14:転移
「見張りの人はいなさそうですね…」
札幌地区のアンダーワールドから歩いて二十分程度。イツキさんの拠点とはちょうど反対方向に進むと、田舎の住宅街のように建物が点々と建っている場所があった。とはいえ普通の一軒家のようなものではなく、ビルやマンション等の集合住宅みたいなものか、デパートや体育館のような大きな建物ばかりだ。
以前レンさんから貰った説明では、NOWHERE運営に管理されているコミュニティスペースの代わりにアンダーワールドに建物を建ててコミュニティ活動をしているらしい。コミュニティスペースだとNOWHERE運営の目が届くことを嫌っただけの人間もいれば、運営の目が届かないことを利用して良からぬことをしている人間もいるらしい。
アンダーワールドの方がNOWHERE運営からの規制がない分、使える技術に限度がない。だからこそハクの話題に出ていた裏カジノ等の表ではできないような商売が存在するのだろう。
リザさんが示したのは、建物の中でも大きめのビルのような形をした建物だった。建物自体の特色も特になく、よくある灰色の普通の直方体のビルだった。
アンダーワールドの建物はオープンスペースと違い、建物に入っても別の空間にワープすることはない。だから、目に見える大きさがそのまま建物の大きさになる。
「…間取りとか分かります?」
「そこまでは…」
間取りを把握していたら楽なのだが、さすがに無理か。リコさんのいる部屋まで一直線で進んで、助け出した瞬間に離脱…が理想だけど、そう簡単にはいかないだろう。そもそも離脱できるのかどうかも分からない。
「裏口もありませんし、やっぱり入るのは難しいですかね…」
「…」
僕はUIを操作しながらも建物の様子を探る。建物の入り口は一つ、見張りはなし。但し、建物に入った瞬間に通知されるようなシステムがある筈だ。
「あの、いつまで待機していればいいんでしょうか」
動く気配を見せない僕に対して、文句を言いたそうな目をしながらリザさんが言う。それもその筈、今いる場所に辿りついてから全く動かずに既に十分弱が経過していた。時間が経てば経つほどリコさんの被害が重なる一方なので、早く行きたい気持ちは分かる。
「…僕が中に入ってから、『繋ぐ』のって可能ですか?」
リザさんがハクの拠点からアンダーワールドに移動したとき、一人では移動できなかったと言っていたように、おそらく誰かが移動した先に一緒についていくハッキングスキルなのだろう。ワープ先にしかついていけないのか、徒歩の移動でもついていけるのか。
「今は…ごめんなさい、無理だと思います」
「今は」の意味は分からないが、とにかくできないということは分かった。二人で建物に入らないといけないようだ。
リザさんがもう一度僕を見る。
「あの、そろそろ」
「『スキャン』」
リザさんが痺れを切らしたのと同時に、ようやく僕の準備が終わった。
ハッキングスキル、『スキャン』。座標を指定して、座標内にいるアクティブなユーザーの状況を確認することができるハッキングスキルだ。この二日間で習得したハッキングスキルの一つで、唯一訓練所のプログラムから学ぶことができるハッキングスキルだった。
巨大な箱型ウォールの中をスキャンして中にいる敵の数を答える、という単純なプログラムだったが、大きさや場所が毎回変わるので座標の設定に苦労する。今回は建物が縦に長いので、その分かかる時間も長かった。
分かるのは、スキルを発動した瞬間の、座標内にいるユーザーの数と配置だけ。すぐに配置が変わる可能性はあるし、再発動するとなるとまた同じくらい時間がかかるから使えない。でも、潜入するなら非常に有益な情報になる。
しかし、出てきた光景に目を疑う。スキャンに失敗したのではと思うような結果が返ってきた。
