起動してログアウトを実行するが、UIを起動できない等の不測の事態に備えて強制ログアウトの機能がある。強制ログアウトは念じるだけで実行でき、UIを操作する必要はない。
『本当に強制ログアウトを実行しますか?』
頭の中に音声が流れ終わる前に、『はい』を念じ続けていた。強制ログアウトといえども、安全のため一度確認が行われる仕組みだった。
『エラー。ログアウトできません』
無慈悲にも帰ってきた返答に、追いかけるようにして頭痛が響いた。目を閉じているのに、視界が歪む感覚が強くなる。
息苦しくなった僕は、頭に鳴り響く音声をまともに理解できないまま、浅い呼吸を繰り返す。
「うぐっ!」
考えを纏める間もなく、右腕に衝撃が走った。両手を地面について身体を支えていた僕はバランスを崩し、地面に倒れこむ。何が起きたのかも理解できていない。右頬に、実際には当たっていないはずの冷たい地面の感触がある。浅い呼吸を繰り返す自分の吐息が跳ね返ってくるようで気持ち悪い。
考えは全くまとまらないが、WMカテゴリの癖で自分の体力を確認してしまう。僕の体力は四割近くになっていた。今受けた攻撃と、最初に受けた電撃だけで六割も持っていかれたことになる。
次の攻撃を受けたら、僕はどうなる?
ナビボットの胴体部分が開き、カメラのシャッターのように光った。思わず顔を逸らすと、視界が急に暗くなった。
「…駄目か」
低い声が聞こえると同時に、僕の身体から痺れが消える。それでも、恐怖による震えは消えない。
おそるおそる顔を上げると、僕とナビボットの間を隔てるように地面がせり上がり、壁のようになっていた。
僕の隣には、見下ろすようにして僕を見るローブを着た男の人が立っている。
正確には男の人かどうかはわからないのだが、声で判断するなら男の人だと思う。
「身体に変化は?」
…変化?異常ではなく、変化?
異常なら麻痺のことがすぐに頭をよぎるが、変化と言われると何も思い浮かばない。思い立ってステータス画面を見てみるが、僕がステータス画面を開こうとするや否や、隣の男の人は大きくため息をついた。
深く被ったフードに隠れて表情は見えないが、落胆しているのが理解できた。僕に何を求めてる?
「…もういい」
そう言い放つと、せりあがった壁が元に戻る。ナビボットが目の前に見えて、両手両膝をついていた僕は尻餅をついてしまう。
しかし、僕の想定とは裏腹にナビボットは動かない。待機中の動きであるポンポンと跳ねる動きすらなく、表情を表示するモニターも真っ暗だ。文字通り、電源の切れた機械のようだった。
「実力者と聞いてたが…」
僕のことを言っているのなら、それは間違いだと言いたい。僕が昨日の大会で準々決勝まで勝ち進んだのはを出せたのはあくまでストーカーと呼べるくらいに相手の情報を収集し事前準備を行った上で、選んだレギュレーションにおける強い選択肢を取っているだけだ。
つまりは、大して実力がなくても戦える、『勝ちやすいけど嫌われる戦法』ってだけだ。事実、昨日の大会でもHANAEさん以外は全て同じ戦法だった。
一応僕も三位決定戦では対HANAEさん用の特別なステータスと戦法を取ったが、それ以外は全部同じ戦法だ。違うのは属性とレンタルモンスターだけ。
だから、僕の実力と順位は伴っていない。結果だけ見れば良い方なのかもしれないが。
「…期待外れでも仕方ない」
今まで生きてきた中で、蔑むような視線も、言葉も、この大会に限らず何度も聞いてきた。それでも、心臓を掴まれたようなこの感覚はいつまで経っても慣れない。
無言でNOWHEREのUIを操作する男の人を見ながら、僕はおそるおそる立ち上がる。ナビボットは依然動く気配がない。
UIの操作に夢中の男の人を横目に、辺りを見渡してみる。
「こんなところで実験か?」
ローブの男の人の向こう側…僕が進んできた方向の反対から、もう一人男の人が歩いてきていた。
正直、距離に驚いた。普通なら確実に気付いているくらいの距離に既に立っている。たまたま辺りを見渡したから気付いたけど、これなら手が届く距離に近づかれても気付かなかったかもしれない。
ちなみに、NOWHEREでも足音はする。僕だけなら聞こえなかった可能性も考えられるが、ローブの男の人も気付いていなかった。かなり驚いたようで、素早く振り向いた。
