探求は異界にも及ぶ
「浪漫の探求者」本編 第一部「新たなる門出」
第一節「同朋は異界より来たる」の別視点
実態のない栄華は、いずれ綻び失われる。遥か昔、命渦の混沌より――あるいは何もないところから、尽きることのない財をもたらす業を手に入れ、分不相応な繁栄を極めたという、溢命陸は、ある日突然その代償を払わされ、全てが曖昧になり、忘失の虚に落ちた。
そんなことがあってからは、この忘失の大地は『虚の樹皮』と呼ばれるようになった。らしい。誰も、正確なことは覚えてなんかいない。最古参のおれだって、当時は存在すらしていなかったし。
元の存在も忘れながら、辛うじて「在る」という概念だけは覚えていた、溢命陸の出来損ないども。頭と四肢だけ虚覚えの、おれたち球人の大多数は、虚の彼方に落ちた忘失領域を再度観測することで、まっとうな生命の生きていける版図を取り返すことを目的に、存在していた。
まあ、実のところ。誰に求められるでもなく。自主的に、てきとうに、だ。……要するに、球人にとっては、それが典型的な趣味の一つだと言える。曖昧だった空間がしっかり再認識されるのは、気分もすっきりするしな。
「報告。不明な空間の歪みを確認。対応について判断を乞う」
「承知。すぐに向かう、確認を待て。異変あれば報告されたし」
おれは、球人刀剣団『機動探剣隊』隊長、個体識別名『財宝を探すもの』。溢命陸の丙種忘失領域にて活動をしていた隊員48214番2號より、気になる報告が上げられた。予想するに、その性質は穴、もしくは門。脅威度は不明。おれの直感をもってなお「不明」であるならば、その調査は他の誰かには譲れない。
「全隊連絡。トレイシー・サークスは、これより調査に出向く。不在時の権限は、全て副隊長に委譲される」
「……ハァ……。またか、隊長。仮にも立場ある身であることを、忘れられると我々は困る。それでもなお、いつも通り。ただ面白そうだからと言って向かうのか」
連絡を終える。側にいた副隊長『遠方を見るもの』からは、いつも通りの嘆息が聞こえてきた。思えば勝手に伝わるというのに、それでも露骨に長々と溜息など、毎度律儀なことだ。
「心配するな。立場ある、などとお前たちは言うが、隊長は別に必要なものなんかじゃない。『機動探剣隊』は、お前たちさえいれば大丈夫だ。それに、敢えて行くからには、成果もしっかり掴む。その方が効率も良いだろ?」
「隊長がそう言うなら、そうなのだろう。……我々はみな。頼られることのない己の無力を嘆き。探索者の道行を案じているだけだ。それくらい、分かっているだろう。隊長」
無論。何度も聞いているし、ちゃんと分かっているとも。お前たちにとっては、留守を預けられることは「頼られている」内には入らないらしい、ということも。こんなにも分かりやすく、毎度頼っているのにな。
だが、それでも。全部ちゃんと分かったうえで。おれたちは、決して譲らない。
「無駄に危険かもしれないことに、率先して首を突っ込むのは、探索者や放浪者の役目だ。したいことを止められる道理はない。仮にお前たちに任せたとして、お前たちが無事に帰ってこれない可能性――なんてのは、おれにとっては二の次だ。どうしてもおれたちの楽しみを奪いたいなら、せめて任せられるように、研鑽を積んでおけ。そうしたら考えてやるよ」
「……知っている。止められはすまい。此度もまた、無事に成果を持ち帰ることを願っている」
納得はしていない、か。……存外、慕われてしまっているものだ。おれとしては、最古参で向こう見ずのおれよりも、儚くも前途あるお前達のほうが、よほど目をかけられ、大事に守られるべきものだと思うのだが。浮世はままならんな。
「全く。何度も教えているだろう。こういう時は『幸運を』と言うんだ」
無事に帰るというだけなら、言われるまでもなく、意地でもやる。だから、どうせなら。おれたちの冒険が、より良いものとなることの方を祈ってくれ。その方が、嬉しい。
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溢命陸では、彼我の距離など、元より曖昧なものでしかない。どれだけ離れていたとしても、辿り着きたいならば、すぐにでも着ける。骨子はあるので、誰にでも簡単に、同じくらいできるという訳ではないが。
「空間の歪みを確認しにきた。報告に感謝する。変わりはないか」
「隊長。相変わらず、隊長は早いね。今のところ、変わりはない。そもそも、状況は数瞬で変わるようなものじゃない」
何を根拠に断言している、48214番2號。そんなもの、わからんだろう。未知のものに、予測可能な傾向などあるものか。
「観測。事前の予想通り、本質は門か。……先は遥か遠くに繋がっているように感じる。少なくとも、この辺りではないな」
「把握。遠い、という概念はよくわからない。隊長は、それをどういうものだと推測する?」