「誰も、いない…?」
「え…?」
スキャンできた相手の数ゼロ。当然、配置もなにもない。
スキャン対策を行っているのだろうか。訓練所のプログラムで学んだハッキングスキルだから、どのくらい汎用的なスキルなのかすら分からない。ウォールは汎用的だと聞いていたけど、スキャンも汎用的なのであれば対策されているのかもしれない。
「リコちゃんは…!?」
ともかく、スキャンの結果的にはリコさんも建物内にいないことになる。移動したのか、それとも…。
僕と同じ考えに至ったのか、リザさんの顔が青ざめていく。
「リザさん!」
リザさんが建物に向かって走り出す。すぐさま僕も後を追い、建物の中に入った。
スキャンの結果通り、人の気配は全くしない。
「どういうこと…?」
リザさんは辺りを見渡しながら、困惑した表情で言った。
ここまで移動している間に分かっているだけの情報を貰っていたが、この建物には十数人がいた筈だった。トオノさんやサイさんが潜入した際に数を減らしている可能性も考えてはいたが、まさか全滅させたのだろうか。
自分がいた部屋を目指して先に進んでいくリザさんについていく。建物の一階はちょうど中心が十字路になっていて、十字路からさらにいくつか通路が伸びているような構造だった。そして、十字路の真ん中に階段がある。
各部屋にはドアがついていないので階段を上るリザさんについていきながら部屋の様子を見るが、やはり誰もいないし気配もしない。入口から辛うじて見える椅子の状態や机に投げ出されているメディアを見る限り、少し前までは誰かがいた痕跡はある。
二階に上がると、部屋数が減って四つだけになっていた。一階では十字路からさらに伸びていた通路がなくなり、その分部屋がより大きくなっている。学校の教室くらいの大きさの部屋が四つあるような状態だった。一階と違ってドアもついており中は見えないが、やはり人の気配はしない。
「開かない…!」
リザさんがドアを開けようとするが、パスワードでロックされているようだ。ハクの拠点の仮眠室と同じような仕組みだろうか。
リザさんの隣の部屋に入ろうとしてみたが、こちらもドアが開かなかった。後ろの部屋も調べてみるが、こちらも開かない。この調子だとリザさんの後ろの部屋もダメだろう。
「…?」
リザさんを見ると、最初に調べたドアの前で俯いたままだった。また体調でも悪いのかと思ったが、そんな様子ではない。
ひとまずリザさんの後ろの部屋のドアを調べてみるが、やはり開かなかった。二階は諦めるしかないだろうか。
「…」
リザさんはさっきの状態から微動だにしていない。さすがに不安になってリザさんに近づくと、リザさんは壁に手を当てて俯いたまま目を閉じていた。
「…リザさん?」
「…ふうっ!」
「!?」
僕が声をかけたのと同時くらいで、リザさんが目を見開いて大きく息を吐きだした。びっくりして思わず後ろに下がる。それと同時に、リザさんが手を当てていた部分から膝から頭までくらいの穴ができる。
「ふぅ…はぁ…中に…入り、ましょう」
「…」
これが、『繋ぐ』ってヤツなんだろうか。ハッキングスキルにしてはソースコードを書いていない…そもそも、UIすら起動していない。明らかに気力を消耗しているし、ハッキングスキルの類だとは思えない。
とはいえ通常のスキルとも思えない。スキル名を発していないし、『デバイス』らしきものも身に着けていない。
NOWHEREには、まだ僕の知らない何かがあるんだろうか。
考えているうちにリザさんが穴を跨ぐように入っていってしまったので、慌てて僕も穴を通り抜ける。
空間移動ではなく、普通に壁に穴が開いたような状態になっている。穴の淵が波を打つように動いていて、だんだん小さくなっていく。先に部屋のドアを確認し、内側からならパスワードなしで開けられることを確認する。
