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瓦の落ちた先

作者: 階堂 徹

 貴史がどぶ川沿いにある教会の屋根に上がり、辺りを見回すと民家の明かりが灯りだしていた。それがまるで彼には人の瞳のようにも見える。視線から逃れるように這い上がり、屋根の中央の支柱に向かう。その上には十字架が設けられている。瓦の葺き替え作業の途中で屋根全体がブルーシートで覆われていた。ブルーシートを鷲掴みにして登っていく。貴史の身体が震えていた。それは落下に対する恐怖でもなければ、寒さのせいでもなかった。支柱にたどり着くと、踵に引っかかる瓦が一枚、屋根を滑り落ちた。視界から消える瓦の先のどぶ川に月がぼんやりと揺らいでいた。


 貴史は幼い頃から骨太でがっしりとした体格で、短髪の天辺がトサカのように逆立ち、吊り上がった細い目と、突き出た鷲鼻が嘴のようにも見えた。節々の出っ張った大きな手で喉下を締め付ける姿は猛禽類が狩りをしているようで、中学に上がる頃には誰一人として逆らう者はいなくなっていた。

 母子家庭で昼間母親が仕事で居ない貴史の自宅が、不良グループのたまり場になっていた。

 この日は、貴史の同級生が五人と後輩三人が集っていた。四畳半の部屋には収まりきらず、玄関先の台所にまで座り込む者がいた。

 中央に座る貴史が顎をしゃくる。

「おい、カンカン取ってくれ」

 後輩の達夫がボンドの一キロ缶を差し出す。貴史が蓋を十円玉でこじ開けると、ボンドの臭いが部屋に立ち込めた。薄黄緑色のドロリとした液体をビニール袋に流し込む。

 その後、たむろする者たちがボンドの缶を奪い合う。

 ボンドの入ったビニール袋を口にあてがい、息を吸い込んでは吐き、吐いては吸い込む動作を繰り返すと全身が熱を帯びてくる。ビニール袋が膨らんでは収縮する音だけが部屋の中に響き、しばらくすると、涎を垂れ流し、畳の目を数え出したり、叫び声を上げ走り回る者が入り乱れ、それぞれに奇行にはしり出す。

 貴史は立ち上がり辺りを見回し、両手を広げて走り回っている達夫を睨み付けた。

「おい、お前……」

「はぁ?」

「何さらしとんねん」

「はっはっはっ」

 達夫が片手を突き出す。

「バーン! バン、バン」

「ん……」

「へっへっへっ……」

 片手を突き出したまま笑う達夫は貴史にとって反逆者以外の何者でもなかった。

 貴史は達夫の喉元を鷲掴みにした。

「なんじゃい! お前」

「うっうっ……」

 座り込んでいる数人が二人を虚ろな目で見上げていた。

「お前ら、見とれよ」

 貴史が指に力を込めると、達夫の顔が青ざめて行く。

 もがき苦しむ達夫にいらつく貴史の顔が紅潮し、鼓動が高鳴る。

 貴史が右手の中指を立てた次の瞬間、達夫が悲鳴を上げた。

「うぎゃー」

「俺に逆らうやつはこうじゃ」

 貴史の中指に押し出されて、達夫の左目の眼球が飛び出していた。貴史はその眼球を摘み、毟り取って達夫の身体を押し倒した。

畳の上を転げ回る達夫をよそに、貴史は掌の中の眼球を舐め上げ、床に投げ捨てた。

 気付かずにボンドを吸い続ける者もいたが、大半の者はこの出来事に正気を取り戻し、部屋を飛び出していった。

 貴史はこの事件で少年院送致となった。

 少年院を出てからも、傷害事件、恐喝、窃盗を繰り返す貴史が極道の世界に足を踏み入れるのは当然だった。怖いもの知らずの貴史はこの世界でみるみる頭角を現し、二十五歳になる頃には二人の舎弟を引き連れ、肩で風を切り街中を歩いていた。

 しのぎと言われる貴史の実入りは覚醒剤の売買だった。

 

貴史は何年かぶりに実家を訪れた。

 玄関先に立つと、窓に取り付けられた換気扇から味噌汁の匂いが漂っていた。日に焼けた引き戸を開けると、台所に立つ母親の背中が暖簾で見え隠れしていた。

「誰?」

 貴史が暖簾をかき分ける。

「かぁーちゃん、俺や俺、息子のことも忘れてもうたんかいな。呆けるんはまだ早いんと違うか?」

 上がりがまちに腰掛ける貴史を母親は振り向きもしないで、コンロに向い料理を続ける。

「あんたはどこのどなたさんかいな? うちに息子は一人おったけど、とおに死んでしもうたんや」

 貴史が掌で床板を叩く。

「かぁーちゃん、何を言うとるんや。ここにおるがな。ここに、なぁー、ぎょーさん、迷惑掛けたけど、もう大丈夫や、心配あらへん。ちょっと羽振りもようなってきたし、これからは贅沢さしたるからな、ここも引越しして綺麗なマンションに住まわせてやるがな、な」

