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東の山脈から戻り、長い旅路を終えた悠は、シアの家の前に立っていた。険しい山道を越え、竜の試練を突破した達成感はまだ胸の中にわずかに残っている。しかし、それ以上に彼を包んでいたのは、早くシアにこの成果を報告したいという思いだった。
「ただいま、シア。」
扉を開けると、広がるのはいつもと変わらない木の香りと整然とした部屋――のはずだった。だが、何かがおかしい。部屋は静まり返り、シアの気配がまったく感じられなかった。
「シア?」
悠は部屋を見渡した。暖炉には火が入っておらず、テーブルの上には埃が薄く積もり始めている。何日も人の手が入っていないことは明らかだった。
悠の胸に不安が広がった。その視線がふと机の上に置かれた一枚の紙に向かう。それは封筒に入った手紙だった。差出人を見るまでもなく、シアが書いたものだと直感した。
「……なんだよ、これ。」
震える手で封筒を開き、中の手紙を取り出す。そこにはシアの整然とした文字で、次のように書かれていた。
――
悠へ
まずは、竜の試練を越えたことを心から祝福します。あなたがどれだけ努力を重ね、強くなったか、ヴェルから聞けるのを楽しみにしています。ですが、この手紙を読んでいるということは、私があなたの前から姿を消したことを理解しているでしょう。
竜の試練の真実をあなたに隠したことを、まずは謝らなければなりません。試練とは、その目的を知れば挑む者の心が変わり、真の試練とはならなくなる。だから私は、あなたをだます形を取りました。本当にごめんなさい。
150年前、私もヴェルの試練を越えました。それ以来友人となり、この世界の真実や試練の意味について語り合いました。しかし、100年前、私の人生は一変しました。エルフ族の住処で反乱が起こり、その混乱の中、当時の筆頭魔術師の策謀によって、私はお尋ね者となったのです。その追及を逃れるため、私はこの森に隠れ住むしかありませんでした。
さらに、反乱の際にかけられた呪いによって、私の体は魔力を活性化させるたびにむしばまれるようになりました。私はこの呪いの代償を払い続けながら生きてきましたが、今ではその限界が近づいていることを感じています。
私はあなたに会えて、本当に幸せでした。あなたの成長を間近で見られたことが、私の最後の喜びとなりました。けれど、私の体はもう長く持ちません。だからこそ、私は顔を見られずに静かに眠りにつきたいのです。どうか私を探さないでください。
最後に、あなたに伝えたいことがあります。この世界に来た意味を知りなさい。あなたが何のためにここに導かれたのか。それを知るために、まずは街に出て冒険者としての道をいくと色々な経験をすることできると思います。そして、あなた自身の手でこの世界に何かをもたらす存在になれるでしょう。
さようなら。そして、ありがとう。
シア
――
手紙を読み終えた悠は、その場に崩れ落ちた。これまで共に過ごした日々が脳裏に浮かび、胸が締め付けられる。
「どうして……こんなことを……。」
シアの言葉が頭の中を巡るたび、怒りと悲しみが交錯する。怒りの矛先はわからない。過去のエルフ族の反乱か、シアを追い詰めた世界か、それとも自分自身か。
「俺は……何も知らなかった。」
シアが抱えていた苦しみ、彼女が隠し続けてきた過去。そのすべてを悠は知ろうともしなかったことが、今になって重くのしかかる。
しかし、涙を流しながらも、彼の胸には確かな決意が芽生えていた。シアが言葉を残したのは、悠を前に進ませるためだ。彼女の望みを無駄にしてはならない。
「街に行けって……冒険者になれって……そう言ってたよな。」
悠は拳を握りしめ、立ち上がった。
「俺は、俺自身の力でこの世界の意味を見つけてみせる。シアの言葉を胸に、必ず。」
手紙を丁寧に折りたたみ、悠はそれを胸のポケットにしまい込んだ。シアの整然とした筆跡が、彼の心を重く締めつける。頭ではわかっている――シアが何を伝えたかったのか、そして何を望んでいたのか。それでも、感情が追いつかない。
彼は深く息をつき、静かに家の中を見渡した。長い間、シアと共に過ごした場所。それぞれの家具や道具が、彼女の存在を思い出させる。
「一晩だけ、ここにいさせてくれ。」
呟くように言い、悠はリュックを床に下ろして椅子に腰掛けた。旅で疲れた体が、椅子の背に預けられると同時にどっと力が抜ける。
暖炉に火を入れ、手持ちの簡単な食料を口にした後、彼はゆっくりとベッドに横たわった。しかし、疲れているはずなのに、なかなか眠りにつけない。シアの言葉が脳裏を巡る。
「探すな、か……。」
天井を見つめながら、悠は呟いた。手紙には明確に「自分を探すな」と書かれていた。だが、それを受け入れるには、彼の心はまだ準備ができていなかった。