07 融合・後編
――ある日長い長い眠りから目が覚めた。
いや、眠ってなどいなかったのかもしれない。長すぎるうつろな時を、封印された空虚な箱の中で過ごすのみだったのだから。
ところがある日、封印が解けたのだ。
どのくらいの時間が流れたのだろうか。何もかもが変わってしまった世界。もう自分が知る者など誰もいないであろう。
あまりにも長い年月が過ぎ、どれ程強力な封印といえ風化し朽ちてしまったのかもしれないし、結界を守護する聖女の力に不具合が生じたからかもしれない。
久しぶりに出た外の世界は、瘴気がない替わりに浄化の力もだいぶ薄くなっていた。
黒い靄のようなものが、地を低く這うように進んで行く。初めはゆっくりと、微かに。
長い封印で消えかかっていたその『靄のようなもの』は力が無いに等しいので、人の目どころか気配に聡い動物たちにすら感じられなかった。
周囲の精気を吸い、進んでは人の悪意を取りこみ。更に進んでは小動物の肉を呑み込む。生き物である以上、生を維持する仕組みは他の生き物と一緒だ。
黒い霧のようなものはそうやって少しずつ力を取り戻して行った。
悪意は、無限かと思えるほどにあちらこちらに存在する。
純粋にただ生きることを最優先する獣よりも、欲に塗れ隣を憎み、弱い者を攻撃する人間は好都合だ。元々瘴気は人が生み出すもの。少しずつ力を取り戻して行った黒い靄のようなものは人間界に紛れ、人間たちが生み出すおぞましいものを喰らっては、更に力を取り戻して行った。
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「最近、物騒な事件が多いなぁ」
大魔法使い・フラメルが新聞を読みながらぼやいている。
新聞などわざわざ魔塔の研究室で読まずともと思いながら、魔塔長を務めるマーリンが微かに首を傾げた。外へ自由に出入りできない……筈なわけはなく、別に自由に外出できるのだが、引きこもりがちになるのは研究を生業とする者の性であるのだろうか。
大半の者が塔に引きこもったっきりなので、外の情報を得るためにすべての新聞を購入することになっていた。
フラメルが読んだのだろうテーブルの上に散らかった分を手に取れば、物取りか怨恨か、と言う見出しが目に入る。同時に取材をした記者が描かせたのか、煽情的でおぞましい、想像力を掻き立てるような絵が添えられていた。
そして別の新聞の小さな欄には、行方不明者の名前と誘拐された別の人間の名前の記事が並んで記されている。
マーリンはひとつひとつに目を通しながら、反対側に首を傾けた。
「目撃者なき未解決事件……偶然でしょうか」
「どうだろう。こっちの管轄だって話は上がって来ていないんだろう?」
ハナからおかしいと感じているのだろうフラメルが、新聞から顔を上げた。
……今日は面倒なのか若い姿のままだ。
魔法や魔術を介在した事件や魔族の起こした事件だった場合、警備機関ではなく魔塔にお鉢が回ってくる。のんびりと疑問を発している時点でそういった話は聞いていないということは丸判りだ。
(……自分はどう思うのかってことを聞いていらっしゃるんだな……)
「これだけでは何とも。同じような事件は如何ほど?」
「初めは動物の虐待・虐殺事件が多かったようだが、最近は人間の事件が増えているな」
「…………。まあ、その辺は人でも魔でも、似たような経緯を辿りますが」
小さなものや弱いものから、大きなもの・難しいものへと、どんどん対象がエスカレートして行くのだ。そうやって事件は大きくなっていく。
「二か月ほどの間に殺傷沙汰……多分亡くなっているだろうものが五件。誘拐は解っているだけで三十数件、喧嘩や暴力沙汰は、ちょっと関りが何とも。しかし増えてはいるな。特に西側が多い」
「確かにそれは多いですね」
ちょっと調べてみますと言うと、マーリンは研究室を出た。
警備機関に問い合わせても、酔っ払いだの怨恨だのと言った回答が返ってくるばかりであった。マーリン自ら現場に出向いて魔法が介在しているか確認してみるが、特にそんな反応も見えない。
しかし何か、ざらついたような感覚を微かに覚えた。
(……はっきりとはしないな。刃傷沙汰になる程の事件となれば、強く黒い思念も溢れるだろうから……)
解るのは魔法を使った事件ではないことは確かだという事だけだ。
近くに瘴気が溢れるような場所がないか、地図と目視とで確認する。無い。
しかし、どうにも違和感を覚えずにはいられなかった。
*****
「瘴気のある場所もきちんと管理されています。荒らされたような形跡も、他の者が入った形跡もありませんね」
マーリンが報告をすると、フラメルが頷いた。
「……でもあるでしょ。何かこう、違和感が」
マーリンは呆れたような顔で大魔法使いを見ると、小さくため息をついた。
