君待ち焦がれて、眠りつく
視界が開けた瞬間、目に飛び込んできた朝日の眩しさに明香は目を眇めた。
明香が出た場所から数十メートルほど木のない地面が続き、その先は崖になっている。
崖の下にはいま抜けてきた森とは比べものにならないほどの広大な森が広がっていた。
森の向こうから朝日が昇ってくる。
その光の中に昇慧たちはいた。
「昇慧!」
「明香!? 馬鹿! なんで逃げなかった」
慌てたように叫び返してくる彼の服は、鋭い爪に引っかけられたのかあちこちが裂け、その下から血が滲んでいる。
明香は彼の前で毛を逆立てて唸っている獣に駆け寄った。
「シロ、シロ! やめて、お願い!」
獣の――シロの毛皮も血で汚れている。
昇慧が持っている武器で応戦したのだろう。
「お願い、シロ。優しいシロに戻って」
手前で立ち止まった明香を、シロが振り返る。
「駄目だ、明香。逃げて」
シロを刺激しないためか、低く静かな声で昇慧が忠告してくる。
明香は首を振ってシロに近づいた。
彼から渡された短剣を握る手が大きく震える。祈るように手を組んで、明香は微かに老犬の名残を感じさせる濁った瞳を見つめた。
「わたしが分かる? いつも階段のところでシロには愚痴を零しちゃってたよね。シロにはそんなつもり無かったかもしれないけど、わたしはいつも貴方に慰められてたんだよ」
視界が滲む。
頬を冷たい雫が伝うのを感じて、明香はどうにか笑みを作った。
――きっと伝わらない。もう元には戻らない。
けれど、どうしても向き合わずにはいられなかった。
「予備校に行きたくなくても、家に帰るのが嫌だったときも、シロが居てくれたからどうにか頑張れたの。……わたしはわたしが嫌いで、たぶんお姉ちゃんも萌のことも好きになれなくて、その他にも色んなものが嫌でしかたなくて……。でもシロだけは、シロの体温だけは大好きだった」
シロは後ろの昇慧を警戒しながらも、明香に飛びかかろうと姿勢を低くしている。
いつもぼんやりと階段の下を覗いていた瞳は、狂気を孕んでこちらに向けられる。吠えたとこなど終ぞ見たことが無かったのに、いまは腹に響く唸り声が聞こえてくる。
どうしても凶暴な化け物にしか見えない。
けれど、明香は震える足でもう一歩近づいた。自分のどこにこんな強さと無謀さがあったのか分からない。
「ね、シロ。シロにとってはわたしもすれ違うだけのその他大勢だったかもしれないけど、わたしにとって貴方は救いだったんだよ」
「明香!」
昇慧が怒声をあげたときには、シロはもう明香に飛びかかってきていた。
咄嗟に横に転がった彼女のそばを爪が掠る。
いつの間に構えていたのか、昇慧が放った矢がシロの後ろ足に刺さった。
後ろからの突然の痛みに、怒り狂った獣が咆哮をあげて明香に背を向ける。
思わず伸ばした彼女の手は、シロの毛を掠めて届かない。
崖の方へ向かった昇慧は、空を背に迎え撃つように立ち止まった。
おかしくなってしまったシロには彼の背後になにも無いのが分からないのか、そのまま突進していった。
「待って……!」
叫ぶ明香の目の前で、彼らの姿が崖の向こうへと消えていく。
「うそっ。……シロ!? 昇慧!」
まろぶように駆け寄った明香は崖の縁に手をかけて下を覗き込んだ。
崖は断崖絶壁では無く、急な勾配の坂のようだ。
けれど勢いよく落ちればゴロゴロと突き出た岩や木の根に体を打ち付けて危険だし、簡単に登ったり下りたり出来るような坂では無い。転がり落ちたら途中で止まるのは不可能だろう。
昇慧は途中の岩に膝をついていた。
どうやらちゃんと地形を理解して落ちたようだ。
「良かったぁ」
「間一髪だったけどね」
ほっと安堵の息を吐いた明香に手を上げて、彼は下に目を向けた。