「リコちゃん…」
リザさんは浅い呼吸を繰り返しながらも辺りを見渡すが、当然誰の姿もない。部屋を見る限り、ここにリザさんが捕らわれていたのがわかる。
少し安っぽく見える高さのない鉄格子と、そこから離れた位置にあるパソコン。NOWHEREなのでパソコンは必要ないと思いがちだが、端末を複数人で共有する場合はNOWHEREだとしても端末型で使用するのが一般的になる。
要するに、人員を交代させながら鉄格子を見張っていた人間がこのパソコンを使っていたことになる。
「…リコさんの蘇生を試してみます」
「でき、るんですか!?」
「条件さえ揃っていれば、一応は」
このNOWHEREで生きていくと決めたからには、僕が一番最初に覚えようとしたのが蘇生のスキルだった。誰かを巻き込んでしまうなら、絶対に持っていなきゃいけないスキルだ。だからこそ、シキさんとの訓練が始まった時に頼み込んで教えてもらい、この二日間でさらに練習してモノにした。
「…時間はかかるので、それまでは休んでいてください」
モノにしたとは言っても、もちろんスキルの練度は低い。蘇生はおろか、リコさんがここで命を落としたのかどうかを調べることすら時間がかかる。
リザさんは部屋に穴を開けたことで明らかに体力を消費しているし、僕が調べている間は休んでいてもらうのが一番いいだろう。
「ありがとう…。でも、私もできることをします」
リザさんは僕に笑顔を向けると、置いてあるパソコンを起動した。普通なら端末にパスワードがかかっている筈だが、交代していた人員の数が多かったのであれば、パスワードの共有は手間になる。それに、扉のパスワードや建物自体のセキュリティを敷いているのであればパソコン自体のパスワードは不要なのかもしれない。
考えていてもソースコードを書くスピードが遅くなってしまうので、目の前の画面に集中する。
リコさんが生きている場合、どこに移動したのか。ここにいた筈の十数人はどこに行ったのか。答えは出ないままだが、僕の結果次第ではこれで解決になるかもしれない。
「リコちゃんの良くない写真は無いか…」
…それは何よりだ。
ソースコードを打ち間違えてしまったが、動揺したからではない。決して。
リコさんはないだけで、リザさんは…?
手を伸ばせば届くくらいの距離にリザさんがいるので顔を動かすだけでパソコンの画面は見えるのだが、顔は動かさない。
「きゃっ!?」
短い悲鳴とともに、聞き覚えのあるエフェクト音が聞こえた。迷わず振り向くと、パソコンの画面が強く光っており、リザさんの周りにワープエフェクトが発生していた。
「リザさん!」
すぐさま手を伸ばす。リザさんも迷わず僕の手を握った。
NOWHEREでは、ワープする時に他のプレイヤーに触れていると、そのプレイヤーと同じ場所にワープする仕様になっている。移動先へのアクセス権限による例外や不具合じみた挙動をすることもあるためオープンスペースでは推奨されていないが、MMOスペースでも使われている仕組みだ。
案の定、僕にもワープエフェクトが発生する。準備する間もなく、僕は光に包まれた。
◆
「ここは…?」
さっきまでの部屋よりも遥かに広く、学校の体育館くらいの大きさ。訓練所より少し小さいくらいだろうか。
但し訓練所ほどの明るさはない。見えないというほどではないが、それこそ電気のついていない、日の光だけの明るさしかない体育館のような状況だった。これまでの全ての建物に照明があったのでそれでも違和感を感じる。
建物上部の窓からNOWHERE特有の白い景色が見えている時点で、ここはアンダーワールドであることが確定する。
