君のあしあと
遥彼方さま主催「冬のあしあと」企画 参加作品。
足元を見ないで前だけ見てね、振り返らないでね。声を上げてはいけない、それが決まりなの。
「私をここから連れ出して、ここはあなたの住む世界とは違うの、氷の国、雪起しに乗り私達はときなに、人間の世界に遊びに行くの」
彼女はそういった。僕が初めて愛した女。
うん、行こう、君をここから連れ出すよ、一緒に生きよう、いっぱい見ようと、その柔らかな手を握った。そして僕達は駆け出した、雪原を。ポスポスと雪を踏み込み走る。君のきらきらとした笑顔が側にある。
繭子、繭子、本当に君は『雪女』だったんだ。最初に言ったことは本当だったんだ。白く冷たい別の世界の人間。僕の愛しい君。
出逢った時を思い出す。
キラキラとしたイルミネーションを、寒風吹きゆく中で首を傾げて見上げていた。綺麗、写真が趣味な僕はその瞬間を撮りたいと思った。声をかけた、一枚とらせて貰えませんかと。
「残念だけど、写らないかも、私人間じゃないのよ、ふふふ、雪起しに乗り遊びに来た『雪女』なのよ」
イタズラっぽく笑って断ってきた。最初はそれで終わった。翌日冬の風物詩のイルミネーションを撮りに行くと、また彼女の姿があった。翌日も、翌日も、冬将軍が居座る間、彼女はそこに来ていた。
声をかけずに、ただ君を見惚れてその冬は終わった。凍るような夜が似合う君の姿、僕の記憶にあしあとををつけた。
繭子、繭子、白い冬にであった君。冷たく凍る空気を吸い込む。鼻腔にツンと、胸にジンと痛みが走る。白く濃く吐く息は霧氷となる。
抜けるような蒼い空を見上げる。サッと風が地を音立て吹き上げる、太陽の光を宿し、ミクロなプリズムが宙に舞う。
握る手は柔らかい。横を見れば君の笑顔。
季節は過ぎて行った。忘れられずにいた。再びイルミネーションが灯された日、首をすくめる様な風が走る夜、僕はあの場所へと向かう。すると……、
見上げる君の姿があった。惹きつけられる。ドキドキと胸を打つ弾む、会えた嬉しさが僕を満たす。カメラは手にして無かったが、声をかけた。
「あの、僕の事……、覚えてますか」
「ええ、もちろん!嬉しい、あなたに会いたくて、風に乗りここに来た」
ふわりと不思議な事を言って笑顔を向けてきた。ゴクリと息を飲む、人間ではないのと、雪女と、最初の言葉が過る。しかし会いに来たという、はにかむ笑顔がそれを打ち消す。
「あ、僕に、あの、ほ、僕もその、あ、き、君に……、ああ、会いたくてあ、な、君の名前は」
白い息を吐きながらしどろもどろに言葉をつないだ。
「繭子」
それから僕達は時間が許す限り出会い話をした。彼女はどこからきたのか、それは言わなかった。
冬の電飾の花咲く歩道を二人で歩いた。ある日、時折置いてあるベンチに座り、僕の撮った写真を見せると、手を叩いて喜んだ。満開の桜の花、新緑輝く並木道、雨の紫陽花、紅葉の樹木、他愛のないそれらを、お気に入りの絵本を見る子供のように喜んだ。
「綺麗!綺麗!初めて見たわ」
初めて……、その言葉に出逢った時のそれを思い出した。風に乗り来たことも。
「君は……、人間ではないのって笑っていたけど……?」
「うふふふ、そう、そうだとしたらどうする?三度、三度出会う事が出来れば……、あなたの心が変わらなければ、あなたを国へと運べる、そしてあなたは、私を連れ出すことができるの」
三度……、ならば来年のイルミネーションの時が、とくん、関係無かった、連れ出す、それが僕の心に踏み込んだ。閉じ込めれたお姫様を救う王子の様な気持ちが、熱く高まる。
三度の冬が来た。その年の夏の時に、同僚の女の子から花火を見に行きませんかと、声をかけてもらったのだが、心の奥深くに君がいる僕は、それを断った。悲しい笑顔を向けてペコリと頭を下げた彼女。
ごめんと僕も頭を下げた夏の夕、アスファルトに蝉時雨がまだ明るい陽射しの下で、シャンシャンと降りそそいでいた。
秋が過ぎ風が色を無くす頃、木枯らしが吹き抜けた。枯れ葉がくるくると舞っていた。冬の訪れ。だけど君が来るのは先のこと、その日を子供のように、心の中で指折り数え、心待ちにしていた。
「明日は西高東低の冬型となるでしょう、シベリアからの寒気が……」
ある夜、テレビからのアナウンサーの声、吐く息が濃くなりかけた頃。ようやく会えると、その夜を僕は、僕は、ずっと!待ち焦がれていた。
会える。君に。仕事が終わり通りへと駆けていった、脇目も振らず、なにも考えず、思わず心を君の事でいっぱいにし、あふれるものを抱えて、あの場所へと行った。
柔らかな身体を抱きしめ、唇を重ねる、目を閉じる…………ヒュルルルと風の音が身体を満たした。
僕に冬の魔法がかけられた。
――、瞼を開ければ、見渡す限りの銀世界。木々は黒檀の様、枝に水晶の珠の様な花をつけている。目が痛いほどの眩い白、白、白。
空はどこまでも青く高く果てなく広がる。聞こえる音はサラサラと、雪が足元を走る、それだけ。小鳥も、動物も、昆虫も、眠りについているかの様な静かなる場所。
