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悠は膝をつき、荒い息をつきながら血にまみれた拳を見つめていた。目の前には、動かなくなった竜の巨体が横たわっている。その姿には最後の一瞬まで悠を試し続けた威厳が漂っていた。
「……やったのか。」
悠は震える声で呟き、拳を握りしめた。全身の痛みが、彼がどれほどの戦いを繰り広げたかを物語っている。
その時、耳に届いたのは微かに響く低い声だった。
「人間よ……見事だ。」
悠は驚き、顔を上げた。倒れていたはずの竜がゆっくりと目を開け、その深紅の瞳が彼を捉えていた。
「お前には……希望がある。良かろう、竜の試練はこれで終いとしよう。」
竜の声と共に、緑色のまばゆい光が洞窟内を満たした。その光に包まれた竜の巨体が徐々に小さくなり、精悍な姿へと変わっていく。悠は目を見開き、立ち上がるのも忘れてその光景を見守った。
「なんだ……これは?」
悠は声を震わせながら尋ねた。
光が収まると、そこに立っていたのは、さっきまでの巨大な竜ではなかった。人間と同じほどの大きさになり、長い金色の髪と青色の瞳を持つ人型の姿。だが、その瞳には依然として竜種としての圧倒的な存在感が宿っている。
「驚くのも無理はない。」
竜は笑みを浮かべながら言った。
「私の名はヴェル。竜の試練を管理する者だ。この試練を越えられる者は、百年に一人現れるかどうか……お前はその一人だ。」
「試練?」
悠は混乱したまま立ち上がり、拳を握り直した。
「じゃあ……さっきの戦いは、殺し合いじゃなかったってことか?」
ヴェルは頷いた。
「その通り。竜の試練は、力だけではなく覚悟と魂の輝きを試すものだ。お前は最後まで諦めず、己の限界を超えた。その姿勢こそが、試練を越えた証なのだ。」
悠は呆然としながらも、全身の力が抜けるのを感じた。
「なんだよそれ……もっと早く教えてくれたらよかったのに。」
ヴェルは深く笑い、その声は洞窟全体に響いた。
「それでは試練にはならんだろう。恐れと絶望の中で、己を越えるからこそ価値があるのだ。」
悠は眉をひそめながらも、確かにその言葉の意味を理解した。そして、ふと思い出したように尋ねる。
「でも……なんでお前は俺を試したんだ?なんでこんな仕組みがある?」
「この試練の存在知っているのは世界でもわずかな者だけだ。」
ヴェルは静かに答えた。
「竜の試練は、この世界を導く存在を見極めるために作られた。そして今、お前もその一人として認められたというわけだ。」
悠は言葉を失い、その場に立ち尽くした。そして、ふと思い出したように口を開いた。
「一つ聞きたい。俺を鍛えたのはシアっていう女だ。お前は彼女を知っているのか?」
その名前を聞いた瞬間、ヴェルの目が大きく見開かれた。次の瞬間、大声で笑い始める。
「なるほど……!シアか!まさか彼女の名をここで聞くとはな!」
ヴェルは笑いながら頭を振り、その瞳には懐かしさの色が浮かんでいた。
「そうだ、彼女も150年前にこの山脈で試練を越えた者だ。そして、私の数少ない友人の一人だ。」
「シアが……?」
悠は驚きに目を見開いた。これまで訓練を共にしてきた彼女が、竜種の試練を乗り越えた人物だったとは思いもしなかった。
「彼女が鍛えたお前なら、試練を越えるのも納得だ。」
ヴェルは悠に向き直り、真剣な表情を浮かべた。
「お前に贈り物をしよう。これを持ち帰り、シアに見せるがいい。」
そう言ってヴェルは、鋭い牙の一つを抜き取り、悠に手渡した。その牙は不思議な光を放ち、手にしただけで圧倒的な力を感じさせる。
「これは……?」
悠が尋ねる。
「竜の牙だ。試練を越えた者への証であり、彼女に渡せばすべてが伝わるだろう。」
ヴェルは微笑んだ。
「シアもきっと喜ぶに違いない。」
牙を受け取った悠は、洞窟を後にした。山脈を下る足取りは重かったが、心は軽かった。過酷な戦いを越え、試練を乗り越えた自分に、これまで感じたことのない充実感が湧き上がっていた。
「シアが試練を越えたって……。」
悠は独り言のように呟いた。
「俺も、少しはあの人に近づけたのかもしれないな。」
遠くに見える森の先には、シアの住むロッジハウスがぼんやりと思い浮かぶ。彼女にこの牙を渡し、試練の結果を伝えることが楽しみだった。
「待ってろよ、シア。俺はもっと強くなる。」
悠は握りしめた牙を見つめながら、小さく微笑んだ。