「うちはここで充分や。息子はもう死んでしもうたんや」

「アホなこと言いなや。今まで迷惑かけた分、楽させたろ言うとんのやないかいな。もう歳なんやから無理するなや。これからは俺が面倒みたるさかいな」

 貴史が靴を脱ぎ土間を上がろうとする。

 母親が怒鳴る。

「帰れ!」

「何、言うてるんや。せっかく、親孝行しようと会いにきたんやないか、そないなこと言いなや」

「何が親孝行じゃ、人様に迷惑ばっかりかけよって、お前みたいなんが、息子や言うたら、恥ずかしゅうて恥ずかしゅうて、外も顔上げて歩けんわ」

「どないしようと、こないしようと、金儲けたらええがな、な、ほれ、これからは仰山金使いや」

 貴史が財布から、札束を取り出し床に置いた。

「そんな金いらんわい」

「そないなこと言わんと」

「お前みたいな……、お前みたいな子生むんやなかったわ。考えたら、考えるだけ情けない」

 貴史が舌打ちをして言う。

「かぁーちゃん……」

「うるさい! お前なんか息子でもなんでもあらへん。二度とうちの敷居またぐな、わかったら、とっとと帰れ! ほんま言うたら、お前殺して、うちも死にたいくらいや」

 コンロの上で豆腐がグツグツと煮立っている手鍋を手に取り、母親は貴史に浴びせた。

「何さらすんじゃ! 熱いやないかい。せっかく帰って来てやったのに、一人でさっさと死にさらせ、クソババァー、その金は香典代わりや。こんなとこ二度と帰ってくるかい!」

 貴史が出て行った後の土間には豆腐が散乱していた。


 トレーナーを脱ぎ捨てると、貴史の背中一面にまだ色彩の施されていない、千手観音が蓮の花の上に立っていた。刺青は輪郭を彫るだけでも身体が熱をおび、人によっては一週間うなされる者もいる。

 貴史が姿見に映る背中越しに、弟分の信に声を掛ける。

「どや?」

 信が揉み手をする。

「兄貴、格好よろしいわ」

「じきに色も入るしのぉー」

 貴史は素肌にジャケットを羽織り、ソファーに深く腰かけ、タバコに火を点けると、一服、二服、大きく吸い込み、灰皿に押付けるようにして揉み消した。

「信、金魚持ってこい」

 信が貴史の機嫌を伺う。

「え、そやけど、よろしいんでっか? ついさっきやったとこでんがな、そないやりはって大丈夫でっか?」

 貴史が信を睨み付けた。

「ガタガタ言わんと持ってきたらええんや」

「兄貴、ちょっと打ち過ぎやとおまへんか」

「お前、いつから俺に説教たれるようになったんや。おん、コラッ、ゴチャゴチャぬかしとったら、いってまうど!」

 貴史がガラスの灰皿を投げつけ、続ける。

「俺が言うたら、さっさっと、動かんかい!」

「へい、すんまへん……」

 信がオドオドしながら、テーブルの上に魚の形をした醤油入れを置いた。

 赤ワインや液体で薄め、魚の形をした醤油入れに入れることから、覚醒剤は金魚と呼ばれることもある。

 覚醒剤の売買を任せられ、高史は自らも常用するようになり、使用頻度が増していった。

 ジャケットの袖をまくり、注射器を持つ貴史の手が震えていた。小さなキャップを外し、針を差込み、薄紅色の液体を吸い上げる。テーブルの上に置いた赤いキャップが床に転げ落ちる。親指をピストン棒にあてがいゆっくりと押し上げる。針先から水滴が膨らみ、腕を伸ばすと無数の注射痕がみみず腫れになっていた。その間を縫うように針を突き刺す、貴史のコメカミがピクリと反応する。逆流する血液の糸が注射器の中をゆっくり浮遊する。ピストン棒に当てた親指に力を加えると、血液と混ざり合った覚醒剤が体内に注入されていく。

