天を衝く塔
報告を聞いて、王は深く、深く溜め息を吐かれた。
右手でこめかみを抑える。ここニ三日でいっそうひどくなった眉間のシワをもむ。
「%$^~|=#”F」
その口から漏れ出したのは、やはり意味不明な言葉だった。
まるで異民族の話す言語のように、聞きづらく滅茶苦茶な言葉。
王は呟いてから自分の失敗に気づいたらしく、顔をしかめた。
億劫そうに手を払う。
下がってよい。
言葉はないが、そういう意図だと解釈した。
一礼して粘土板をまとめ、王室を後にする。
バビロンは今、未曽有の危機にあった。
事態の始まりは三日前までさかのぼる。
建設を進めていた聖塔……もし完成すれば史上最大であったそれに、雷が落ちた。
無論、雷は雷でもただの雷ではない。見たことも、聞いたこともないような稲妻だ。
腹の底を震わすような、低い唸り声。天地がひっくり返るかのような衝撃。
その余りの威力に地は割れ、家々も吹き飛ぶ。
家畜どもは気が狂ったように吠え、人でさえ恐怖に叫んだ。
巨大な聖塔にさえ、深い亀裂が刻まれてしまった。
それからというものだ。人々が言葉を交わせなくなったのは。
長くを共にした妻の言葉が聞き取れなくなったとき、私は自分の頭がおかしくなったと思った。
雷の拍子に脳にまつわる病を発症し、妻の言っていることを理解できなくなったのだと。
しかし違った。気違いになったのは私一人ではなかった。
バビロンに住むすべての生物。人ばかりではなく、動物に至るまで。
調査の結果、それがこの異常の範囲だと分かった。
もちろん、こんな状況では調べるだけでも容易ではない。その過程は難航を極めた。
文字すらも異常によってかき乱されている。記号は無意味な線の集まりに成り代わっていた。
図書館に行き、そのことに気づいたときの私の気持ちは、もはや言葉にできない。まあ、言葉にできたとて誰にも伝わらないだろうが。
ともかくそんな有様だったため、調査はすべて図解を用いて行われた。
簡単な絵ならば意味が伝わる。これが分かったとき、にわかに会議場は盛り上がった。
太陽が沈む頃にそのことを発見し、太陽が昇るまで皆で検証した。
抽象的すぎてはいけない。記号として認識してしまうと途端に意味が失われる。
かといって、あまり複雑すぎると、かえって意図が伝わりづらい。
参考にしたのは壁画だった。エジプト人が王墓に刻む壁画。これがもっとも丁度いい具体性であった。
同様に、数字も影響を受けづらい。
林檎を三つ絵に描けば、問題なく相手に伝わる。
それは点の連なりや、線の重なりになるまで抽象化しても変わりなかった。
口頭の表現は軒並み駄目だ。
多言語を話せる通訳を用意しても、やはり意味は通じない。手話も無駄だった。
奇声を上げることはできるから、怒りを表すだけなら簡単だ。しかし、それでは意思疎通にならない。
図解と数字。
それが今、私たちが持っているすべての表現の手段だった。
粘土板にそれらを刻み、足りない部分は表情や相槌などから推測する。
案外、それで何とかなってしまうのだから人間は逞しいものだ。
いまだ混乱は続いている。しかし、確実に収束しつつある。
そして、一段落つけば原因が知りたくなるのが人間と言うものだ。
なぜ、バビロンはこのような災厄に見舞われたのか。なぜ、バビロンだけなのか。
始めに思い当たるのはやはり、あの聖塔のことだった。
かねてから、あの聖塔の建設には反対があった。
史上最大というだけあって、その高さはまさに天を突くほどになる。ゆえに、あまりに不遜だと言う。
曰く、天は神の領域であり、触れてよいのは太陽と月と、そして星だけだ。その尊さには木も山も、雲でさえ弁えている、と。
たしかに、天を破るほど高い樹木や山は見たことがない。雲ですらもその寸前で漂っているだけだ。
しかし、そんなことは我々が気遣うものではない。まったくもって話にならないと無視をした。
そう、そのときの私は一蹴したのだ。
それを聞いた宗教家の顔が、今でも脳裏にこびりついている。
あれは、不気味な顔だった。怒りではない。また、悔しさや絶望といった、負の感情でもなかった。
嘲笑。そうだ、そう言うのが一番しっくりくる。
これから肉になる豚を見たときのような、意地の汚い残忍な笑い。哀れみだった。
じゃあ、どうしろというのだ!