「…」
ローブの人が後ずさりをしたのを、僕は見逃さなかった。ほんの少しだったので僕しか気付いていないだろう。
歩いてくる男の人を警戒したまま、隠すようにして左手だけでUIを操作し始めた。画面を見なくてもできる、何度も行ってきた操作なんだろう。
「逃がさないぜ」
「うわっ」
思わず声が出た。歩いてきていた男の人が、目線を外した隙に僕のすぐ近くに立っていた。いや、正確には、ローブの人の背後に回ったと言うべきか。
僕が声を出すよりも先に、ローブの人は吹っ飛んでいた。僕には動きが全く見えなかったが、回し蹴りが当たった…で正しいだろうか。
「…」
歩いてきた男の人は何かを確認するかのように僕の方を見た。
年齢は僕と変わらないくらいだろうか。前髪が長めでわかりにくいが、目が大きくて綺麗な顔立ちをしている。
僕の方を見たのは一瞬だけで、すぐに視線を外してローブの人の方を向いた。身に着けている黒のカーディガンがヒラリと揺れる。
直後、無数のワープエフェクトが発生し、正方形に顔のついたコミカルなモンスターが僕達を囲む。
このモンスターは見たことがある。NOWHEREの初期にいたモンスター、『ボックス』だ。
NOWHEREの四属性、喜怒哀楽に対応するように、それぞれの個体がピンク、赤、青、黄色の四色のどれかを基調にした色合いになっている。立体の辺が対応する属性の色になっていて、他は真っ黒。面の一つに属性に沿った表情の顔文字が描かれていて、怒っていたり笑っていたりしている。
見た目は単純かつコミカルなので、NOWHERE初期でもそこそこ人気があった。しかし、このモンスターは見た目とは裏腹に凶暴だったことで、今のNOWHEREではほとんど見ることが無い。もちろん、ペットにすることもできなければ、動物園等で飼われていることもない。MMOサービスの方でもあまり見ない。
だからこそ、今置かれている状況が危険だということが分かる。カーディガンの人も当然理解しているようで、すぐさま体当たりを仕掛けてくる赤色…怒属性のボックスを掌底で吹き飛ばしつつ、僕の方を見る。
「悪いな」
短く、小さくそう呟くと、素早く手を叩いた。手を叩いたと言うよりも、滑らせるようにして交差させたような感じだ。右手を上に、左手を下にして、掌の上のものをすり潰すかのように弾いた。
「『―――』」
再度何かを呟くと、僕を中心にして、半径三メートルくらいの黒い線が現れた。地面に描かれたのではなく、空中に浮いている。
周りを見るだけで何もできないでいると、黒い線に触れたボックスが線に吸い込まれるようにして消えた。
その光景を見て、僕は触れてはいけないものであると瞬時に判断する。と言っても、足が震えて動かないので触れようもない。
助けを乞うような思いでカーディガンの人を見ると、既に僕の傍にはおらず、逃げていくローブの人を追って遥か先を走っていた。普通に走ったとして、たった数秒であの距離まで移動できるものなのだろうか?
考えていると、黒い円が消えた。無数にいたボックスは減っているものの、まだ十数体は残っていた。黒い円に触れていなかった個体だろう。
「…」
モンスターを除くと、この場には僕一人しかいない。自然と、ボックスは僕にヘイトを向けている。
試しにUIを起動してみるが、オープンスペースにいる時のUIのままだ。WMカテゴリで使う、戦闘状態の時のUIじゃない。要するに、スキルが使えない。
カーディガンの人の「悪いな」は、僕を見捨てる意味のものだったのだろうか?
「!」
黄色、つまりは楽属性のボックスが体当たりしてくる。転がるようにして避けるが、すぐさま二体目のボックスが突進してくる。
避けられる状況じゃない。立ち上がることもせず、目を瞑って防御姿勢を取った。ローブの人が現れる前、僕の体力は四割だった。この攻撃に耐えられるのだろうか?
しかし突進の衝撃はなく、代わりにガシャン、と何かが叩きつけられる音がした。
おそるおそる目を開けると、オレンジのポニーテールに、大きなハンマーを構えた見覚えのある少女が立っていた。
「…」
僕を守るように背を向けて、HANAEさんが立っていた。