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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

空へ

死が訪れます。

苦手な人は、戻ってください。

窓の外に、しとしとと音もなく雨が降っている。

今日は今年の最低気温を更新するらしい。日が暮れるとこの雨は雪になるという予報だ。

私は、部屋の中でじっと座って猫を見ている。

目の前では猫が寝ている。

猫らしい丸くなって寝ているわけではなく、敷かれたペットシーツとタオルの上に、四肢を放り出したように寝ている。寝ているというか、横臥しているという表現のほうが正しいのかも知れない。

プスープスーと鼻からは音がしている。

まぶたがピクピクと動いている。

その体は……とても痩せている。


「もう……19だもんな……」


今、私は自分の猫の……死と向かい合おうとしている。

19歳。人間で言えばすでに100歳になろうという年齢だ。

2年ほど前から腎臓の状態が良くなく、食事や投薬、点滴などによって頑張ってくれた。

私は、獣医師だ。

今目の前で、息も絶え絶えに、眠り。昏睡状態になっているのは私の飼い猫だ。

名をディンという。

まるで七三分けのような黒い模様が可愛らしい白黒の日本猫。

病院の前に捨てられた子猫を私が哺乳瓶で育て、そのまま一緒に暮らすことになった。

まだまだ獣医師として未熟だった私が、19年という時間を経て、今では小さいながらも自分の病院を持つようになった。

獣医師としての時間の殆どを、ディンと共有してきた。

辛いことも楽しいことも、いつも一緒にいてくれた。

そんな存在が、今、消えようとしている。

この時を、何度も何度も想像していた。

患者として沢山の子を見送ってきたし、報告も受けた。

受け入れられると、思っていた。


「……無理なんだな……」


溢れた言葉と同時に、涙が溢れてきた。


「ぐ……うぐっ……ふっ……ふぐぅ……」


溢れ出る涙が止まらず、声にならない声が止まらない、悲しみが心の中を渦巻いて、何も考えられない……

今までの人生で感じていた悲しみや辛さとは異なる初めての感情が胸の中を専有している。


そうか、これは理論ではないんだな……


悲しみに涙している自分と、そんな自分を見つめているもう一人の自分がいる。

獣医師として、目の前の猫の状態は、もう、どうすることも出来ない。

治療として考えられる行為は、ディンにとっては有益とは考えられないと、きちんと自分で決めて、今、こうして一緒の時間を取ることに決めた。

獣医師としての知識と、ディンの状態を合わせて考えて、自分で決めた結論だったはずだ。

だが、今はどうだ、そんな決定なんて関係なく、私の心は悲しみに満ちている。

これは、知識や判断なんて関係がない。

大切な存在を失う、根源的な恐怖と悲しみから来る感情なんだ。


「ぐぅ……い、嫌だぁ……一人にしないで……」


ぼたぼたと大粒のナミダと鼻水と唾液が混じったものが床に広がっていく。

テッシュで顔を抑えながら、この激情がいつおさまってくれるのか……


ディンはそんなみっともない私の様子など意に介さずに静かにゆっくりと呼吸している。

触れても、反応はない。

骨ばってしまった痩せた身体をそっと撫でる。

ゴロゴロと喉を鳴らしていたディンはもういない。

ひゅうううぅぅぅ……ぷすー……と、一定の間隔で深い呼吸をしている。

わかってしまう。

もし、この呼吸が乱れたら、ディンは逝ってしまうということを……

その時は、絶対に蘇生処置はしない。

そう決めていた。

事前に決めていても、先程のように、感情の嵐が、自分の身体を狂わせる。

今も涙と鼻水が止まることがない。

知識としては理解していた、飼い主様のお気持ちを、痛いほど感じている。

わかっているのに、頭ではわかっているんだけど、身体が勝手に……


「ディン……」


そっと顔を寄せてすっかり痩せた体に頬を寄せる。

こうやって匂いをかぐと、すぐに怒ってどっかに行ってしまっていたよね。

今は、どこにも行かないで、君の香りを感じさせてくれる……

呼吸の合間に、ものすごく小さく、ゴロゴロという音が聞こえたような気がした。