 貴史が注射器をテーブルの上に転がし、両腕をだらりと垂らし、宙を仰ぐ。

 信が床に散らかる吸殻を片付け、掃除機のスイッチを入れた時だった。

 ソファーに身体を横たえていた貴史が飛び跳ねるように立ち上がり、辺りの様子を伺う。

「なんや、なんや、この音は」

「どないしはりましてんな、兄貴」

「お前、何しとんのや?」

「何って、掃除でんがな」

 信が掃除機の先を貴史に向けた。

「なんや、その掃除機のバケモンは? お、お、お前、それで俺吸い込むつもりやな」

 貴史には,自分に向けられた掃除機の吸い口がとてつもなく巨大に見えていた。

「な、な、何言うてはりまんのんや。普通の掃除機でんがな、普通の、ほれ、ちゃんと見ておくれやす」

「うるさい! 俺は騙されんぞ」

 貴史はソファーのクッションの間に手を突っ込み引き出した。手には拳銃が握られていた。

 信に銃口を向ける。

「あっ、あっ、兄貴、何、し、し、しまんのんや。てんごやめておくれやすな」

「そんな、物騒なもん俺に向けやがって」

「アホなこと言わんといておくれやす。ただの掃除機でんがな、たのんますさかい、そのチャカおろしておくれやす」

 信は掃除機のスイッチを切ったり、入れたりしてただの掃除機であることを説明したが、貴史は拳銃を構えたまま、信を睨み付けていた。 

 信が掃除機の先で拳銃を叩く。

「やっぱり、そうか」

 震える信は何度も同じ言葉を繰り返す。

「何、言うてはりまんねん。ほれ、ただの掃除機やおまへんか、ちゃんと見ておくれやす」

「うるさい!」

 信が貴史の腕にしがみ付き、拳銃を捥ぎ取ろうとする。

「このガキ離さんかい」

 銃声がした後、信の悲鳴が聞えた。

「うぎゃー」

 銃弾は信の右足の甲を貫通していた。

 信は足を引きずりながら部屋を飛び出す。

 貴史がその背中に銃弾を浴びせる。

 しばらくして、銃声の通報を受けた警察官が部屋に入ると、玄関先に倒れる信と奥の部屋でソファーに貴史が座っていた。

 貴史は銃刀法違反、麻薬取締法違反、殺人未遂の刑で身柄を拘束される。

 貴史の肉体と精神はすでに覚醒剤に犯されていた。抗精神病薬の治療を受けながら、刑の確定する半年を拘置所で過ごし、症状の改善が見られたとし刑務所に送られた。

 新入調室で身体検査を受けた後、称呼番号、名前、舎房番号の書かれた長さ五センチ、横四センチの片布と呼ばれる白い布を数枚手渡された。枕、布団はもちろん衣服、靴下にいたるまで、片布を縫い付けるのが刑務所での初めての作業になるのだが、機能障害の出ている貴史には困難な作業だった。

 片布に針を刺す度、指先が血に染まる。ぎこちない動作で片布を縫い付けた物は全て、赤い斑模様に仕上がっていた。

 貴史が血塗れになった枕を投げつける。

「コラッ、貴様、何をしてる」

 監視員が頭を叩くと、貴史は大声を上げながら飛びかかった。

「うおぉー!」

「やめんか!」

狂ったように監視員の喉下を締め付ける貴史を数人で引き離した。羽交い絞めにされた貴史は肩を上下させ、呼吸を荒げて、腹這いで咳き込む監視員を見下ろし、唾を吐いた。             

 貴史は懲罰として初日から、鎮静房へと入れられた。

 寝返りを打つにも一苦労するほど狭く、暗い上に、股下で両手が前後になるように皮手錠をはめられ、部屋の片隅に備え付けられたカメラで四六時中監視される。扉の下から差し入れられる食事も両手の自由が奪われていて、ろくに食べれない。空腹感はなかったが、腹の虫は鳴った。意識は常に監視カメラに向けられていた。時間の経過も分からない。食事は五回運ばれて来ただろうか、いや六回かも知れない。身体を捩り呻き声を上げると、それがいつまでも耳についていた。片隅の監視カメラの小さな赤い光が、暗闇に舞う。

 刑務所内でも豚箱と言われる鎮静房に入れられると、気丈な者でも恐怖心から精神がおかしくなる。部屋の四方の壁は暴れても、囚人が傷つかないよう厚いスポンジゴムで覆われている。

