雨
梅雨なので、雨がテーマのお話です。
barブルーノート。
「………………」
沈黙が続いた。
最初に口を開いたのは歩美の方だった。
「あたし…」
健はタバコに火をつけた。
ガラス張りになっている店内から外を眺めた歩美が、ポツリと呟いた。
「…雨……」
健は振り返り外を眺めた。
サーッと言うような小降りだが、降り始めの雨が地面を濡らしている。
「雨が止むまで一緒に居よう。」
歩美は無言だった。
もう殆んど無くなっていたカンパリソーダのグラスを握り持て余している。
それもそうだろう。今、歩美は帰ろうとしたのだ。
「あたし、そろそろ帰るね…」
そう言おうとして言葉を止めたのは突然振り出した雨のだった。
「じゃあ、同じものを…」
仕方なく歩美は飲み物を注文した。
健は半分以上残っていたバーボンを一気に飲み干した。
「俺もおかわり」
優しいピアノの音が聞こえる。
その他はバーテンダーのカクテルを作る音、周りの客の話声もBGMとなり店の雰囲気と一体になっている様だった。
歩美と健もその雰囲気を壊す事のない景色の一つだった。
歩美が鞄から小さな青い箱を取り出した。
婚約指輪が入った箱だ。
ゆっくりと開き、中に入っている指輪を取り出して左手の薬指にはめた。
その指輪を顔の上へ翳し、嬉しそうに微笑んだ。
「ずっと待ってた…。色々あったケド…私、嬉しいの」
歩美が呟いた。
隣にいる健はバーボンを飲みながら短い沈黙の後、ため息の様な、しかし安堵しているかの様な微妙な表情で言った。
「……良かった。」
歩美は頷いた。
雨は暫く止みそうもなかった。
歩美は嬉しそうに今までの思い出について話ている。
色々あった。
健は黙って聞いている振りをしている。本当は別の事を考えていた。
「健、ありがとね。」
ふいに、そんな言葉が聞こえてきて、健はバーボンの入ったグラスから目を離して歩美を見つめた。
「…………………」
歩美は本当に嬉しそうにニッコリ笑う。
歩美を帰したくない。このまま朝まで雨が降り続かないかと…。一瞬本気で思った。
健の胸は痛んだ。
迷いがあった。もう結婚する事が決まっている。そんな歩美に今更言わなくてもいいのかもしてない。
「あのさ、歩美…」
上手く声にならなかった。
歩美は健の言葉を待っている様だった。何?と言った表情で俺を見つめた。
だから思い切って言った。
「…遣らずの雨って知ってる?」
歩美は少し表情を強張らせ、え?っと小さな声で言った。
「今この雨…俺にとっては、遣らずの雨なんだけど…」
歩美は明らかに戸惑っている。
「どう言う意味なの?遣らずの雨?」
歩美は困った顔で黙り込んだ。
普通知らないよな…健はそうお思ったが口には出さなかった。
「遣らずの雨の意味は…」
言いかけたその時、再び外に目をやった歩美の表情がパッと明るくなった。
「雨止んでる。」
その顔は明らかに嬉しそうだった。
「…本当だ。」
健も振り返り、ガラス越しに外を見た。
歩美はグラスの中のカンパリソーダを飲み干すと、急いだように健に言った。
「今から昌也の所へ行ってくる。いつも相談に乗ってくれてありがとね。」
歩美は素早く隣に置いたバッグを持ち、立ち上がった。
それから、満面の笑みで健に手を振った。
「また連絡するね。」
歩美はbarを後にした。
「…………………」
グラスの中の氷が溶け始めカランと音を立てた。
「遣らずの雨の意味、知ってますよ。」
グラスを拭いていたバーテンダーが話しかけて来た。
「歩美も知ってたのかもしれないな…だから確信を避けて帰った。」
健が言うとバーテンダーは新しいバーボンを健の目の前に置いた。
「氷が溶けてしまっているので新しいのと、取替えますよ…」
「悪いな…」
バーテンダーは健がバーボンを飲み、タバコに火を付けたのを見て呟いた。
「遣らずの雨の意味は…恋しい人を帰したくない時に降る雨…彼女の事好きだったんですね…」
健はそんなバーテンダーに気がつきタバコを灰皿へ置いた。
「好きだったんだ…ずっと前からね…だから歩美のそばにいたかった。あいつの男、借金作ったり、浮気したり、その都度呼び出されては泣いている歩美を慰めてた。なんでそんな男好きなんだか……こうなる事は初めから判ってたはずなんだけど…結構俺、女々しいな…今、落ち込んでる」
健はそう言ってバーボンを飲み干した。
「遣らずの雨ってのは、切ない雨ですね…でも知ってますか?雨の後は、たいてい晴れるもんなんですよ…」
「そうかもしれないな…」
バーテンの言葉に健は少しだけ救われた気がした。
健は再びタバコに火をつけた。
読んで頂きありがとうございました。