暑い夏、あの川で、君と
「ぁっ……はぁっ……あっづいなぁ………」
僕は一人、鬱蒼とした森に出来た獣道を歩いていた。
道の両側には大小さまざまな木々が茂り、一面を緑に染めていた。けたたましい蝉の鳴き声に混じって遠くから川のせせらぎが聞こえてくる。
真夏の日差しが葉の隙間を通って僕の身体を照りつける。木漏れ日とはいえこの暑さでは汗をかくに十分な強さだ。手の甲で顔を拭うと、うんざりするほどの液体が滴る。まったくこれだから田舎になんて来たくなかったんだ。
都会に生まれ、都会で育ってきた僕にとって夏というのはクーラーの効いた涼しい部屋で快適な生活をするものだった。今年もそうなるはずだっというのに、両親が仕事の都合でしばらく家を開けなくてはならなくなったのが不幸の始まりだ。
高校生にもなれば1~2週間くらい一人で過ごせるといったのに、良い機会だからおばあちゃんの家に行くといいなんて言われてしまい、僕の意思を無視して決定してしまった。
おばあちゃんの家は都心を遥かに離れた田舎中の田舎にある。ケータイは当然のように圏外で、十キロ以上歩かないとコンビニもなく、あるものは山と川と田んぼぐらいというおとぎ話レベルのど田舎だ。クーラーはあるにはあったが、壊れていて修理にあと3日間はかかるらしい。
先ほどどうにか辿り着き、やることもないので散歩がてら山に入ったのだが……これが間違いだったようだ。
行けども行けども見えてくるのは同じような景色ばかり、退屈を紛らわしてくれるようなものなどない。そこらの木々にカブトムシやら蝉やらは見かけるが虫取りに楽しみを見出すほど子どもでもなかった。
身内とはいえ最初くらいは恰好をつけようとワイシャツに制服のズボンを着てきたのが災いし、どちらの生地も汗でぴっちりと張り付いている。今すぐ脱ぎだしたい気もするが、誰かに見られたら嫌だと思ってしまう。どうせ誰かに会うこともないだろうに。
最初から分かっていたことだ、こんな山の中に入ったところで何もないと。
それでもこうして歩いているのは何かを期待していたからかもしれない。何か、こんな自分を楽しませてくれるような出会いを。
こんな酔狂な行動に出てしまうなんて自分らしくないと思った。
軽く意識が朦朧としてきたところで開けた場所に出た。
辺りは大小さまざまな石で埋め尽くされ、その先には川が流れていた。都会ではまず見かけないような川だ。当然コンクリートで舗装などされておらず、曖昧な境目が石の中にある。
水の流れの向こうは木々が壁のように立っていた。
どうやらここは山の中に残された川の一部らしい。
「助かった……まずは水を…………」
と、近づこうとしたところで足を止める。あの川の中に何か生き物がいる気がしたからだ。奥の方で不自然に湧く泡としぶきがそのことを伝えている。
咄嗟に冷や汗が身体を更に濡らす。もし、もしそれが熊や何かの猛獣だったとしたら……
そんなはずはないと思っても足はがくがくと震え出し、しかし一歩も動けないまま目は川に向けたままだった。
次第にしぶきは大きくなり、そして勢いよく何かが飛び出した……!
「あぁっ……んっ、あ~~!」
それはめき声を上げながら大きく伸びをして川から這い出てきた。その身体はぐっしょりと濡れており、歩く度に雫が地面につたっていく。
その生き物は僕と同じ年頃の少年だった。
非力で色白な僕とは違い、その肌は黒く焼けており、遠目で見ても逞しい筋肉が備わっているのがわかる。頭髪は頭上で短く切りそろえられていて茶色がかった毛が立っていた。
引き締まった目と口は整った印象を与え、硬派で無骨という言葉が似合いそうな美青年だった。
そして特筆すべきこととして、彼は一枚の服も着ていなかった。
内心僕は焦っていた。彼がまだ良い奴なのか悪い奴かもわからない。うかつに声をかけて殴られでもしたら嫌だし、こんな山奥では助けが来るとも思えない。身の安全を考えるなら逃げるのが良いように思える。
しかし僕の両足は依然として動かない。まるで未知の出会いに期待しているかのように。
「ん? お前、見ない顔だな」
そうして固まっているうちに向こうに気づかれてしまった。こうなっては逃げるのは失礼だろうし、とにもかくにも友好的な関係を結ぼうとした方が賢明だ。
「えっと……初めまして。僕は諒、今日おばあちゃんの家に遊びに来たんだ。どうぞよろしく……」
極力顔を見て話そうとしたものの、相手だけが全裸だというのがどうにも落ち着かない。というより見えると落ちつかないものがある。彼のアレは僕のよりも遥かに強い存在感を放っていた。