 貴史には壁に無数の瞳が浮かび上がっては消え、誹謗中傷する幻聴が木霊していた。

 貴史は壁を何度も蹴り続けた。

 昼夜構わず、鎮静房から奇妙な呻き声が刑務所内に響き渡っていた。

 鎮静房で一週間を過ごした貴史は、入所時よりもやつれ、他人と会話をすることはおろか、視線を合わせることも出来なくなっていた。

 監視担当官の後を着替えを抱えた貴史がヨタヨタとついて、雑居房へと入る。

 監視担当官が声を張り上げる。

「整列!」

 それまで部屋のあっちこっちに散らばっていた五人の男たちが整列すると、貴史に舐めるような視線を向けていた。

 監視官が貴史の肩を押す。

「よし、新入り、挨拶しろ」

 貴史は辺りを見回して床に蹲ってしまう。

「おい、立たんか!」

 監視官が腕を取り、立ち上がらせようとするが、両耳を塞ぎ石臼のように丸まっている貴史は動かせなかった。

 整列している男たちの間から笑い声がして、貴史は耳に当てた掌をさらに強く押し当て身を硬くした。

 その時、アナウンスが流れ、監視官が舌打ちをして貴史の腕を離した。

「すぐ戻る。少しそのままで待て」

 監視官が小走りに雑居房を出て行く。

 監視官の足音が遠のくと、列の真ん中に立つ小柄な男が、貴史の前にしゃがみ、頭を小突いた。

「兄ちゃん、そんな怖いか? 後でたっぷり可愛がったるがな、今からそんなビビッててどないするんや。ヒッヒッヒッ」

 小男が言うと部屋の中に笑い声が湧き起こった。

 貴史が顔を上げ、男たちを見回す。

 笑い声が消え、男たちの顔色が変わる。

「なんや、新入り。なんか言いたいことでもあるんか」

 貴史が立ち上がり、小男を持ち上げ、床に叩き付けた。

「うあぁー」

 小男は四つん這いで、端に立っている顔の右半分に痣のある男に助けを求めるように足にすがりついた。

 痣男が前に出る。

「おーおー、元気がよろしいな、兄ちゃん。ここでの、作法を教えてやらなあかんみたいやな、なぁー、みんな」

 痣男は貴史の胸倉を掴むと、顔面を殴った。

 貴史は痣男の手を払いのけ、手の甲で口元を拭うと血が滴り落ちた。

「がぁー、はぁー、がはぁー……」

「何がおかしいんじゃ! この新入りが! 舐めとったらいってまうど!」

 痣男がもう一度、拳を振り上げたが,貴史は痣男の両耳を持ち、顔面を引き寄せ、鼻に喰らいついた。

 群がる囚人たちに袋叩きにあっても貴史は、喰らいついた鼻を離さない。

 どうにか貴史を引き剥がすと、小男が蹲る痣男に駆け寄る。

「大丈夫かいな? あー、鼻が、鼻が……」

 痣男の小鼻が喰い千切られていた。横たわる貴史を見ると口をクチャクチャと動かして喉を鳴らした。

「うぁー、こいつ鼻喰うてまいよったで」

 貴史を取り巻いていた男たちが後ずさる。

 雑居房に移るはずだったが、貴史は再び鎮静房へと戻された。

 刑務所内でも誰一人、寄り付かなくなり、雑居房に移されても貴史はいつも一人だった。

 仮釈放を迎え、身元引受人は母親以外になかった。

 保安課の担当に手を引かれる貴史は、ぎこちない手つきで出所票を差し出す。扉の横に立つ警備員が写真と貴史を見比べ、首を傾げる。大きな鷲鼻さえ垂れ下がって見え、警備員には貴史が写真と同一人物だとは思えない。しかし、保安課に急かされ、警備員は扉を開けた。前に、風呂敷包みを抱えた白髪交じりの小さな老婆が立っていた。

「あぁーちゃん……」

 貴史には後遺症のため、言語障害が残っていた。

 貴史が母親の足元に崩れるようにすがりつく。

「このバカタレが」

 母親が拳で坊主頭を叩くと、涙が一つ、二つ零れた。

「腹、空いとらんか? うどんでも食べて帰るか?」

「……」

 駅前でうどん屋の暖簾を潜ると、出汁の匂いが鼻腔をくすぐる。

「貴史、天ぷらうどんでええか、他に食べたもんあったら言うたらええけど、お前、天ぷらうどん好きやったやろ?」

 貴史が頷くと、母親は天ぷらうどんと素うどんを注文した。

 二人にその後会話はなく、静かにうどんを食べていたが、貴史は箸も上手く使えないでもたついていた。

 二人はうどん屋を出て、ホームに続く階段を上がる。

「よっこらしょ、よっこらしょ」

 母親が手すりに捕まり、掛け声と共に足を運ぶ。

「あぁーちゃん、おんぶしたらか……」

「ええ、ええ、まだそない年やない、それにお前みたいなんに背負ってもろたら、余計危ないがな。お前こそしっかり歩け、ほれ、ほれ」

 貴史の表情は逮捕以前と比べると、穏やかだが何処か虚ろで、時には魂の抜けた蝋人形のようにも見えた。興奮するとさらに呂律が回らなくなり、精神療法が必要とされ、病院通いが続いていたが、毎日、何をするでもなく、家の中で過ごしていた。

「貴史、たまには気晴らしに風呂でも行ってきたらどないや。長いこと風呂も入っとらんやろ」

 母親が半ば強引に、石鹸箱とタオルの入った洗面器を持たせ、小銭を握らせた。

 久しぶりに外に出た貴史は日の光に目を細めた。

 杉ノ湯は改装されていて、貴史の記憶にある番台から、フロント形式の受付に変わっていた。下駄箱にサンダルを入れた。

 貴史がフロントに向かい、小銭を差し出した。

 フロントではスウェットの上下を着て新聞を読んでいた店主が、顔を上げた。

「兄ちゃん、そこの券売機で入浴券買うて」

 券売機で入浴券を買う貴史の手が震えていた。

 午後三時、開店直後の脱衣場に人影は少ない。

貴史は思うように操れない手で、一枚、一枚服を脱いでいく。背中の千手観音にはまだ色彩が施されていないままだ。昔、鏡に映るその刺青に色彩が入るのを楽しみにしていたが、今では自分の背中に興味もない。