もしこれが神の怒りだったとして、冒涜の災いした天罰だったとして。
私たちはどうすればいいのだ。頭をつくばって許しを乞えと言うのか。
それこそ馬鹿らしい。家畜に成り下がったようなものだ。
この鳥籠のような天蓋の内に、閉じ込められていろと。
高く飛ぶことさえ恐れて、いつまでも這いつくばっているしかないのか。
私は足早に家に帰り、酒を呷った。
机に突っ伏し、やり場のない怒りをぶつけた。
久しぶりの深酒だった。ここ最近は酔っている時間すら惜しいほどだったから。
そしてそのまま、粘土板を枕に眠ってしまった。
翌朝、まだ東の空が赤いほどの朝早くに、王に謁見を申し込んだ。
深酒の後の深い眠りの中で、私はある天啓を得ていた。
いや、この場合は神に逆らっているのだから、ただ一つのひらめきと言っておこう。
まったく荒唐無稽なものだ。しかし、不可能ではないように思われた。
幸いなことに、長い長い意思疎通のすえ、王からの許しを得られた。
それから、各方面におもむき協力者を募った。あまりに突拍子のない話であったために理解してもらうのは困難極まった。
つたない絵画を図形を手繰り、指をさし物に例える。
そうして、すこしずつ理解者は増えていった。
やがて非常識な思い付きは、皆の目標になっていった。
それから、早くも約六か月が経った。
不景気な空だ。今すぐにでも雨が降り出して、それこそ雷でも落ちそうな模様だ。
広場には数えきれないほどの人々が行き交っていた。それぞれが粘土板を手に持ち、各々の役割をこなしている。
とうとう、今日だ。歴史に刻まれる一日になるだろう。
汗を流す皆々からも、焦燥と言おうか、期待感と言おうか、落ち着かない雰囲気を感じる。
眼前を見上げた。
レンガの建造物。いつか、道半ばにして砕かれてしまった聖なる塔。その完成。
しかし、初めに構想していたものよりもずっと小さい。本来の高さなら雲すらゆうに超え、頂点は霧の向こうに隠れるものになるはずだった。今は見上げられるほど、尖った先端が目視できる程度だ。
これでいい。この高さが理想だ。
神の天罰を恐れているのではない。籠の中の鳥に甘んじるつもりなど無い。
ふう、と深呼吸をし、速まる鼓動を抑える。
緊張に汗がにじむ。握りしめた手のひらが湿っている。
塔の頂上に赤い旗が立った。合図だ。
応えて旗を振り上げる。ざわりと周囲が息をのみ、そして静寂になった。
固唾の音が聞こえる。
計算に間違いはなかっただろうか。本当に成功するだろうか。たとえ成功したとしても……。
絡みつくように、不安は湧いてくる。
それを引きちぎるように、力いっぱいに旗を下げた。
火薬の臭い。衝撃が空間を揺らした。思わず立っていられないほど。
閃光が目を焼く。しまった、これでは何も見えない。
鼓膜を叩いているこの轟音が正常なものなのか、もはやそれすら不明だった。
天地がひっくり返ったかのような五感の奔流に、しばらく眩暈していた。
正気を取り戻したときには、それはもう雲を破っていた。
純白の尾をまっすぐに引いて、分厚い雲を痛快に引き裂いていく。
いつのまにか、笑いがこぼれていた。ざまあみろ!これで稲妻は落とせまい。
それは視界の中でゆっくりと、しかし実際にはものすごい速さで昇っていく。
鉄とアルミニウムの還元反応と、低温で液体化した水素。たったそれだけで爆発的な推進力が生まれる。
人類の英知はついに、ついにここまで来たぞ。神よ。
これは雷だ。地からさかのぼり、天を衝く雷鳴だ。
「飛んでいけ」
吹き飛んだ青空の下、ただ人の喝采だけがあった。