白い背景にパステルカラーの図形が浮かんでいるのはオープンスペース、つまりアンダーワールドだけだ。それ以外はオープンスペースとは別の空間扱いになり、ゲーム部屋のような手を加えていないコミュニティスペースは背景が一面真っ黒だったり、オンラインショップでは一面広告で埋め尽くされていたり、スタジアムでは現実世界の空のような景色になっている。
建物に入ると自動的に別の空間にワープすることになる関係で、オープンスペースでは室内という概念自体がそもそも存在しない。だから、この建物は間違いなくアンダーワールド内にある。
「『グラド』」
聞き覚えのない男の人の声が聞こえた。攻撃を受けたことをすぐさま認識する。
「え…?」
僕らの周りに出現した壁に、リザさんが困惑した声を発した。
「ウォールだと…!?」
強制的に移動した時点で攻撃を受けることは予測していた。だからこそ、移動した直後にすぐさま解析を始めた。タイミングはかなりギリギリだったけど、間に合って助かった。
「ありがとう、ございます…?」
リザさんは僕がウォールを出したのか懐疑的だった。ウォール自体は知っているようで、大きく取り乱したりはしていない。
ウォールが下がると、薄めの黒いコートを着た男の人が立っていた。三十代か、二十代後半くらいの外見に見えるが、辺りが明るくないこととフードを深めに被っていることで顔の造りを細かく認識できるほどじゃない。
「子供のように見えるが…偶然か?」
「…」
僕は何も返さない。目の前の男の人に集中するべきだ。余計なリソースを割くべきじゃない。
男の人は何も話さない僕を見て、確かめるようにもう一度腕を前に出す。
「『グラド』」
「っ!」
リザさんは守るように身を固めるが、僕が左右に展開したウォールで当然ダメージはない。
「こんな子供が戦い慣れしているのか…」
驚くというよりは、嘆くように吐き捨てた。
戦い慣れしていると言っていいのか分からないが、ここ数日でシキさんとの実践訓練でたたき上げられたのは間違いない。ウォールの使い方も無駄なく使用したつもりだ。
ウォールで防ぐ場合、魔法によって防ぎ方が変わる。例えば哀属性魔法の『ソロウ』であれば、対象の上空に雫が落ちてくる。その雫を防げばいいので、出すべき壁の形はアルファベットの『L』を上下逆さまにしたようなものが最小になる。今僕が防いだ喜属性魔法『グラド』は、対象の左右から円錐が二つずつ、計四つの円錐が突き刺さるように飛んでくる。だから、出すべき壁は左右の二か所だけでいい。
男の人が戦い慣れしていると言ったのも、僕の防ぎ方を見て判断したのだと思う。
「まさか、リザと同じ『大侵攻』の経験者なのか?」
また聞いたことがない単語が出てきた。
というか、その『大侵攻』とやらにいたリザさんは何者なんだろう。
「『大侵攻』のときの…!?」
リザさんが思い出したように言う。心当たりはあるようだった。
対する僕は、全く話が理解できない。
「それなら、リコちゃんは関係ないじゃない!」
「…お前を誘き寄せるためだ」
一瞬顔をしかめた男の人に、僕は違和感を感じる。リザさんと接触してからの怒涛の展開に頭を整理する暇がなかったが、もしかすると僕はリコさんを知っているかもしれない。
「私を狙うだけでいいでしょ!他の人を巻き込まないで!」
怒りを露にするリザさんの言葉に、男の人の身体に力が入ったのが分かった。
「…『大侵攻』のとき、お前が何人手にかけたと思ってる」
さっきまでとは違い低い声で、リザさんに明らかな敵意を持った眼光で男の人が言った。
思わずリザさんを振り返るが、リザさんは顔面蒼白状態で呆然としていた。見るからに思い当たる節があるようだった。
大侵攻とやらが何かは分からないが、その時にリザさんが人を殺した?