「わざわざ現場へ行かれたのですか?」
それには答えず、フラメルが頬杖をつく。
「封印や結界も壊れてない……」
「そんな場所まで確認されたのですか?」
古い古い過去に勇者や聖なる者、場合によっては魔法使いたちに封印された『悪しき者たち』が閉じ込められた場所がある。可能な場合は魔塔内の然るべき場所や魔界そのもので厳重に管理されているのだが、動かせないものは封印の上から結界を張り、魔塔で管理している場所があるのだ。忌み地――いわゆる禁足地というやつだ。
「これも浄化の力や癒しの力が弱まっているからなのかな」
「……まあ、無関係ではないかもしれませんね」
浄化が弱まれば結界が弱まる……ことも(考えたくはないが)最悪あるのかもしれないが。そうでなくとも人々の荒んだ感情が癒され難く、自然と犯罪率が上がっているということもないとは言えないだろう。
「不安が強まると良くないことが誘発されるからね……エヴィ達には早々に魔法陣を改修してもらわないとだよ」
「もう、聖女様は現れないのでしょうか」
マーリンがフラメルに瞳を合わせた。大魔法使いは嫌そうな顔を隠しもせずに眉を顰めている。
「それは誰にもわからないよ。だけど魔力は減少の一途だよ。過去の聖女のように強大な力を持った人間は現れなくなっている」
全体的に近年、魔力の強い人間が生まれ難くなっている。技術力の向上が原因でないかと言われている。新しい力はいつだって古い力を凌駕して行くものだ。より良いものへ強いものへ。常によりよい未来を求め工夫し、そうやって人類は発展してきたのだ。
そのうち魔力を持つ者も持たない者も、同じように便利に、技術力をもってして暮らしていくことが出来るようになるだろうと言われている。
(時代の流れなのか……少し淋しくはあるが、人類が誰でもなせることが増えていくという部分を考えれば悪くもないのだろうが)
マーリンの感傷を断ち切るかのように、フラメルが続ける。
「そう言えば、例のハゲ薬とやせ薬の説明会だけど。人々の気持ちが荒むだろうから念のために教会など結界の強い場所で開くようにしたほうがいいと思うよ」
「……解りました。注意するように致します」
あくまで人ではない何かの存在を懸念しているのだろう。珍しくフラメルが難しい顔をした。
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(……クソッ! 本当にツイていない!)
会場となった教会の長椅子に座ったまま固く拳を握りしめる姿があった。
再びカツラ生活に戻った彼の頭は、まだらに禿げ上がっている状態であった。薬の効能が抜ければ、大半が生えて来るであろうとの診断であった。
悔しさに奥歯を噛み締めながら会場を後にする。
そしてしばらく歩いた後、路地裏のごみ捨て場に、石に魔法陣の描かれた護符を投げ捨てたのであった。
(……みつけた)
黒い靄だったものは、路地裏の陰に同化していた。
だいぶ力を取り戻した今、己の存在を悟られないようにコントロールすることが可能となったのだ。
人の汚れた思念を食べ、瘴気となった悪意を食べ。それと一緒にそれを放った者と放たれた者も両方食べた。
動き易いように入れ物を捜しては試してみたが、すぐに壊れてしまう。その度に食べるので問題はないが、どうしたものかと考える。
魔力はあっても無くても構わないが、強い身体がいい。
高貴な人間は生まれながらに強い力に守られる存在であるので、出来ればそういう加護のある生まれ。そして心が怒りや憎しみで満たされている者がいい。それはそう難しくはないだろう。身分が高い者は様々に恵まれる反面、一般の人間には計り知れない負の側面に立ち向かはなくてはならないことがある。
おかしな模様が描かれた小石が投げられ、黒い靄のようなものの前に転がって来た。
不完全な魔法陣だ。
複数の人間の強い焦りや嫉妬、怒りを感じて引き寄せられる。煮詰まったように濃いそれを味わおうと石の中に身を潜ませる。大きさなどあってないようなもの、いかようにも変えることが可能だ。
石を追うかのように若い男が顔を覗かせた。路地裏に投げ捨てたものの、やはり捨てるに忍びなくなったのだろうか。
強く心を寄せたものは、役に立たないと解っても手放せないものなのだ。
そしてその男を見た時、黒い靄のようなものは長い間捜していたものをみつけたのだ。
顔があったのなら、きっと笑みを浮かべていたであろう。
(……みぃつけた……!)
「……気味が悪いな」
ぼやきながら若い男が路地裏を覗き込むと、今ほど投げ入れた護符に指を伸ばす。
護符とは名ばかりで、占い師がどこかで拾った小石にうろ覚えな魔法陣らしきものを描いた『お守り』だ。それに手を伸ばした。
「……!?」
黒い何かが一瞬にして若い男――クリストファーを包み込み、そして静かになった。