「私をここから連れ出して、ここはあなたの住む世界とは違うの、氷ひの国、雪起しに乗り私達はときなに、人間の世界に遊びに行くの」
「雪女、本当だったのか、繭子」
訪れた『氷の国』異世界。白い君が生まれ育った世界。お願い、恐れないで、と僕に抱きついてくる。
「貴方と見たいの、写真じゃないのを、満開に咲く桜花を、貴方と聞いてみたいの、教えてくれた蝉時雨というのを、傘をささずに歩いてみたい、キラキライルミネーションの木が、赤とか黄色とかに色付く街並みも、あなたの写真じゃなくて、ホントが見てみたいの」
ふわりとした暖かな装いをしているにも関わらず、身体に手を回すとひやりと冷たい、だけど、とくん、とくん……、脈打つ鼓動を感じる。
「私に『身体』を与えて、熱い血潮を、人の世で春夏秋冬過ごせる、あなたと同じ熱を持つ身体を」
「どうやって?僕は何をすればいいの?」
「恐れないで、私のことを、怖がらないで、信じて、裏切らないで、それだけでいいの」
ヒュオォオ……、風が空を渡る。頬に刺すような痛みが走る。何もないただ白い先を君は指差し『掟』を話した。
「足元を見ないで前だけ見てね、振り返らないでね。それが決まりなの。手を取り合って真っ直ぐに駆けて行くの、それだけなの、出来ないと言うなら、あなたは独りで進んで、帰れるから……、私はここに残る」
身体を離し僕の手を包む、残ると言う時に寂しくほほえみながら手を離し、するべき事を教えてくれた。
「行こう!」
僕は繭子の手を握る。そして言われた通りに駆け出した。一歩いっぽ、白く硬い雪を踏み込みながら、手を引き走る。ヒュオォオ、と空が鳴く。
直ぐに息が弾む、白く濃いそれは外気に触れると霧となる。グッグッ!と前を見て進む。何もない大地を走る様にはいかない、ひどく遅いスピードだ。
踏み込んだ足を上に上げてから前に押し込む。ズッ!ズッ!と一つひとつが沈む。何もない雪の原にあしあとが残る。
ヒュオォオ……、風の向きが変わる。上から下に降り舞い上がる。立ち止まる、粉雪が目に入る。後ろから圧される様な風、首筋がゾクリとする。繭子の手を握る手に力が入る。
……恐れないで、怖がらないで、信じて、耳に残るその声。前に、前にとそれだけを思い進む。考えてはいけない、何も、気付いてはいけない、ここは氷の国という実感を。
はぁ、はぁと息があがる。髪の毛を通し頭が、耳鳴りが頬が足先が凍るよう、見開く瞳孔が、呼吸のために開いている唇が、冷気を吸い込む鼻腔が、通る喉が、行き着く胸が肺が痛い。寒すぎるのか、キィンと耳鳴りがする。
それに対して身体は暑い、じっとりと背中に、額には汗がにじむ、ヒュオォオ……、風が背後から強く吹き抜け、熱を奪う。
握る手、繭子の柔らかなその手、気がついてはいけない。気がついては……、どうして冷たいと言う事に。耳に届くのは風の音だけ、側近くいる筈の君の息遣いは聞こえないということに。
ヒュオォオ……、何も考えず、白に染まれ、白にましろに、君の息遣いを探すために横を見る、何事無いように、にこりと笑う繭子。吹き上がった雪が首筋から背中に入ったのか、冷たい、冷たい、冷たい、視線を前に戻した。
ゾクリとした寒さが襲う、背後から冷たい怪物に絡みつかれた、そんな怖さが全身に走った。ゴクリと息を飲む。そして僕は、僕は…………、怖さに負けた。
ああ、どうして僕は、どうしてと、立ち尽くしている白銀の原。禁を破り、後を見た。雪原には僕のあしあとが、僕だけのあしあとが残っていた。共に駆けたのに繭子のあしあとはそこには無い。
「雪女……」
立ち止まる繭子、悲しげに僕を見る。呟く様に声を上げてしまった。彼女の見開いた目から、涙は出ない。代わりに触れればとけそうな、はかない笑顔があった。
そして……、立ち尽くす僕に淡雪の様に唇を当てた。離れた時に、空から音立て降りてきた風に囚われる彼女、呆気なく姿を消した。それを追いかけ、見上げるしか出来なかった僕。
「繭子、繭子、繭子、ああ、ごめん、ごめん……」
ざくりと膝をつき雪に埋め、両手を埋めた。パタパタと熱い涙が落ちる。ぽとぽとと落ち、点々と窪みを作る。取り返しのつかない事をしてしまった。
横を見る、後には無かったものが、微かに窪む繭子のあしあとが残ってた。そろりとそれに触れる。平なそこに、軽い、軽い重さをのこしたあしあと。
「もう少し、あともう少しだったんだ。ごめん、ごめん繭子、ごめん……僕が弱いから、弱いから……」
ヒュルルル、ヒュオォオ、泣くような空の音。二度と会えない事はわかっていた。白い白い銀の原で僕は……ただ泣く事しか出来なかった。
立ち上がり、先に進まなければ、元いた世界に帰れない事はわかっていた。だけど、だけど僕は……、
消えてしまった彼女の名前を呼びながら、信じる事が出来なかった自分を呪いながら、白く透明な氷の国で熱い涙を流しながら、
会えない女を、自分の不甲斐なさに打ちひしがれながら、独りうち伏せ泣く事しか出来なかった。
終ー。
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