一緒にいた時間は短いが、リザさんの性格的に人を殺せるような人間だとは思えない。
…僕のように、NOWHEREを理解しないまま誰かを殺しかけたのかもしれない。
「俺の家族は殺しておいて、自分の職場の同僚は助けてくれ?…虫が良すぎる」
表情はほとんど見えなくても、怒りを露にしているのが分かる。
対峙している人間が感情を剥き出しにしていることに緊張感を覚える一方で、抱えていた疑念が確信に変わり、さっきまで感じていた違和感が払拭される。
「!」
走って距離を詰めてきた男の人を見て、僕は重心を落として身構える。
しかし、男の人は遠回りするように僕から離れた位置を移動し、真っ直ぐリザさんに向かって行こうとする。
リザさんは呆然としたまま、遠くを見るような目をしているだけだ。
「『ソロウ』!」
男の人を中心に大爆発が起こる。僕とリザさんも爆風の影響範囲内ではあるが、僕が起動させたウォールが風よけになっているので吹き飛ばされることはない。
「なんだこの威力は…」
男の人も、当然ウォールを展開して防御している。相手の用意したフィールドではウォールを使われるのは当然だろう。
男の人が困惑している間にリザさんに駆け寄るが、リザさんは呆然としたまま動かない。少し前の僕を見ているようだった。事実を突きつけられて、身体に力が入らない感覚。
「…俺の目的はあくまでリザだけだ。無関係な子供を巻き込む気はない」
「…」
「だが、邪魔をするなら容赦はしない」
突進してくる男の人に対して、閉じ込めるようにウォールを起動する。しかし、直後に横に真っ二つに両断されて消える。
「ぐっ!」
強い力で右肩辺りを押され、横向きに後ろに転がる。急に何かが飛んできて、全く反応できなかった。
考える間もなく、リザさんに向かって飛び上がる。すぐさまウォールを展開して、リザさんを守るように壁を出す。
男の人はすぐさまウォールを両断する。手には長めの槍が握られていた。さっきの衝撃は、この槍で突かれたものだったらしい。動きが速すぎて認識できなかった。
ウォールは魔法攻撃には強い反面、物理攻撃には強くない。さすがに僕が殴ったくらいでは壊れないが、シキさんは蹴りで簡単に壊していた。
次の攻撃に備えて構えていたが、男の人はリザさんへの攻撃を止めて僕の方を見た。
「お前、何者なんだ?」
「…?」
「ウォールは確かに実用的だが、お前のような子供が簡単にポンポンと使えるものじゃない。ここに移動してから一分程度で解析を終えて、動く相手に対しても正確な位置に出せる人間なんて今まで見たことがない」
僕がウォールを使ったのを見たのはこの男の人を含めて三回。全員が全員、事前に建物の解析をしている筈だ。だから、僕は自分の解析スピードがどのくらいの速度なのかは分からない。でも、シキさんの話を聞く分にはウォールは基本中の基本となるスキルだと聞いていたし、サイさんやトオノさんは僕よりも早くウォールの解析・起動ができるとも聞いた。
動いている対象にウォールを使ったのは、僕以外だと…。
…ゼロ?
「先にお前を消さないといけないな」
男の人が重心を低くする。嫌な予感を覚えた時にはもう遅かった。
「『二段突き』」
槍の穂が光り出し、僕に向かって突き出される。一段目、二段目が正確に同じ位置を突いてくる攻撃で、一段目で相手の動きを止め、二段目で相手を後方に吹き飛ばす。大会でもよく使われるスキルの一つだ。
リザさんには見向きもせず僕に突っ込んでくる男の人に対し、体制を立て直しながら手を前に出す。
「『ソロウ』!」
僕が相手にダメージを与えられるのは、相変わらず初期魔法だけ。
だけど、魔法攻撃はウォールに防がれる。魔法攻撃をただ放つだけでは、ダメージを与えられない。
「!」
そんなことは分かっているので、僕もただ適当に魔法を放った訳ではない。
展開されたウォールに隠れるようにして距離を詰め、男の人の側面を取る。移動した勢いを使って、腰の捻りを最大限に利用した右回し蹴りを相手の左膝裏に当てる。同時に、男の人の右肩から首付近に当てた右手を引く力で思い切り後ろに下げる。