「思案。既知の概念で言えば、架空想にあたるものではないか、と推測している。だが、架空想にしては領域の規模が大き過ぎる。空間の性質としては、どちらかといえば甲種忘失領域に近そうだ。つまり、不可解」
観測を続ける。……危険度の予測、不明。しかし、生きているのも困難だ、というほどではない気がする。ならば、仔細は向かえばわかる。考えても仕方がないことを、見なかったことにするつもりがないのなら、たとえ罠だろうと飛び込めば良いのだ。
「では、調査に向かう。命令だ。安全確保が終わるまでは、誰も入れるな」
「確認。伴は要らないの?」
「現地で考える。予測される範囲では、生存そのものは困難ではなさそうだが、何があるとも限らん。まずは連絡を待つように」
細かな探索の都合を考えるなら、いたほうが無難ではあるが、守れると断言できない以上、いないほうがマシだ。そもそも、危険度も生存可能性も、判断基準は英傑だ。平均的な球人にとってどうか、なんて知らん。未知の間は、過度に悲観するくらいで丁度いい。
「承知。……少し、残念。『機動探剣隊』はみな、隊長とともに、肩を並べて冒険できる日を夢見ている。危険かもしれないのなら、なお力になりたいと。わたしは、命に替えても惜しくないよ」
「本当にそう思うなら、せめて足手まといにならんよう、研鑽を怠るな。見込みがありそうなら考えてやる。だが、少なくとも。軽々しく死んでいいやと考えるような軟弱なやつは、おれは絶対に連れ歩かんぞ。命懸け、だなんて気軽に言ってるような馬鹿は、特にだ」
「……それは無茶だよ、隊長。死なないで強くなれた球人なんて、探索者球人と騎士道球人しかいないんだもの」
何を馬鹿な。やってできないことなどあるものか。力の大小以前に、お前たちには意志が足らん。最初から諦めているようでは、可能も不可能でしかないというのに。
……だが。おれはそもそも、皆の平穏や幸せのために働いている。守るべき連中を、未知や危険に晒すなんて、本末転倒だ。
「そう思うなら、それでも良いさ。必要もなく、敢えて苦難にも飛び込もう…… なんていうのは、我々英傑だけで十分だ。有事にはそうも言ってられんが、平穏に生きるのは、何ら悪いことではない」
そんなことは、全部承知の上で。それでもなお、夢を求めて飛び込むしかない大馬鹿ものどもだけが、夢を標に邁進するのだ。そうしなければ、おれたちは生きてすらいられないから。
だから、お前たちはそれで良い。
「……肯定。でも、次に会うまでには見込んでもらえるように。わたし、頑張るね」
しなくてもいいと言ったのに、それを聞いて逆に頑張ろうと言うのも、おかしな話だ。期待はしていないが、口先だけでも前向きならば、その努力はまた見定めさせてもらうとしよう。
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門に飛び込んで、暫くが経つ。何というか、矢鱈つぶさに観察されている感覚が、ずっと続いている。どこに進むともなく空間を漂いながら、ふと、昔いなくなってしまった同朋のことを思い出した。
『繋ぎ錨』。いつだって、ふらふらと何処かに行ってしまいそうなあいつを、目的に繋ぎ止めていたあの剣は、終ぞ帰ってくることはなかった。もちろん、球人刀剣が帰ってこないこと自体は、別段珍しいことでも何でもないが、一方で、我々の記憶からもすっかり失われるというのは稀だった。たったひとりの例外を除いて。
もちろん、忘失の彼方にあるものは、存在した事実も無くなってしまうから、実際には不明なのかもしれないが。……少なくともおれは、なにか大事なものが欠けてしまったときの、どうしようもない喪失感と寂寥感だけは、しっかりと覚えている。親友のせいで慣れっこだ。その経験のお陰で、おれだけが気付けるのかもしれないとはいえ、流石にちょっとくらいは反省しろ、と思う。
ただ、その懐かしい『繋ぎ錨』のことを、今はちゃんと思い出せている。忘失の彼方に失われたものに、再度巡り合うことは奇跡だ。懐かしさに惹かれるまま、残滓を辿って、彼方へと漂っていく。
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空間を割る轟音が聞こえ、やっと足場のあるところへと辿り着いた。すぐに索敵。……反応があるのはふたり、どちらも人間。転がっている片方は、脅威度なし。つまり、どうでもいい。もう片方は、脅威度未知数。警戒に足る。
「……なんすか姐さん! 何かするなら、せめてちゃんと宣言してからやれっていつも言ってるでしょうが!」
「ちゃんと言ったじゃん?」
「掛け声は宣言じゃねえんすわ。……パッションだけで行動してると、いつか痛い目見ますよ」
無関係ながら、耳の痛い話だな。さておき、状況確認を継続。虚空装置、動作良好。良好過ぎるのが気にかかるが。ともかく。退路、なんとでもなる。総合評価、緊急性なし。
……ならば、情動のままに動けば良し!