 洗面器を手に洗い場に入ると、湯煙の中に先客がいた。

 お湯の流れる音と、壁を隔てた女湯からおしゃべりが聞えていた。

 貴史が洗面器で湯船のお湯を汲み上げ、肩から流し、勢い良く、湯船に飛び込んだ。

 水面が波立ち、お湯が溢れる。

 突き当たりのサウナルームの扉が開き、立ち上る蒸気の中に二つの影が現われる。

 二人はサウナルームの横の水風呂の中から貴史を見た。

「あっ、久しぶりでんな」

 水風呂を上がり、右足を引きずりながら、湯船近づき貴史を見下ろしているのは信だった。

 冷水に縮み上がったペニスが貴史の目の前にあった。シリコンボールが埋め込まれていて歪な形をしていた。

「おー、インか?」

「覚えててくれてはりまんのんか、昔は世話になりましたな、今でも時々、兄貴のおかげで右足が痛みまんねんで、兄貴は何してまんのんや?」

「うろ、はいとんねんやんけ、めたらわかるやろ」

 信は後ろの男を振り向く。

 背中には昇り竜の刺青が綺麗に施されていた。

「なぁー、こないなったらおしまいやのぉー、殺されかけた恨みもなんものうなるわ、兄貴、頑張ってお風呂入りなはれや、はっはっはっ」

「おぉー」

 貴史は馬鹿にされていることにも気付かない。

 脱衣場に続く扉が開き、五歳ほどの男の子が走ってくる。その後を父親らしき男が追いかけて来る。

「走ったら、危ないで!」

 子どもを追いかけてきた男は湯船の貴史に気付くと頭を下げた。

 中学の時、貴史の家でたむろしていた後輩の一人だ。

「アキラやんけ」

 声を掛けたのは信の連れの男だった。中学校は違うが、たまに遊ぶこともあった同学年の顔見知りだ。

 アキラの子どもが湯船に近づく。

 信の連れが子どもを見る。

「アキラの子どもか?」

「うん、五歳になったとこや」

 貴史が湯船を飛び出すと、男の子に話し掛けていた。

「ええが、おどこはな、まげたらあがんど、バンチはな、アン、ツーや、アン、ツー、アンツー、ええが、ええが、ごやど」

 貴史はフリチンで、シャドーボクシングを始めていた。

 信が笑いながら、アキラに言う。

「おい、アキラ、先輩しっかりしいやって言うたれや。気の持ちようやでってな」

 アキラが苦笑いをする。

 信の連れがアキラの肩に手を置き、含み笑いをしていた。

「アキラもええ先輩持ったな」

 信たちが脱衣所に消えてからも、貴史の講義は続いていた。

「ごやど、ごやど……」


 貴史は組にも戻れず、堅気の仕事にも就けずに、日中は町を徘徊して過ごすようになっていた。精神安定剤を服用していたが、時折、現われる幻聴と幻覚に悩まされ、気がつくと運河沿いに建つ、カトリック教会の扉の前に立っていた。

 貴史はこの教会の隣接する保育園の卒園生だ。卒園してから一度も門を潜ることもなかった。今では貴史を知る保育士も誰一人いない。

 礼拝堂に入ると、開き扉の横に小窓があった。貴史が前の呼び鈴を持ち上げると響き渡る鐘の音が止まらぬうちに小窓が開いた。

「どうされましたか?」

 修道女が笑顔で話し掛ける。

貴史の顔が赤くなる。

「あどぉー、おで……」

「すいませんが、この後、園児たちの送迎がございますので……、明日の朝十時半から礼拝式がございますので、その後、お話を聞かせていただけませんか?」

 貴史が頷き、礼拝堂を後にする。

 

翌朝、貴史はコートを羽織り、階段を降りた。コートのボタンを留め始めたが、上手く指先を操れない。

「あーぢぐちょう」

 コートをばたつかせ、前身を交差させ玄関を出た。肩を上下に動かす貴史の吐く息が白い。玄関先に植えてあるヒイラギの尖った葉に霜が付いている。身体を揺らし、歩き始めた貴史のウール地のコートに霜がつく。瞬く間に水の玉へと姿を変えた。それを両手で払い除ける。

 顎を突き出し、虚ろな視線で歩くさまはまるで、壊れたゼンマイ仕掛けの人形のようだ。自宅の西方向には小、中学校、それにJR駅があるため、東に向かう貴史は通勤、通学の人波に逆らうようになる。住宅密集地の窮屈な路地の真ん中を歩く貴史が立ち止まり、太陽を睨みつけると、それまで順調に流れていた人波まで止まる。何気なく貴史が向ける視線に誰も彼も、目のやり場に戸惑い俯いていた。


 貴史は礼拝式の時間よりも早く教会に着く。塀に凭れ礼拝堂から聞こえる園児たちの賛美歌に耳を傾ける。たどたどしい歌声の後、幾つもの小さな足音と共に、園児たちが園庭に姿を現す。

「どうぞ、中へ」

 貴史が振り向くと、修道女が微笑んでいた。修道着を纏う身体が細く見えた。瓜実顔で真っ直ぐに通った鼻筋に意思の強さが窺えた。

 園児を導くように身体に触れると、貴史の身体がピクリと動いた。

 中に入ると正面に、マリア像が祭られていて、その横でキリスト像が頭を垂れていた。横のステンドガラスをすり抜け、光が射している。

 最前列に腰かける貴史が十字を切る。

 しばらくすると、信徒たちが入ってきて席が半分ほど埋まった。この教会は日曜日に礼拝式に出席出来ない信者のために、水曜日にも礼拝式が行われていた。水曜日の出席者は少ない。

 鐘の音が礼拝の始まりを知らせる。説教者と司式者が祭壇に上がるとオルガンの演奏が始まり、賛美歌を合唱する。その後、説教者が祈り、礼拝出席者は手を合わせ、目を閉じて祈りを聞く。司式者と参加者の間で詩編交読が行われ、その日の聖書箇所が朗読され、伝道師の話がされる。