僕みたいに非力な体格でも、相手を転ばせることができる。シキさんから教えられた格闘術だ。
体勢が崩れた状況では、ウォールは使えない。仰向けに倒れた状態で起き上がろうとしている男の人に向かって手を伸ばす。
僕の魔法の威力なら、一撃で…。
「…」
僕の攻撃で、この人は死んでしまうかもしれない。一瞬頭を過っただけで、僕の身体は硬直したように動かなくなる。
「…『二段突き』!」
受け身も取れないまま後ろに吹っ飛ぶ。起き上がろうとしたが、身体が言うことを聞かなかった。
アンダーワールドでは現実世界と同様の痛みを感じる上に身体の損傷も現実世界と変わらない。水風船の攻撃で目が一時的に見えなくなることもあるし、骨が折れることだってある。
但し、現実世界では骨が折れていない。だからこそ、精神的に問題がなくても肉体がついてこれないという事態は起こり得る。
どこかの骨が折れている訳ではないと思う。疲労なのか、筋肉的な問題なのかは分からないが、右腕と左脚の動きが怪しい。
「実力があるだけで、人を殺す度胸はない。結局、お前は子供なんだ」
立ち上がることもできず、膝立ちのまま槍を向けられている。認識できるのはそれだけだ。自分が死ぬかもしれないという恐怖と、自分がこの人を手にかけないとここから抜け出せないという八方塞がりの状況による混乱が僕を埋め尽くしている。
「…恨みはないが、お前は危険だ。俺達に届く存在になり得る」
男の人の手に力が入る。同時に、強い力で後ろに引っ張られた。
「リザ…」
数十メートルくらいの距離を後方に移動した。何をされたのか分からないが、リザさんが僕を何かで引っ張ったことだけは理解できた。
「ごめんなさい…。私のせいで、あなたも、リコちゃんも…。死ぬのは私だけでいい筈なのに…!」
リザさんの震えた声が耳元で聞こえた。僕の肩に添えられている手も震えているのが分かる。
考えはまとまらないが、まだ喋ることができる間に言っておいた方が良い気がした。
「…リコさんは死んでません」
「…」
「…え?」
こちらに歩み寄ろうとしていた男の人も動きを止めた。
「リコさん…『李村ココ』さんは、そもそもリザさんがいなくなったことを知らせてくれた張本人です。リザさんが見ていたリコさんは、モデリングで作られたAIか、誰かが変装してた偽物です」
今回の依頼主である『李村ココ』さんの本名は、『小村莉子』だった。だからこそ可能性の一つとしてはずっと考えていたが、自分の姿を変更できないアンダーワールドで偽物を作り出せるのか、変装できるのかが分からなかったため明言できなかった。
確信に変わったのは、目の前にいる男の人が「職場の同僚」と言ったこと。リザさんの事務所に所属するバーチャルアイドルはリザさんとココさんの二人だけだ。アンダーワールドにいるのなら、芸名では呼ばないのは当たり前だ。
「それなら、お前がここに来たのは完全に無駄足だな。リザのせいで、無関係なお前は巻き込まれて死ぬ。この場所なら、蘇生すらできない」
「…無駄じゃない」
あのままリザさんを放っておいたら、僕は絶対後悔してた。あの時何かができてたら、あの時こうしていれば…そういう後悔を、今まで何度もしてきた。何もしなかった後悔をこれ以上抱えたくない。
左脚が言うことを聞かない。でも、僕はまだ全てを出し切ったとは言えない。
「休んどきな」
「!」
聞き覚えのある声が聞こえた直後、僕達の傍に誰かが着地した。顔を向けなくても、誰かはすぐに理解できた。
「ギリギリ間に合った…ってとこかな」
シキさんはしゃがみ込んで僕を見る。僕の状態を軽く確認すると、立ち上がって僕達に背を向け、男の人に向き直る。
「技術者には見えないけど…この場所はアンタが用意したの?」
「…」
シキさんを一目見ただけで実力を把握したのか、男の人は構えたまま動かない。一瞬でも目を離してはいけないということを本能的に理解しているようだった。
何も答えない男の人を見てシキさんはため息をつくと、素手のまま指の関節を鳴らす。
「まあいいや。私の話が聞こえるように、一旦ぶっ飛ばしてみるか」