「話す言葉は分かるけど、世界法則は違う? なんか面白そうなところだ! 全部が未知ってのも、とても良いな! 探索のしがいがある!」
おれの声に反応して、脅威度未知数の少女――姐さん、と呼称された人間の個体がこちらを見た。その目には好奇心が満ちており、今のところは危険性なし、と判断。交流を試みる。
「こんにちは。あなたはやっぱり異界の人?」
「こんにちは。多分そうだ。おれは溢命陸の球人、名前はトレイシー・サークス! 溢命陸の名前が知られてないなら、ここは多分凄く遠いところか、君がいうような異界なんじゃないかな?」
やっぱり、ときたか。異界の存在が当たり前の世界ということなのか、もっと別の意味があるのかは不明。引き続き警戒。
「よろしく、トレイシー。ホロウェンバークスってところは聞いたことないね。球人も見たことないや。わたしが知らないだけで、もしかしたら知ってる人もいるかもしんないけど」
存外に聡い少女だ。既知だけで軽率に物事を断言しない、分別がある。未知数の脅威度も併せて考えると、只者ではないだろう。好感が持てる。
「その通り! 知ってる人がいるかもしれないから、今これを断定することはできないな! とはいえ、今時点だとおれは異界の人という判断でいいと思う!」
何より、当事者としては、その可能性が十分に高いと考えている。この場が溢命陸とは異なる理念が支配する領域である、というのは、感覚でわかる。その正体までは知らんが。
「おうおう、待てよ玉コロ。俺はお前を人とは認めねえぞ?」
状況と言葉を咀嚼していると、先程転がっていた男の方から、隠すこともない敵意に満ちた声がかけられた。いっそ微笑ましくすらある。無力な愛玩動物の如く。
「あー、おれの形のこと? 意思疎通ができてるなら、些細な違いじゃない? もちろん、それじゃ納得できないからこそ、そんなに喧嘩腰なんだと思うけどさ」
少し深く観察してみる。主な感情は不信だが、その奥には、幾許かの嫉妬心が潜むようだ。なるほど、少女への好意が根底にあるのか。
「まったく、見習いは初対面の人が相手でも失礼だなあ。そういうの、良くないと思う」
「……姐さんは順応が早すぎるんすわ。訳分からん生き物が突然現れて、警戒の一つもしないってのは、流石に危機意識が欠けてるっしょ」
見習い、と呼称された男は、尤もらしいことを言っている。それだけわかっているにも関わらず、仮にも意思疎通が出来るような、知性を持つらしい相手に対し、不必要に喧嘩腰で吹っ掛けるというのは「愚かだ」としか言いようがないな。
「警戒するにしたって、そんなわかりやすく警戒したら相手にバレバレじゃんか。見習いさんは冒険とかしないからそういう感覚がなくていいんだろうけど、未知や脅威に最前線で立ち向かって、なおかつ生きて帰るんなら、敵意や害意にはことさら敏感じゃなくちゃあ」
教えてやる義理もないのだが、言わずにはいられない。基本的に弱者でしかない球人ならば、剣を握る前に肝に叩き込まれることだ。逆説的に、こんなにも普通の――下手をすればヒヨッ子の球人にすら劣りかねないような凡百が、こうものうのうと生きていられるなら、この世界は恐らく、大層平和な世界なのであろう。
「……ブチ殺してやろうか、玉コロ風情が」
おまけに、彼我の力の差すらも弁えていない。滑稽なほど、不様だ。なるほど、異界といえど、人間というものは。それこそが存在の本質なのかと思えるほどに、どこまでも傲慢なものだ。侮られているのは、非常に都合が良い。
てきとうに受け流していると、少女から叱責の声があがる。
「もー、言われてることは真っ当よ? ごめんね、トレイシー。これでもわたしたち、冒険者なの。風格がないのは自覚してるけど、あんまり的確に地雷を踏み抜いてあげないでね?」
……嘘だろ? 異界の冒険者ってのは、そんなチョロい精神性でも、何とかなるようなものなのか?