 そして全員で「主の祈り」を声に出して祈る。


「主の祈り」

 天にまします我らの父を、

 ねがわくはみ名をあがめさせたまえ。

 み国をきたらせたまえ。

 みこころの天になるごとく

 地にもさせたまえ。

 我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。

 我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、

 我らの罪をもゆるしたまえ。

 我らをこころみにあわせず、

 悪より救いいだしたまえ。

 国と力と栄えとは

 限りなくなんじのものなればかり。

 アーメン。


 祈りが終わると、再びオルガンが鳴り響き、説教者と司式者が退場し閉会となる。

 一時間半ほどの礼拝の間、貴史は目を閉じ、十字架を握り締めた両手を合わせていた。全ての信者たちが退場した後も、貴史は身動き出来ずにいた。

 礼拝堂の隅にいた修道女が貴史の肩を叩く。

「終わりましたよ」

「うっ、うっ、うー」

「どうかしましたか? 気分でも悪いんですか?」

「みんら、おで避けてるや」

「そんなことはありません。大丈夫ですよ」

「一人なっただ、おでの悪口がぎこえるねん。みんら、おでを殺そうとねろとるんや」

「気のせいよ。祈れば必ず通じるものよ。あなたは今、そのためにここにいるのでしょう。神はいつもあなたに寄り添っていますよ。何も心配することはありませんよ」

「そやろか、おでのこともゆるじてもだえるんやろか。だででも……」

 修道女が貴史の手を撫でる。

「あなたは今ここにいる。神は全て知っているのです。あなた自身が生まれ変わろうとしていることも、そして、あなたが生まれ変われることも、わたしもそう信じています」

 貴史が顔を上げると、修道女は撫でていた手を引っ込めた。

「あんだも、おでが怖いんやろ」

 修道女が首を横に振る。

「無理ぜんでええで、おではな、悪いこと一杯じてきたから、金が欲じかった。ええ車乗っで、美味いもん食うで、あぁーちゃんにも楽さぞたろ思ってたげど、迷惑しかかげとらんわ。おではな、おではな、死んだ方がええんや」

 貧しい家庭で育った貴史が、幸せになるために選んだ方法は暴力で人を支配することだった。周りから煽てられれば、煽てられるほど貴史は暴れ、気が付けば極道の世界に足を踏み入れていた。しかし、覚醒剤に手を付け始め、いるはずのない敵に追い回されると、そこから抜け出せなくなってしまった。

「おではどないしたらええんや」

 修道女を見る貴史の瞳が虚ろになっている。

「もう大丈夫、何も心配することはありません」

 修道女が貴史を抱きすくめた。

「あなたは本当は心の優しい人なのです。だから今悩んでいるのですよ。これからは新しいあなたに生まれ変わるのよ」

 貴史は修道着から僅かに覗く、白い肌を見つめた。この日も教会を訪れたのは修道女の影響だった。刑務所を出てから誰にも相手にされない貴史に優しくしてくれるのはこの修道女だけだった。過去の懺悔からの礼拝というよりも、女の匂いに強く惹き付けられていた。動機が不純であればあるほど、その行為はより長続きする。

 貴史の身体が熱くなる。脈拍が早くなる。この女を押し倒して犯してしまいたい。この女は自分を愛してくれるだろうか? 下唇を強く噛み締める。口中に血が広がる。欲望を飲み込むように、血液を喉にやる。女を突き飛ばし、唾を吐いた。修道着の裾がはだけ、脹脛が覘く。貴史が首に掛けた十字架を引き千切り、横たわる女に迫ると、女は後ずさりする。その時、時間を知らせる教会の鐘が鳴り響いた。

 貴史が顔を上げると、マリア像とキリスト像が二人を見下ろしていた。

 貴史は崩れるように膝をついた。

 女が立ち上がり、貴史に近づく。

「あなたは少し、遠回りをしただけなのよ」

 女が貴史の手を引き上げ、微笑む。

「おで……」

 言ったきり、貴史はぎこちない足取りで教会を後にした。

 礼拝を続けると、むらはあるが、幻聴、幻覚の後遺症は減り、症状が回復に向かっているように思われ、貴史には水曜日と日曜日の礼拝が必要不可欠になっていた。

 平日は、外出もせず部屋に閉じ篭っているが、礼拝を終えた後は話し相手を探し街を彷徨い歩くようになっていた。

 礼拝堂を出た貴史は塀に凭れ、溜息を吐いた。

「コラッ、そんなとこでボーっとしてたら危ないやないかい。向こう行け、向こう」

 見上げると、ニッカポッカを履いた髭面の男が屋根の上に立っていた。

 足元には縄で束ねられたレンガ色の瓦が幾つも並べられていた。セメントで凸凹になったバケツが転がり、屋根に立て掛けられた梯子にロープがぶら下がっていた。

 保育園から園児の歌声が聞えていた。

 貴史がバケツを蹴飛ばすと大きな音がした。

 北風が吹きつける。貴史は身震いをして、コートの前を合わせて歩き出す。

 探し物でもしているかのように歩く貴史に、誰もが道を開ける。

 橋の中央に差し掛かり、突風が吹き、川面が波立つ。上体を屈め踏み込む。

「ピュー、ピュー、ピュー」

 北風と会話しているのか、音を真似る。他人と会話するよりも、擬音を真似る貴史は無邪気で楽しそうだ。

 突風に子どもを乗せた自転車が倒れ、小さな男の子が車道に投げ出された。クラクションが響く。急ブレーキをかけたライトバンが横滑りで男の子に近づく。自転車に乗っていた母親は悲鳴を上げるが、身動き出来ない。貴史は飛びつき、男の子の身体に覆い被さる。ライトバンは脇をすり抜け、歩道に乗り上げ止った。

 運転席から二十歳前後の男が降りてきた。

「おっさん、危ないやんけ!」

「なんら?」

 男は起き上がる貴史の胸倉を掴んだ。

 貴史がその腕に噛み付く。

「こら、おっさん、離さんかい、痛いやないかい!」

「ごどもだぁー!あぶだいがー」

 男には貴史が何を言っているのか分からないが、その形相に後ずさると車に戻る。

「あほ!」

 男はそういうと走り去ってしまった。

「だぁいじゃぶか?」

 しゃがみ込んだ貴史が話しかける子どもを母親が引き離し震えながら自転車に乗せた。

 車道にサンダルが転がり、白い靴下は赤く染まっていた。走り去る自転車をぼんやり見る貴史だけが、橋の上に取り残されていた。

 サンダルを履き直し、右足を引きずり国道に出た。交通量がいつもより多く感じられた。向こうの信号機の下に眼帯をしたタバコを咥える男がいた。

貴史の顔が綻ぶ。

 大きく手を振り、声を張り上げた。

「だつおー! だつおー!」

 貴史の声は、車の騒音に紛れていた。

 信号が変わり、とおりゃんせが流れ出し貴史が駆け出すと、気付いた達夫が踵を返そうとしたが、執拗な叫び声に立ち止まる。

 貴史が出所したとは人伝えに聞いてはいたが、達夫が貴史に会うのは左眼を引き千切られて以来、十数年ぶりだ。出来れば出会いたくない人物だ。廃人になったと噂では知っているが、当然の報いだと思っている。関わりを持ちたくないとも思っているが、貴史に訪れている不幸を確認したい思いも湧き起こっていた。