その視線にはっとした明香も、急いでさらに下を覗き込む。
崖の一番下には白い毛並みを血でまだらにした獣が横たわっていた。
「シロ!」
「ちょっ、馬鹿! 危ない!」
勢いで崖を駆け下りようとした明香を、慌てて昇慧が制止する。
踏みとどまった明香は、涙目を昇慧へ向けた。
その目を見て、彼は深々と溜め息をつく。
「ああもう。分かったよ。後ろ向きで、両手両足を使って下りてきて。ゆっくり、慎重に」
頷いた明香は、そろそろと崖に足を掛けた。
昇慧の手を借りながら、どうにか崖の下までたどり着く。
傷だらけでぐったりしているシロがもう動けないのを確認して、昇慧は明香に頷いた。
シロの顔のそばに膝をついた明香は、そっと手を伸ばす。鼻先に指が届くかというところで、シロが緩慢に瞼を上げた。
白く濁った虚ろな瞳。
目が合った明香の中を、映像が駆け抜けた。
雨の中、老夫婦に拾われた小さな子犬。
暖かい寝床、美味しい食事、優しく背を撫でる皺だらけの手。子犬を温かな目で見守り笑い合う夫婦。
子犬は成犬になっても夫婦のそばで微睡んでいる。毎朝と夕方、夫婦に散歩へ連れて行ってもらうのが日課だ。
彼らの歩調に合わせるとゆっくりすぎるのが少し不満だが、それでも一緒に居られるのが嬉しい。
ある日、夫の方が遠方に出かけることになった。
地下鉄の入り口まではいつもと同じ散歩。けれど夫が地下へと消えていくと、帰り道は珍しい二人っきりだ。
少し寂しそうな妻を慰めようと鼻を寄せると、優しく頭を撫でてくれる。
それから毎日、妻との散歩の途中で地下鉄の前で立ち止まるのが日課になった。
しばらくすると、妻がほとんど散歩に連れて行ってくれなくなった。
いつの間に帰ってきていたのか、白い箱の中で夫が眠っている。
黒い服を着た人がいっぱい来て話しているのを聞いた。
突然の心筋梗塞。家に帰る途中、地下鉄で倒れたのだと。
黒い服の人々の言っていることは彼には分からなかった。
夫はその後、結局一度も起きることなくどこかへと運ばれていった。
妻はたくさん泣くと、またときどき笑ってくれるようになった。散歩も連れて行ってくれる。そしてずいぶん長い時間、地下鉄の入り口に立つのだ。
彼はそれにそっと寄り添った。
季節が一つ巡った頃、妻も動かなくなってしまった。また黒い服の人がいっぱいきて、起きない妻を連れて行ってしまった。
それからは、親族だという人が食事をくれる。
寝床も変わらずある。
けれど、背を撫でてくれる手はもうない。
彼は独りで散歩に出る。地下鉄の入り口で階段の下を見つめながら、ひたすら待つのだ。
優しく見守ってくれた目、笑いかけてくれた顔。
撫でて欲しいなど望まない。ただもう一度、会いたい。
何年も、何年も、彼は妻と歩いた散歩道を歩く。夫が消えていった入り口を見つめる。
いくらでも待つ。どんな日だって、待ち続ける。
――けれど、本当は。
「そ、だよね。いつまでも、待つのは辛いね」
寂しい、悲しい、会いたい。
待つことに本当は疲れてしまった。
いつの間にかぼろぼろと流れていた涙を拭って、明香は昇慧に渡されていた短剣を掲げた。
崖から転げ落ちたシロの体は傷だらけで、浅い呼吸しか零さない様子から見ても、もう助からないのは明白だ。
助かったとしても、変質してしまったシロは、届かない想いに対する絶望を抱え続けて人を襲うことしかできない。
「明香。俺が」
声をかけてくれる昇慧に首を振る。
シロにはたくさん助けてもらった。救ってもらった。だから、せめて最後に彼の願いを明香が叶えたかった。
「いままでありがとう。大丈夫、きっと会えるよ」
こんなに強い想いを持っているのだ。
きっと魂は世界を超えて、大好きな人と巡り会えるだろう。
きっと向こうで逢えるから、力いっぱい駆け寄って