「俺は侑だ、この近くに住んでいる。よろしくな」
侑は品定めでもするかのようにじぃっと僕を見つめている。どうにも居心地が悪いまま、微妙な時間が過ぎる
「……入らないのか?」
「え?」
少しの静寂の後侑がそう切り出した。そして川のことを指していると理解し、返事に悩む。
「いや、その。泳ぎたいのはやまやまなんだけど、水着を置いてきてしまってね。だから今は……」
「別にそんなもの着なくていいだろう。俺とお前しかいないんだ」
お前がいるから嫌なんだ、とは言えず苦々し気に口を閉じる。誰もいないなら脱いで泳いだかもしれないが、一人でもいるとなると話は違ってくる。
「ああ、まあそうだけど……」
じゃり、じゃりと小石の床を歩き川に近づく。透き通っているわけではないが、水は冷たそうで入ったら気持ちいいだろうというのは簡単に想像がついた。
「脱ぐのを手伝ってやろう」
「え‶っ?」
ばしゃばしゃと水音を立てながら侑が歩く。その度に目のやり場に困る身体が近づいてきた。
「だ、だだだ大丈夫! 一人で出来るから!」
「そうか」
そうして僕は侑が見る中ゆっくりと服を脱ぎ始めた。
一体何をこんなに緊張しているのだろう。
相手は男なんだからこんなに恥ずかしがる必要ないのに。
ワイシャツ、下着、ズボン、パンツ、靴下。震える手で全てを脱ぎ、そっと地面に置いた。
確かに、僕は今外で全裸になっているのだ……!
どうしようもなく羞恥を感じる僕に引き換え、侑は堂々と腕を組んでいた。
「よし、じゃあ泳ぐか」
「う、うん……」
差し出された右手を掴み、おぼつかない足取りで水に足を入れていく。靴になれた肌にとって小石の群れはむず痒く、水は冷たかった。
促されるままにより奥に入っていけば水の量は段々と増していき、膝、腰とより深くまで浸かっていく。最終的には腕の付け根辺りまでが川に呑み込まれた。
初夏の水は鋭いくらいに冷たく、暑さにあえいでいた身体には少し痛いくらいだった。
「どうだ、気持ちいいだろう」
「うん。とても涼しい……」
小学生のような感想しか出てこないが、本当に水の中は涼しく気持ちいい。クーラーの効いた部屋とはまた全然違う快適さだった。
結局その日は休憩を挟みつつも日が暮れるまで夢中になって二人で泳いだ。
「はぁっ、疲れた……体が重い……」
辺りはすっかりオレンジ色に染まり、全身がずっしりと重く感じるような疲労に包まれていた。拭くものもないので仕方なし濡れたままにさっき着ていた服を着る。
長い間陽の光に晒されたせいで服はすっかり乾いていた。
侑も近くの岩陰に服を置いていたらしく、半袖と短パンをさっと着た。なんというか、身軽で隙の多い服装だと思った。
「……明日も来るか?」
彼の声は起伏が無く、いまいち感情がわかりにくい。それでも何となく、来るのを望んでいるんじゃないかと身勝手ながらに感じる。
「特にやることもないし、来るよ」
「……そうか」
そう返事をする彼の表情は、どことなく嬉しそうに見えた。
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次の日、僕は昨日の侑と同じ半袖ハーフパンツという格好で山道を歩いていた。昨日遊び過ぎたせいで全身が軽い筋肉痛に襲われている。それでも彼との約束は破りたくなかったのでどうにかこうにか歩いていく。
昨日の川にたどり着いたのは日が高く昇ってからだった。
川辺には昨日と同じ、何も着ていない侑が立っていた。濡れた体のままじっと水流を見つめている。
「おーい!」
声をかけながら小さく手を振ると、彼も気づいたらしく手を振り返してくれる。そんな些細なことが何故だかとても嬉しかった。
近寄ると彼は近くの大きめの石を指さした。
「あそこに網をしかけた。うまくいけば魚が捕まるから、近寄らないでくれ」
見ると、確かにうっすら網がゆらゆらとしているのが見えた。網で魚を捕まえるなんて何だか非日常的で面白い。
「わかった。じゃあ今日も泳ごう!」
侑は僕の言葉に静かに頷くと、そっと水の中に入っていった。僕は急いで服を脱ぎ捨て彼の後を追う。昨日とはうって変わって、恥かしさなんて感じなくなっていた。ここは僕と彼だけの場所なんだから。
水の中というのはとても静かなんだと学んだ。水中には蝉の声も風の音も聞こえてこない。
種類までは分からないが小魚が泳いでいたり、岩の陰に小さな蟹がいたりする。
水面から顔を出すと陽の光が眩しく輝いていた。
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「なあ諒、今日は別のことをしないか」