「だつおやんげ、どないしでるんや? コーシーでも飲まへんが?」

「今、時間がないねん」

「なに!」

 達夫には貴史の顔色が変わったように見えた。

「ちょっどだけやないか」

「うん……」

 達夫は断わり切れず、並んで歩き出していた。

 二人は交差点の角にある喫茶店へと入る。

 切り出した丸太でデザインされた店内は、こぢんまりとしていて、山小屋を連想させた。

 テーブル席に向かい合わせに座る。

 店主が注文を取りに来ると、貴史はホットコーヒーを、達夫はアイスコーヒーを注文した。

 興奮する貴史の声が大きくなっていた。

 カウンター席の男が二人を見て、すぐさま視線を逸らす。後ろのテーブル席の中年の女たちのおしゃべりが小さくなり、店内には有線から流れるカントリーミュージックと貴史の声だけが響いていた。

「どや? おでもだいぶ元気なっだやろ?」

 達夫は周囲を気にし、片目を忙しなく動かしていた。

「げいむしょ、どんだけ、寒いか、めっちゃくちじゃやぞ。ぜまいしな、ぐらいしな……」

 身体をテーブルの上に乗り出し、身振り手振りで話す貴史に、達夫は愛想笑いを返すだけだった。目の前の男の眼帯の下に瞳がないのを思い出すと、貴史の身体は痙攣し、呂律がさらに回らなくなり、会話は支離滅裂になっていた。

「おで、にしぇんまん、だつお、こ、今度、飲みいこだ……、おで……、あで……、元気になっできたし」

 愛想笑いで返していた達夫が言う。

「だいぶん、元気そうやん」

 一瞬の間があった。

「だでや? だでに聞いだんや! だでや? だでや? おまえ、だでに聞いだんや?」

 貴史が顔を歪めると、達夫の顔が青ざめていく。

「さっき、先輩が自分で言うてたやん」

「だでがや?」

 顔を近づけ、詰め寄る貴史に達夫は隻眼を閉じ震えていた。

「お前、なで、震えてるねん。今度、電話するがら、ば、番号おじえてぐれや」

 達夫が目を開けると、貴史の顔が遠のいていた。

 貴史はポケットから、黒い手帳を取り出すとテーブルの上に開いた。そこには、名前と電話番号がびっしりと書かれていた。無造作に書かれた名前は達夫の知る人物も少なくないが、その多くの電話番号には斜線が引かれていた。

 達夫が早口で電話番号を言う。

 手帳にボールペンを宛がう貴史の手が震えていた。

「もうぢょっと、ゆっぐりいうでぐれや」

 上目使いにゆっくりと言い直す達夫の数字を、貴史は手帳の空白に書き込んでいく。

「先輩、俺、ぼちぼち行かんとあかんわ。約束があるねん」

「やぐぞぐ? おでもついていっだろか?」

「いや、仕事やから」

「ぞうか……」

「うん」

 達夫が呟くよう言い、伝票に手を伸ばす。

「おでが払うで」

 貴史が伝票を捥ぎ取るようにしてレジに向かうと、達夫はその脇をすり抜け外に出た。

 貴史が外に出ると、達夫の姿が小さくなっていた。

「電話、するがらな!」

 貴史は達夫の姿が見えなくなるまで手を振っていた。


 家に戻ると、パートに出ている母親の姿はなかった。二階に上がる階段がギシギシと軋んだ。襖を開け鴨居にぶら下がるハンガーにコートを掛ける。カーテンの隙間から西日が差し込んでいた。ポケットから手帳を取り出す。部屋の中央にぶら下がる紐を引っ張ると、蛍光灯が灯った。コタツの電源を入れ、寝転び、手帳を開く。先ほど書いたばかりの達夫の番号をなぞる。開いたページを伏せる。上半身を起こし、コタツに両肘を乗せると、セーターにささくれ立った畳の屑がついていた。貴史は一つ、一つ、引き剥がし吹き飛ばす。宙を舞う畳の屑が手帳の上に落ちる。手帳を開いては伏せ、伏せては開き、ページを見つめる。咳払いをして、電話の子機を手にする。ボタンと手帳の数字を見比べると達夫の顔が浮かんだ。ボタンを押していくが、最後の一つが押せずに電話を切る。まるで思いの届かぬ異性に告白を戸惑う姿のようでもあり、何かに取り付かれているようでもある。身体が火照り、やっとのおもいで、子機を耳に当てると、聞えてきたのは呼び出し音ではなく、ましてや達夫の声でもなく、機械的な冷たい女の声だった。