……頼りになる先達の庇護があれば、能力が足りなくても生き残れる。ならば、そういうこともあるか。
「……ごめん。姐さんの方はおれの同類っぽかったし、姐さんに見習いって呼ばれてるなら、そこは気付くべきだった。許してくれとは言わないけど、悪気はなかったんだ」
悪気などないし、許される必要も特にはない。見習いの方は心配になるほど無能らしい。それでも同類であるなら、せめて使い物になるようにはしてやりたいものだが、果たしてそんな機会はあるものだろうか。他人事なので、どうでもいいか。
「姐さん。俺、こいつ嫌いっす」
だろうな。でも、おれは嫌いじゃないよ。
「わたしは好きだよ? それで、トレイシー。これからどうするの?」
それは何よりだ。しかし、どうする、だと? 探索者球人に、そんなことを聞くか。夢を求めて、敢えて未知や苦難に挑むものの行動など、考えるまでもなく一つしかなかろう!
「これはまた異なことを! 異世界に来て、冒険をしない探索者がこの世にいるとでも? ついでに色んな良いものを探して、それを他のやつに自慢して回るとかができれば最高だね!」
とはいえ、その情報を持ち帰ることができるか、については一旦不明ではある。向こうからこちらに来ることは容易にできたが、同等の気軽さで帰ることはできないらしい。まあ、おれの目的としては、誤差だ。どうでもいい。最悪帰れなくても、副隊長が残っているから、大丈夫だろう。
そういえば、機動探剣隊と連絡が取れんな。情報網から外れたらしい。想定の範囲内だ。
「じゃあ、わたしたちと一緒に行動しない? わたしたちも冒険して色々良いもの探してるんだ」
「いいの? 超ありがたいね。でもなー、そこの見習いさんが許してくれっかなー?」
願ってもいない提案だ。ないならないなりに、なんとでもなるとは思うが、現地協力者が得られるのは悪くない。少女とは、気も合うだろう。どう考えても同類だ。
「姐さん、俺は反対っすよ。こんな得体の知れないヘンテコ生物なんて……」
「んー。まぁどっちか片方を選べっていうなら、わたしは見習いじゃなくてトレイシーを選ぶよ?」
「えぇっ!? そんな! 今までずぅっと仲良くやってきたじゃねえっすか!」
「だけど、これからはもう仲良くしていけない、ってことだね。仕方ないよね。かなしいなー」
仲睦まじい様子で、じゃれ合っている。こういう時は、便乗しておけば良い。
「かなしいねー。おれが他人事のように言うのもあれだけど」
「……ああもう、わかったすよ! 同行を認めりゃいいんでしょ!? ……覚えとけよ、このクソ玉コロ野郎……」
本当に御しやすいヒヨッ子だ。仲間としては不安もいいところだが、一先ず都合は良い。ついでに、念押しもしておこうか。
「わあい、やったぜ。……大丈夫だよ、見習い兄さんの大切なものは取らないからさ」
内心などお見通しだ。そもそも隠しているかは知らんが。なんとなく隠しているのだろうと感じる。
「どういう意味? 知らない人からはともかく、仲間内での盗みはだめだよ?」
見習いの方は意図通り怯んだが、少女からは、ややズレた質問が返ってくる。これは片想いだな。ぼかしといてよかった。
「ん。まあ、あれだよ。見つけたものの分前はいらないよ、みたいな? 人が増えると、報酬の分配もややこしくなるかんね。おれはあくまでも、探すのが好きなだけだし」
てきとうに自己紹介しながら誤魔化しておく。実のところ、おれの価値観が人間にとって信じられるかは甚だ謎だな。やはりというべきか、少女からは少し不信感が向けられている。
……いや、これはおれの発言を疑ってるわけじゃないな。随分と細かい違和感に拘泥するものだ。気になったことは、追求せざるを得ない性分なのかもしれんな。視野の狭いことだ。
「そういうわけにはいかないよ。仲間なんだし」
「まあまあ、難しく考えることないよ。姐さんも見習い兄さんも、お互いに欲しい物を貰ってるだけさあ。だったらおれも同じように、欲しい物を貰うってだけだし、何も変わんないでしょ?」
少女は冒険の浪漫を求めていて、その見習いは少女の気持ちを求めている。おれがそこに入ったとしても、おれの欲しいものは、絶対にふたりとは競合しない。だから、何ら難しいことはない。
「お前の言葉は信用ならねえよ」
「信用するかしないかはともかく、絶対何かはぐらかしてるよね?」