「ディン……」


二人で過ごしたたくさんの時間が思い出される。

半分寝ながらミルクをあげておしっこやうんちの世話をしてあげたこと。

離乳食を作っていると足をよじ登ってきて、小さな傷がお風呂に入るたびにいたかったこと。

避妊手術をしてもらう時に院長にめちゃくちゃプレッシャをかけて怒られたこと。

紐を飲み込んで泣きながら手術助手をしたこと。

腎臓の数値が悪化して、将来的な展望が見えてしまって、冷静に絶望したこと。

年をとってきたら一緒に寝てくれる時間が増えたこと。

昔はそんなことしなかったのに、座っていたら横に来たり膝の上に乗って眠ったりするようになったり。

年をとってから表情も柔らかくずっとずっとかわいくなったり。

そんな君が愛おしくて愛おしくてたまらないんだ。


すぅっと呼吸を深く吸う。


嫌だ!


体が反射しそうになる。

このあと起こるであろうことに対応しようとしてしまいそうになる……


「だめだ……」


頭では理解している。

ここで何らかの処置を行って戻しても、同じことの繰り返しか、次はもっと苦しめてしまうかもしれない……


ふぅぅぅぅーーーー……


ため息のように息が抜けていく。抱きしめていた君からだらりと力が抜けていくのがわかる。

ああ、さけようのないその時が、今、私の手の中で訪れようとしている。


「ふぐっ……うううぅぅぅぅ……」


悲しみが大波のように押し寄せて心を押し流しそうになる。


この子を、不幸なままなくなる子にしたくない。

君と出会って、私は間違いなく幸せになった。

君も、幸せだったと信じたい。

だから、こうして最後の時間をともに過ごせることを幸せだと思おう。

ありがとう。

本当にありがとう。

大好きだ。


「大好きだよ!! 大好きだよっ!!」


呼吸を止め、動かなくなった君の体を優しく抱きしめる。

静かに感じる鼓動がゆっくりになっている気がする。

確かめはしない。

確かめれば、何かをしたくなってしまう。

このまま逝かせることを不幸なことだと思ってしまう。

こうして、最後を腕の中で逝かせることを君からの最後の贈り物だと思うよ。


「ありがとう……ふぐっ……ううううううぅぅああああぁぁぁぁぁ……!!」


人間の瞳からは、こんなにも多くの涙が流せるのか……

あふれでる涙を抑えることはできない。


「ありがとう、ありがとうっ……」


何度も何度も君を抱きしめる。

楽しかった日々を思いだす。


そっと用意をしておいたタオルの入った箱へ君を下ろす。

とりあえず、洗面所へと向かう。


「ひどい顔だ」


冷水で顔を洗う。

ふとした瞬間に君の気配を感じる気がして泣きそうになるけど、まずは今日という時間を与えてくれた病院へと連絡を入れる。

それから葬儀の連絡などを済ませていく。

急ぎ過ぎな気もするけど、私は、これでいいんだ。

立ち止まると、動けなくなるかもしれない……

大切な時間は過ごさせてもらった。


別れの形は、人と動物の形だけ存在する。

そこに他人が口出しをすることではない。

いろいろな送り方があっていいんだ。

私は、とってもしあわせだった。

ディンと過ごしたすべての時間が、これからの私の人生の大切な宝物になる。

ときには悲しくなることもある。

それでも、私とディンの思い出は、色褪せることなく私の心に残り続ける。


明日はやってくる。


自分の意志とは関係なく、時間は過ぎていく。


「頑張るよ、ディン……」


私は、明日からも生きていく。

ディンとの思い出を胸に。

悲しみは、空へ。

虹の橋でまた会えるその時まで、僕は、生き続ける。


ありがとう。


ディン。









無責任な第三者の善意という言葉でごまかした

無責任で残酷な言葉で傷つく人はいます。

今まで築き上げた長い関係性の末の選択に

適当な横槍を入れてめちゃくちゃにして

貴方は幸せになるのでしょうか?


その余計な一言を口に出す前に、

少し考えてほしい。

貴方の言葉が呪いとなって、

前に進もうとしている人間を狂わせる可能性だってあることに

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