「お掛けになった電話番号は、現在使われておりません。番号をお確かめの上、もう一度お掛け直し下さい」

 貴史は音声ガイダンスを三度聞いて、子機を畳の上に転がした。手帳を引き千切り、投げつける。部屋には女の声が小さく響き続けていた。

 貴史に呼び止められ、連絡先を訪ねられた者の多くは、関わりを持つのを嫌い、出鱈目の電話番号を教えるようになっているとの噂を達夫も耳にしていた。手帳に書かれた連絡先の殆どが繋がらないか、間違い電話だった。それでも、僅かな連絡先があることで、捨てるに捨てられず、手帳は貴史の宝物になっていた。

 誹謗、中傷する幻聴が耳につき、仰向けに倒れ喉を一頻り掻き毟ると、耳を押さえコタツに頭を突っ込んだ。すると今度は赤外線の赤く点る空間に無数の瞳が現れ、貴史は悲鳴を上げ、コタツから頭を引き抜いた。右手で胸を弄る貴史の額に汗が滲んでいた。肌身離さずぶら下げている十字架がない。不安が胸をよぎると、いつしか貴史は十字架が掌に突き刺さるほど強く握り締めなくては落ち着きを取り戻せなくなっていた。

「どごや? どごや?」

 呟きながら部屋の中を這いずり回るが十字架は見つからない。

 息づかいが荒くなる。気持ちを落ち着けようと修道女の顔を頭に浮かべると、教会で自ら、引き千切ったのを思い出す。

 慌てて部屋を飛び出した貴史は階段を転げ落ち、尻餅をつき胡坐をかいた。その時、玄関の扉が開いた。

「そんなとこに座って何してるんや?」

 母親がスーパーのレジ袋をぶら下げ立っていた。

「あぁーちゃん、いっ、いっ、行ってぐる」

「こんな時間から何処に行くんや?」

「ぎょうがいや!」

「すぐ、ご飯するし、明日にしいや。もう暗なるで、危ないがな」

「あがんねん。すぐがえってぐる」

 貴史は母親のいうことも聞かずにサンダルを引っかけ玄関を飛び出した。空はまだ明るかった。貴史は出所してから日没に外出したためしがない。眠りにつく時でさえ、蛍光灯を煌々と灯し、十字架を握り締めないと眠りにつけない。

 夕日を背に駆け出す。左足が溝にとられ、サンダルが破れ使い物にならなくなっていた。

 サンダルを拾い上げ地面に叩き付け、右足のサンダルを脱ぐと裸足で走り出した。

 電信柱のある辻を右に折れると、三輪車とぶつかった。引っ繰り返った子どもが泣き出し、前輪が空回りしていた。

「ぼく、がんにんやで……」

 貴史が言うと、子どもの泣き声がさらに大きくなった。

「ないだらあがん、おどこの子やろ」

 男の子を抱き起こし、西の空を見ると、茜色に染まり出していた。

 貴史の額に汗が滲む。男の子の頭を撫で駆け出す。左手のタバコ屋を曲がり、坂の下の信号を渡れば教会まで百メートル程だ。赤信号を渡ると軽トラックと衝突した。気が付くと、野次馬が血塗れの貴史を取り囲んでいた。

 車から降りてきた運転手が声を掛ける。

「おい、にいちゃん、にいちゃん、赤信号やがな、大丈夫か? 直ぐ、救急車呼ぶからな、じっとしとき」

 立ち上がる貴史がよろける。辺りを見回すと手帳に書き連ねた奴らが立っていたが、頭を振ると、それらは知らない人物だった。

「にいちゃん、動いたらあかん」

 運転手が再び声を掛ける。

「ほっどいでくれ」

 貴史は人垣を掻き分け歩き出すと救急車とすれ違った。道路に横たわる猫の死骸をカラスが啄ばんでいた。嘴にはらわたを咥えたまま飛び立つと、赤黒い臓器が伸びて風に揺らいでいた。

 電線に止まり、貴史を見下ろすカラスが一鳴きした。

 数人の野次馬が貴史の後を追っていたが、手を差し伸べようとする者は誰一人いない。

 教会横の公園で、制服姿の中学生がベンチに座り、吹かすタバコが宵闇に赤く光っていた。

 貴史の姿に中学生の話声が止まり、しばらくして笑い声が起こる。

 公園を横切り教会に辿り着くと壁伝いに歩き、礼拝堂の扉を叩いた。

「あげでぐで! あげでぐで!」

 扉は開かず、貴史は頭を抱え座り込んでしまう。

 野次馬が救急隊員を引き連れ、後を追って来るのが見えると、貴史は瓦の横に置いてある梯子を屋根に立掛けた。

「ぐるな! ぐるな!」

 日が沈み、辺りは暗闇に包まれていた。空を見上げると、申し訳程度に星がちらついていた。幾つもの視線から逃れるために梯子を上り始める。

「危ない、降りろ!」 

 貴史はざわめきの中を構わず上り続ける。

 屋根は瓦の葺き替え工事の途中でブルーシートで覆われていた。

 中央の十字架に向かう貴史はシートに何度も足を滑らせた。

 下では野次馬の溜息が大きくなっていた。

 十字架にしがみ付き立ち上がると、町並みがぼやけて見えた。歪んだ月が川面に揺らいでいた。

 シートの下の瓦が一枚滑り落ち、乾いた音を立てると、路上のざわめきが大きくなる。

「やめてぐれ!」

 貴史は叫び声を上げ、屋根を蹴った。

                      了

       

 


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