毎日のようにひたすら泳ぐ日々を過ごしていたある日、侑がそんなことを言ってきた。
昨日と同じ二人だけの水場、少し違うのは彼の目が熱を持っていること。その瞳を見れば彼が何をしたがっているのかは簡単に想像できた。
「あ、うん……いいよ」
表面では冷静を装いながら、かつてないほどに動悸が激しい。意外なことに拒否感は無く、僕はなんでもないことのようにその誘いを受け入れた。
その次の日は二人して全く泳げなかった。まさか、こんなに疲れるなんて……
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そんな風に泳いだり違う遊びをするうちに時間はあっという間に過ぎていった。
蝉の鳴き声はずっと弱くなったし、日が落ちるのも前より早い。
「諒はいつ向こうへ帰るんだ?」
ある日、いつものように一日遊びつくした時に侑が言い出した。
向こうを向いたまま、僕の顔を見ようとしない。
べとべとの身体を川の水で流しながら、僕も極力暗くならないように気をつけながら口を開く。
「う~ん…… あと三日くらいかな」
微妙な沈黙が辺りを支配する。別れが嫌なのは言わなくたってわかる。
「そっか」
侑は静かにそれだけ言って、押し黙った。
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「なあ、諒。俺の家に嫁にこないか?」
帰る日の前日、その日も一日中へとへとになるまで過ごした後になって侑が突然突拍子もないことを言い出した。困惑し、彼の顔を伺うがその表情は真剣そのものだった。
夕暮れの日差しの中、侑の少し寂しそうな眼が浮かび上がる。
「何言ってるんだよ……男同士なのに、そんな」
いたたまれない気持ちになりながら濡れた体に服を重ねていく。なんて返すのが正解なのか未熟な僕にはわからない。
「俺は本気だ」
彼の瞳が僕のことを静かに見つめる。ただ冗談で言ったわけじゃないことがわかって、そのことが何故だか無性に嬉しかった。
「……もう少し待って欲しい」
侑は黙って僕が続けるのを待っている。僕も彼のことを見返して、静かに口を開く。
「僕はもっと立派になって、支えられるだけじゃなくて支えることが出来るようになりたいから」
「わかった、待つ」
そう言う侑はとても穏やかな表情に変わっていた。
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「主任、頼まれていた資料できました」
「ありがとう」
都会のビルのあるフロア、その一角が僕のここでの居場所だ。努力のかいあって年の割に出世し、今では部下もいる。彼女の手から封筒を受け取って再びPCのスクリーンに向き直る。
「主任は今夜の飲み会いらっしゃいますか? 私としては是非来ていただきたいんですけど~」
僕が教育係として育てた彼女は上目遣いで僕にそう言ってきた。両手を胸の前で合わせ、制服に身を包んだまま器用に体をくねらせている。
「悪いけど、参加する気はないよ。皆で楽しんでくれ」
「そうですかぁ…… 残念です」
彼女は一礼すると、足早に去っていった。そのまま他の女性社員の元へと近づき僕の方をチラチラと見ながら何かを話している。
うっすらと聞こえてくるのは
「また……だって」
「え~ ほんと……付き合い悪いよね」
とかそんなことだ。
彼女たちは小声で聞こえないようにしているつもりなんだろうが、実際は割と届くものだ。もっとももう慣れたし、気にするようなことでもないが。
時計を見ればそろそろ会社を出る時間だった。手早く今日のまとめと明日の準備を終え、早々に会社を出た。
電車に揺られ、当てもなく窓の向こうの景色を眺める。すっかり暗くなった街をビルの明かりが照らしていた。何度も何度も見慣れた景色ではあるが、僕はこの街並みが結構好きだった。
ふと、唐突に10年近い前の夏のことを思い出す。
両親の都合で夏休みの間祖母の家に泊まりにいった年があった。そして彼に出会ったんだっけ。
当時は今ずっと若かったから、体力の限り泳いだものだった。
今となっては大分昔のことに思える。
目を閉じれば、あの時の侑の顔が思い出された。それが何だか楽しくて思わず頬が緩む。
一歩一歩、踏みしめるように家へと歩く。駅から徒歩五分のアパートには明かりが灯っていた。
優しくチャイムを押すと中から足音が聞こえてくる。
「ただいま」
開いたドアの向こうにそう言うと、彼も昔より幾分柔らかくなった表情で
「おかえり」
と返してくれた。
本当に、人生何が起こるかわからないものだ。