【SSコン:穴】 ヒスイの呪
——ぱき。それは何度目かの、絶望の音だった。パリザダは大きく跳ねた心臓とは裏腹に、真剣だった顔を真っ青にして、絶叫する。
「あ、ああ〜っ!」
「ま〜た失敗ー? 懲りないわねー、あんた」
蝋燭の明かりが照らすパリザダの父の狭い工房の中、短剣を研いでいたテシャはパリザダの方も見ずにそう言って、ケラケラと可笑しそうに笑った。
「わ、笑わないでよ〜っ。はあ……、石に穴を空けるだけのことが、こんなに難しいなんて……」
そうぼやくパリザダの手には、錐と、パリザダが穴を開けようとした場所から割れてしまった、奇妙な曲がった形の石があった。「何だっけ……? ま……まげ」
「ま、が、た、ま。東方の御方様の国では、祭祀とか、護符に使われる、すっごく大切なものなんだよっ」
「へえ〜、よく知ってるわねえ。あの人に聞いたわけ?」
「そう! それにね……」
パリザダは失敗してしまったことなど忘れたかのように喜色の笑みを浮かべて、がたがたと足元に置いた鍵付きの引き出しを弄る。テシャが覗き込むと、その手には、布越しに——大きな、淡い緑と白の綺麗な鉱石が乗せられていた。「……ニフリート?」宝石への審美眼などないテシャでも、その鉱石の価値の高さはようく分かる。
「すっ……ごいじゃない! これ、ものすごい価値なんでしょ?」
「うん……」
パリザダは頷いたが、その返事は形だけのもので、彼女の本意はそこにはなかった。
「あのね、ニフリートはね……、御方様の国の言葉では『ヒスイ』っていうんだって。勾玉にもよく使われるの」
「『ヒスイ』?」
「うん。御方様の名前——『翡翠』と同じなんだよ。……だから、これで作って渡したいの」
「相変わらず、パリザダってばロマンチストねえ……。でもさ、それってあんたが勝手に使っていいものなの? どう見たってスゴいじゃない、こんなの。いったいいくらになることやら」
テシャは垂涎して感嘆し、神秘的に輝くヒスイをぐるりとパリザダの向かいに回って見る。パリザダは慌てて「売っちゃだめだよ!」と腕を引いて、ヒスイを抱きしめるようにした。
「これはね、わたしが御方様と見つけた宝物なの! お父様も、お母様も知らないんだから」
「ありゃ、そうなの? でも、もったいないなー。渡すって、あげちゃうってことでしょ?」
「もったいなくないよー! 御方様は、風の勇者様なんだしっ」
「風の勇者、ねえ……。だったら尚更じゃないの」
「え?」
首を傾げるパリザダに、テシャは少し申し訳なさそうに言った。
「勇者様なら、ニフリートなんて珍しくないんじゃないのってことよ。現に、それ、一緒に見つけたのにパリザダが持ってるんでしょ?」
「あ、……」
そうテシャに言われて、パリザダはしゅんと眉尻を下げてしまう。——『風の勇者』。それは、三週間ほど前からこの村を拠点としている、翡翠という青年に授けられた天命の名だった。数々の武功を挙げている他の勇者に埋もれて知名度こそ少し低いものの、その能力は一般人とは隔絶しており、あらゆる国家にも支援されて社会的地位は磐石。そんな彼が、今まで同じ名を持つ宝石をもらったことがないというのは、少し考え難い。
「そう、かな……」
「まあ、でも、いいんじゃない? マガタマって、コレくらいのやつでしょ?」
テシャは親指と人差し指で輪っかを作ってみせて、それから人差し指に中指を揃えて擦る。
「それなら、残りを売るだけでも、相当に稼げるし。——何より、パリザダは年上の彼に夢中みたいだもの」
「にゃっ……! なにも、そんな言い方しなくても!」
「あははー。アタシだって、乙女の邪魔なんて野暮な真似はしないわよん」
「も〜っ、テシャったら! そんなんじゃないってば!」
パリザダはたちまちぽぽぽと赤面して、ぽかぽかとテシャの肩を小突いた。誰が見てもその本心は一目瞭然であり、彼女の可愛らしい姿にテシャはにやにやとほくそ笑む。
そんな時だった。トントン、と控えめに工房の扉が叩かれ、パリザダとテシャは二人揃って動きを止め、目を瞬かせた。ここに出入りするのは基本的にパリザダの両親だけで、いちいちノックなどしない。「は〜い?」とパリザダが呼びかけると、ノックした人物は、扉越しに声を上げた。
「入ってもいいかい、パリザダ?」
「⁉︎ そ、その声……」
パリザダはその声を聞いた途端に、ばたばたと慌ただしく扉へ駆け寄り、勢い良くノブを引いた。
「方様……! どうしてこんなところへ?」
そこに立っていたのは、淡緑の髪の印象的な青年——件の、翡翠であった。彼は爽やかな笑みを浮かべて、「伝えなきゃいけないことができてさ」と言った。パリザダは、「そ、うなんですね!」と上擦った声で返事をして、彼を椅子のある奥へ招き入れる。
——この時、パリザダは、こんな場所に彼が来たことにパニックになっていて、先ほどまで使っていた作業台のことなど、すっかり頭から抜け落ちていたのだろう。
「……ん? これ、あの時のニフリートかい?」
「あ、……っ。そ、それは」
ぎくり、とパリザダの体が硬直する。勾玉のプレゼントは、渡す時まで内緒にするつもりだったのに……。
「こっちは、……もしかして勾玉を? へえ、僕らの文化を気に入ってくれたのかい」
「あ、えっと……。……はい」
「——嬉しいな」
「……は、はい……」
しかし、結局、パリザダは顔を真っ赤にして縮こまって、後悔などすることはなかった。
「……で、でも、穴を空けようとすると、割れてしまうんです。東方の方々は凄いのですね、こんなに繊細なものを」
「ふむ、……。僕も勾玉作りに詳しいわけじゃないけど——そうだね」
翡翠は、勾玉のなり損ないを摘み上げて、穴の部分をじっと見つめて呟く。
「石の目を見ることと、それから……削るだけじゃなくて、磨くんだよ、きっと」
「磨く——」
彼は頷いて、なり損ないを丁寧な手つきで元の位置に戻した。パリザダは失敗作を見られてとんでもなく恥ずかしく、穴があったら入りたい心地だったが、「それで、伝えなきゃいけないこと、だけれど」と彼が言ったことで、ピシッと背筋を伸ばした。
——そして、彼は、伏し目がちに告げる。
「その。実は、明日の、……夜ごろ。……次の街に向かわなきゃならなくなったんだ」
「え、……?」
◆
「——翡翠よオ。オレたちゃお前さんの勘は信用してっけどよ、今回は、また、何だ? 間に合うとはいえ、わざわざ出発を夜にするこたなかっただろ」
そう正論を言われて、翡翠はうぐ、と言葉に詰まった。確かに今日は絶好の馬車日和で、朝や昼に発っていれば何の問題もなく街に辿り着くことができただろう。出発を夜にするなんて意見が通ったのは、ひとえに翡翠が『風の勇者』であるから、だった。
しかし、……今回の意見に、それ故の理由など一つもなかった。いつもとは違って気まずそうな顔をした翡翠に、男は「あ?」と怪訝そうな声を上げる。翡翠は、ずるずると力なく座席に座って、拗ねたように言った。
「だって、……そうしたら、間に合うかもと思ったんだよ」
「ハア?」
——出発の時刻まで、残り十分を切っていた。