序章4
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イホハラ。
クムラギ、ラエモミ、ウタルル、それら古代ポリネシア語の地名と一見似ているようで実は違う。
これは五百原と書く和語である。五百原という豪族が古代にあった。つまり、その一族がここに住み着き、その名が地名となっているのである。
しかしこちらの世界でそんな裏事情を知るのはアオイセナのみ。人に話せる事柄でもないので、心中一人ほくそ笑んでいる。
「イホハラの末裔の方にお目にかかれて光栄です」
そう挨拶すると、長老のリュウイホハラは、
「確か以前立ち寄られた時も同じ事をおっしゃっていたような……」
首をひねり笑った。
この集落には、クムラギのような大規模な壁がない。代わりに、網目のように縦横に水路がある。簡素な橋がかかっている。族長の屋敷のみ、高い塀を備えた立派な造りとなっていて、敵襲の際は橋を落とし族長の屋敷にたてこもり戦う。
また、族長の屋敷は常日頃村人が集う場所でもあり、浴堂や大広間を備えている。つまり、公的施設なのである。族長家族の居住空間は極わずか。
アオイが今いる場所もその一部屋であり、客間兼応接間である。向かい合って座っているのは族長のリュウイホハラと、イホハラのオババこと族長の姉リンダイホハラ。
古い一族の老婆がリンダっておかしくないか、という非難はあたらない(この世界で日本国における人名の変遷は当てはまらない)。これは西方の女子名が伝わったもの。西方を旅してきたアオイには解る。スペイン語で可愛いという意味だ。
ますますおかしくないか、という非難も的外れである。
ただ、このお婆さんは名前で呼ばれることは少なく、小さオババと呼ばれている。ちっちゃなお婆ちゃんだ。
イホハラの村人はマアシナの神子が奥地のウタルルにいることを知らない。クムラギの人が村を築いたことは知っているが。
しかしこの二人、族長と小さオババは全て知っていてなにかと協力してくれている。
二人はアオイに最近の村の様子を色々教えてくれた。それらの話はオニマルやユタから聞いたらしい。オニマルは頻繁にクムラギへ行く。ユタもイホハラには頻繁に訪れると言う。クムラギまではなかなか行けないらしいが。
曰く。ここでもサラが反抗期であると聞いた。弟のユウは泣き虫であるとも。
しかし小さオババは言った。
「会うたことはないがユタ殿から聞いた話で分かる。ユウ様は心優しきおのこじゃ。多少物事に無頓着な様じゃの。決して意気地なしではない。物怖じせぬ子じゃ。対してサラ様は気丈で確たる己れをお持ちじゃ。ゆえに納得いかぬのじゃ。今の境遇に。誰も納得がいく説明をしてくれぬゆえ」
「なるほど。それも道理ですね」
亀の甲より年の功、さすがの洞察力だった。
「それにしても」アオイは頭を下げた。
「ユタがオババ様にご無理お願いしたようですみません」
小さオババは微笑んだ。
「あれは良きおのこじゃ。あれの考えに間違いはあるまい。万事あれの思うようにすればええ。如何様にも」
アオイもあわせて微笑んだ。
その夜はイホハラに一泊し、翌朝旅立った。イホハラの人々に見送られ。昼過ぎにはウタルルの村に着く。はやる心おさえて歩を進めた。
しばらくは農地の中の道を歩み、やがて山岳の森に入る。渓流沿いの小道をゆく。
木漏れ日の中、心地よく響く沢の音。淵は不気味なほど青く美しい。
ほどなく気付いた。
下生えの低木がゆらぐ。葉がサワサワと静かな音立てる。辺り一帯……、いや森全体。
蠻族。
「つけられていたか。待ち伏せか……」
クムラギ辺りから俺の動きを捉えてたか。イホハラに逗留したのも知っていた。ずっと尾けていてこの森に大軍先回りさせ潜ませていたか。
目的は。
彼の殺害が目的であれば既に襲いかかっているはず。そうではない。彼の歩みにあわせて、葉がゆらぐ。静かに。けれどまるで山全体が蠢いているかのよう。
間違いない。目的は。
「ウタルルか……」
俺を尾行して案内させる気か……。
しかし何故……。
ウタルルの村に出入りするのは彼一人ではない。オニマルは勿論、オニマルだけでなく村人は頻繁にクムラギへ行く。
「何故彼らを尾けずに俺を?」小さく呟いた。
しかしその答えは瞬時に閃いた。
そうか……。
操っているのは悪龍イロキノ。悪龍が霊視で地の底から地上の様子をさぐり、こいつらを動かしている。
それを踏まえて考えれば自明の理。村人達が持っていなくてアオイだけが持っている霊力ある物。
ケイ、龍翅。
「龍翅の霊気を感じ取り俺の動きを見ていたか……」
ウタルルには龍翅よりも桁外れにでかい霊的物体がある。ウェナと二人の御子。しかしそれはタパの法術により悪龍の目から隠されている。加えてアヅの害獣退治により悪龍は御子の居場所を特定できずにいたに違いない。
俺の動きを追っていたのか……。
彼はまったく無防備だった。北の地も旅した。悪龍の地底宮があるカアイガマテの側も通った。その時龍翅の霊気感じ取り、以来ずっと尾けていたか。龍翅には、それを授けたマアシナの霊気強く宿っている。
させるか。
ウタルルが隠された高原と呼ばれる由縁は、隣の山麓に似た草原があり、普通に登ればそちらに着いてしまうから。
こいつら全部偽の草原に連れて行ってやる。だがしかし呪文材料をどうする?
切り抜けて逃げおうせれば良し、しかし殺されれば呪文材料は滅茶滅茶にされるだろう。命は惜しまない。けれどこれを奪われるわけにはいかない。
「どうする……」
彼の歩みにあわせて、森全体がゆらぐ。どれほどいるのか想像するのも恐ろしいほど。山全体に小鬼どもが伏せている。
ちょうど、山路は小さな滝に着いた。そこで道は途切れている。この滝を迂回するルートがあり、それがウタルルの草原への最初の分岐点である。ここで違う方向へ進めばウタルルには絶対たどり着けない。
どうする……。今決めなければ……。
思案しながら滝をみあげた。
木漏れ日受けキラキラと水しぶき光っている。
マイナスイオンたっぷりだな……。
危機的状況にあっても呑気事を考えてしまう処は相変わらずである。
さも景勝を愛でるふりして大きく深呼吸した。
とりあえず休むとするか––。滝つぼの側の大きな岩に腰かけた。
フッと、明るい気配感じて来た道に顔を向けた。
俺にはまだまだ運があるようだ––。どうして似たのか、師匠ソックリな仕草で眉間じわを人差し指で押さえ不敵に笑んだ。その目線の先にいたのは。