それだけ分かっているなら、当人同士でちゃんと察すればよかろうに。本当に、浮世というのはどこもままならないものだ。それとも、気付きたくない、目を背ける理由でもあるのか。まあ、人間の複雑怪奇な感情など、知ったことではないな。他人事だし。実際どうでもいい真意など、その程度の追及で、いちいち答えるものか。面倒極まりない。
「もちろん、はぐらかしてはいるよ。嘘が言えないとはいえ、何でも正直に言えばいいわけじゃないしな。……なんにせよ、信用されるためにも対価を受け取る必要がある、ということなら、遠慮なく貰っちゃおうかな。なくてもいいけど、あるなら使い道もあるだろうしね」
不信は拭えていないが、この少女は、そのあたりも呑み込んで、上手く相手と付き合える余裕がある。ならば、少々疑われていようと、何ら問題はない。
しかし、対価か。言ってはみたが、溢命陸において、とりわけ球人の間では、取引という概念がほぼ失われているので、正直あまり馴染みがないな。確か、綺麗なコインが抽象価値として扱われるんだったか。なんとなく、そんな記憶がある。取引といえば、球人商人は息災だろうか。
「まぁいいや。それじゃ、これからよろしくね。そういえば自己紹介をしてなかったけど、察しのいいあなたなら、わたしたちの名前も既に分かってるのかな?」
露骨に探りを入れられているな。中々無茶を言う。記憶にある限りでは、今のところ判断のしようがないはずだが、この世界の常識では、その限りではないのかもしれない。
「えー、まっさかぁ。どこかに書いてあるならともかく、ここまでに見たもので、判断できるような情報なんてどこにもなかったと思うなー。せめてヒントがないとさー」
「ヒントかぁ。これとかはどう?」
そう言って少女が差し出したのは、何やらとても良い石だった。何が良いとかではなく、これが彼女の浪漫の結晶であるという事実だけは、説明されるまでもなく理解できる。強いて言うなら、手触りは非常に良さそうだ。無性に触ってみたくなる、謎の魅力がある。
「お、いい石だねえ。姐さんの尊い気持ちみたいなものが、強く感じられるよ。……つまり、石の記憶から当ててみろってやつ? おれには無理かなー。そういうの、得意じゃないし」
そういう技術はあるらしいと聞くが、球人にもできる奴はいるのだろうか。聞くところによれば、恐らくは精神波干渉に属する技術のはずなので、妖精球人あたりなら、可能かもしれない。
「……これの名前がわからないの?」
少女は、目を丸くして驚いている。こちらこそ、少女が言っていることの意味がわからない。物の名前など、個々人の呼称だけでも変わりうるはずなのだが、この少女はまるで、物の名前が一意であるのは前提だ、と言わんばかりに聞いてくる。
「……なーるほど、世界法則の違いってやつかあ。ここじゃあ常識が色々違うんだね。……回答は肯定だ。石だなあ、ってくらいしかわかんない。知ることが出来るかどうか、については単にやり方がわかってないだけなのか、おれには無理なのか、が今んとこわかんないかな」
何にせよ、興味深い話だ。どうせなら、おれもできるようになって帰りたいところではある。もしかしたら、おれの半身剣にも、本当は別の名前があるのかもしれないしな。
「そっか、異世界の人だもんね。じゃあ、素直に自己紹介しよう。わたし、ナズナ。冒険者団『浪漫の探求者』のリーダーだよ。ほら、見習いも」
「……ザック・バーグラー。姐さんからは見習いと呼ばれてる。だが、気安く呼ぶんじゃねえぞ、新入り」
ナズナ嬢と、ザック・バーグラー。見習いの方は、性質的には荷物持ちか。ナズナ嬢の方は、性質不明。記憶に類型なし。性格が放浪者に酷似していることだけはわかる。圧倒的自由人の雰囲気は、隠しようがない。
なんともまあ、愉快な面子だ。良好な関係を築けると良いな。
「ありがとう、ナズナ。兄さんは名前で呼ばれたくないらしいし、兄さんって呼ぶよ」
「それはそれでなんか馴れ馴れしいからムカつくな……」
注文が多いな。ならば、何処かで聞いたことがある言い方にでも倣ってみるか。
「じゃあ、センパイ?」
「馬鹿野郎、鳥肌立つわ。……取り敢えず兄さんでいい」
どうやら気に入らなかったらしい。敬意を込めた呼称の一つだと聞くが、やはり人間の感性は理解し難いものだ。